本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





鉄指公蔵

没年月日:1968/04/19

独立美術協会会員の洋画家鉄指公蔵は、4月19日、逝去した。鉄指公蔵は、明治41年(1908)、横浜市に生まれ、荏原中学に学び、高畠達四郎に師事して洋画を学ぶ。昭和8年3回独立展に「新開地近く」が初入選となり、翌4回展「風景」、5回展「風景」など毎回出品、昭和18年、朝日新聞社より開拓団画信を依頼されて満州各地遍遊した。昭和26年19回独立展に「船」「海辺」を発表して独立賞を受賞し、同28年準会員に推挙され、同29年会員に推薦された。

岡田章人

没年月日:1968/04/09

漆芸家で日展審査員の岡田章人は、4月9日心臓マヒのため京都市上京区の自宅で死去した。57歳。明治43年6月17日香川県木田郡で生まれ、香川県立工芸学校を卒業した。昭和22年第3回日展「蒟醤雪柳之図手筥」で特選となり、第4回日展で、彫漆「層」棚が菊花賞となり、同38年第6回日展で審査員となった。

翁朝盛

没年月日:1968/04/09

彫刻家、創型会同人の翁朝盛は、4月9日午前7時30分腎臓病のため仙台市の東北大付属病院で死去した。享年61歳。明治39年8月30日仙台市に、宮彫師として東北にその名をうたわれた祐廷(初代翁家)の孫、二代目祐年の一粒種として生まれた。本名、盛。金華山黄金神社の社殿の彫刻はこの祖父子三代の彫刀にかかるという。盛は高等小学校を了え、暫らく父のもとで修業したが、大正13年6月上京して山崎朝雲の門に入り昭和8年まで学んだ。昭和4年日本美術協会展に入選、以後続けて12回出品、主席賞を2回受賞、無鑑査となった。昭和5年第11回帝展に「想出」が初入選した。以来新文展を通じて連続出品して同16年文展無鑑査。20年東京より郷里に疎開、戦後は専ら仙台に定住し、26年にはアトリエをつくって製作活動を続けるとともに地方美術の振興に尽力し、新東北美術展、宮城県連合美術展の審査委員をつとめるなど有力な存在となった。中央への発表は第6回日展(昭25)と第8回日展に出品し、それまでの官展系への発表を中断し、同34年には創型会同人として迎えられ、没前まで同会展へ新作発表を続けた。一方、昭和27年からは、彼独自の長年の研究によって創始した「錦彫」-錦は数多くの糸を紬いで豪華絢爛の美を現出しています。錦彫は詩情を心として、単純化と省略により、立体の芸術美を奏でる彫刻本来の詩情に基づく創作です。依って錦彫の名称が生まれたのです。云々-を公表し、人形風であるがまた別な風趣にとんだ彩色木彫を案出、39年には日本橋三越本店にて錦彫約30点を大々的に発表して個展を開いた。晩年の41年から仙台市三島学園女子大学教授(生活美術彫刻科)をつとめた。諸展覧会発表以外の代表作に「伊達正宗公像」(青葉神社御神体)、「土井晩翠像」(晩翠草居)、「平和母子像」(県庁前広場)、「黄金の館」(仙台市庁舎内)、「仁王尊像」(定義如来西方寺)等がある。

木下二介

没年月日:1968/03/27

日本画家木下二介は、3月27日胃ガンのため港区芝の自宅で死去した。享年71歳。鳥取県出身。東京新聞の前身である「都新聞」に長編小説「人生劇場」などのさし画を描き、戦後では東京新聞連載の山岡荘八「徳川家康」のさし画が代表作となった。

佃武昭

没年月日:1968/03/23

和泉短大教授、太平洋美術会理事佃武昭は3月23日新宿区若松町の国立第一病院で胃ガンのため逝去した。明治24年7月17日岡山市に生まれ、44年太平洋画会洋画研究所に学び、更に東京美術学校に入学、大正7年卒業、そのご11年迄研究科に在学していた。在学中、大正2年東京勧業博覧会に「樹林」大正3年の大正博覧会に「風景」などが入選している。卒業後は、東京女高師、東京高等学校教諭など、教職に身をおきながら、太平洋画会展、文展等に出品をつづけていた。温健な画風の官展系作家として知られていた。作品略年譜大正2年 「樹木」東京勧業博覧会展大正3年 「風景」大正博覧会出品大正6年 「萩咲く園」第11回文展大正11年 「おばあさまの像」平和博覧会昭和3年 「黄色い窓掛」第9回帝展「眠れる子」「楊さん」大日本勧業博覧会昭和5年 「晩秋」第3回聖徳太子奉讃展昭和8年 「窓に倚る夫妻」第14回帝展昭和11年 「子供3人」文展昭和15年 「群長さん」紀元2600年奉祝展昭和18年 「飾付了えたる進水式場」第7回大日本海洋美術展「船客避難訓練」他、生産美術展昭和21年 「Y氏」第1回日展昭和22年 「人形を楽しむ母」東京都美術館20周年記念現代展その他太平洋美術展、昭美会展(佃武昭代表)に出品、また、個展は、昭和32年(産経画廊)、37年(伊勢丹画廊)39年(名古屋前線ギャラリー)、42年(新橋ギャラリーで中村徳次と二人展) なお44年2月新宿伊勢丹画廊で遺作展を開催。

中野四郎

没年月日:1968/02/13

彫刻家、創型会代表の中野四郎は、2月13日午後10時45分、狭心症のため浦和市の自宅で死去した。享年66歳。告別式は18日、同市常盤6-1のカトリック浦和教会で行なわれた。明治34年11月15日、山口県下関市の漢学者の家に生まれた。大正12年東京美術学校彫刻科本科木彫部に入学、特待生に選定され、昭和3年3月同校を卒業、卒業製作「春陽」が学校買上げとなった。卒業の年の秋から帝展、文展に10数回入選、昭和16年以降、文展無鑑査となって官展系の中堅作家として嘱望された。一方、昭和2年より6年までの同窓卒業生の有志が集まって木彫の研究団体、九元社を8年に結成し、その中心的メンバーとして毎年同展に作品を発表した。26年10月、戦時中解散した九元会の会員有志と計って創型会を結成、翌年創立第1回展を東京都美術館彫刻室で開催して以来、毎年美術界唯一の特色ある彫刻単一公募団体展を開き、彫刻の一般社会生活との協和普及をはかり新人作家の養成指導につとめてきたが、彼は最初から事務所を自宅に置き(15回展まで)、率先その代表者となって、会の基礎づくりと育成に偉大な貢献をなしたことは特筆に価する。晩期の作風は、終始写実的態度を堅持しながら、主にセメントを駆使してバロック風の力強く堅実な造型に特色を示した。26年4月より没前まで国立埼玉大学教育学部美術科に講師として彫塑を教授、38年4月から42年2月まで星美短大教授を兼ねた。 主要作品年譜昭和18年 「白衣の天使」日本赤十字本社蔵。昭和19年 「バーモー長官像」ビルマ政府。昭和22年 東京駅貴賓室に裸女立像、およびR・T・Oの共同製作。昭和24年 「高山右近」ローマ、ヴァチカン美術館蔵。昭和27年 「トルソー」(平凡社・世界美術全集に収載)昭和30年 「薫園」(4回創型会展)昭和35年 「掛けた女」埼玉県立公園(別所沼)に設置。昭和38年 「潮風」上野公園に設置。昭和39年 浦和市慰霊塔建設。昭和41年 埼玉国体記念バッジ製作および上尾陸上競技場に同作品拡大せるレリーフ設置。昭和42年 「せせらぎ」「勝利」「髪」「薫園」「1959年」他2点、上尾東邦株式会社庭園に設置。

三田康

没年月日:1968/02/04

新制作協会会員の洋画家、三田康は、2月5日朝、南フランスのニース近郊のカーニュ・スル・メールのホテル・プノンの自室で死去しているのが発見された。検医師によれば、4日午後、心臓発作のために死亡したものと推定された。三田康は、滋賀県大津市で生まれ、大正六年立教中学校を卒業、同年東京美術学校西洋画科に入学、同11年に卒業し、引続いて西洋画科研究科に入り、同14年3月研究科を修了した。美校在学中の大正10年、3回帝展に「裸体」、翌4回帝展「靴をはく少女」が入選した。昭和2年8回帝展「座像」以降、帝展改組まで毎年出品、9回展「室内」、昭和5年11回展「座像」は特選となり、昭和10年第二部会展では「教会の人」で第二部会賞を受けた。昭和11年官展改組にともなって官展から離れ、小磯良平、猪熊弦一郎ら同志8名と新制作派協会を創設した。以後、新制作派展(戦後・新制作展)に作品を発表したが、昭和17~18年には、海軍報道班員として南太平洋方面に従軍し、記録画「レンネル沖海戦」を制作、戦後は、新制作展のほか、連合展、秀作展、日本国際美術展(昭和35~39年)にも出品した。昭和42年5月からフランスに滞在制作中のところ急逝した。また、毎日新聞「雑居家族」(壺井栄)、読売新聞「どっこいショ」(遠藤周作)などの新聞小説の挿画を担当して活躍した。作品略年譜(新制作展出品作)昭和11年「緑陰」「草上」(1回展) 同12年「森」「高原」(2回) 同13年「空港」「庭」「青衣」(3回) 同14年「緑衣」「I嬢」「工房」(4回) 同15年「鉄棒」(5回) 同16年「攀登棒」「鞦韆」(6回) 同17年「風雲急」(7回) 同18年「兵と征く報道班」「戦友」(8回) 同21年「砂丘」「初秋」「葉蔭」(10回) 同23年「人形の国A・B」「少女」(12回) 同24年「少女A・B」「緑衣」(13回) 同25年「少女」「壁」「砂上」(14回) 同26年「青衣」「画室」「黄衣」「少女」(15回) 同28年「人物A・B」「姪の像」 同30年「バレリーナ」「赤衣」「めい」(19回) 同33年「天文台」「霧笛信号所」(22回) 同35年「踊子」「緑衣」「青衣」(24回) 同40年「廃墟」(29回) 同41年「S神父と少女」(30回)

中島秀吉

没年月日:1968/02/02

伊勢型紙彫刻師で重要無形文化財(人間国宝の中島秀吉は、2月2日鈴鹿市の自宅で、急性心機能衰弱のため死去した。84歳。三重県津市に生まれ、17歳の時から伊勢型紙の彫刻をはじめ「道具彫り」を専門とした。昭和30年、重要無形文化財に指定された。

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

没年月日:1968/01/29

元二科会会員、芸術院会員であった藤田嗣治は、1月29日午後1時14分、スイス・チューリッヒのカンスピタル州立病院で前立腺腫ようのために死去した。享年81歳。臨終には、君代夫人、海老原喜之助、田淵安一、元パリ市会議員ジョルジュ・ブラジェが附きそっていた。藤田嗣治は、明治19年(1886)に東京に生まれ、東京美術学校卒業後、大正2年に渡仏し、第1次大戦下にはパリにとどまって辛苦の生活を送り、モジリアーニ、スーチンらと親しく交友し、大正8年(1919)ころから「すばらしい白地」(grand fond blanc)と賞讃された独自の乳白色の下地に、繊細な描線で描いた作風を展開させて国際的な評価を獲得した。その後、エコール・ド・パリの著名なひとりとして国際画壇のなかで活躍し、大正13年には第5回展帝展に作品を送り、昭和4年に17年振りに帰国して個展を開催した。その後、南米・中米旅行などをへて、昭和15年(1940)第2次大戦下のパリを脱出して帰国し、戦争中は、戦争記録画の第一人者として活躍した。戦後に至って、日本画壇のなかでの中傷など煩瑣さをいとって昭和24年(1949)日本を離れてアメリカ経由でフランスにわたり、昭和30年(1955)フランス国籍を取得し、同34年(1959)には、ランス大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。昭和41年(1966)、ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計から装飾までを完成させ、同年12月入院・手術し、一度退院、再度入院して切開手術を行なった。藤田の作品は、大正15年(1926)ルクサンブール美術館に収蔵されて以来、ルーヴル美術館、ニューヨーク近代美術館、パリ国立近代美術館など各国の美術館に所蔵されている。年譜明治19年・188611月27日、東京市牛込区に生まれる。父嗣章は千葉県安房郡の出身で、当時陸軍一等軍医。嗣治は次男で、四人姉弟の末子。嗣章は領有後間もない台湾、朝鮮の衛生行政に尽力し、大正元年、陸軍軍医総監に栄進した。明治24年・1891(5歳)8月、父の任地熊本で母まさを失う。幼い嗣治は長姉きくの許にあずけれらて養育される。きくの夫蘆原信之は嗣章の副官。明治26年・1893(7)4月、東京高等師範学校附属小学校に入学。明治33年・1900(14)4月、東京高等師範学校附属中学校に入学。明治38年・1905(19)3月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。4月、東京美術学校予備科に入学。9月、東京美術学校西洋画科に入学。明治40年・1907(21)7月、精勤賞を受ける。明治43年・1910(24)3月、東京美術学校西洋画科本科を卒業。卒業制作は「自画像」「女」「網すき」。5月、白馬会第13回絵画展覧会に「山より」「女」が入選。美術学校卒業後、和田英作教授の助手として、帝国劇場の壁画や背景の制作を手伝う。このころから3年続けて当時の文展に出品したが、3回とも落選。明治44年・1911(25)3月、東京勧業展覧会に「青梅」「山家」「上野原」「駅」を出品。明治45年・1912(26)3月、第2回東京勧業博覧会に「午後の日」「宿裏」を出品。6月、光風会第1回絵画展覧会に「清水港」「帝国劇場」「南国」が入選。大正2年・1913(27)6月、門司から日本郵船三島丸で渡仏。この年の末モジリアニ、スーチンと知り合う。大正3年・1914(28)しきりに立体派風の制作を試みる。大正6年・1917(31)6月、シェロン画廊で初の個展を開く。ピカソの友人である批評家アンドレ・サルモンが目録に序文を書く。大正7年・1918(32)11月、シェロン画廊で2回目の個展。このころからフジタの名がひろまる。大正8年・1919(33)はじめてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。大正9年・1920(34)渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。苦心のすえ独創した乳白のマティエールは批評家を魅了し、grand fond blanc(すばらしい深い白地)と称賛された。大正10年・1921(35)サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が展開する。画商も蒐集家も藤田の作品を奪い合った。大正11年・1922(36)10月、第4回帝展に「我が画室」(1921)を出品。大正12年・1923(37)11月、サロン・ドートンヌ第16回展に「五人の裸婦」を出品。サロン・デ・チュイルリーの会員となる。大正13年・1924(38)5月、第5回帝展委員。10月、第5回帝展に「静物」(1922)を出品。このころからフェルナンド・バレと別れてユキと暮す。大正14年・1925(39)レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。8月、第6回帝展審査員。12月、日仏芸術社主催第二次フランス現代美術展に「坐せる女」など油絵3点のほか版画を出品。大正15年・1926(40)1月、「アミティエ(友情)」フランス政府買上げとなり、リュクサンブール美術館に収められる。5月、サロン・ナショナル・デ・ボザールの審査員。第5回フランス現代美術展に「モデル」「パリジェンヌの顔」ほかエッチング2点、サロン・ドートンヌに「横綱栃木山の像」出品。昭和2年・1927(41)11月、銅版画1点ルーブル美術館に収められる。昭和4年・1929(43)9月、ユキを伴って17年ぶりに帰国。10月、東京朝日新聞社屋で個展を開き、対策「構図」(1928)ほか鉛筆デッサン50余点、版画20点を出品。ひきつづき2回目の個展を日本橋三越で開催。「舞踏会の前」(1925)ほかデッサン、版画等数十点を出品。10月、第10回帝展に「自画像」(1929)を出品。昭和5年・1930(44)1月、日本郵船の大洋丸で横浜を出帆、北米を経由してパリに帰る。9月、ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3カ月間制作を行ない、さらにシカゴに1カ月滞在する。昭和6年・1931(45)1月、パリに引揚げる。10月、ユキに別離の手紙を残し、マドレーヌを伴ってブラジルに旅立つ。昭和7年・1932(46)3月、アルゼンチンに入り、さらにボリビア、ペルー、キューバなどを回る。11月、メキシコに着き7カ月滞在する。昭和8年・1933(47)ニューメキシコ、アリゾナからカリフォルニアに渡って4カ月を過し、11月17日横浜入港の秩父丸でマドレーヌと帰国。ひとまず高田馬場(淀橋区戸塚町)の中村緑郎邸(次姉やすの嫁ぎ先)に寄宿。昭和9年・1934(48)2月、日動画廊で個展。3月、二科会会員に推挙される。5月、大礼記念京都美術館開館記念京都市美術展に「メキシコ」を出品。9月第21回二科美術展覧会に「メキシコのマドレーヌ」「町芸人」「カーニバルの後」など27点を特別陳列。9~10月、銀座聖書館内ブラジル珈琲陳列所に壁画を制作。11~12月、北京に遊ぶ。この年、中村家の庭先にメキシコ風のアトリエを建てて移る。昭和10年・1935(49)2月、第2回油絵展(日動画廊)に「支那人」「和船」「好々爺」などを出品。3月、東京府美術館開館十周年記念現代総合美術展覧会に「自画像」(1929)を出品。6月、近作洋画小品展(新宿、紀伊国屋)に「大連支那人飯店」「眠れる女」など51点を出品。9月、第22回二科展に「北平の力士(大道芸人)」「五人女」「Y夫人の肖像」を出品。10月、日本壁画家協会結成され、顧問に推される。大阪の十合百貨店特別食堂に壁画を制作。11月、銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。昭和11年・1936(50)2月、第1回春季二科美術展覧会(日本橋、高島屋)に「私のアトリエ」「太海風景」ほか1点を、第3回小品展(日動画廊)に「北米ニューメキシコ」「南仏」「房州太海」「猫」「日本娘」など油絵、どろ絵、水彩画等の小品24点を出品。4月、第3回現代十大家洋画展(求龍堂主催、銀座資生堂)に「秋田風景」を出品。5月に開館した京都市の関西日仏開館貴賓室にカンバス張付油絵壁画を制作。6月、マドレーヌ自宅で急死。27歳だった。9月、第23回二科展に「自画像」「コドモの喧嘩」を出品。9月、京都市の丸物百貨店中二階喫茶室にカンバス張付の装飾壁画を制作。12月、堀内君代と結婚する。昭和12年・1937(51)2~3月、秋田市の平野政吉邸でカンバス張りの大壁画「秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図」を制作。6月、第4回近作展(日動画廊)に「佐渡小木港の雨」「夏の漁村房州太海」「紅花」「甲州の富士」など油絵26点を出品。9月、第24回二科展に1900年」「千人針」を出品。4~8月、横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京日日新聞に連載。7月、麹町に京風の純日本式住宅を新築。この年、「自画像」(1928)パリの国立近代美術館に収められる。昭和13年・1938(52)5月、二科会濤友会のメンバーと沖縄に遊ぶ。6月、日本画展(大阪、関西画廊)に近作18点を、琉球作品発表展(日動画廊)に「海辺の墓」「琉球の女」など20余点を出品。9月、第25回二科展に「竈の前(那覇)」「客人(糸満)」「孫(那覇)」「島の訣別(那覇)」を出品。10月、海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍する。昭和14年・1939(53)4月、横浜出帆の日本郵船鎌倉丸で渡米。5月、パリに着く。6月、海軍省の依頼で制作した「南昌飛行場焼打ちの図」海軍館に陳列される。昭和15年・1940(54)5月、第二次大戦の戦火迫るパリを脱出し、7月、神戸入港の伏見丸で帰国。8月、第27回二科展に「人魚」「最後の平和」「ドルドーニュの家」「争闘(猫)」「ねまきの子供」など15点を特別陳列。10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「サーカスの犬」を出品。9月、陸軍省嘱託として、ノモンハンの戦闘を主題とする作品を制作するため新京に向い、10月、帰国する。12月、石井柏亭、小杉放庵、津田青楓、中川一政らと新団体「邦画一如会」を結成。昭和16年・1941(55)1月、よき理解者であった父嗣章死去する。3月、邦画一如会第1回展に「港」(二曲一双)を出品。5月、二科会会員を辞退し、7月帝国芸術院会員となる。第5回大日本海洋美術展(東京府美術館)に「南昌飛行場焼打ちの図」「武漢進撃」を出品。6月、日本橋三越で個展を開き、「蚤市の床屋」「戦時下の巴里」「雨のモンマルトル」「巴里の屋根と鳩」「召集令と野の花」など油絵21点、素描、水彩を出品。7月、第2回聖戦美術展(上野、日本美術協会)に「哈爾哈河畔之戦闘」「古北口総攻撃(満州事変)」を出品。10月、帝国芸術院、国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。昭和17年・1942(56)2月、「テンガー飛行場夜間爆撃」を陸軍航空本部に、「アリゾナ型撃沈の図」を海軍省にそれぞれ献納。3月、戦争記録画制作のため陸軍省から、5月、おなじく海軍省から南方に派遣される。7月、大東亜戦争従軍画展(高島屋)に「パーシバル」を出品。10月、満州建国十周年慶祝帝国芸術院会員絵画展覧会(帝室博物館)に「仏印順化承天府外苑」を出品。12月、大東亜戦争美術展覧会(東京府美術館)に「十二月八日の真珠湾」「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」「二月十一日(ブキ・テマ高地)」を出品。昭和18年・1943(57)1月、「シンガポール最後の日」その他に対し、昭和17年度朝日文化賞を贈られる。9月、国民総力決戦美術展(東京都美術館)に「アッツ島玉砕」を出品。10月、第6回新文展に「嵐」を出品。12月、第2回大東亜戦争美術展覧会(東京都美術館)に「天皇陛下伊勢の神宮に御親拝」「ソロモン海戦ニ於ケル敵ノ末路」「○○部隊の死闘-ニューギニヤ戦線-」を出品。昭和19年・1944(58)2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展(帝室博物館表慶館)に「キャンボチャ風景」を出品。3月、陸軍美術展(東京都美術館)に「血戦ガダルカナル」「神兵救出に到る」を出品。10月、文部省戦時特別美術展覧会に「ブキテマの夜戦」「大柿部隊の奮戦」を出品。昭和20年・1945(59)8月、疎開先の神奈川県津久井郡小淵村藤野で敗戦を迎える。昭和22年・1947(61)5月、新憲法実施ならびに東京都美術館開館二十周年記念現代美術展覧会に「私の夢」を出品。7月、高島屋で藤田嗣治、堂本印象二人画展。9月、ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。10月、第3回日展第2科審査員となる。昭和23年・1948(62)10月、近代日本美術総合展(東京国立博物館)に「わが画室」(1936)を出品。10月、第4回日展第2科審査員。11月、資生堂で個展。昭和24年・1949(63)3月、羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であった。ニューヨーク滞在中、51番街の画廊で近作展を開催する。昭和25年・1950(64)2月、英国を経てル・アーブルに着く。3月、ポール・ペトリデス画廊で戦後第1回の個展を開催し、50点の作品がたちまち売り切れた。4月、大阪・松坂屋で藤田嗣治回顧展(毎日新聞社主催)開催。昭和26年・1951(65)11月、マドリッドでスペイン美術協会主催の個展が開催され、同地を訪れる。出品約50点。この年、秘蔵の労作「我が室内」(1921)「アコーデオンのある静物」(1922)「カフェにて」(1949)「花の河岸(ノートルダム)」(1950)をパリの国立近代美術館に寄贈。なお、この年「時代の証人・画家」第1回展に指名招待され、第2回以後も招かれて出品を続ける。昭和27年・1952(66)6月、ペトリデス画廊で個展を開き、油絵42点、水彩10点、ほかに版画を出品。昭和28年・1953(67)5月、第2回日本国際美術展に「浜辺の女」(1952)を出品。昭和29年・1954(68)7月、ペトリデス画廊で個展を開き「料理人の子」「朝」「母子」など41点を出品。昭和30年・1955(69)2月、フランス国籍を取得。フジタは第二の故郷パリの市民となった。3月、ブリヂストン美術館で藤田嗣治作品特別陳列が行なわれ、油絵、水彩、版画など約50点が出品された。3月「時代の証人・画家」第4回展に「宝物」を出品。5月、日本芸術院会員を辞任。10月、渋谷・東横で平野コレクション展が開催された。昭和31年・1956(70)3月、「時代の証人・画家」第5回展に「ジャン・ロスタンの肖像」(1955)を出品。夏、ペトリデス画廊で個展を開き、40点を出品。昭和33年・1958(72)3月、「時代の証人・画家」第7回展に「酒場」を出品。6月、ペトリデス画廊で個展。9月、第30回J.A.N.展(銀座、松屋)に「誕生日」を出品。昭和34年・1959(73)1月、大阪・梅田画廊で藤田嗣治作品展。10月、ランス大寺院で夫妻ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド。レオナルド・フジタの第一作「聖母子像」を同寺院に寄贈する。11月、フランス社会進歩協会から銀メダルを贈られる。昭和35年・1960(74)3月、「時代の証人・画家」第9回展に「トロワ・グラース」を出品。6月、ペトリデス画廊で個展を開き、50点を出品。9月、新宿・伊勢丹で藤田嗣治展(毎日新聞社主催)開催され、平野政吉コレクション74点を中心に近作29点その他10余点出品。昭和36年・1961(75)10月、第1回トリエステ宗教美術展で金賞。11月、パリ郊外セーヌ県に農家を買って改造し、パリの住まいをそのままにして新しいアトリエに移る。昭和37年・1962(76)10月、国際形象展(高島屋)に「夏草」を招待出品。11月、大正期の洋画展(神奈川県立近代美術館)に「インキ壺の静物」「雪児童」「横臥裸婦デッサン」出品される。昭和38年・1963(77)4月、フジタ展(日動画廊)に油絵7点、水彩5点、素描4点など出品される。10月、第2回国際形象展(三越)に「二人」(1959)「母と子」「ネグリジェの少女」を招待出品。昭和39年・1964(78)6月、ペトリデス画廊で近作展を開催。9月、第3回国際形象展(三越)に「静物」(1963)「少女」「少女と果物」(1963)を招待出品。昭和40年・1965(79)2月、レオナルド・藤田版画展(日本橋画廊)に「五人の裸婦」(1923)「裸婦」(1927)「リラの花」(1940)「親子猫」(1943)などが出品された。5月、「近代日本の裸体画」展(国立近代美術館)に「五人の裸婦」(1923)「裸婦」(1931)「二人の裸婦」(1932)出品される。6月、二科会五十周年記念回顧展(新宿ステーションビル)に「秋田の娘」(1937)など出品される。9月、大阪・フジカワ画廊で藤田嗣治近作版画展。10月、世界の巨匠水彩素描展(日動画廊)に「メキシコの女」(水彩・1932)「猫と少女」(水彩・1965)など出品される。昭和41年・1966(80)4月、第2回近代日本洋画名作展(奈良・大和文華館)に「裸体」(1926)「マドレーヌ」(1934)「インキ壺の静物」(1926)「パリ風景」(1958)出品される。6月、近代日本洋画の150年展(神奈川県立近代美術館)に「海岸風景」(1912)「婦人像」(1912ごろ)「五人の裸婦」(1923)「カーニバルの婦人」(1932)出品される。10月、第5回国際形象展(三越)に「孫娘と祖母」(1949)「母子像」(水彩・1951)ほか素描3点を招待出品。10月、ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が完成。設計からステンド・グラス、フレスコ壁画の制作に精力をそそいだ。12月、ぼうこう炎のため入院、手術を受ける。昭和42年・1967(81)1月、退院してニースでしばらく静養。7月、レオナルド・フジタ近作展(銀座・彩壺堂)。10月、エコール・ド・パリ展(大阪・大丸)に「裸婦」(1937)「猫」(1947)「祖母と孫娘」(1949)「水汲みの女」(1950)出品される。10月、幻の戦争名画展(月光荘ギャラリー)に「肉迫」(1943)「重爆」「雲上の空中戦」出品される。10月、チューリッヒの州立病院に入院。12月、エコール・ド・パリを中心としたフランス近代絵画展(渋谷・東急百貨店本店)に「横たわる裸婦と猫」(1921)「鏡を見る裸婦」(1926)「モンパルナスの売春宿のサロン」(1928)「バラ色のシュミーズを着たユキ」(1923)出品される。昭和43年・19681月29日、81歳で死去。2月3日、ランスのカトリック大寺院で葬儀。4月、勲一等瑞宝章を追贈される。9月から11月にかけて藤田嗣治追悼展(朝日新聞社主催)が東京セントラル美術館と京都市美術館で開催される。遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。9月19日~10月4日、東京日動画廊において「パリのフジタ」展(日動画廊主催)開催される。(年譜作成・土屋悦郎)

岩井弥一郎

没年月日:1968/01/27

一線美術会代表委員、日展会員岩井弥一郎は、1月27日食道ガンのため、杉並区の自宅で逝去した。享年69歳。岩井弥一郎は明治31年9月18日埼玉県葛飾郡に生まれた。大正12年新光洋画会展に油絵が初入選となり、翌13年牧野虎雄に師事し槐樹社展に出品受賞している。光風会には14年「静物」を出品受賞し、更に翌年第13回展にも出品したにとどまり、昭和6年迄毎日槐樹社展に出品、又、帝展には第5回、8回、9~12回、14、15回展に出品している。昭和7年朝鮮京城で個展を開催、翌8年旺玄社の創立委員となり、昭和21年同社解組後は25年一線美術を創立して晩年は代表委員となっていた。日展の発足以来、毎年日展に出品し、日展審査員、評議員もつとめていた。昭和40年6月から約1カ月欧州を旅行、作品は風景、静物を主とし、僅かに肖像画がある。

田辺至

没年月日:1968/01/14

神奈川県立近代美術館運営委員、元東京美術学校教授の田辺至は、1月14日午前7時、鎌倉市の自宅で脳卒中のため死去した。享年81歳。田辺至は、明治19年(1886)12月21日、東京・神田に生まれた。京都学派の著名な哲学者田辺元は実兄である。東京富士見小学校、府立第四中学を経て、東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事し、明治43年に卒業したが、研究科に進み、二年後に助手となった。大正8年、東京美術学校助教授に任命され、大正11年には文部省在外研究員として美術研究のためヨーロッパ諸国を歴遊、大正13年に帰国した。昭和3年東京美術学校教授に任命され、昭和19年退官した。作品は、官展に発表し、文展第1回展から出品、しばしば受賞し、大正12年以降は十数回にわたって審査員を委嘱され、大正15年第8回帝展では、「裸体」で帝国美術院賞を受けた。昭和2年、明治神宮絵画館に壁画「不豫」を制作、同9年には帝展第二部審査員級の同志と白潮会を結成した。同11年海軍軍事普及部嘱託となり中支に派遣され記録画を制作、同15年軍務局嘱託を依頼された。戦後は団体に属さずに自適の生活をおくり、居住地の鎌倉美術家クラブ代表、県立近代美術館運営委員などをつとめた。なお、油彩のほかに早くから銅版画の制作もおこなっている。作品略年譜(文展・帝展)明治40年「無音」(1回文展) 同41年「放牛」同42年「雪」同43年「窓辺の肖像」(褒状受賞) 「夏の日」同44年「肖像(日を受けたる人)」同45年「甲良ほし」(褒状受賞) 「縁先」大正2年「肖像」「樹下の水」「曇り日」(褒状) 同4年「窓際」「曇の蔭」(三等賞受賞) 同5年「樹蔭」 同7年「ギター」「七面鳥を飼う人」(特選) 同8年「まとい」(1回帝展) 同9年「肖像」「静物」 同10年「水あそび」「室内」 同13年「ギタリスト」「ロシアの女」 同14年「舞踊」「裸体」 同15年「裸体」「肖像」 昭和2年「裸体」(帝国美術院賞受賞)「拳闘家佐藤君」 昭和3年「籬落」 昭和5年「画室」 昭和10年「朝の湖」「少女像」 そのほか「三笠艦の東郷大将」「東郷大将像」などがある。

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