国吉康雄

没年月日:1953/05/14
分野:, (洋)

 米国に於いて国際的作家としての地位を築いた日本人画家国吉康雄は、5月14日ニューヨーク・グリニッチヴィレッジの自宅で、胃潰瘍のため死去した。享年63才。1889年(明治22年)岡山市の商家に生れ、小学校卒業後工業学校で染色を学んだが中退して、1906年17才の時英語習得の目的でアメリカに渡つた。
 憧れの新天地も少年の夢からは遙かに遠く、鉄道掃除夫、ボーイ、運搬夫等の仕事に従い乍ら、英語を学んでいたが、数カ月にしてロスアンゼルス美術図案学校に転じた。ここで3カ年勉強をつづけ、その後紐育に移り、ナショナル・アカデミー・スクール、インデペンデント・スクール、アート・ステューデント・リーグ等に学ぶ。この間アート・ステューデント・リーグに於いてケネス・ヘイス・ミラーに友好的指導を受けてその画才をのばし、又多くの知友を得た。インデペンデント展、ペンギン展等に出品し、又1922年にはダニエル画廊に第1回の個展を開き、その後連続8回に亘り開催した。この頃の作品に「牛をつれる子供」「夢」等がある。1925年ヨーロッパに渡り、フランス近代絵画の影響をうけた。この渡欧を境として従来の素朴な空想的様式の時代を終り、次第に欧羅巴の近代絵画の要素が入り混んできて変化している。1928年再渡欧し、ユトリロ、スーチン、ピカソ等に深い感銘を受け、多くのリトグラフの制作をした。翌年紐育に新設された現代美術館に於ける「十九人の現存アメリカ作家展」の一人として選ばれ、この頃より彼の存在は漸く確かなものとなり、アメリカ現代美術展には殆ど参加し、1931年にはカーネギー・インスティチユートで受賞した。
 同年病父を見舞うため日本に帰り、東京と大阪で個展を開き、携えてきた油彩と、版画数十点を展示した。併し当時の日本画壇におけるアメリカ美術蔑視の風潮と彼の一見地味な作風から大した反響も得られず翌年★々日本を去つた。この前年二科会々員となつた。帰国後のアメリカ画壇に於ける制作以外の活動も目覚しく、アメリカ美術家会議国内執行委員、展覧会委員会議長、アメリカ美術家会議副議長等の任にあたつて活躍した。又1948年紐育ホイットニー美術館で現存画家のための最初の企画として「国吉回顧展」を開催、米国各地の美術館、画廊、愛蔵家より集めた作品百数十点を一堂に集め、非常な好評を博した。亡くなる前年にはヴェニスのビェンナーレにアメリカ代表の四人の画家の一人として選ばれる等、アメリカ美術界に於ける栄誉は最高の位置に達し、30余年に亘るその足跡は日米美術界に永く明記されるべきものである。
 作品は初期の空想的要素の多い地味なものから、晩年の鮮やかな色彩を加えた、生活感情の深い象徴ともみられる表現へと幾多の変化をみせているが、画面はどこか悲痛な哀愁と静寂をただよわせ、晩年の華やいだ色彩のかげにも東洋人らしい虚無的思想がうかがわれ、それらがアメリカ風の大まかな味と混り合つて特異な国吉芸術を生み出している。
略年譜
1889年(明22) 9月1日岡山市に中産階級の商人の一人子として生る。父宇吉。母糸子。
1906年(明39) 小学校卒業後、工業学校で染色を学び中退。英語修学の目的をもつて9月渡米。夜学のパブリック・スクールに入学。ロスアンゼルス美術学校に転入学。鉄道工夫、ボーイ、傭農夫等して働く。
1910年(明43) 秋ニューヨークに赴く。ヘンリー・スクールからナショナル・アカデミーに転じ2ヶ月後退学。
1914年(大3) インデペンデント美術学校に入学。
1916年(大5) 秋アート・ステューデント・リーグに入学、ケネス・ヘイス・ミラーの指導を受く。友人にアレキサンダー・ブルック、ペギー・ベーコン、カザリン・シュミッド等がいた。ペンギンクラブに入る。インデペンデント美術展初出品。ハミルトン・イスター・フィールドの庇護を受く。ペンギン展に出品。パスキンと交友を結ぶ。
1919年(大8) 夏女流作家カザリン・シュミットと結婚。コラムビアハイツに定住。
1921年(大10) ダニエル画廊に自作2点を陳列。
1922年(大11) 1月ダニエル画廊に第1回個展開催。以後同画廊閉鎖まで8回に亘り個展開く。サロン・オブ・アメリカの理事になる。
1923年(大12) 「牛と小さなジョー」、「果物を盗む子供」等の作品あり、この頃写真撮影により生活の資にした。
1925年(大14) 春渡欧。「力持の女」制作さる。
1927年(昭2) 「ゴルフをする自画像」制作。
1928年(昭3) 再渡欧、フランスでリトグラフを試みる。
1929年(昭4) 春帰米、ウッドスタックに画室を建てる。紐育近代美術館主催「十九人の現存アメリカ作家」展の一人に推さる。
1931年(昭6) 11月、帰国。毎日新聞社主催により東京・大阪三越で個展開催。カーネギー国際展で受賞。
1932年(昭7) 2月帰米。父死去。カザリン・シュミットと離婚。秋二科展に「サーカスの女」出品。
1933年(昭8) アート・ステューデント・リーグ教授となる。ダウン・タウン画廊で個展を開く。以後7回開催。
1934年(昭9) ロスアンゼルス美術館で2等賞を得。ペンシルヴァニア・アカデミーでテムプル金牌を得。
1935年(昭10) 7月、サラ・マゾと結婚。「デイリーニュース」制作。グッゲンハイム奨学資金によりメキシコ、タオスを2ケ月に亘り旅行。
1936年(昭11) ニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチの教授となる。
1937年(昭12) アメリカ美術家会議の国内委員となる。展覧会委員会議長をつとむ。
1938年(昭13) アメリカ美術家会議副議長の一人となる。「私は疲れた」制作。
1939年(昭14) An American Group会長。カーネギー国際展2等賞、ゴールデン・ゲート展覧会、アメリカ部門1等賞。「お祭は終つた」「牛乳列車」「こわれた橋桁」「ひつくり返したテーブルとマスク」制作。
1943年(昭18) カーネギー国際展に「誰かが私のポスターを破つた」を出品、1等賞になる。(『国吉康雄遺作展』国立近代美術館、1954年に拠る。)
1944年(昭19) ペンシルヴアニア・アカデミーでヘンリー・シュミット記念賞を受ける。カーネギー研究所賞第1席。ヴァジニア美術館で購入賞を受く。
1945年(昭20) シカゴのアート・インスティテュートのノーマン・ウェイト・ハリス青銅牌賞受く。
1946年(昭21) 「飛ぶよ御覧」「疲れた道化師」他制作。
1947年(昭22) 「ここは私の遊び場」制作。Artists’ Equity会長となる。
1948年(昭23) 紐育ホイットニー美術館で回顧展開く。「マスク」(リトグラフ)「寡婦」(カゼイン)制作。
1950年(昭25) メトロポリタン美術館主催「現代アメリカ絵画展」に「鯉のぼり」出品3等賞を得。
1952年(昭27) ヴェニス、ビエンナーレにアメリカ代表の四人の画家の一人として選ばれ出品。第1回日本国際美術展アメリカ部に「私は疲れた」出品。
1953年(昭28) 5月14日ニューヨーク・グリニッチ・ヴィレジの自宅で胃潰瘍のため死去。
1954年(昭29) 1953年「代表作展」が日本で開かれる寸前逝去し、之が「遺作展」に替えられ、5月国立近代美術館に於いて開催された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和29年版(157-159頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
『日本美術年鑑』に収録されている以下の記事にも「国吉康雄」が含まれます。
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