髙山辰雄

没年月日:2007/09/14
分野:, (日)

 日本画家で日本芸術院会員の髙山辰雄は9月14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年95。1912(明治45)年6月26日、大分県大分市大字大分(現、大分市中央町)の鍛冶業の家の二男として生まれる。幼少より同郷の田能村竹田の墨絵に親しむ。1930(昭和5)年東京美術学校の受験を家族に許され、上京して日本画家の荻生天泉のもとで一か月ほど受験準備をするが不合格に終わり、大分県立大分中学校を卒業後、東京に住む実姉をたよりに上京。天泉の紹介で東京美術学校助教授の小泉勝爾に指導を受け、31年東京美術学校日本画科に入学する。33年松岡映丘の画塾木之華社に入り、早くから映丘にその才能を嘱望された。同年日本画会に「冬の庭」を出品し、翌34年、在学中ながら第15回帝展に「湯泉」が初入選。36年卒業制作に「砂丘」を描き、首席で卒業した。37年、映丘門下の浦田正夫杉山寧らが34年に結成した瑠爽画社に参加、40年同会解散後、41年旧会員を中心として新たに一采社を結成する。また43年川崎小虎山本丘人らにより結成された国土会にも第1回展より出品した。しかし帝展の後を受けた新文展には入選と落選を繰り返し、必ずしも順調な歩みとはいえない状況が続く。戦後、46年春の第1回日展では「子供と牛」が落選。この頃山本丘人よりゴーギャンの伝記を勧められて読み、その生き方に大きな感銘を受ける。46年秋の第2回日展で「浴室」が特選を受賞。続いて49年第5回日展「少女」が再び特選となり、徐々に画壇での地位を確かなものにしていく。51年第7回「樹下」が白寿賞となり、この時期ゴーギャンの画風に通ずる鮮やかな色彩と簡略化された色面構成の作品を発表する。次いで53年第9回日展「月」、54年第10回「朝」、56年第12回「沼」、57年第13回「岑」など、一転して作者の内面性を強く感じさせる心象的風景画を制作。59年第2回新日展出品作「白翳」により翌年日本芸術院賞を受賞し、65年には64年第7回新日展に出品した幻想的な「穹」により芸術選奨文部大臣賞を受賞。杉山寧東山魁夷とともに“日展三山”として人気を集め、戦後の日本画を牽引する役割を果たした。62年第5回新日展に中国南宋時代の画家梁楷の「出山釈迦図」に啓発されて描いた「出山」を出品して以降再び人物をモティーフとし、69年第1回改組日展「行人」、72年第4回「坐す人」、74年第6回「冬」、75年第7回「地」など量塊的な人物表現を展開し、その後77年第9回「いだく」、80年遊星展「白い襟のある」、81年第13回日展「二人」、83年同第15回「星辰」など、人間存在を鋭く追求した作品を発表。73年には個展「日月星辰髙山辰雄展」を開催、85年、2001(平成13)年にも開催し、風景・人物・静物といった森羅万象からなる「日月星辰」をライフワークとした。この間、61年一采社解散後、同会メンバーらと65年に始玄会を結成。70年日本芸術大賞を受け、72年日本芸術院会員、79年文化功労者となり、82年文化勲章を受章した。59年日展評議員となってのち、69年同理事、73年常務理事、75年理事長(77年まで)となり、82年東京芸術大学客員教授となる。87年から『文芸春秋』の表紙絵を担当(99年まで)。89年東京国立近代美術館で回顧展を開催、初めて描いたという牡丹の連作が中国の院体画に通ずるものとして話題を呼ぶ。90年平成大嘗祭後の祝宴大饗の儀に使用する風俗歌屏風「主基地方屏風」を制作。93年「聖家族 1993年」と題した個展を開催、黒群緑を用いたモノクロームの作品群により新境地を示す。95年には海外での初めての個展をパリ、エトワール三越で開催。99年、構想以来16年の歳月を経て高野山金剛峯寺に屏風絵を奉納。亡くなる前年の第38回日展に「自寫像2006年」を出品するなど、晩年まで制作意欲は衰えなかった。回顧展としては80年に大分県立芸術会館(神奈川県立近代美術館に巡回)、84年に山種美術館、87年に世田谷美術館、89年に東京国立近代美術館(京都府京都文化博物館に巡回)、富山県立近代美術館、98年にメナード美術館、2000年に日本橋髙島屋(大分市美術館、京都髙島屋、松坂屋美術館に巡回)、04年に茨城県近代美術館で開催。没後の08年には練馬区立美術館で遺作展が開催されている。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(384-385頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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