吉田善彦

没年月日:2001/11/29
分野:, (日)

 日本画家で日本美術院理事の吉田善彦は11月29日午前10時17分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年89。1912(大正元)年10月21日、東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に老舗の呉服屋の次男として生まれる。本名誠二郎。現在の世田谷区岡本に育ち、小学校在学中に南画家中田雲暉に絵の手ほどきを受ける。1929(昭和4)年いとこの吉田幸三郎の義弟でその後援も受けていた速水御舟に師事、その感化は生涯にわたる影響を及ぼし、とりわけ東洋古典の重要性を認識するに至る。33年の御舟急逝後、吉田幸三郎の計らいで御舟の旧画室を使用して描いた「もくれんの花」が37年第24回院展に初入選、以後院展に出品を続け、また同年より小林古径の指導を受けることになる。40年より法隆寺金堂壁画模写事業に加わり、橋本明治の助手として第九号大壁〈弥勒浄土図〉と第十一号小壁〈普賢菩薩像〉を担当、春秋は奈良で模写に従事する。翌41年高橋周桑ら御舟遺門の同志九名と圜丘会を結成、また同年日本美術院院友に推挙される。44年応召し、46年台湾より復員、再び法隆寺金堂壁画の模写に従事するが、49年法隆寺金堂の火災により壁画は焼失。54年奈良より東京世田谷にもどり、安田靫彦門下生による火曜会に参加する。57年第42回院展「臼杵石仏」、61年第46回「高原」、63年第48回「袋田滝」がいずれも奨励賞、62年第47回「滝」が日本美術院次賞を受賞、64年同人に推挙される。法隆寺での模写事業を通じて第二の故郷ともいうべき大和地方をはじめ、四季折々の日本の風景を描き続けるが、その技法は一度彩色で描いた上に金箔でヴェールを被せ、その上にもう一度色を置き再度描き起こすという独自のもので、吉田様式と呼ばれた。73年第58回院展「藤咲く高原」が文部大臣賞、81年第66回「飛鳥日月屏風」が内閣総理大臣賞を受賞。82年には同作および前年開催した「吉田善彦展」(日本橋高島屋)により第23回毎日芸術賞、また第63回院展出品作「春雪妙技」(78年)により日本芸術院恩賜賞を受賞した。この間、67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事し、安田靫彦班で第六号大壁〈阿弥陀浄土図〉を担当。また64年東京芸術大学講師、68年助教授、69年教授(80年まで)に就任。70年には東京芸術大学第三次中世オリエント遺跡学術調査団の模写班に参加し、トルコ・カッパドキアへ赴く。73年には主にイタリア(ローマ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ)の壁画研究に出かけ、75年には日本美術家代表団の一員として、中国(北京、大同、西安、無錫、上海)を訪れる。78年より日本美術院評議員、87年より同院理事。86年には東京芸術大学名誉教授となる。なお82年に朝日新聞社より『吉田善彦画集』が出版され、また1990(平成2)年に山種美術館、94年にメナード美術館、98年に世田谷美術館で回顧展が開催された。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(250頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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