白髪一雄

没年月日:2008/04/08
分野:, (洋)
読み:しらがかずお

 足で絵を描くフット・ペインティングと呼ばれる独自の技法を確立し、戦後美術を代表する一人として国際的に活躍した白髪一雄は4月8日午前7時25分、敗血症のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年8月12日、兵庫県尼崎市の呉服商の長男として生まれる。幼少の頃から書画や骨董に親しみ、旧制中学時代に画家を志すようになる。東京美術学校(現、東京芸術大学)への進学を夢見るが、家業を継がせたい家族の猛反対と、太平洋戦争が勃発し食料や物資の不足が深刻になり始めていたこともあり、自宅から通学可能な京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)へ1942(昭和17)年に入学。当時同校には図案科と日本画科しかなく、入学したのは日本画科であった。しかし日本画へは興味を示さず、48年同校卒業後は洋画に転向、大阪に新設された市立美術研究所に通い、次に新制作派協会(51年に新制作協会に改称)の会員だった芦屋在住の洋画家、伊藤継郎のもとで更なる研鑽を重ねる。新制作派協会の関西展や東京本展で、童話的な主題による具象画を発表。その後、52年に大阪で発足した現代美術懇談会(ゲンビ)に参加するなど前衛美術に傾倒し、同年新制作協会の村上三郎金山明田中敦子らと「芸術はなにも無い0の地点から出発して創造すべきだ」として0会を結成。ペインティングナイフや指を多用した作品を経て、54年の0会の展覧会で、初めて足で制作した作品を発表する。55年、0会は芦屋在住の吉原治良が若い美術家たちと結成した前衛美術グループ、具体美術協会から合流の誘いを受け、参加。以後、同協会を活動の舞台とし、なかでも55年7月に芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」で赤い丸太に斧で切り込んだ「赤い丸太」を、同年10月に東京、小原会館で開催された第1回具体美術展では庭に置いた約1トンの泥の中で格闘する「泥にいどむ」を、そして57年5月と7月に大阪、産経会館と東京、産経ホールで開かれた「舞台を使用する具体美術」には「超現代三番叟」を発表、激しいアクションを物体に定着させた立体作品やパフォーマンスを試みた。その一方で足による制作も続けたが、57年フランス人美術評論家のミシェル・タピエが来日、タピエの提唱するアンフォルメルを体現する絵画として位置づけられ、国際的にも高く評価される契機となる。この時期、愛読していた『水滸伝』の豪傑のあだ名を作品に付した「水滸伝」シリーズを開始。59年イタリア、プレミオ・リソーネ国際展で買上げ賞を受賞。62年パリのスタドラー画廊、トリノのノティティエ画廊で個展を開いて以降フランス、イタリア、ドイツなど海外でも個展を開催。65年第8回日本国際美術展に「丹赤」を出品して優秀賞を受ける。「丹赤」では素足ではなくスキー板を履いて制作し、以後板や棒を用いて画面に襞や扇状の半円を作り出し、画面に流動感を与えるようになる。70年には比叡山に上って天台座主の山田恵諦大僧正に教えを請い、翌年得度し、「素道」の法名を授けられる。72年具体美術協会解散後も個展を中心に活動するが、密教との出会いを機に、その作風は宗教性を深めた。2001(平成13)年に兵庫県立近代美術館で回顧展を開催。没後の09年から10年にかけて「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」が、安曇野市豊科近代美術館・尼崎市総合文化センター・横須賀美術館・碧南市藤井達吉現代美術館を巡回して開催、画業の全貌が回顧された。

出 典:『日本美術年鑑』平成21年版(429-430頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「白髪一雄」『日本美術年鑑』平成21年版(429-430頁)
例)「白髪一雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28420.html(閲覧日 2024-04-25)

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