村山知義

没年月日:1977/03/22
分野:, , , (洋,美術関係者)

 大正後期に前衛的な美術運動の推進者で画家でもあった劇作家、演出家の村山知義は3月22日午前6時17分、横行結腸ガンのため東京・千駄ヶ谷の代々木病院で死去した。享年76であった。
 村山知義は、明治34年(1901)1月18日、東京都千代田区に生まれ、大正10年(1921)第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科へすすんだが、同年12月哲学研究のためベルリンへ留学した。ベルリンへ着いて間もなく、同地の前衛的な芸術に熱中して絵画へ転じ、カンディンスキー、アーキペンコ、シャガールなどに傾倒、ロシア構成主義へひかれていった。特定の画家につくこともなく、画廊、展覧会をめぐって独学、「コンストルクチオン」「あるユダヤ人の少女像」(いずれも東京国立近代美術館蔵)、「美しき乙女に捧ぐ」などコラージュや抽象的な作品を製作し、デュッセルドルフの「若きラインラント」主催国際美術展に参加した。大正12年1月に帰国し、未来派、二科会系前衛集団アクションなどの活動が始まっていた大正期前衛美術運動の渦中にとびこむこととなった。大正12年5月、神田文房堂において「村山知義・意識的構成主義的小品展」を開催、ドイツから荷物が届かないままに帰国後の作品を展示、また美術雑誌に精力的に日本の前衛美術の批判や、自己の主張する意識的構成主義の論稿を発表した。同年7月には柳瀬正夢、尾形亀之助らとダダイズム的な集団マヴォ(MAVO)を結成し、8月展覧会を開催した。また翌大正13年7月には雑誌『マヴォ』を創刊(翌14年6月までに7号を発行)した。同年11月、築地小劇場第16回公演「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー作、土方与志演出)の舞台装置を担当し、その構成派的作風が注目され話題となった。また同13年10月、前衛的集団の合同呼びかけによって成立した三科造型美術協会に参加した。三科は展覧会開催と同時に大正14年9月30日、築地小劇場で「劇場の三科」を開催(今日のハプニングに近い)したが、その後解散、村山もしだいに美術から離れて演劇運動へ転進していった。

出 典:『日本美術年鑑』昭和53年版(259頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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