本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





徳田八十吉

没年月日:1956/02/20

九谷焼陶芸家徳田八十吉は、心臓病のため、2月20日石川県小松市の自宅で逝去した。享年82歳。明治6年11月20日石川県小松市に生れ、明治19年松本佐平の門に入り陶画を学んだ。明治30年以来、県下の各種美術展覧会では屡々最高賞をうけ、他に平和博覧会、農商務省展などにも度々出品、受賞している。大正、昭和年間にわたつて、宮中、各宮家への献上品、御下命による制作が多い。昭和27年11月、九谷焼の上絵付技術により無形文化財として選定された。

石川確治

没年月日:1956/02/14

元文帝展無鑑査、日展出品依嘱者石川確治は、2月14日脳溢血のため、東京都荒川区の自宅で逝去した。享年74歳。号方堂。明治期の彫刻家石川光明の女婿。明治14年8月8日山形県東村山郡に生れた。明治38年東京美術学校彫刻科本科を卒業、41年第2回文展に「花の雫」が初入選となり、以後毎回出品、第4回展「化粧」、第7回展「木蓮」、第9回展「はなちる音」で3回褒状をうけている。帝展では、第2回展以後は無鑑査となり、大正11年第4回展から審査委員をつとめた。昭和10年、松田改組に際し、小倉右一郎、日名子実3等、旧帝展第三部無鑑査級の有志とともに、反帝展を標榜して第三部会を結成、同年第1回展をひらいた。第三部会は昭和15年に国風彫塑会と改称したが第二次大戦中解散し、戦後は日展に所属した。作品は木彫であるが、明治末年の「トーマス・ライト像」昭和14年作「呉秀三博士像」など、塑像も僅にみられる。なお、代表作品として作者は木彫に「女性」(大正10年)、採薬(同13年)、童舞(同14年)、安宿媛像(昭和5年)、瑞桃(同9年)、塑像に呉秀三博士像(昭和14年)などを自選している。著書に「支那上代彫刻」(編集)、歌集「山沢集」がある。

野村公雄

没年月日:1956/02/07

元構造社会員野村公雄は、2月7日杉並区の自宅で逝去した。明治40年東京で生れた。昭和5年、東京美術学校彫刻科塑造部選科、並びに東京歯科医学専門学校を卒業し、構造社展に出品のかたわら斎藤素巌に師事した。構造社賞受賞後会員となり、昭和19年解散まで構造社に在籍、また文展にも出品し無鑑査待遇をうけていた。戦後は日展に発表したこともあるが病身となり、製作は少なく、家業の歯科医をつづけていた。作品に「セルパン」「いくさのにわ」などがあり、浮彫彫刻を主とした。

吉岡憲

没年月日:1956/01/15

独立美術協会々員吉岡憲は、1月15日夜、中野区の踏切で国電に触れ死去した。自殺ともいわれるが明らかでない。享年40歳。本名佑晴。大正4年3月25日東京に生れた。川端画学校に学んだのち満州に渡り、さらに聖ウラヂミール専門学校に学んだ。ハルピンに約7年滞在、昭和15年帰国した。帰国後は独立展に出品し、18年第13回展では「母子」で独立美術協会賞をうけたが、戦線の急迫とともに、ジャワ方面に従軍し、同地で住民の文化指導にも従事していた。現在のジャワ美術学校創設の基礎は、当時の彼の努力によるところが大きかつたといわれる。22年独立美術協会準会員、23年会員となつた。戦後は独立美術協会の中堅として同展で活躍するほか、日本国際美術展、アンデパンダン展にも作品を発表していた。

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