小野忠弘

没年月日:2001/08/05
分野:, (美)

 美術家の小野忠弘は、8月5日午前3時、急性心不全のため福井県三国町の自宅で死去した。享年88。1913(大正2)年3月3日、青森県弘前市に生まれる。31(昭和6)年、青森県立弘前工業学校土木科を卒業、33年に東京美術学校彫刻科に入学、在学中、鳥海青児の知遇をうけ、アトリエに出入りするようになり、油彩画を描くようになる。38年、同学校を卒業後、徳島県立富岡中学校の図画担当教員として赴任した。卒業後から42年まで、春陽会に出品をつづけた。42年、福井県立三国中学校に転任。47年、北陸美術会が結成され、会員として第1回展から出品をつづけた。50年、第14回自由美術家協会展に出品、会員となる。53年、ロンドン国際彫刻コンクールに「無名政治犯」を出品し、佳作賞を受賞。同年、福井大学工学部の非常勤講師となり、「造形学」を担当する。57年、国立近代美術館の「前衛美術の15人展」に「タキスの天」、「モナノドック」等を出品。同年、ブリヂストン美術館でのミシェル・タピエ選「世界・現代芸術展」にも出品。59年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに「シモセファロス」(立体)を出品、翌年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに「作品」(絵画)2点、「作品」(立体)1点を出品、また第4回現代日本美術展に「アンチプロトン」を出品した。この頃より、鉄屑、陶片、木屑などの廃品によって構成したジャンク・アートとして、国内外から評価をうけるようになった。73年、福井県立三国高等学校を定年退職。79年、東京セントラル美術館で個展を開催し、106点を出品。80年には、東京の小田急グランドギャラリーで「妖星の画家―小野忠弘」展を開催、「タダの人」シリーズ、「テラテラの曠野」シリーズなど新作100点余を出品した。これらの作品は、重厚なマチエールに線がのたうちまわるような情念的な表現の作品であった。85年11月、福井県立美術館で「隕石・縄文・写楽の系譜 小野忠弘展」が開催され、戦前の作品から新作「ゲームの廃墟」シリーズまで224点を出品した。福井にあって、終生、反骨的な気概のもと、情念的な作品をつくりつづけた美術家であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(243頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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