今井俊満

没年月日:2002/03/03
分野:, (洋)
読み:いまいとしみつ

 画家の今井俊満は、3月3日午後4時15分、膀胱がんのため東京都中央区の国立がんセンター中央病院で死去した。享年73。 1928(昭和3)年5月6日、京都府京都市西京区に生まれる。幼少時に大阪市船場安土町に移り住み、大阪市立船場尋常小学校卒業後、41年に上京して武蔵高等学校尋常科に入学。48年、同高校を卒業、在学中から絵画に関心を持ち、同年10月には第12回新制作派協会展に「道」が入選した。51年の第15回新制作展に「真夜中の結婚」が入選、新作家賞を受ける。翌年、単身でフランスに私費留学。留学中、サム・フランシスを知り、55年にはその紹介で美術評論家ミッシェル・タピエを知る。この頃から、抽象表現主義であるアンフォルメル運動のジョルジュ・マチュー、ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエ、セザール、ポール・ジェンキンス、アンリ・ミショー等の画家たちと交友するようになり、自らも運動に加わった。56年、「世界・今日の美術展」(朝日新聞社主催、会場:東京日本橋、高島屋)に、岡本太郎から要請され、ミッシェル・タピエのコレクションから、フォートリエ、デュビュッフェ、マチュー、カレル・アペル、サム・フランシス、フォンタナ等の作品出品の斡旋をした。この展覧会が、国内におけるアンフォルメル絵画の最初の本格的な紹介となり、反響を呼んだ。57年2月、パリのスタドラー画廊で最初の個展を開催。同年8月、一時帰国、この時、マチュー、タピエ、サム・フランシスも相次いで来日し、共にアンフォルメル運動のデモンストレーションを行った。その後、60年代から70年代には、日仏間を行き来しながら、数々の展覧会に出品するなど、活発な活動をつづけ、国際的な美術家として評価された。また、70年の大阪万国博覧会では、企業パビリオンの美術監督を務めるなど、建築装飾やファッション、音楽などにも関心をひろげていった。75年に画集『今井俊満』(求龍堂)を刊行。制作面では、83年頃より、金銀を華やかに用いて、「琳派」をはじめとする伝統絵画を引用した装飾性あふれる「花鳥風月」のシリーズが始まった。当時、今井自身は、その変貌をつぎのように語っている。「私が花鳥風月で行った伝統再生の作業は古典主義とは全く異なる。なぜなら日本の伝統的芸術遺産の特定の形態に回帰したのではないからである。私が回帰したのは伝統芸術の奥底を流れる、定かならぬ全体、そこに私は戻ったのだと思う」(「アンフォルメル花鳥風月」、『へるめす』21号、1989年)。85年に画集『今井俊満 花鳥風月』(美術出版社)を刊行。1989(平成元)年4月には、初期作品から近作まで201点によって構成された「今井俊満―東方の光」展が国立国際美術館で開催され、その後目黒区美術館、いわき市立美術館を巡回した。91年5月には、アンフォルメル時代の作品から近作まで41点によって構成された「今井俊満展」を富山県立近代美術館で開催。90年代には、一転して髑髏などをモチーフに戦争の災禍を告発するような表現主義的な表現に展開。さらに自ら癌であることを認知した最晩年には、女子高校生などをモチーフに東京の風俗をシニカルに戯画風に描いた作品を発表し、最後まで大胆に変貌し続け、創作への意欲をみなぎらせていた。

出 典:『日本美術年鑑』平成15年版(240-241頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「今井俊満」『日本美術年鑑』平成15年版(240-241頁)
例)「今井俊満 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28250.html(閲覧日 2024-03-29)

以下のデータベースにも「今井俊満」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top