松田権六

没年月日:1986/06/15
分野:, (工,漆)

 国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化勲章受章者、東京芸術大学名誉教授の漆芸家松田権六は、6月15日心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年90。“うるしの鬼”とも称された漆芸の第一人者松田権六は、明治29(1896)年4月20日石川県金沢市に生まれ、既に7歳の時から仏壇職人の兄孝作について蒔絵漆芸を習い始めた。大正3年石川県立工業学校(漆工科描金部)を卒業し上京、同校教師藤岡金吾の紹介で六角紫水を訪ね、同年東京美術学校漆工科に入学、秋から紫水宅に美校卒業の年まで寄宿した。同8年美校を卒業し、志願兵として1年間入隊する。翌年除隊後、東洋文庫で朝鮮楽浪出土の漆芸品の修理に携わった。同14年、紫水と大村西崖の勧めで並木製作所(パイロット万年筆の前身)に入社し、万年筆やパイプなどに蒔絵を施し世界に広めた。同15年、高村豊周山崎覚太郎らと工芸グループ无型を結成、また、日本工芸美術会結成に参加した。昭和2年、並木製作所を退き東京美術学校助教授に就任、この頃、美術校長正木直彦の紹介で益田孝(鈍翁)を知る。同5年第11回帝展に「多宝塔」を無鑑査出品、同8年には欧州各国へ出張しイギリスではダンヒル商会にパイプの漆加工を指導した。同11年日本漆芸院を結成、また、板谷波山六角紫水らと皐月会を結成する。一方、同6年帝国議会議事堂御便殿漆工事に携ったのをはじめ、同14年には法隆寺夢殿内に新調された救世観音の厨子の漆塗装監督をつとめたりした。同18年東京美術学校教授。同20年戦災に遇い自宅を全焼する。戦後は第2回日展から審査員をつとめ、第11回展まで出品したが、日展におけるいわゆる創作工芸になじまずその後日展から離れた。この間、同22年日本芸術院会員となる。同30年重要無形文化財(蒔絵)保持者に認定され、、社団法人日本工芸会創立に際し理事に就任。以後主に日本伝統工芸展に制作発表を行い、同37年日本工芸会理事長に就任した。翌38年東京芸術大学を停年退官し、名誉教授となり、同年文化功労者に選ばれた。同39年『うるしの話』(岩波新書)を刊行、同書で翌年第19回毎日出版文化賞を受賞する。一方、同25年日光二社一寺文化財保存委員会委員となったのをはじめ、国宝中尊寺金堂や正倉院等の保存修理などを指導した。同49年日本漆工会結成に際し顧問に就任、同51年には文化勲章を受章する。日本と中国の古典技法研究に根ざしながら、漆工芸技術の近代化につとめ豊かで格調高い作品を数多く発表した。代表作に「鶴蒔絵硯箱」(昭和25年、第6回日展)、「有職文蒔絵螺鈿飾箱」(同35年)などがある。同53年東京国立近代美術館で「松田権六展」が開催される。金沢市、輪島市名誉市民でもあった。没後、6月19日東京都文京区本駒込3-19-17の吉祥寺において、日本工芸会葬(葬儀委員長細川護貞)で葬儀がとり行われた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和62・63年版(319頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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