本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





吉田久継

没年月日:1963/03/10

彫塑家、日展評議員吉田久継は、3月10日午後0時20分東京駿河台の三楽病院で狭心症のため逝去した。享年74才。明治21年12月12日東京市本郷区に生まれる。本名久次。数え13才より高橋楽水につき蝋型技術、馬場正寿に彫金を学んだ。また白井雨山彫塑研究所で彫塑を学ぶ。明治41年東京美術学校彫刻選科に入学し、大正2年同校卒業、研究科に入る。大正5年同研究科を修了、つずいて太平洋画会研究所、本郷洋画研究所に通い、岡田三郎助についてデッサンを修めること約10年間に及んだ。大正7年、第12回文展に初入選、続いて帝展に入選し、第2回帝展に出品した「霊光」は特選となり、第4回にまた特選となり、翌年「母性」を出して推薦され、第7回からは委員となった。以来晩年に至るまで終始官展系に依拠し、その耆宿作家として重きをなした。代表作として、「髪」(昭和3、第9回帝展)を自薦している。印象派風の肉付をもち、重厚な作風のうちにも、青年時代特にデッサンに励んだだけに絵画的構図にすぐれ浪漫的構想のものに長じていた。作品略年譜大正7年 第12回文展初入選。大正8年 第1回帝展出品。東台彫塑会組織。大正9年 第2回帝展、特選。大正10年 赤洵社組織。平和記念東京博覧会に出品、金牌を受く。第3回帝展無鑑査。大正11年 第4回帝展、特選。大正13年 総合彫塑展で入賞、賞金を受く。第5回帝展、特選。大正14年 帝展無鑑査に推挙される。第6回帝展出品。大正15年 聖徳太子奉賛美術展及び第7回帝展出品。昭和2年 明治大正名作展(朝日新聞社主催)出品。昭和3年 第9回帝展出品、帝展審査員。昭和4年 日本美術学校彫刻部教授となる。第一美術協会結成。第10回帝展出品。昭和5年 第11回帝展出品。昭和6年 東土会結成。洋風版画会結成。第12回帝展出品。昭和7年 第13回帝展出品。帝展審査員。昭和8年 第14回帝展出品。昭和9年 靖国神社燈籠ブロンズレリーフ作製。第15回帝展出品。昭和10年 帝展松田改組にあたり、三部会結成、第1回展出品。昭和11年 三部会、第一美術展に出品。昭和12-16年 三部会(→国風彫塑会)出品。昭和17年 第4回文展出品、審査員。昭和18年 第5回文展出品。昭和22年 第3回日展出品、招待(審査外)。昭和28年 第9回日展出品、審査員。昭和29-31年 第10回日展-第12回日展出品、参事。昭和32年 第13回日展出品、参事・審査員。昭和33年 第1回日展出品、評議員。昭和35年 第3回日展出品、審査員。昭和33年12月、心筋梗塞を発病、以来継続して三楽病院に入院、38年3月逝去。

沢田宗山

没年月日:1963/03/08

陶芸家沢田宗山は明治14年5月31日京都市で生れた。本名誠一郎。京都美術工芸学校に学び、更に東京美術学校図案科に学び明治36年卒業、翌年、京都市の留学生として渡米、コロンビヤ大学に招かれ同美術部で講義をもちつつ日本図案研究所を設置した。40年帰国したが再度渡米、41年帰国して沢田図案研究所を設け各会社の嘱託となっていた。大正6年京都伏見桃山陵の西麓に陶窯を築き作陶に着手、以後、図案並びに作陶の仕事に従事、大正10年大蔵省の依頼を受け50銭銀貨の図案を作成している。昭和3年帝展特選をうけ、5年から帝展審査員、或は京都美術工芸展審査員などを嘱託され作品を出品、又、10年以後は個展に重きをおき作品を発表していた。昭和38年3月8日逝去。

酒井田柿右衛門〔12代目〕

没年月日:1963/03/07

陶芸家、無形文化財技術保持者12代酒井田柿右衛門は3月7日、佐賀県西松浦郡の自宅で老衰のため死去した。享年84才。彼は明治11(1878)年9月9日に生れ、有田工業学校の前身である有田徒弟学校を卒業し、父11代について陶芸技術、とりわけ図案を学び、一方南画も5年間習っている。昭和28(1953)年、初期の柿右衛門が創りだした濁白手(にごしで)素地の技法が中絶していたのを再現することに成功した。その技術は昭和30年3月に無形文化財として指定された。昭和25年日本貿易産業博覧会に優勝、同36年日本伝統工芸展に日本工芸会長賞、同32年同展文化財保護委員会委員長賞、同33年万国博覧会(ブリュッセル)グランプリ等を受賞している。

菅野圭介

没年月日:1963/03/04

独立美術協会々員菅野圭介は3月4日東京信濃町の慶応病院で食道ガンのため死去した。享年54才。葬儀は豊島区雑司ヶ谷霊園斎場において、独立美術協会葬としてキリスト教式で行なわれた。彼は明治42(1909)年4月27日東京牛込区に、宮城県石巻市出身の早大文学部英文科教授菅野徳助の末子として生れた。母は岐阜県の医師の娘である。姉ふみ子、兄健介。5才のとき父が没し、土居晩翠の許にしばらく預けられた。牛込愛日小学校、東京府立六中、東京高校(文丙)を経て、京都帝大文学部を中退後、渡欧し、フランスのグルノーブル市で、ジュール・フランドランに師事し(1935~1937)、また児島善三郎にも師事した。1936年より独立展(第6回)に出品し、1938年に協会賞を受賞、1940年会友に推挙され、1941年I氏賞、1942年岡田賞を得て、1943年会員に推挙された。戦前二回(1938、1941)日動画廊で個展開催。戦後は朝日新聞社の秀作美術展や毎日新聞社の国際美術展等にも出品している。先妻との間に男子があったが、1948年に三岸節子と再婚し、1953年に解消した。1949年12月、画号を「圭哉」と改め、1954年以後には「恵介」を用いた。風景や静物を写しながら、それを単純で大まかな形体の平面的な色面として用いるその画風は、デビュー時代よりほぼ一貫するもので、地味な色調とともに一種の東洋的なのびやかな味わいをかもしだしていた。独立展出品作品を列挙すると「フランダース古城」「ノルマンディの秋」(昭和12年)、「北欧祭典」「ワルソーの宿」(13年協会賞)、「静物」「山脈」(14年)、「伊豆風景」「北都」「山脈」(15年会友推挙)、「磯」「飛騨地方」「静物」(16年I氏賞)、「秋」「湖水」「島影」(17年岡田賞)、「夏」「静物」「伊豆風景」(18年会員推挙)、「勝下」「果実」「鹿島灘」「花」「漁村」(22年)、「花」「静物」「静物」「静」「風景」(23年)、「果実」「静物」「夏」(25年)、「リスボン湾」「キール岬」「ハイデルベルク」「静物」「ボン」「ハイデルグ丘陵」「ビルバオ」「白都リオ」「モンブラン」「ブレーメン」(28年)、「蔵王山」「秋」(29年)、「冬」「秋」「夏」(30年)、「阿武隈流域」「黒潮」「静物」(31年)、「丘陵秋」「静物」(32年)、「夏の港」「槍ヶ岳秋」「常念晩秋」(33年)、「晩秋」「秋」「夏」(34年)、「夏」「静物」「雪山」(35年)、「秋」「野菜車」(36年)。(参照文献)菅野圭介「ジュール・フランドラン」独立美術1957、「近況の石」同1958、「亡霊」同1959、「自画像」美術手帖29号1950、今泉篤男「菅野圭介」みづえ532号1950。

渡辺義知

没年月日:1963/02/17

彫刻家、元二科会々員渡辺義知は、2月17日脳軟化症のため東京都豊島区の自宅で逝去した。享年73才。明治22年4月11日東京の都心、銀座で生れた。はじめ日本美術学校で彫刻を研修、大正末年頃より二科展彫刻部に作品を発表しはじめ、第12回二科展(大14)に「女の首」、第13回二科展に「マダムAの首」「マルマゲの首」など初期には頭像を主に出品した。昭和3年第15回展で「泉の一部」他2点で二科賞を受け、同会会友に推され、昭和6年3月には会員に推挙された。同年、二科会の研究所である番衆技塾の指導者になり、先輩の藤川勇造と共に彫塑科を担当指導した。昭和7年渡欧した。以来二科彫刻の中心的存在となり、殊に昭和8年から戦争渦中にかけて、連年二科展に発表した「国土を譲る」の記念像連作は、時局精神作興の要望に応え、斯界における有力作家としての名声を高からしめた。戦後、二科会復活に逸早く参加したが、昭和21年、民主日展への参加問題に関する意見の衝突のため、同会から除名され退かざるを得なかった。晩年の主な作に、「シジフォス」(昭35・第3回日展招待)、「白雲」(昭36・第4回日展招待)や「広島赤十字原爆殉職者慰霊塔」(昭36)などがある。

山本敬輔

没年月日:1963/02/08

二科会理事山本敬輔は2月8日、せきつい炎、肝硬変のため兵庫県姫路市の阿保病院で逝去した。享年51歳。山本敬輔は明治44年12月2日姫路市で生れた。家は代々姫路城主の御殿医をつとめ、彼もまた、初めは家業の外科医となるつもりで姫路高等学校に学んだが、昭和4年、画家を志望して中途退学し、藤川勇造をたよって上京、昭和9年第21回二科会展に「狂態」が初入選となり画家としての第一歩を踏み出した。超現実主義が画界を賑わした時代で「狂態」も超現実風の作品であった。そのご、前衛画家の集団、黒色会に加わり、次で斉藤義重、広幡憲等と絶対象派協会を設立する頃は、抽象的傾向へ移り「アブストレーA」のような作品から更にモンドリアンの影響を強くうけて、方形の構成による「V-X-38.5」などを制作発表している。絶対象派協会は、まもなく解散したが、13年11月に、二科会新傾向作家とともに九室会を創立し、二科会展の会場の第九室で前衛活動をつづけていった。然し、戦争の拡大によって14年8月には召集をうけ、18年に一度復員したものの再び召集され、昭和20年終戦迄兵役に服していた。戦後、20年二科会再建とともに会員に推され、23年第33回二科会展で「ヒロシマ」三部作で会員努力賞をうけた。この頃は、他にも「戦争と平和」「殉教」など、思想的テーマを好み、表現にも、ピカソの「ゲルニカ」などの影響をつよく示す作品が描かれていった。26年には昴会を、荒井竜男、桂ユキ子、斎藤義重、末松正樹らと創立し、翌27年第1回展をタケミヤで開いている。然し、そのごはピカソの影響を離れ、再び純粋造型の世界へ移り、又、昭和35年頃にはアンフォルメルの仕事を試みるなど、晩年まで前衛的な活動をつづけていた作家であった。作品略年譜昭和9年 21回二科会展 「狂態」昭和10年 22回二科会展 「馬」昭和12年 24回二科会展 「100-X-37」昭和13年 25回二科会展 「100-X-86」昭和14年 26回二科会展 「100-X-39」昭和21年 31回二科会展 「花の風景」昭和23年 33回二科会展 「ヒロシマ」昭和24年 34回二科会展 「戦争と平和」昭和25年 35回二科会展 「北海道」昭和26年 36回二科会展 「殉教者」昭和27年 37回二科会展 「狭土」「赫土」、日本国際美術展「父と子」「審判」昭和28年 38回二科会展 「作品」(1、2、3)昭和29年 第1回現代日本美術展 「芽生え」「連鎖」昭和30年 40回二科会展 「牙」「決定された地点」日本国際美術展「吹溜り」昭和31年 41回二科会展 「壁」、現代日本美術展「穴のあいたオールマイテイ」昭和32年 日本国際美術展 「ウーッ!」昭和33年 43回二科会展 「像OP58の2」昭和34年 44回二科会展 「作品59」(2、3)、日本国際美術展「作品」昭和35年 45回二科会展 「時点(A、B)」「間隙」、現代日本美術展「赤の作品」「青の作品」昭和36年 46回二科会展 「作品61」(A、B)

脇本楽之軒

没年月日:1963/02/08

東京芸術大学名誉教授、文化財専門審議会専門委員脇本楽之軒(本名十九郎)は2月8日老衰のため逝去した。享年80才。明治16年9月19日山口県防府市の生れ。京都市立美術工芸学校に入学したが中途退学して上京。明治35年ごろから藤岡作太郎に国文学、中川忠順に美術史を学んだ。大正4年美術攻究会を創立し、美術史研究のかたわら万朝報、東京朝日新聞に現代美術評論を執筆した。大正6年より同9年まで文部省嘱託として国宝調査に当り、同11年から昭和12年まで国宝全集の編集に従事、昭和6年より同8年まで美術研究所嘱託となり、「美術研究」に多くの論文を発表した。昭和11年美術攻究会を東京美術研究所と改め機関誌「画説」(のち「美術史学」と改題)を刊行、絵画、陶磁器等に関する研究論文、作品解説、史料紹介の筆をとった。昭和20年東京美術研究所を閉鎖、東京美術学校講師、同22年教授となり日本美術史を講じた。同24年国立博物館次長となったが間もなく辞任。同25年東京芸術大学教授となり、同34年停年退職。同37年名誉教授の称号を授与された。なお、昭和12年重要美術品等調査委員、同20年国宝保存会委員、同25年文化財専門審議会専門委員となり文化財保護行政にも功績があった。同37年古美術研究および現代美術評論に関する業績により紫綬褒章を授与され、逝去に際し正4位勲4等瑞宝章を贈与された。水墨画・文人画および京焼の研究に業績が大きく、著書に「平安名陶伝」(大正10年洛陶会)がある。主な論文次の通り、破墨の意義の変遷について 美術研究 14「雑華室」鑑蔵印記について 美術研究 22日本水墨画壇に及ぼせる朝鮮画の影響 美術研究 28足利義満と宋元画 美術研究 38戦国武人画家山田道安 1~3 画説 10~12慶思か慶忍か 画説 15信貴山縁起の研究 画説 30仁阿弥道八 陶磁 2の4仁清と京焼 京都博物館講演集 13

鮫島利久

没年月日:1963/01/11

光風会々員鮫島利久は、1月11日逝去した。享年69歳。明治26年1月22日東京に生れ、大正7年3月東京美術学校西洋画科を卒業した。光風会に所属して同展や帝展等に作品を発表した。また、美術教育に従い、美術教育学会委員、教科用図書検定調査審議会調査員等をつとめ、昭和38年1月目白学園短大教授となった。

大森明恍

没年月日:1963/01/05

生涯富士の絵を描きつづけた洋画家大森明恍は、1月5日死去した。享年61歳。本名桃太郎。明治34年10月18日福岡県遠賀郡に生れ、大正8年本郷洋画研究所に入った。同10年二科会展に「浪懸夏光」を出品し、昭和8年富士山研究のため、御殿場に一家をあげ移住した。その後、昭和13年2月東京銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回富士山画個展開催をはじめ、北海道九州等各地で個展により多くの富士図を発表した。なお、芸術新潮(4巻7号)に「富士を描いて30年」の一稿がある。

山田等

没年月日:1963/01/02

二紀会会員山田等は、明治37(1904)年9月13日香川県綾歌郡に生れた。大正14(1925)年12月香川師範学校本科第一部卒業、昭和2年3月同校専攻科卒業。大正14年3月より香川県小豆郡大鐸小学校に勤務し、1926年には同香川郡円座高等小学校、昭和2(1927)年には東京府荏原郡深沢小学校に勤務し、同19年より35年まで香川県立高松高等女学校(現在高松高等学校)に勤務した。昭和7年に二科会に「少女」を出品、入選し、以後「画室余技」(1934)、「三人」(1935)、「バリ島の女」(1936)、「木蔭に憩う」(1938)、「浜辺遊戯」(1939)、「雪降りの街道」(1940)、「働く蘭印の女」(1941)、「更紗を描く」(1942、会友推挙)を出品した。昭和22年二紀会創立とともに同人に推挙され、以後「男木島風景」(1947)、「石切」(1948)、「若人」(1949)、「画室」(1950)、「二人」(1951)、「オリーブ園」(1952)、「鏡」(1953)、「踊る女達」(1954)、「僕等の仲間」、(1955、同人優賞)、「小公園の午後」、「室の中の子供達」(1956)、「憩のひととき」、「牛舎と少年」(1957、審査員に推挙さる)、「漁港」、「出漁」(1958)、「子供と牛」、「働く少年」(1959)、「浜辺の歌」、「森の歌」(1960)、「放鳩1・2」(1961)が二紀会に出品された。なお昭和8年から10年にかけて満州、インドネシア方面に旅行し、戦後は37年に5カ月ほどヨーロッパ旅行をしている。

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