本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





堀口捨己

没年月日:1984/08/18

元明治大学教授で日本芸術院賞、日本建築学会賞などを受賞した建築家堀口捨己は1984年8月18日に享年89で死去していたことが、平成7年1月28日に行われた「生誕100年記念シンポジウム」で報告された。本人の意志と家族の意向により死去は11年間公表されず、シンポジウムを機会に弁護士が戸籍を調べて明らかになった。茶室の研究と設計で知られた堀口は明治28(1895)年、1月6日に岐阜県本巣郡席田村上ノ保に生まれた。岐阜中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築科を卒業した。大正8(1919)年9月に中国を訪れる。同9年、西欧の新しい建築運動を学んで同志とともに「分離派建築会」を結成。同12年渡欧し、フランス、オランダ、イギリス、ドイツ、オーストリア、チェコ、ハンガリーなどを訪れ、イタリアに同13年まで滞在した。帰国後は日本の伝統建築の研究に向かい、書院造り、数寄屋建築、茶室などを対象に調査し論考を行い、また名古屋市の旅館、「八勝館、御幸の間」を同25年に設計するなど、設計、建築にも当たった。同年6年より同8年まで帝国美術学校教授、同年16年より同21年まで東京女子高等師範学校講師をつとめ、同31年に明治大学工学部建築科教授となったほか東京大学工学部講師として教鞭を執った。日本建築学会のほか関連団体に多数参加し、日本茶道文化研究会理事、日本庭園協会理事、日本陶磁協会理事、文化財保護委員会専門委員などをつとめた。歌人として皇居歌会始めの召人をつとめたこともあり、文筆にも優れ、同24年『利休の茶室』で北村透谷文学賞、同28年『桂離宮』で毎日出版文化賞を受賞した。他の主要な著書に『現代オランダ建築』『住宅ト庭園』『利休の茶』などがあり、建築の代表作には大島測候所、サンパウロ日本館などがある。

小島善太郎

没年月日:1984/08/14

独立美術協会創立会員で、洋画界の長老であった小島善太郎は、7月14日より帯状ヘルペスで入院、治療中であったが、8月14日午前10時5分、心不全のため東京都日野市の花輪病院で死去した。享年91。明治25(1892)年11月16日、東京新宿区に生まれる。同43年、陸軍大将中村覚の書生となり、同年より太平洋画会、日本美術院、葵橋洋画研究所などで学ぶ。安井曽太郎に師事。大正7(1918)年第5回二科展に「冬枯の堀」で初入選し、以後同会に出品を続ける。一方、同9年、東京都主催巽画会に「やわらかき光」を出品して受賞、翌10年大正博覧会には「四ツ谷見附」を出品して受賞する。同11年、野村徳七の後援を得て渡欧、フランス、イタリアを巡歴し、パリのグラン・ショーミエールでシャルル・ゲランに師事、同12年のサロン・ドートンヌに入選する。同14年帰国し、翌年新宿の紀伊國屋で帰国展を開催するとともに、留学時代の友人であった前田寛治、木下孝則、里見勝蔵と一九三〇年協会を創立。フランス絵画の影響の強かった当時の洋画界に、新帰朝者として指針を示した。昭和2年「林中小春日」で二科賞を受賞。同3年日本美術学校教授となる。同5年、同志12名と独立美術協会を創立し、二科会を退く。セザンヌを尊敬し、自然との親和をめざした精神性の高い制作態度を貫いて、独自の堅実な画境を築いた。戦後も独立美術協会に出品を続けるとともに、画廊、百貨店で個展を開催。同27年明星学苑理事、同42年東京純心学園短大教授となり教育にも尽くした。東京青梅の自然を愛し、同市との縁が深く、同59年10月1日には同市立小島善太郎美術館が開館することとなっていた。 二科展出品歴 5回(大正7年)「冬枯の堀」、6回7回出品せず、8回(同10年)「ダリア」「四谷のトンネル」、9回「頽庭」「無題」、10回「エチュード」、11回出品せず、12回「エスタークの風景」「巴里近郊」「ネラバレの風景」「マルセイユの近郊」、13回(同15年)「郊外秋景」「青きフォートイユによりて」「秋晴」「巴里ヴアンセンヌの池畔」「クラマール風景」、14回(昭和2年)「林中小春日」「編物」「雑林秋色」「曇日」、15回「初夏の縁」「奈良郊外」「冬日」、16回「梅林」「花」「諏訪湖遠望」「風景」「諏訪湖風景」「舞子」、17回(同5年)「裸女ポーズ」「菜の花」「相州吉濱村」「蜜柑畑」「吉濱村遠望」 独立展出品歴 1回(昭和6年)「嵐山の秋」「雪景」、2回「笛と老人」「花」「嵐山」「駅路の春」「ヴァィオリン弾く男」「秋」「椿」「静物」「嵐峡」、3回「秋の妙義山」「妙義嶽秋景」「石門」「秋山」「秋」「山上の丘」「岩山」、4回「秋晴」「奈良土塀」「秋の景」「雲丘」「雪山」「風景」「春日山」、5回(同10年)「巌壁」「激流」「溪谷」「島」「静流」「溪流」、6回「梅の丘」「南国梅日」「早春麗日」、7回「南国の小春日」「激流」、8回「武蔵野の秋」「村のこども」「多摩川風景」「母子」「村のナポレオン」「庭」、9回「柿ナル里も」、10回(同15年)「妙義山石門」、11回「冬木立」「春庭」「麦踏み」「田園小春」「K夫人像」、12回「風景」「松島」「春帽」、15回(同20年)「静物」「田園早春」「田園早春」、16回「編物」「村の春」「あざみ」「荒地の秋」「秋の湖畔」、18回「椿」「つつぢ」、20回(同27年)「桃」「髪」「松」、21回「仕度」「猫」「静物」、22回「桃」「麦踏み」、23回(同30年)「静物」「狩野川風景」、24回「ざくろ」「静物」、25回「カンナ」、26回「孔雀(壁画の一部)」「ダリヤ(李朝の壷)」「ダリヤ(黒い壷)」、27回「南伊豆風景(B)」、28回(同35年)「早春の長崎港」「長崎の港夕景」「長崎教会堂の一角」、29回「武蔵野の雑木林」「桃」、31回「林中のつどい」、32回「桃」「ダリヤ」、33回(同40年)「いこい」「春庭」、34回「多摩の秋景」「裸女」、35回「早春の庭」「桃」、36回「春庭雨後」「桃」、37回「多摩の秋景」「桃」、38回(同45年)「書見」、39回「桃」「人形」、40回「桃(A)」「桃(B)」、41回「春」「高見」、43回(同50年)「裸婦立像」「裸女背向」、44回「梅びより」「北信濃の桃十二個」、45回「早春暖日」「桃」、46回「女体座像」「志賀高原笠嶽」、47回「夏山白根山上の焼山」「桃源勝沼春景」、48回(同55年)「桃」「甲州桃源」「勝沼街道春景」、49回「桃」「猫」、50回「裸女と孔雀」「ポーズする裸女」、51回「奥多摩秋景」

黒崎義介

没年月日:1984/08/12

童画家で日本童画家協会理事をつとめた黒崎義介は、8月12日脳こうそくのため神奈川県藤沢市の藤沢市民病院で死去した。享年79。明治38(1905)年3月25日長崎県平戸市に生まれる。長崎県立平戸中学猶興館を中退し大正15年上京、川端画学校に学び翌昭和2年から童話の挿絵を描く。同6年小茂田青樹に師事し同18年からは安田靫彦の指導を受け院展に出品(同23年「宝生寺」他)し院友となるが、同28年院友を辞し新興美術院会員となる。同34年日本著作権協議会理事となり、同36年にはユネスコ派遣で著作権の調査のため欧米13ケ国を訪問する。同35年新興美術院を退会し、翌年新世美術会を結成、同38年には現代美術家協会に会員として加わり、「赤壁の賦」(同41年)などを出品する。この間、同23年には童画研究会を主宰し展覧会を開催し、のち日本童画家協会理事をつとめる。「キンダーブック」「チャイルドブック」「コドモノクニ」「ひかりのくに」などの絵本や児童読物の童画を60年余にわたって描き、多くの子供たちに親しまれた。同54年児童画界への功績で日本児童文芸家協会から児童文学賞を受賞。藤沢市社会教育委員、同文化財保護委員もながくつとめた。作品に『よしすけ昔噺童画集』『小人といも虫』『日本のこども』などがある。

松本才治

没年月日:1984/08/01

文化財建造物修理技術者、元奈良県文化財保存事務所主任技師の松本才治は、8月1日午後6時30分、肺しゅようのため京都府相楽の精華病院で死去した。享年86。明治31(1898)年3月10日、京都府相楽郡に生まれる。京都工業高校を中退後、大正11(1922)年、奈良県教育課社寺係古社寺修理技師となり、昭和12(1937)年法隆寺五重塔解体修理、同28年長谷寺五重塔新築にたずさわったほか、金峯山寺蔵王堂、文殊院白山堂、談山神社権殿、石上神宮拝殿、法隆寺夢殿、当麻寺本堂、長弓寺本堂、興福寺北円堂、岡寺仁王門などの修理、室生寺仁王門の新築等、多くの古社寺の修理、保存に尽力した。同40年黄綬褒賞、同43年勲五等瑞宝章を受章。

松本栄一

没年月日:1984/07/02

文学博士、元東京芸術大学教授、元女子美術大学教授、東京国立文化財研究所名誉研究員で、東洋美術史研究、特に敦煌絵画の研究者として世界的に著名な松本栄一は、7月2日午後9時、心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年84。明治33(1900)年3月10日、台北市に生まれ、大正3(1914)年3月、広島県立第一中等学校を卒業。同年9月、第一高等学校に入学。同9年7月、同校第一部仏法科を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同12年3月に卒業。翌13年9月から昭和3(1928)年3月までは東京帝国大学文学部副手となり、副手を退職後、同5月から翌4年6月まで、研究のためヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリン、レニングラードなどの美術館、図書館において、スタイン、ペリオ、ル・コックほか西欧の研究者が将来した中央アジアや敦煌の資料を調査した。帰国後の同年7月に美術研究所研究事務嘱託に、更に同年10月には東京帝室博物館建築設計調査委員会事務嘱託に転じた。翌5年4月からは東方文化学院東京研究所(外務省)の研究員となり、古代中央アジア美術の研究を進めた。その研究成果の一部は、同12年3月、『敦煌画の研究』として東方文化学院東京研究所から刊行された。同3月から講師を勤めていた東京帝国大学から、この著書によって同14年4月に文学博士の学位を受けた。同16年4月からは同大学文学部助教授となり、翌5月には、同書に対して日本学士院恩賜賞が授与された。同20年6月、同大学を退職。戦後は、同24年8月から美術研究所所長に就任し、同27年4月に美術研究所が東京文化財研究所と組織替えをしてからは同年10月まで美術部長を勤めた。その後、同31年に東京大学で、同33年には女子美術大学において講義を行なったが、翌34年4月からは、東京芸術大学美術学部教授となった。同42年3月に同大学を停年退官して後、翌4月からは再び女子美術大学教授に迎えられ、同59年3月まで東洋美術史を講じた。 研究領域は、東洋美術史の中でも仏教を中心にした宗教美術に重点が置かれているが、専門領域との関連のある日本美術に対しても広げられている。数多くの研究論文が発表されたが、著書は『敦煌画の研究・図像篇』(昭和12年)のみであった。緻密な研究によって培かわれた豊かな学殖は、作品解説、書評、随筆などの記述に横溢しているが、ここでは、これらの中から定期刊行物所載の研究論文のみを発表順に列記する。引路菩薩について(国華387、大正11年)敦煌千仏洞に於ける北魏式壁画 上・下(国華400、402、大正13年)于闐国王李聖天と莫高窟(国華410、大正14年)東京帝室博物館の扇面法華経(国華419、大正14年)敦煌出騎馬人物図に就いて(国華425、大正15年)法華経美術1~3(国華427、428、433、大正15年)水月観音図考(国華429、大正15年)東洋古美術に現はれたる日月星辰1~4(国華436、437、440、450、昭和2年、同3年)十二因縁絵巻に就いて(国華438、昭和2年)法隆寺金堂四天王と七星剱(国華441、昭和2年)乾隆帝とその画(国華445、昭和2年)宇佐八幡と豊州の石仏(国華446、昭和3年)荏柄天神縁起絵巻に就いて(国華448、昭和3年)西域仏画様式の完成と極東1~3(国華465、466、469、昭和4年)村山家聖徳太子図に就いて(国華467、昭和4年)東洋古美術に現はれた風神雷神(国華468、昭和4年)兜跋毘沙門天像の起源(国華471、昭和5年)三條家の駒競行幸絵巻に就いて(国華476、昭和5年)小泉家の阿弥陀如来及二天王像(国華478、昭和5年)特殊なる敦煌-童子護符-(国華482、昭和6年)特殊なる敦煌画-絵入り護符-(国華488、昭和6年)金剛峯寺枕本尊説(国華489、昭和6年)特殊なる敦煌画-景教人物図 上・下-(国華493、496、昭和6年)和闐地方の仏画に見る特殊性とその流伝(東方学報・東京2、昭和6年)唐代童画の一例(考古学雑誌22-5、昭和7年)法隆寺金堂壁画と西域の壁画(夢殿論誌6、昭和7年)観経変相外縁の研究 上・下(国華502、503、昭和7年)被帽地蔵菩薩の分布(東方学報・東京3、昭和7年)和闐壁画の一断片に就いて(国華507、昭和8年)敦煌出開元年代画に就いて(国華511、昭和8年)地蔵十王図と引路菩薩(国華515、昭和8年)敦煌地方に流行せし牢度叉闘聖変相(仏教美術19、昭和8年)未生怨因縁図相と観経変(東方学報・東京4、昭和8年)薬師浄土変相の研究 上・中・下(国華523、524、526、昭和9年)雀離浮図雙身仏に因む摹倣像の伝播 上・下(国華531、532、昭和10年)誌公変相考(国華537、昭和10年)隨求尊位曼荼羅考(国華539、昭和10年)敦煌本唐訳白傘蓋陀羅尼経(東方学報・東京6、昭和10年)陽炎、摩利支天の実例(国華547、昭和11年)西域華厳経美術の東漸 上・中・下(国華548、549、551、昭和11年)唐代浄土変相の西漸(国華555、昭和12年)庫車壁画に於ける阿闍世王故事(国華566、昭和13年)景教「尊経」の形式に就いて(東方学報・東京8、昭和13年)敦煌出唐代花鳥幡(考古学雑誌28-1、昭和13年)呉道子と著色(国華582、昭和14年)支那浄土変相の発生(支那仏教史学3-3・4合併号、昭和14年)玄奘三蔵行脚図考 上・下(国華590、591、昭和15年)正倉院山水図の研究1~8(国華596、597、598、602、604、605、606、608、昭和15年、同16年)達長老私考(東方学報・東京11-1、昭和15年)壁画に於ける盛上げ描法(東方学報・東京11-3、昭和15年)牢度叉闘聖変相の一断片(建築史2-5、昭和15年)称名寺宝篋印陀羅尼輪壇(考古学雑誌31-4、昭和16年)Wall-Paintings of Horyuji Temple(Bulletin of Eastern Art 13・14合併号、1941年)印度山嶽表現法の東漸(国華618、昭和17年)仏影窟考(国華620、昭和17年)敦煌本十王経図巻雑考(国華621、昭和17年)西大寺四王堂の諸尊(国華632、昭和18年)西域式仏像仏画と東方の工人(国華638、昭和19年)法隆寺壁画の山中羅漢図(国華640、昭和19年)絵因果経私考 上・下(国華648、649、昭和19年)「かた」による造像(美術研究156、昭和25年)高麗時代の五百羅漢図(美術研究175、昭和29年)敦煌壁画釈迦説法図断片(美術研究181、昭和30年)敦煌本白沢精怪図巻(国華770、昭和31年)五代同光二年石仏(国華773、昭和31年)敦煌本瑞応図巻(美術研究184、昭和31年)敦煌画拾遺1・2(仏教芸術28、29、昭和31年)東京国立博物館蔵菩薩立像(国華800、昭和33年)Caractere concordant de l’Evolution de la Peinture de Fleures et d’Oiseaux et du Development de la Peinture Monochrome sur les T’ang et les Sung(Art Asiatique 5,1958年)初期小金銅仏の新資料(大和文華37、昭和37年)なお、以上の論文一覧には、国華419~476号の中の数号について、「松本二千里」あるいは「二千里」の執筆者を用いている論文も加えてある。

赤地友哉

没年月日:1984/06/30

漆塗りの髹漆の第一人者で人間国宝の赤地友哉は、6月30日午後6時30分心筋こうそくのため、横浜市の自宅で死去した。享年78。明治39(1906)年1月24日石川県金沢市に桧物師赤地多三郎の三男として生まれ、本名外次。大正11(1922)年金沢市の塗師新保幸次郎に師事、5年余りの修業の後、髹漆を始める。髹漆は、漆芸において蒔絵、螺鈿による加飾法を除く各種の下地、上塗りに関する漆塗りの基本的な技法の総称である。この頃遠州流の吉田一理に茶道を学ぶ。昭和3(1928)年上京し日本橋の塗師渡辺喜三郎に入門、また遠州流家元小堀宗明に茶道も学び、同流に因み友哉と称す。5年独立し、京橋や日本橋で茶器などの制作につとめるかたわら、6ケ月間蒔絵師植松包美のもとで徳川本源氏物語絵巻を収める箪司の髹漆に従事し、蒔絵についても多くを得た。またこの頃東京漆芸会に入会、以後同展に出品していたが、18年徴用され三井化学目黒研究所に勤務、戦後21年より大平通商株式会社に勤務し三井漆を研究する。28年再び制作に専念し、31年日本伝統工芸展に「胡桃足膳」を初出品、34年同第6回展「朱輪花盆」、35回第7回展「曲輪造彩漆盛器」が共に奨励賞、36年第8回展「曲輪造彩漆鉢」が日本工芸会総裁賞を受賞した。41年第13回展出品作「曲輪造平棗」は翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞、同42年社団法人日本工芸会の常任理事に就任した。曲輪はヒノキ、アテ、スギなどの柾目の薄板を曲げて円形や楕円形の容器を作る木工技術で、36年の「曲輪造彩漆鉢」は幅の狭い板を曲げて作った輪を数多く積み重ね鉢形に組み上げたものである。この曲輪により多彩なフォルムを作り出すと共に、曲輪をまとめて塗り固める捲胎という新手法も編み出し、38年第10回日本伝統工芸展に「捲胎黄漆盆」を出品している。49年重要無形文化財(人間国宝)「髹漆」の保持者に認定され、50年より石川県立輪島漆芸技術研修所に髹漆科開設に伴い同講師、また日本文化財漆活会副会長をつとめた。52年NHK番組「精魂」で制作過程を収録する。47年紫綬褒章、53年勲四等旭日章を受章する。

久保惣太郎

没年月日:1984/06/09

東洋古美術品のコレクションで知られる大阪府の和泉市久保惣記念美術館の名誉館長久保惣太郎は、6月9日午前6時10分頃、大阪府和泉市の自宅で縊死しているのを家人に発見された。享年57。7年前より脳血栓により入退院を繰り返していた。大正15(1926)年8月26日和泉市に生まれ本名英夫。昭和19年、織物の特産地大阪・泉州で織物業を営んできた老舗久保惣株式会社の三代目として取締役社長に就任する。久保惣は明治17年初代久保惣太郎(文久3~昭和3)が創業した地場繊維業のトップクラスで、初代の蒐集になる富岡鉄斎の泉州滞在期の三幅が久保惣コレクションの嚆矢であった。その後、茶を好んだ二代目(明治23~昭和19)と三代目を中心に昭和初期から戦後にかけて意欲的な蒐集を行ない、国宝2点、重要文化財28点を含む絵画、書跡、陶磁、金工、漆工など約500点の東洋古美術品を蒐集した。会社は昭和53年政府の構造不況業種に対する転廃業指導に則り転廃業の止むなきに至ったが、52年8月郷土への感謝と文化振興のためコレクションを和泉市に寄贈、美術館用地と建物の寄贈も行ない、57年10月和泉市久保惣記念美術館が発足した。発足と同時に同美術館名誉館長に就任、没後60年11月和泉市名誉市民に推称された。

伊藤慶之助

没年月日:1984/06/05

春陽会会員の洋画家伊藤慶之助は、6月5日午前6時35分、心不全のため兵庫県川辺郡の生駒病院で死去した。享年86。明治30(1897)年6月14日大阪市東区に生まれる。大正3年赤松麟作に絵の手ほどきを受けた後、同6年上京、本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事する。7年第5回二科展に「静物習作」が初入選し、春陽会にも13年第2回展に「机上諸果」が入選する。昭和4年フランスに留学、アカデミー・コラロッシ、アカデミー・グラン・ショミエールに学び、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダなどに出品する。この間ルーブル美術館でゴヤ「扇子を持つ女」、アングル「オダリスク」、ワトー「ジール」などを模写する。7年帰国し、同年の第10回春陽展に「室内読書」「巴里郊外の家」など滞欧作8点を出品、翌8年会友、14年会員に推挙された。同14年より19年まで毎年春から秋までの半年間を北支で過ごし研究を進める。戦後も春陽会に連年出品を続けると共に大手前女子大学で教授をつとめる(46年まで)。42年ギリシヤ、44年クレタ、エジプトを旅行、また東京、大阪のフジカワ画廊で個展を数回開催している。36年第1回西宮市民文化賞、43年兵庫県文化賞を受賞、100余点の作品を西宮市大谷記念美術館に寄贈した。

植木茂

没年月日:1984/06/03

木による抽象彫刻の草分け的存在であり、その代表的作家として活躍した植木茂は、6月3日午前11時57分、前立せんガンのため大阪府吹田市の新千里病院で死去した。享年71。大正2年(1913)2月15日北海道札幌市に生まれる。札幌市立第一中学校を卒業。同郷出身の三岸好太郎に師事し、昭和7(1932)年第2回独立展に油絵「風景2」で初入選。以後、同10年自由美術家協会展の創立に参加するまで同展に出品を続ける。自由美術展には同24年第13回展まで出品。この間に彫刻に本格的に取り組むようになる。同25年モダンアート協会の創立に参加し会員となるが、同29年退会。以後無所属。戦中に合成樹脂を素材とした彫刻を試みるなど先駆的な活動を行ない、戦後は木による抽象彫刻、「作品」「トルソ」のシリーズを制作し、晩年は板、竹ひご、和紙などによるモービルや平面的アッサンブラージュを手がけた。木地と木目を生かし、穏やかなのみ跡を残し、有機的で柔らかいフォルムを持つ独自の作風を築いた。サンパウロ・ビエンナーレ(昭和30年)、ベネツィア・ビエンナーレ(同31年)など国際展にも出品、同45年日本での大阪万博の際はサントリー館のデザインを担当。「現代彫刻の5人展」(同51年、兵庫県立近代美術館)、「近代日本美術の歩み展」(同54年、東京都美術館)、「現代の彫刻展」(同59年、山口県立美術館)など多くの彫刻展に出品している。また、九州産業大学教授として教鞭をとった。

橘天敬

没年月日:1984/06/01

日本画家橘天敬は、6月1日午前零時30分胃ガンのため神奈川県小田原市の山近病院で死去した。享年76。本名中山義文。明治40(1907)年福岡県飯塚市に生まれる。大正11年上京し、昭和8年より翌年にかけてインド、ヨーロッパ等を巡遊する。その後11年に結成された新構造社の会員となり、「降魔」(12年)「歓喜」(13年)などの作品を発表、この頃は園部香峰と称している。15年川口春波と共に大政翼賛と日本美術の海外進出を掲げ日東美術院を結成、これを主宰し、16年の第1回展に「立正安国」を出品する。戦後静岡県白糸に松影塾を開き25年橘天敬と改号する。横山大観に私淑し、障屏画の大作を中心に制作、「富岳雲海之図」(27年)「唐獅子の図」「牡丹の図」(共に36年)「風神雷神図」(37年)「春琴の譜」「和楽之図」(共に45年)「不動明王図」など豪放な作風の作品、幻想的な「牡丹の図」(36年)「四方の海」(45年)、清雅な「清流・鱒之図」(35年)など、画壇を離れ極めて個性的な作品の制作を続けた。また「清生楽々天地之間」(45年、テキサス州、パンハンドル・プレンズ歴史博物館蔵)「風神雷神図」(ワシントン、フリア美術館蔵)など海外に所蔵される作品も少なくない。40年明治神宮参集殿、45年東京美術倶楽部で個展を開催、外国での個展も行なっている。

金林真多呂

没年月日:1984/05/25

「真多呂人形」の名で親しまれた木目込人形作家金林真多呂は、急性肺炎のため5月25日午前6時52分、東京都文京区の順天堂医院で死去した。享年87。本名金林真多郎。明治30(1897)年5月4日東京下谷に生まれる。明治から昭和初期にかけて木目込人形の第一人者と言われた初代名川春山や義父吉野喜代治らに師事し、その技法を学ぶ。木目込人形は、柳の木彫地をそのまま生かした小さな人形で、縮緬や金襴などの着衣の裂を木の表へ直接貼りつけ、裂端を素地にあらかじめつけておいた筋に押し込む(きめ込む)ことからこの名がある。創制者が元文年間京都加茂神社の雑掌をしていた高橋忠重という人物と伝えられることや、その孫で文化年間頃人形界を風靡した大八郎という名手がいたことなどから、加茂人形、大八人形などともよばれる。戦前・戦後と研究を続け、歴史に題材を求めた多くの人形を制作、殊に平安時代の華麗な貴族の風俗を現代的感覚で捉えた作品を特色とし、「真多呂人形」の名を生んだ。また自ら真多呂人形学院をつくり後進の指導にあたったほか、東京都雛人形工業協同組合理事長をつとめた。主要作品に「競馬」(京都上賀茂神社)「明治雛」(京都国立博物館)「川中島の合戦」(上杉神社)「江戸の祭(神田祭)」(台東区立下町風俗資料館)などがある。

水野英夫

没年月日:1984/05/07

国画会会員の洋画家水野英夫は、5月7日午前1時2分、胃ガンのため神奈川県平塚市の永瀬病院で死亡した。享年64。大正8(1919)年7月26日、福岡県粕谷郡に生まれる。昭和12(1937)年名古屋高等商業学校を卒業。彫刻家小倉右一郎の研究所で彫塑を学び、同15年第27回二科展彫刻部に「習作首」で初入選、翌年も同部に「習作」を出品。戦後は、同22年より38年まで小学校教員をつとめるとともに、同22年第11回新制作協会彫刻部に「腕のあるトルソ」を出品。同25年以降国画会絵画部に出品する。同29年第28回国画展に「煙突」「風景」を出品して新人賞受賞、同32年同会会友、同36年同会会員となる。初期には風景を多く描いたが、次第に象徴的作品に転じ、モチーフを限り、簡明で力強い構図とマチエルの多様性をもつ画風を築いた。国展出品歴 第24回(昭和25年)「晩秋」、25回「風景」、26回「カンナと墓」、27回「風景」、28回「煙突」「風景」、29回「工場風景」、31回(同32年)「破壊」、32回「二つの心A」「扮装」、33回「パイロット」「騎手」、34回「やぶれかぶれ」「サーカスの朝」、35回(同36年)「地殻」「鹹湖」、36回「火山帯」「涸川」、37回「涸川」、38回「痕(燥)」、39回「跡(匍)1」「跡(匍)2」、40回(同41年)「跡(殖)」、41回「跡(匍)」、42回「盲(交流)」、43回「盲人日記」、44回「不動」、45回(同46年)「能『蝉丸』より」、46回「饒」、49回「祷」、50回(同51年)「虚空」、53回「風景A」、54回「アマリリス」、57回「アマリリス2」

竹谷富士雄

没年月日:1984/05/05

新制作協会会員の洋画家竹谷富士雄は、5月5日午後7時20分、大腸ガンのため東京都文京区の順天堂大学付属順天堂病院で死去した。享年76。明治40(1907)年12月13日新潟県中蒲原郡に生まれる。大正14年上京し、一時太平洋美術研究所で学ぶ。翌15年法政大学経済学部に入学、昭和6年卒業し、翌7年渡欧する。ベルリンに半年滞在した後翌8年パリに移り、シャルル・ブラン研究所、後半林武のアトリエに通う。10年帰国し、11年第23回二科展に「姉妹」が初入選、この年藤田嗣治に師事する。12年第24回二科展で「夏」が特待賞、15年第27回二科展「壷つくりの女」は佐分賞を受賞し会友に推挙された。しかし16年師藤田の二科会退会に従い同じく二科を退会、新制作派協会に転じ、17年第7回展「休む男」等3点、18年第8回展「働く男」が共に新作家賞を受賞、早くも会員に推挙される。戦後も新制作展に連年出品するほか、美術団体連合展、秀作美術展、現代日本美術展、日本国際美術展、ピッツバーグ国際美術展(42年)、国際具象派美術展、国際形象展などに出品した。36年フランスに渡り、イタリアを回って翌年帰国、同年の第26回新制作展に「坂のある町(シャトル)」などを出品する。41年第5回国際形象展で愛知県美術館賞を受賞、44年再び渡仏し51年帰国するまでパリにアトリエを構えた。昭和15年の第1回個展以来、パリなどでも個展を開催、44年新潟県美術博物館で竹谷富士雄、小野末、富岡惣一郎による県人三人展が開催された。フランスの街景や田園風景をモチーフに好み、穏やかで繊細な色調と油彩の重厚さを押えたパステル調の叙情的な作風で知られた。また大仏次郎、瀬戸内晴美、丹羽文雄らの連載小説の挿絵も手がけている。

森口多里

没年月日:1984/05/05

日本近代美術史研究で先駆的役割を果し、戦前には西洋美術の紹介にも功績のあった美術評論家森口多里は、5月5日老衰のため盛岡市の自宅で死去した。享年91。本名多利。明治25(1892)年7月8日岩手県膽澤郡に生まれ、大正3年早稲田大学文学部英文学科を卒業。卒業と同時に美術評論の筆をとり、同11年早稲田大学建築学科講師となる。翌12年から昭和3年まで早大留学生として滞仏し、この間パリ大学で聴講、とくにフランス中世美術における建築、彫刻、工芸を主に研究した。帰国後は早大建築学科で工芸史を講じるとともに、新聞、雑誌等に著述活動を精力的に展開、戦前の著作に『ゴチック彫刻』(昭和14年)、『近代美術』(同15年)、『明治大正の洋画』(同16年)、『美術文化』(同)、『中村彝』(同)、『続ゴチック彫刻』(同)、『民俗と芸術』(同17年)、『美術五十年史』(同18年)などがある。同20年5月戦災に遇い岩手県黒沢尻町に疎開し、以後民俗学の研究を本格的に開始した。同23年岩手県立美術工芸学校初代校長に就任、同26年には新設の盛岡短期大学教授を兼任し美術工芸科長をつとめ、同短大では西洋美術史と芸術概論を講じる。同28年からは岩手大学学芸学部非常勤講師をつとめ、同33年には岩手大学教授となる。戦後の著作に『美術八十年史』(同29年)、『西洋美術史』(同31年)、『民俗の四季』(同38年)などがあり、没後の同61年第一法規出版から『森口多里論集』が刊行された。この間、岩手県文化財専門委員、日本ユネスコ国内委員をつとめ、岩手日報文化賞、河北文化賞を受賞する。

勝本冨士雄

没年月日:1984/04/26

モダンアート協会会員で、一貫して抽象画を描き続けた洋画家の勝本冨士雄は、4月26日午前9時24分、肝不全のため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年58。大正15(1926)年1月10日、石川県七尾市に生まれる。鉄道学校機関科を卒業後、京都市立絵画専門学校に入るが中退。昭和21年より自由美術家協会展に出品。同26年荒井龍男、村井正誠、山口薫らの創立したモダンアート協会第1回展に招待出品。翌年同会会員となり出品を続ける。初期には細かい四辺形の色面を複雑に構成した「野性」のシリーズ、同35年頃からアクション・ペインティングの影響を思わせる即興的な筆のタッチと絵具のマチエルをいかした「白」のシリーズを描き、同40年頃から作風は曲線を含む整った幾何学的傾向を強め、画面形体、マチエルの多様性などの研究が試みられた。アジア青年美術展(同33年)、パリ国際青年美術展(同36年)、現代アジア美術展(同40年)など国際展にも出品、版画も手がけ、東京国際版画ビエンナーレ(同39年)、バンクーバー国際版画ビエンナーレ(同42年)に出品する。「科学性と精神性の格闘の現れ」として美術を位置づけ、明快な色調と形体を追求した。モダンアート展出品歴第2回(昭和27年)「洪水」「夜の門」「漂流」「冬の旅」「夜」「朝の窓」「帆船」、3回「朝」「夜」「夜から夜へ」「夜」「朝」「小さな子供」「小さな窓」「港」、4回「フィギュール1」「フィギュール2」「フィギュール3」「フィギュール4」「フィギュール5」、5回(同30年)「角のフォーム」「夜の壁」「円のフォームA」「フォームの間」「円のフォームB」、6回「野性の要素B」「野性の要素A」「荒野のブドウ」、7回「静かなる野性1」「静かなる野性3」、8回「作品A、B」、9回「内なる野性6」「内なる野性5」、10回(同35年)「内部の形象」「レモン・イエロー」「内なる赤い森」、11回「作品-白」「白の形象」、12回「作品-白-61」「作品-白と赤62」、13回「白の中の赤とブルー」「作品-白の菱形」、14回「白い菱形12」「白い菱形10」、15回(同40年)「白い菱形の中に」「白い菱形-28」、16回「白いスペースの中に-10」「白いスペースの中に-12」、18回「Rising Sun-白い菱形」「Rising Sun-8」、19回「Five o’clock a.m.」「Five o’clock a.m.」、20回(同45年)「Five o’clock a.m.」「黎明-A.M.5」、21回「白い世界」、22回「白と赤スペース」「ライジングサン」、23回「Rising Sun-白」「Rising Sun-赤」、24回「黎明-黒」「黎明-白」、25回(同50年)「Rising Sun」「スペースの中で」、26回「黎明-76」、27回「鋭角からの円-Rising Sun」、28回「Rising Sun-白の世界」、29回「鋭角の雲」「鋭角のイエロー」、30回(同55年)「鋭角の雲-風雲」、31回「内なる鋭角-黎明」、32回「鋭角からの地平-5」、33回「群青誕生」

千沢楨治

没年月日:1984/04/21

山梨県立美術館長、全国美術館協議会理事、千沢楨治は4月21日午前7時15分、急性心不全のため東京都渋谷区の日赤医療センターで死去した。享年71。1912(大正元)年9月23日、千葉直五郎の二男として東京に生まれ、1936(昭和11)年、千沢平三郎の養子となる。1937年、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、ひきつづき1941年3月まで同学科研究室副手、1944(昭和19)年3月まで同助手、同年4月帝室博物館鑑査官補、1947(昭和22)年4月、東京国立博物館文部技官となり、1974(昭和49)年3月退官するまでの間、同博物館彫刻室長、東洋館開設準備室長、美術課長、学芸部長を歴任した。退官後は、1975(昭和50)年4月から1982(昭和57)年3月まで町田市立博物館長、1976年から1978(昭和53)年まで山梨県立美術館開設準備顧問、そして1978年8月、初代の山梨県立美術館長に就任。ミレー、コローを中心としたバルビゾン派の作品の収集に努め、特色ある美術館づくりに尽力した。この間、1977(昭和52)年から1983年まで上智大学教授、また講師として出講した大学は、東京女子大学(1941~83)、実践女子大学(1958~62)、東京大学(1966~73)、上智大学(1973~77)、明治大学(1974~78)、学習院女子短期大学(1977~83)、青山学院女子短期大学(1980~84)におよんで、美術史教育にも力をつくした。また地方や民間の美術館運営にも尽力し、顧問、評議員となった美術館は、大倉集古館(1974~84)、碌山美術館(1975~84)、浮世絵太田記念美術館(1977~84)、栃木県立美術館(1978~84)、茅野市総合博物館(1982~84)である。その専門は日本美術史で、特に彫刻および琳派に関する業績があげられる。主な著書に、『金銅仏』(講談社1957)、『宗達』(至文堂 1968)、『光琳』(至文堂 1970)、『酒井抱一』(至文堂 1981)がある。1984年4月20日、勲三等瑞宝章を受章、同21日死去に際して正四位に叙せられた。さらに同年10月、山梨県政特別功績者表彰を受けた。

飯田三美

没年月日:1984/04/19

武蔵野美術大学教授で、プロダクトデザイン工業株式会社社長の飯田三美は、4月19日午前4時30分、クモ膜下出血のため、東京都大田区の牧田総合病院で死去した。享年59。大正13(1924)年12月1日、茨城県新治郡に生まれる。昭和12(1937)年4月、茨城県立土浦高等中学校に入学。同16年4月、東京美術学校に入り、同23年同校工芸科鋳金部を卒業する。同校在学中の同22年、「鋳銅花瓶」で第3回日展に初入選、同23年4月より26年まで横須賀米海軍基地鋳造工場で、米国工業鋳造の研究にたずさわる。この間、同23年東京都輸出工芸展一席となったほか、同26年の日展にも「青耳紋青銅花生」で入選する。合成樹脂による工業製品の研究に従事し、同27年、日産自動車試作工場で自動車の軽量化を研究、同29年、フジキャビンの製作を手がける。同31年フローレンス国際工芸美術展に出品。同33年、武蔵野美術学校助教授となり、教鞭をとる一方、同36年、合成樹脂とデザイン・造形を結びつけた会社プロダクトデザイン工業を設立する。同42年、自動車ボディーの軽量化の研究の成果として本田技術研究所出品のメキシコレース車ボディーを製作し優賞を受けたほか、同43年日本産業見本市においては艦・樹脂加工部を担当、同45年大阪での万博では電気通信館内合成樹脂部を担当・製作する。また同45年より、武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科教授およびプロダクト・デザイン工業社長をつとめる。著作には、同42年鳳山社刊『現代デザイン事典』のうち樹脂部の項他がある。

浅野孟府

没年月日:1984/04/16

昭和初期、前衛美術運動に参加し活躍した彫刻家浅野孟府は、4月16日午後2時10分、肝硬変のため大阪市東区の上二病院で死去した。享年84。明治33(1900)年1月4日東京都に生まれる。本名猛夫。大正7年東京美術学校彫刻科に入学し塑造を学ぶ。北村西望に師事。在学中の同9年9月第1回未来派美術協会展に出品、同11年第9回日本美術院展に石膏像「頭」を出品する。同年10月神原泰らとアクションを結成。同12年第10回二科展に「肖像」、翌13年同展に「顔」を出品し、まだ出品数の少なかった二科展彫刻部の草創期に名をつらねる。同13年、アクション、未来派、マヴォなどが合同して三科造型美術協会を結成。同15年第1回聖徳太子奉讃美術展に「造型彫刻立像」「造型彫刻顔」を出品、受賞する。昭和2年、東京美術学校を中退。同3年第1回プロレタリア美術展に「レーニン像」、同5年同展に「習作」を出品する。同5年大阪へ移住し、翌年大阪プロレタリア美術研究所を設立。同12年陶芸研究のため野崎村に窯を開き移住する。同15年徴用されて、松下飛行機工場、東宝映画に勤務する。戦後、二科会の再編に参加して会員となるが、同30年野間仁根、鈴木信太郎らによる一陽会に創立会員として参加し、植木力とともに彫刻部の指導的立場にあって出品を続ける。同45年、ギリシア旅行。同47年大阪彫刻家会議初代会長となる。同48年大阪芸術賞を受賞。肖像彫刻ではモニュメンタリティを加えつつ写実的作風を示したが、自由な制作においては写実にとらわれず、対象の形を簡略化、理想化した。初期作品にはアーキペンコの影響が強く見られる。 一陽会出品作 昭和31年(第2回)「テラコッタの馬」、同32年「女」、同33年「無題」、同34年「立像」、同35年「裸婦」、同36年「裸婦」、同37年「方形婦女」、同38年「裸婦」、同39年「姉妹」(レリーフ)、同40~43年出品せず、同44年「裸婦立像」、同45年「中沢良夫先生」、同46年「無題」、同47、48年出品せず、同49年「大阪(習作)」、同50年以降出品せず。

後藤清一

没年月日:1984/04/11

日展参与の彫刻家後藤清一は、4月11日午後6時45分老衰のため水戸市柳町の青柳病院で死去した。享年90。明治26(1893)年8月19日茨城県水戸市に生まれる。水戸市立三ノ丸高等小学校時代、1級上に木内克がいた。41年上京し遠縁にあたる牙彫家富岡周正に入門、牙彫を学び、大正3年の東京大正博覧会に「竜頭観音花瓶」(牙彫)が入選している。4年東京美術学校牙彫科選科に入学、翌年高村光雲に師事し木彫を始める。8年卒業し研究科に進むが翌年中退、仏教への傾倒を深め思想や仏像の研究を進める。10年美術学校時代の同級生清水三重三らと木牙会を結成、第1回展に「永遠の求道者」を出品する。この後山村暮鳥や小川芋銭、未だ水戸高校の生徒だった小林剛、土方定一らを知る。昭和3年より清水三重三の勧めで構造社にも出品、翌4年第3回構造社展で「少女の顔」が構造賞を受賞した。5年同社会員となり、同年第4回構造社展「弥勒」、6年第5回展「悲母」など深い思索に支えられた内省的な作品を発表する。その後も構造社に「母子」(12年)「誕生仏」(15年)などを出品する一方、帝展、新文展にも出品する。戦後、21年第2回日展よりたびたび審査員をつとめ、25年参事、33年評議員、49年参与となる。この間35年第3回日展で「双樹」が文部大臣賞、39年第1回いばらき賞を受賞、また43年常磐学園短期大学教授、47年日本彫塑会名誉会員となる。主要作品は上記のほか「観世音菩薩」(18年第6回新文展)「笛の声」(29年第10回日展)。48年茨城県立美術博物館で「後藤清一彫刻展」が開催された。著書に青年時代からの断想を抄録した『陰者の片影』がある。

山田智三郎

没年月日:1984/04/11

元国立西洋美術館館長の美術史家山田智三郎は、4月11日午前4時40分、急性心肺不全のため横浜市戸塚区の大船共済病院で死去した。享年75。明治41(1908)年10月11日、東京府日本橋に生まれ、大正15(1926)年上智大学文学科予科にドイツ文学を志望し入学する。この年ターナーの論文を通して矢代幸雄に師事、以後長くその指導を受ける。昭和2(1927)年同大学を中退し渡欧、ミュンヘン大学哲学部に入学し美術史学を専攻するが、翌年ベルリン大学哲学科に入学、同じく美術史学を専攻する。昭和9年同大学博士課程を卒業、「17、18世紀に於ける欧州美術と東亜の影響」を著す。同年帰国し、7月より帝国美術院附属美術研究所嘱託として勤務、9月より同研究所明治大正美術史編纂部で任に当たる。翌10年ベルリン大学よりドクトルの学位を授与され、13年ベルリン日本古美術展開催に際し文化使節随員として児島喜久雄と共にドイツに赴く。17年東洋美術国際研究会編集主任、19年同会主事となり、戦後21年駐日米軍の東京アーミーイデュケーションセンター勤務を経て、28年共立女子大学教授(43年まで)となる。29年フルブライト及びスミス・マント研究員として1年間渡米、また33年イスラエル・ハイファ市日本美術館館長として2年間当地に赴いた後、37年カリフォルニア州スタンフォード大学客員教授、翌38年ニューヨーク・ホイットニー財団派遣教授としてノースカロライナ大学、アイオワ州ドレーク大学でそれぞれ1年間東洋日本美術史を講義した。この間国内の大学での講義も数多く、上智大学(15、26年)、東京芸術大学(32、36、40年)、国際基督教大学(39年)、早稲田大学(40年)などで講師をつとめている。42年国立西洋美術館館長に就任、54年までその任に当たる傍ら、40年ブリヂストン美術館運営委員となり、また評議員として43年東京国立近代美術館、彫刻の森美術館、45年ニューヨーク近代美術館、46年日本美術協会、49年東京国立博物館、50年池田20世紀美術館、52年京都国立近代美術館、山種美術財団、またMOA美術館運営委員となる。54年国立西洋美術館館長を退任後、同年同美術館評議員、海外芸術交流協会理事、ジャポネズリー研究学会会長、55年岐阜県美術館顧問、日仏美術学会常任委員、56年財団法人美術文化振興会理事長、57年財団法人鹿島美術財団理事を歴任し、また安井賞(42、49年)、文化功労者(45、46、52、54、56年)、文化勲章(45、46、52年)の選考委員もつとめるなど、美術文化の振興と国際交流に多大の功績を残した。49年フランスより芸術文学勲章のオフィシェ章、50年イギリスより名誉大英勲章(CBE)、52年オランダよりオランジュ・ナッサウ・コマンダー勲章を受章、55年勲二等瑞宝章を受章した。著書に“Die Chinamode des-Spatbarock”Wurfel Verlag,Berlin-邦訳『十七、十八世紀に於ける欧州美術と東亜の影響』(蘆谷瑞世訳、昭和17年、アトリエ社)、『ダ・ヴィンチ』(アルス美術文庫、同25年)、『18世紀の絵画』(みすず書房、同31年)、『美術における東西の出会い-現代美術の問題として-』(新潮社、同34年)、『浮世絵と印象派』(至文堂、同48年)他がある。

to page top