古川吉重
抽象画家の古川吉重は4月10日、入浴中に倒れ、死去した。享年86。1921(大正10)年12月19日、福岡県福岡市大工町87番地に生まれる。国文学者で書画をよくした佐賀藩士古川松根は曽祖父にあたる。1928(昭和3)年、福岡市簀子小学校に入学するが病弱のため同年退学し、29年に再入学して35年に卒業。同年、中学修猷館(現、修猷館高校)に入学する。同校在学中の36年より杉江春男に師事してデッサン、油彩画を学ぶ。39年中学4年を修了し、東京美術学校(現、東京芸術大学)油画科に入学。田辺至にデッサンを学び、夜は鈴木千久馬研究所に通う。40年東京美術学校の南薫造教室に入る。同教室の同期生に藤間清があり、後に先輩の野見山暁治が病気のため同期となる。43年9月、東京美術学校を繰上げ卒業。44年郷里に帰り当仁小学校教師となって図工を受け持つが、同年5月応召し海軍気象兵となる。45年終戦とともに復員し、当仁小学校に復職。翌46年香椎高等女学校に転任して美術を担当。同年新興美術展(日本橋三越)に入選。1947年第15回独立美術協会展に「風景(C)」「樹と建物」で初入選。以後、同展に出品を続ける。49年第17回独立展に「人物」「女」「裸婦」を出品し、独立美術賞受賞。55年サエグサ画廊で初個展を開催する。このころはキュビスムに学んだ画風を示した。56年福岡大丸デパートでの個展に25点を出品。57年第9回読売アンデパンダン展に「廻転」を出品し、以後同展に出品を続ける。一方、独立美術協会には不満を抱き、58年に同会を退会。同年、吉田穂高などによるグループ「野火」、および、岡本太郎、難波田龍起らによる総合的現代美術グループ「アートクラブ」に参加する。62年第5回現代日本美術展コンクール部門に「昼―5」で入選。63年第2回丸善石油奨励賞選抜展に入選。同年7月それまで勤務していた代々木小学校を退職し、同年9月にニューヨークで開催される世界美術家会議のオブザーバーとして渡米する。当初はヨーロッパへ向かう予定であったが、ニューヨークにとどまり、64年第15回ニューイングランド展に入選する。以後、68年まで同展に出品。73年9月、ニューヨークの新築ビルであるグレイスの社内食堂に壁画を描く。74年11月ソーホーのロータス画廊で個展を開催し、71年頃から始めたカンヴァスによるコラージュ作品等を発表する。76年13年ぶりに帰国し、フマ画廊で個展を開催。翌年、欧州巡遊の旅をし、ニューヨークに帰る。81年8月東京のギャラリー山口で個展を、1989(平成元)年1月、コンデッソ・ローラー画廊(ソーホー)で個展を開催。同展は15年ぶりのニューヨークでの個展となった。92年3月福岡市美術館で「古川吉重展」が開催され、6月には国立国際美術館で「近作展11 古川吉重」が開催された。初期には具象画を描いたが、1950年代に幾何学的抽象表現へ移行、1968年には画面に同じ大きさの小円を規則的に並列し、明度差のない色面で構成するミニマル・アート的な表現を行った。71年からはカンヴァス・コラージュを行い、徐々にゴムなどの素材と合わせて異なる材質感による構成を試みるが、78年から油彩による表現にもどり、モノクロームの幾何学的抽象から、80年代には色彩を取り入れた構成に向かった。
出 典:『日本美術年鑑』平成21年版(430頁)登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「古川吉重」『日本美術年鑑』平成21年版(430頁)
例)「古川吉重 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28421.html(閲覧日 2024-11-01)
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