建畠覚造

没年月日:2006/02/16
分野:, (彫)

 彫刻家で文化功労者の建畠覚造は2月16日、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年86。1919(大正8)年4月22日、現在の東京都荒川区日暮里に、彫刻家建畠大夢(1880―1942)の長男として生まれる。東京市第一中学校を経て1941(昭和16)年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業、同年第4回新文展に「黙」が入選し、特選を受賞。44年 在仏印日本文化会館員として、サイゴン(現在のホーチミン市)に赴任。終戦後の46年にベトナムから帰国。50年の行動美術協会創立にあたり彫刻部に参加。53年から55年まで渡欧。滞欧中の54年にサロン・ド・メ、サロン・ド・レアリテヌーベルに出品。この滞欧中に具象から抽象表現を試みるようになる。また、パリにて柳原義達向井良吉と交友。55年3月帰国、同年国立近代美術館にて開催された「日米抽象美術展」に、神奈川県立近代美術館の「今日の新人・1955年展」に、東京都美術館の「第3回日本国際美術展」にそれぞれ出品。56年、朝日新聞社主催の「世界・今日の美術展」(東京、高島屋)に出品。この50年代から60年代にかけては、動植物の有機的なフォルムから触発された抽象表現の作品を発表していた。62年、多摩美術大学彫刻科助教授となり、66年から73年まで同大学教授として後進を指導。67年、第10回高村光太郎賞を「壁体」で受賞。70年代になると、傘、車輪をモチーフにした金属彫刻を発表。78年の神奈川県民ギャラリーで開催された建畠覚造展では、そうした傘をモチーフにしたユーモアと冷たい金属の質感と鏡面の特性を組み合わせた作品を中心に発表した。70年代末頃から80年代半ばにかけて建畠は合板を重ねる技法による作品を発表し、規格の定まった工業製品としての合板の無表情の表面と接着された合板の断層をたくみに表現にとりこみ、独特の重層的なフォルムをみせる作品を制作した。80年代半ば以降には、表面を黒いウレタン塗装仕上げとする作品を制作したが、いずれもスパイラル(渦巻き)やウェーブ(波)状のフォルムによって、表面の無表情とはうらはらの温かみをもつ抽象表現に達した。その間の81年に、第12回中原悌二郎賞を「CLOUD 4(大)」で受賞。82年には、父の出身地である和歌山県立近代美術館にて「建畠覚造展」を開催。83年にヘンリー・ムーア大賞展優秀賞を受賞した。一方、60年代から80年代にかけては、建築にともなう壁面の装飾、各地の公共的な野外での彫刻作品の制作にも積極的に参加、コンクリート、アルミニウム、ステンレス等の様々な素材を駆使して、その独自の造形表現を発表しつづけた。この当時、「技術というものは考えるもので、習熟するものではないと思うのです。逆に感性は、人間が本来もって生れたものだとよくいうけれど、感性こそみがかれるものなんですね。職人を例にとったわけですが、一つのものをつくるとき、感性はつねにみがかれていなければ駄目になりますし、技術は高度な思考の領域にあるのだという気でぼくもいるのです。」(「作家訪問 建畠覚造―考える技術」、『美術手帖』1986年5月)と発言している。個展発表のための作品にしても、野外に設置される大型の公共彫刻にしても、つねにそのユーモラスで柔軟な感覚と研ぎすまされた感性によってうまれた独自のフォルムをもつ造形性、木、金属、石を問わず素材の制約をこえて自在に表現しようとする意欲と弛みない実践に支えられていたといえる。86年、武蔵野美術大学客員教授となる。1990(平成2)年、芸術選奨文部大臣賞受賞。92年には、初期からの作品294点を収めた『建畠覚造作品集』(講談社)が刊行された。2005年、文化功労者に選ばれた。戦後の日本の抽象彫刻を語る際に、国内外において注目される多くの作品によって欠くことのできない存在の一人であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成19年版(365-366頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「建畠覚造」が含まれます。
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