本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





小松崎茂

没年月日:2001/12/07

読み:こまつざきしげる  SF画のパイオニアとして人気を集めた小松崎茂は12月7日午後9時26分、心不全のため死去した。享年86。1915(大正4)年2月14日、東京府北豊島郡南千住町(現東京都荒川区南千住町)に生まれる。高等小学校卒業後、池上秀畝門下の日本画家堀田秀叢に師事、花鳥画を学ぶが、やがて挿絵を志すようになり、秀叢の弟弟子で挿絵画家として人気のあった小林秀恒に学ぶこととなる。1938(昭和13)年『小樽新聞』連載の講談の挿絵でデヴュー。39年から少年科学雑誌『機械化』に描き続けた未来の兵器は、小松崎自身が創案した新兵器をヴィジュアル化したものだった。戦時下の43年には第2回陸軍美術展に「ただ一撃」、国民総力決戦美術展に「敵コンソリー爆撃機墜ツ」、第3回航空美術展に「ニュージョージヤ島の死闘」などの戦争画を出品。戦後は絵物語「地球SOS」(『冒険活劇文庫』1948~51年)や「大平原児」(『おもしろブック』1950~52年)により人気を集め、山川惣治と並ぶ少年雑誌界の寵児となる。絵物語のブームが去った後も細密で迫力のあるSFの世界や戦艦・戦闘機を雑誌やプラモデルの箱絵に描き続け、特撮映画のデザインにも参加、またテレビ全盛時代に入ると「サンダーバード」などのキャラクター画も数多く手がけた。77年には、20代の頃描きためた銀座や浅草のスケッチを載せた『懐かしの銀座・浅草』(文:平野威馬雄 毎日新聞社)が刊行。1990(平成2)年画業をまとめた『小松崎茂の世界 ロマンとの遭遇』(国書刊行会)で日本美術出版最優秀賞受賞。

真鍋博

没年月日:2000/10/31

読み:まなべひろし  イラストレーターの真鍋博は、10月31日午後4時40分がん性リンパ管症のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年68。1932(昭和7)年、愛媛県宇摩郡別子山村に生まれる。57年、多摩美術大学大学院美術研究科を修了、在学中の55年には、池田満寿夫等と「実在者」を結成。60年、週刊誌『朝日ジャーナル』に連載された「第七地下壕」で、第一回講談社さしえ賞を受賞。翌年、久里洋二、柳原良平とともに「アニメーション三人の会」を結成、草月アートセンターで上映会を開催。以後、イラストレーターとして、SF小説の挿絵、装丁など、多方面で活動をつづけた。ことに、60年代から70年代にわたる高度成長期の時代のなかで、精緻な描写と繊細な感覚をあわせもつ近未来的なイメージは、ひろく受け入れ、親しまれた。しかも、その作品でも、発言でも、そこには鋭い文明批評的な視点を欠くことがなく、近年は、エコロジーに感心を寄せていた。80年代からは、郷里別子山村、および新浜市内の公共施設に数々の壁画やモニュメントを制作し、新居浜では「真鍋博 アートピアロード」と称されている。1996(平成8)年、池田20世紀美術館で個展を開催、また没後の2001年には、郷里の愛媛県美術館で「真鍋博回顧展」(会期:7月27日~9月9日)が開催され、ポスター、本等の印刷物から、アニメーション、原画等が展示され、その多彩な活動が回顧された。

宮田雅之

没年月日:1997/01/05

読み:みやたまさゆき  切り絵画家の宮田雅之は1月5日午後5時5分、急性脳こうそくのため千葉県成田市の病院で死去した。享年70。大正15(1926)年東京赤坂に生まれる。昭和29(1954)年、チャールズ・E・タトル出版社にブックデザイナーとして入社。同35年、全米ブックジャケットコンテストに入賞。同38年、谷崎潤一郎に見出だされ谷崎文学の挿絵に取り組み、独創的な切り絵の世界を確立。同47年、講談社出版文化賞(挿絵部門)受賞。同56年、バチカン美術館宗教美術コレクションに「日本のピエタ」が収蔵される。同59年、「源氏物語」五十四帖を完成。同63年、鑑真和上生誕1300年を記念して奈良唐招提寺に「鑑真和上像」を献納し、平成2(1990)年には米・ホワイトハウスに「桜花図」を納める。同6年、NHK大河ドラマ「花の乱」のタイトル画を担当し、NHK出版より画集『花の乱』を刊行。同7年、国連創設50周年を記念して、日本人初の国連公認画家に選任され、「赤富士」が国連アートコレクションとして特別限定版画となり世界的に紹介された。

中尾彰

没年月日:1994/10/06

読み:なかおしょう  童画家で詩人としても活躍した中尾彰は熊本市の済生会病院新館の壁画を夫人の吉浦摩耶(本名中尾鈴子)と制作中に倒れ、10月6日午前0時30分、脳しゅようのため同病院で死去した。享年90。明治37(1904)年5月21日島根県津和野市に生まれる。大正1l(1922)年、満鉄育成学校を卒業。独学で絵を学び、昭和6(1931)年に第1回独立美術展に「静物」で初入選。後、同会に出品を続ける。また、同10年ころから文芸同人誌「日歴」に参加して詩文を発表。同12年第7回独立展に「庭」「窓」を出品して協会賞を受賞。同14年同会会友に推挙された。戦前には満州鉄道の招聴で満州に数回滞在して制作。昭和16年から子どものための美術運動を展開し、童心美術協会を創立。児童出版物に執筆するとともに、教科書や新聞の挿し絵等を数多く制作し、坪田譲治とのコンビで知られた。戦後も同21年日本童画会を結成して活動を続けた。ほか戦後の同21年独立美術協会準会員、同24年同会会員に推挙された。草木と人物を組み合わせ、パステル調の色彩を多用した詩情ある作風を示した。昭和40年代後半からはパリ、インスプルックにたびたび長期滞在して制作していた。平成4(1992)年独立美術協会会員功労賞受賞。戦前の作品は戦中に不明となり、戦後の制作も昭和40年に火災のため多くは焼失している。作品の所蔵館として郷里の島根県立博物館のほか、津和野美術館、練馬区立美術館、松江美術館などがあり、大規模な制作としては昭和53年の済生会熊本病院壁画、平成5年の諏訪中央病院壁画などがある。著書に『美しい津和野』『蓼科の花束詩集』『人生』『あかいてぶくろ』『子供の四季』等がある。

成瀬数富

没年月日:1993/07/05

一創会会員の挿絵画家成瀬数富は7月5日午前8時57分、肝臓がんのため東京都世田谷区の吉川病院で死去した。享年73。大正9(1910)年1月、広島市に生まれる。高等小学校を卒業後、17歳で上京。宮本三郎らに絵を学び、挿絵画家として活躍。朝日新聞に連載された川口松太郎の小説「新吾十番勝負」をはじめ、東京新聞の連載小説の花登筺「氷山のごとく」(昭和54~56年)、三好徹「戦士たちの休息」(同58年)、毎日新聞連載小説の古川薫「天辺の椅子」(平成3~4年)などの挿絵を描いた。昭和54年3月に創立された一創会に参加し、出品を続けた。

久米宏一

没年月日:1991/05/01

絵本や児童図書の挿絵で活躍した童画家久米宏一は、5月1日午後9時43分、腹部大動脈りゅう破裂のため、東京都文京区の東京医科歯科大学付属病院で死去した。享年73。大正7(1918)年11月18日、東京都小石川区に生まれる。昭和16(1941)年太平洋美術学校夜間部を修業。同21年井上長三郎らが中心となって設立した日本美術会に参加し、同会会員となったほか、日本童画会にも参加し委員をつとめた。同51年木版画の絵本「やまんば」で第25回小学館絵画賞を受賞。他に「黒潮三郎」「出かせぎカラス」等の代表作がある。

赤羽末吉

没年月日:1990/06/08

大和絵や水墨画など日本の伝統的な画風を取り入れ独自の童画世界を築いた絵本画家赤羽末吉は、6月8日午後1時40分、食道静脈りゅう破裂のため、横浜市栄区の横浜栄共済病院で死去した。享年80。明治43(1910)年5月3日、東京神田に生まれ、東京順天中学校を卒業。のち満州に渡る。独学で絵を学び、昭和14(1939)年より17年まで満州国国展に出品し、特選を3度受賞する。戦後、昭和24年に帰国。同年よりアメリカ大使館に勤務するかたわら挿絵を描き、同34年日本童画会展に「民話屏風」を出品して茂田井武賞を受賞。同36年福音館より『かさじぞう』を出版して絵本界にデビューした。同40年『ももたろう』ほかでサンケイ児童出版文化賞受賞、同43年『スーホの白い馬』で再び同賞および児童福祉文化奨励賞を受ける。同48年『源平絵巻物語、衣川のやかた』で講談社出版文化賞、同50年には旧作『スーホの白い馬』でアメリカ・ブルックリン美術館絵本賞を受け、国際的にも認められる。同55年、それまでの功績に対し、児童文学のノーベル賞とも言われる国際アンデルセン賞の画家賞を、日本人としては初めて受賞した。その後も、同57年『絵本わらべうた』『そらにげろ』でライプチヒ国際図書デザイン展金賞、翌58年イギリスのダイヤモンドパーソナリティ賞、同64年『おへそがえる ごん』でライプチヒ国際図書デザイン展銅賞等、国内外で受賞を重ねた。他に『ほしになったりゅうのきば』(同51年 福音館)、『つるにょうぼう』(同54年同社)等の代表作があり、昔話を伝統的技法で現代感覚を融合させて描いて広く親しまれた。

沢井一三郎

没年月日:1989/08/02

昭和20年代までは漫画家として活躍し「ゲンキノゲンチャン」などで知られ、その後童画に専念して絵本、教科書、児童雑誌などに筆をふるった童画家沢井一三郎は、8月2日午後4時、肺炎のため東京都三鷹市の野村病院で死去した。享年77。明治44(1911)年11月10日、東京都千代田区に生まれる。伊東深水の主宰する朗峯画塾で日本画を学び、はじめ日本画家を志すが、当時の児童雑誌における漫画の流行を背景に、昭和12(1937)年から講談社の『少年倶楽部』などに漫画や挿絵を描き、同14年から16年まで同社の『幼年倶楽部』に「ゲンキノゲンチャン」を連載して人気を博した。戦後も同24年4月号から『漫画少年』に「てるてる日記」を連載し始めるが、漫画執筆は同28年秋で打ち切り、以後童画家として活動。同37年には童画家の著作権を確立することを目的に現在の日本児童出版美術家連盟の前身である教科書執筆画家同盟を結成し、その代表となった。日本画の修学にもとづく落ち着いた、情趣ある画風を示し、絵本の代表作に『千羽づるのねがい』『大きくなあれ みどりになあれ』『うみへいった山へかえってきた』『はしれ山のきかんしゃ』などがある。同58年、日本児童文芸家協会の児童文化功労賞を受賞。晩年は、自然の大切さ、美しさを訴える作品が多く描かれた。

竹中英太郎

没年月日:1988/04/08

昭和初期、江戸川乱歩らの小説挿絵を描き挿絵界の寵児となった挿絵画家竹中英太郎は、4月8日午前11時54分、虚血性心不全のため東京都新宿区の東京医科大病院で死去した。享年81。明治39(1906)年、12月18日、福岡県博多に生まれる。6人の兄姉を持つ末子。2歳で父と死別し困窮のうちに幼年期を送る。のち熊本県菊地郡大津に住む義兄のもとに母子ともにひきとられ、熊本北警察署の給仕となり、熊本中学の夜学に通う。林房雄ら第五高等学校社研のメンバー、徳永直らと交遊を始め、共産主義にひかれるようになり、熊本水平社の創立に参加、無産者同盟を結成して活動に熱中する。そのため警察署を解雇され、のち、検挙されて熊本を去り北九州で坑夫となる。生活難から雑誌『苦楽』に挿絵見本を持ちこみ、大正13(1924)年同誌に大下宇陀児作「盲地獄」の挿絵を発表。陰湿で妖しい独自の画風で注目され、昭和3(1928)年8月『新青年』に江戸川乱歩が発表した「陰獣」の挿絵を手がけて流行作家となる。『新青年』誌を中心に江戸川乱歩、横溝正史らの作品の挿絵を発表。夢野久作、佐々木白羊、下村千秋、三上於莵吉らの挿絵も担当したが、思想的疑問から昭和10年『平凡社名作挿絵全集』に『大江春泥画集』を制作したのを最後に筆を折り、大陸へ渡る。同14年秋、ハルピンで憲兵隊に逮捕され強制送還されて帰国するが挿絵界には復帰せず、15年東京都品川区に町工場を開く。16年第二次世界大戦に伴う企業整備のため工場を閉じることとなり、翌17年山梨日々新聞社記者となって勤労動員署を担当。戦後も同社に奉職し山梨日々新聞論説委員長、山梨県地方労働委員会会長をつとめた。正式な絵画教育は受けておらず、画歴については不明な点が多い。デフォルメされた人体を特色とし、不具、畸型を好んで描き、退廃的で魅惑的な雰囲気を持つ画風を示した。江戸川乱歩との主な作品に昭和3年『新青年』「陰獣」、同4年『朝日』「孤島の鬼」、『新青年』「押絵と旅する男」「悪夢(芋虫)」、同5年『新青年』「江川蘭子」、同6年博文館刊『江川蘭子』装幀・口絵、『探偵趣味』「地獄風景」、『朝日』「盲獣」があり、横溝正史との仕事には、昭和5年『新青年』「芙蓉屋敷の秘密」、同10年同誌「鬼火」、甲賀三郎との仕事には昭和3年『新青年』「瑠璃玉」「緑色の犯罪」、同5年平凡社刊『幽霊犯人』装幀、同6年『週間朝日』「悪魔の勝利」などがある。

高木清

没年月日:1988/04/06

作家菊池寛の小説挿絵で知られる挿絵画家高木清は、4月6日午後10時58分、肺炎のため東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年77。明治43(1910)年8月23日、愛知県一宮市に生まれる。小学校を卒業した後、看板などを描きながら独学し、のち伊東深水に師事。昭和9(1934)年ころ小説家菊池寛に認められ、菊池の雑誌小説の挿絵を手がけるようになる。女性像を得意とし優美な画風で人気を得、菊池寛のほか丹羽文雄、横溝正史、高木彬光の挿絵も担当した。 昭和10年 菊池寛「愛欲二代」(講談倶楽部)、林芙美子「女の部屋」(小樽新聞)昭和11年 菊池寛「紅白の絆」(富士)昭和12年 菊池寛「現代の英雄」(キング)昭和13年 菊池寛「黒白」(講談倶楽部)、「美しき鷹」(大阪毎日新聞、東京毎日新聞)、佐藤紅緑「花咲く丘」(少女倶楽部)昭和14年 佐藤紅緑「美しき港」(少女倶楽部)、丹羽文雄「銀座化粧」(サンデー毎日)、尾崎士郎「空に残れる」(小樽新聞)昭和16年 丹羽文雄「この響き」(報知新聞)昭和25年 横溝正史「八ツ墓村」(宝石)昭和26年 横溝正史「悪魔がきたりて笛を吹く」(宝石)、田村泰次郎「女学生群」(りべらる)昭和27年 高木彬光「我が一高時代の犯罪」(宝石)昭和28年 島田一男「事件記者」(宝石)昭和31年 佐賀潜「第三の殺人」(東京タイムズ)昭和33年 青柳淳郎「皇太子」(東京タイムズ)昭和45年 富島健雄「女の部屋」(大阪スポーツ)昭和51年 丹羽文雄「魂の試されるとき」(読売新聞)

伊藤幾久造

没年月日:1985/07/14

「快傑黒頭巾」「まぼろし城」などの挿絵で知られる挿絵画家伊藤幾久造は、7月14日午前10時19分、心不全のため東京都文京区の東京健生病院で死去した。享年84。明治34(1901)年7月13日東京日本橋区に生まれ12歳の頃松本楓湖門下で四条派の画家中山秋湖に入門するが飽き足らず、16、7歳で伊東深水に学び始める。大正9年、深水の紹介で博文館発行の『講談雑誌』に大仏次郎作「鞍馬天狗-御用盗異聞」の挿絵を描いてデビュー。同11年頃より講談社の『少年倶楽部』に執筆を始め、時代物を中心に活躍。満州事変以降は戦争画にも筆を奮い、昭和11(1936)年『講談社の絵本』第1号に池田宣政作「乃木大将」の挿絵を描いて『講談社の絵本』の型式を定着させた。同じ頃『少年倶楽部』に高垣眸作「快傑黒頭巾」「まぼろし城」の挿絵を描き原作の怪奇的イメージを巧みに絵画化して人気を博した。第二次世界大戦中は歴史的人物、特に戦国武将の伝記の挿絵を担当。戦後も主に少年向け雑誌に時代物やSFの挿絵を描いたが、同35年頃からの漫画ブーム以後は一線を退いた。代表作として、他に白井喬二作「神変呉越草紙」、海野十三作「火星兵団」「地球要塞」などがある。

富永謙太郎

没年月日:1985/01/15

村松梢風作「近世名勝負物語」の挿絵などで知られる挿絵画家富永謙太郎は、1月15日午前4時51分、心筋梗塞のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年80。明治37(1904)年2月12日静岡県に生まれる。高等小学校卒業後上京、絵看板屋などで働きながら絵を学ぶ。昭和2年独立し友人と商業美術工芸社を設立、絵看板を描く。6年島田啓三を知り、ポケット講談社で子供雑誌の挿絵を描き始める。7年『ポケット講談』に書いていた作家藤森順三の紹介で菊池寛の知遇を得、認められて『日の出』に菊池寛の短編「妻は見たり」の挿絵を描く。翌8年には読売新聞に載った菊池寛「結婚街道」の挿絵を描き、また江戸川乱歩「地獄の花嫁」など現代小説や探偵小説の挿絵を多く手がける。竹田敏彦、長田幹彦、久米正雄、横溝正史、富田常雄らとの仕事も多く、写実的な美男美女の挿絵を得意とした。代表作に、菊池寛の少女小説第一作「心の王冠」、読売新聞で28年から8年間続いた村松梢風「近世名勝負物語」、江戸川乱歩「地獄の道化師」などがある。作家クラブ名誉会員で岩田専太郎、志村立美とともに挿絵界の三巨匠として知られた。

寺本忠雄

没年月日:1985/01/14

挿絵画家寺本忠雄は、1月14日午前零時21分脳梗塞のため、東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年83。明治34(1901)年2月15日東京市深川区に生まれる。独学で絵を学び、大正8年『少年倶楽部』『武侠少年』などの少年雑誌でデビュー。のち『オール読物』『講談倶楽部』『富士』『サンデー毎日』ほか、大衆雑誌、婦人雑誌の現代小説に挿絵を描く。大正13年より新聞小説も手がけ、朝日新聞、読売新聞、報知新聞、国民新聞などに挿絵を描いた。この間、大正10年荒木十畝に師事、日本画を学び、読画会に入る。菊池寛、久米正雄、直木三十五らとのコンビによる小説挿絵を多く担当し、代表作に昭和7年菊池寛作「妖麗」(『講談倶楽部』)、同年中村武羅夫作「薔薇色の道」(『富士』)、同10年小島政二郎作「感情山脈」(朝日新聞)の挿絵がある。写実的な美人画をよくしたが、戦後、時代小説に転向、江戸川柳を絵画に描くなど、独自の境地を拓いた。『夫婦草紙』『夫婦絵草紙』など3冊の著書を残している。

生沢朗

没年月日:1984/11/22

洋画家で挿絵画家として著名な生沢朗は、11月22日心筋こうそくのため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。本名正一。明治39(1906)年9月12日兵庫県に生まれる。昭和3年日本美術学校を卒業後、台湾で壁画の模写に従事したのち報知新聞社に入社し、政治漫画を執筆する側ら帝展へ出品。同11年には第23回二科展に「ラグビー」が入選する。戦後は、同21年行動美術協会結成に際し会友となり、同23年第3回展に「埠頭付近」「河畔」他を出品し会員に推挙された。行動展への出品作には「競馬場風景A」(4回)、「鳩を囲む裸婦」(9回)などがあり、フォーヴィスム的な作風を示した。一方、同26年の「週間朝日」「月刊読売」に表紙絵を描くなど挿絵画家としても活躍し、同33年行動美術協会退会後は新聞、雑誌等の挿絵に腕をふるった。同44年立原正秋『冬の旅』(読売新聞)、同45年大岡昇平『愛について』(毎日新聞)をはじめ、井上靖『氷壁』『化石』『星と祭』(朝日新聞)など新聞連載小説の挿絵を担当、都会的でかつ陰影にとむ独特の持ち味で一躍流行児となった。同46年には井上靖らとシルクロード、ヒマラヤを訪れ、そのスケッチを中心に『生沢朗画集-ヒマラヤ&シルクロード』を同48年に刊行した。スポーツマンとしても知られ、晩年は水墨画に親しんでいたという。『氷壁画集』(同32年)、『生沢朗さし絵集』(同49年)などがある。

黒崎義介

没年月日:1984/08/12

童画家で日本童画家協会理事をつとめた黒崎義介は、8月12日脳こうそくのため神奈川県藤沢市の藤沢市民病院で死去した。享年79。明治38(1905)年3月25日長崎県平戸市に生まれる。長崎県立平戸中学猶興館を中退し大正15年上京、川端画学校に学び翌昭和2年から童話の挿絵を描く。同6年小茂田青樹に師事し同18年からは安田靫彦の指導を受け院展に出品(同23年「宝生寺」他)し院友となるが、同28年院友を辞し新興美術院会員となる。同34年日本著作権協議会理事となり、同36年にはユネスコ派遣で著作権の調査のため欧米13ケ国を訪問する。同35年新興美術院を退会し、翌年新世美術会を結成、同38年には現代美術家協会に会員として加わり、「赤壁の賦」(同41年)などを出品する。この間、同23年には童画研究会を主宰し展覧会を開催し、のち日本童画家協会理事をつとめる。「キンダーブック」「チャイルドブック」「コドモノクニ」「ひかりのくに」などの絵本や児童読物の童画を60年余にわたって描き、多くの子供たちに親しまれた。同54年児童画界への功績で日本児童文芸家協会から児童文学賞を受賞。藤沢市社会教育委員、同文化財保護委員もながくつとめた。作品に『よしすけ昔噺童画集』『小人といも虫』『日本のこども』などがある。

川上四郎

没年月日:1983/12/30

童画会の長老川上四郎は、12月30日午後0時30分、心不全のため、新潟県南魚沼郡の自宅で死去した。享年94。明治22年(1889)11月16日、新潟県長岡市に生まれ、東京美術学校西洋画科本科で藤島武二に学ぶ。大正2年同科を卒業後、独協中学に奉職したが、同5年、コドモ社に入って童画家となり、同社の雑誌「童話」を舞台として活躍した。児童画の芸術的地位を高めるため、童画という名称を作り、日本童画家協会を結成、のち、日本童画会々員となる。講談社絵本童謡画集『アリババ』『アラジン』、小学館幼年文庫『良寛さま』ほか、多くの児童書に挿絵を描き、昭和12年、野間挿絵奨励賞を受賞する。精神性の強い牧歌的な農村風景、風物に定評があった。

中原淳一

没年月日:1983/04/19

服飾雑誌「それいゆ」「ひまわり」の挿絵で知られ、服飾美術家として活躍した中原淳一は、4月19日午後2時25分、脳こうそくのため、千葉県館山市の館山病院で死去した。享年70。大正2(1913)年2月16日、香川県に生まれ、間もなく徳島に移り住む。小学校2年生で父と死別。少年期から、文学、戯曲を耽読し、また、画家を志す。日本美術学校在学中の昭和7(1932)年2月、自作のフランス人形約30点を展示した個展を銀座松屋で開き、好評を得る。この個展の特集が雑誌「少女の友」に掲載されたのがきっかけとなって、同誌の挿絵、表紙を描くようになる。同誌には、吉屋信子、川端康成などが寄稿していた。中原の描く、黒目がちでうるんだような大きな瞳を持つ感傷的な少女像は「昭和の夢二」として一世を風靡する。同15年5月同社を退き、海軍に応召し、終戦後間もなく帰国。戦後の婦人たちに夢を与える雑誌をめざしてひまわり社を設立し、季刊誌「それいゆ」を創刊。同22年1月に月刊少女雑誌「ひまわり」の出版を始める。これらに発表された服飾、室内装飾、髪型などのデザインは、戦後の自由な空気の中で、次々と新しい流行を生み出した。同26年4月から1年半パリに留学。帰国後、「ひまわり」を廃刊し、「ジュニアそれいゆ」を創刊する。同34年8月、過労から来る心臓発作にみまわれ、2年間の入院と約10年にわたる療養生活を余儀なくされる。同45年、隔月雑誌「女の部屋」を創刊して再起を期したが、再び病に倒れ、1年で廃刊。そののちは、館山市で療養生活を続けていた。雑誌の他に、『愉しく、新しく』(昭和28年)、『あなたがもっと美しくなるために』などの単行本も著し、視覚芸術にとどまらず、美しく生活するための総合的なアイデアを提起して、独自の足跡を残した。

武井武雄

没年月日:1983/02/07

大正期に童画のジャンルを確立した童画家で児童文学者の武井武雄は、2月7日心筋こうそくのため東京都板橋区の自宅で死去した。享年88。明治27(1894)年6月25日長野県岡谷市に生まれ、長野県立諏訪中学校を経て大正8年東京美術学校西洋画科を卒業。1年間同校研究科に在籍し、この頃から児童文学雑誌「赤い鳥」に挿絵を描き始めて童画に専念、大正13年に「武井武雄童画展」を開催するに及んで「童画」の名称を定着させた。その後、昭和9年の絵日記「赤ノッポ青ノッポ」の新聞連載や「戦中気侭画帳」、「戦後気侭画帳」などの独特な絵と文で人気を集めた。また、昭和10年頃から紙質、装丁、印刷技術を全て自分で工夫したハガキ大の「刊本」製作に情熱を注ぎ、没年までに百三十種を刊行するに到った。代表作に童画集「廃園の草」「妖精伝奇」などがあるほか、郷土玩具の収集、研究家としても知られ著書に『日本郷土玩具』がある。戦前は日本童画家協会、戦後は日本童画会の創立にあたり、昭和34年紫綬褒章を受章した。

中谷千代子

没年月日:1981/12/26

絵本作家中谷千代子は、12月26日午後9時49分、心不全のため東京都豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年51。1930(昭和5)年1月16日東京高樹町に生まれ、47年東京美術学校に入学して梅原龍三郎等に学ぶ。52年同校油彩科を卒業し、その後グループ展(MY NAK)・国展等に油絵を出品したが、57年頃より絵本の仕事に興味を持ち、研究を始めた。60年初めての絵本「ジオジオのかんむり」を出版し、62年に出版した「かばくん」は翌年サンケイ児童出版文化賞大賞を受賞する。63年より1年間フランスに滞在し、ボナールやアンリ・ルソーの絵に感銘を受けるとともに、フランスの絵本編集者ポール・フォーシェ、スイスのベッティナ・ヒューリマンらと出会ったことが、絵本作家としての道を進む大きな自信となった。65年の「まいごのちろ」「かばくんのふね」は第14回小学館絵画賞を受賞し、66年に出版した「スガンさんのやぎ」は翌年アメリカでも出版され、シカゴトリビューン・ワシントンポスト紙主催の児童図書フェスティバルで最優秀作品に選ばれるなど、動物を主人公とした作品は海外でも知られた。その後も、「まちのねずみといなかのねずみ」(69年、第1回講談社出版文化賞)、「かえってきたきつね」(74年、第21回サンケイ児童出版文化賞大賞)、「かめさんのさんぽ」(79年、第26回サンケイ児童出版文化賞推薦図書)など意欲的な作品を発表し、この間取材のため、73年フランス、76年にはパリ、ベニスを旅行している。81年には各種の童画新人賞の審査員をつとめたが、「しろきちとゆき」が最後の作品となった。

穂束信勝

没年月日:1981/02/09

歌舞伎絵作家の穂束信勝は、2月9日午後5時50分・気管支肺炎のため大阪市の自宅で死去した。享年74。1907(明治40)年6月26日松山市に生まれ、16歳の時大阪に出て劇画の石川観風に師事した。23歳で独立し、以後、戦前は浪花座や中座(大阪)の絵看板を描く。戦後、50(昭和25)年の南座(京都)顔見世興行より歌舞伎絵も描くようになり、歌舞伎座、中座、南座、御園座(名古屋)などの歌舞伎絵看板を描いた。また新派や新国劇、新喜劇などの絵看板も制作し、関西の芝居劇場の絵看板を一手に引受けた絵看板の第一人者だった。代表的作品は、前述の京都・南座顔見世看板ほか。

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