村雲大樸子(たいぼくし)

没年月日:1957/07/27
分野:, (日)

日本画家村雲大樸子、本名毅一は7月27日、世田谷区の自宅で胃癌のため逝去した。享年64歳。明治26年8月3日東京市赤坂区に生れた。明治45年3月岐阜県立中学を卒業、大正4年慶応大学を中退し、プロレタリヤ文学研究を志した。村田実、宇野四郎等の「とりで」社に参加、演劇美術の研究に従事し、赤坂溜池の洋画研究所にも学んだ。大正3年、名古屋の石川柳城につき南画を学び、5年から7年迄南画研究のため中国各地を遍歴した。帰国後塩川文鵬を師とし、一方プロレタリヤ美術運動に参加、玉村善之助等と大正10年高原会を起し、更に12年には太田聴雨等と第一作家同盟を組織、またプロレタリヤ芸術家を含む美術家出版従業者組合、政治研究会組織などにも加わり、プロレタリヤ文芸連盟委員長をつとめるなど美術、演劇の運動に挺身していた。昭和6年川合玉堂の門に入り、長流画塾、戊辰会展に作品を発表し、官展には昭和11年改組第1回帝展に「啓蟄」、13年第2回文展に「郊外風景」を出品している。17年には青鸞社を起し以後同展に作品を送つていたが戦後は29年銀座松屋で第1回の個展をひらいた。また日本美術会の創立に参与して同委員をつとめる他、日ソ親善協会、アジア連帯委員会に参与、日中友好協会理事となるなど左翼の立場から国際文化交流に尽していた。30年別府貫一郎岡本唐貴等と点々会を創立、毎年同展に出品した。晩年は「桃花源記」(29年)「帰去来兮辞巻」(32年)など円熟した作風をみせていた。なお昭和30年以来「惲南田・甌香館画跋」を池田醇一と共訳し、10回に亘り三彩(70号-84号)に連載している。

出 典:『日本美術年鑑』昭和33年版(171頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

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例)「村雲大樸子(たいぼくし)」『日本美術年鑑』昭和33年版(171頁)
例)「村雲大樸子(たいぼくし) 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8858.html(閲覧日 2024-03-29)

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