菅井汲

没年月日:1996/05/14
分野:, (美)

 現代美術家の菅井汲は、5月14日午後1時35分、心不全のため神戸市の六甲病院で死去した。享年77。大正8(1919)年3月13日、神戸市東灘区御影町に生まれ、幼少時、心臓弁膜症と診断され、病床生活を送り、そのため中学進学の時期にも遅れたため、昭和8(1933)年知人のすすめで大阪美術学校に入学した。しかし、病後の回復も充分ではなかったことから退学し、同12年から20年まで、阪急電鉄の宣伝課に勤務し、商業デザインの仕事に従事した。自作の油彩画を吉原治良から批評してもらいながら、独学していたが、二科展などには落選しつづけた。同27年にフランスに渡り、同29年には、パリのクラヴェン画廊と契約して、最初の個展を開催した。翌年には、リトグラフを試みるようになった。1950年代後半から60年代前半には、重厚なマチエールと単純化された土族的なフォルムによる抽象絵画を制作していた。同32年には、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフを出品、同年の新エコール・ド・パリ展(ブリヂストン美術館)にガアッシュを出品、これが日本での最初の作品紹介となった。また、同33年には、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)、翌年には第2回ドクメンタ展(カッセル)、第3回リュブリアナ国際版画展など、国際展に出品をかさね、フランス国内から国際的にも高い評価をうけるようになった。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、東京国立近代美術館賞を受けた。同42年、ヴァカンスの帰路、自動車事故をおこし、頚部骨折の重傷を負い、完治まで数年を要した。同44年、東京国立近代美術館から依頼された壁画「フェスティバル・ド・トーキョウ」が完成し、その取付に立ち会うために、渡仏以来、18年ぶりに帰国した。制作面では、「オート・ルート」シリーズなど有機的なフォルムと明るい色彩による抽象表現から、70年代以降は、「フェスティヴァル」シリーズなど道路標識をおもわせる無機的で、規格化されたフォルムと明快な色彩によって構成された平面作品を制作するようになった。戦後、欧米を中心に活躍しはじめた日本人作家としては、もっとも早い位置にあり、国際的な評価を得た画家であった。同58年から翌年にかけて、初期作品から近作まで80点によって構成された国内で最初の回顧展「菅井汲展」が東京の西武美術館、大原美術館を巡回した。平成3(1991)年には、芦屋市立美術博物館で、翌年にも大原美術館でそれぞれ個展を開催した。画集には、『菅井汲作品集』(昭和51年、美術出版社)、『SUGAI 菅井汲』(平成3年、リブロポート)などがあり、また吉行淳之介、原広司等との対談集『異貌の画家・菅井汲の世界』(昭和57年、現代企画室)を残している。

出 典:『日本美術年鑑』平成9年版(348頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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