今泉今右衛門

没年月日:2001/10/13
分野:, (工)
読み:いまいずみいまえもん

 「色絵磁器」の重要無形文化財保持者で、日本工芸会副理事長の十三代今泉今右衛門は、10月13日午後4時26分、心不全のため佐賀県有田町の自宅で死去した。享年75。1926(大正15)年3月31日、佐賀県有田町に、色鍋島を家業とする十二代今泉今右衛門の長男として生まれ、善詔(よしのり)と通称する。同家は、江戸初期いらいの鍋島藩窯の流れを汲む陶家で、江戸時代には、上絵(赤絵・色絵)を専門とするいわゆる御用赤絵屋として、鍋島藩直営の色絵磁器・色鍋島の制作の一翼をになった。明治に入り、藩窯が解体されてからは、当時の当主十代今右衛門が、従来の分業体制にのっとった上絵専業の家業から、素地づくり、本焼、上絵にいたるまでの一貫制作体制へと転換を進めて、現在の今右衛門陶房の基礎を築く。父・十二代の時代には、「色鍋島」が無形文化財の指定を受け、さらに1971(昭和46)年には、十二代を代表とする色鍋島技術保存会が、重要無形文化財の保持団体として指定を受けている。明治以降、代々の当主によって続けられてきた、このような伝承技法保存の試みは、十三代にも受け継がれた。49年、東京美術学校工芸科卒業後は、家業に従事して家伝の技術を習得。52年頃から、大川内や有田町などの窯跡発掘調査に随行し、初期伊万里の陶片を多数、実見。鍋島以外の古陶磁に触れたことが、のちの独自の作風の開拓につながったと、後年みずから回顧している。古陶磁研究のかたわらで、公募展への出品を開始しつつ、自身の表現を模索。57年、日展初入選、以後、59まで日展に出品する。62年からは日本伝統工芸展に主たる発表の場を移し、以後毎年、出品を重ねた。65年、第12回日本伝統工芸展への出品作「手毬花文鉢」が日本工芸会会長賞を受賞。同年、日本工芸会正会員となった。75年6月、父・十二代の逝去により、十三代今右衛門を襲名。翌76年4月、十二代から継承した技術保存会を色鍋島今右衛門技術保存会として再組織、会長となって、文化庁から重要無形文化財「色鍋島」の総合指定を受けた。おおよそこの頃までの作品は、伝統的な色鍋島の様式を踏襲し、白磁、染付の素地に、赤、黄、緑の上絵という特徴的な賦彩をほどこしたものが多いが、写生にもとづく細密な描写や、余白を生かす動的な構成において、新しい意匠への試みが見てとれる。十三代襲名後の76年からは、コバルトの染付の絵具を吹きつける「吹墨」の技法を用いて濃淡に富む地文の表現を実現し、さらに78年には、貴金属を含んだ黒色の顔料を、吹墨と同様の技法で地文に用いる「薄墨」の技法を創案して、複雑な色彩効果をもつ新たな色絵の表現を確立した。この技法を用いた「色鍋島薄墨草花文鉢」が、79年の日本伝統工芸展でNHK会長賞を受賞、さらに81年の日本陶芸展で、同じく「色鍋島薄墨露草文鉢」が、秩父宮賜杯を受賞した。「薄墨」や「吹墨」のほか、中国・明代の緑地金彩にヒントを得て、緑の上絵具を地色として塗りこめる技法も好んで用い、白地や淡色地の多い従来の色鍋島に、新しい作風をもたらした。88年、毎日芸術賞、MOA岡田茂吉賞を受賞。1989(平成元)年3月には、「色絵磁器」の重要無形文化財保持者に認定された。同年、日本陶磁協会金賞受賞。99年には、勲四等旭日小綬賞を受賞。また93年より2001年まで、佐賀県立有田窯業大学校校長をつとめ、後進の育成に尽力したほか、96年、財団法人今右衛門古陶磁美術館を開館し、かつて蒐集した初期伊万里の陶片や、伝来の鍋島、近代以降の歴代今右衛門の作品などを展示して、近世色絵磁器の研究発展にも貢献した。なお、十三代の逝去により、次男の雅登が、02年に十四代今右衛門を襲名している。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(246-247頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

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例)「今泉今右衛門」『日本美術年鑑』平成14年版(246-247頁)
例)「今泉今右衛門 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28234.html(閲覧日 2024-04-20)

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