末松正樹

没年月日:1997/04/28
分野:, (洋)

 画家で、多摩美術大学名誉教授の末松正樹は、4月28日午後5時53分、脳出血のため東京都品川区の病院で死去した。享年88。明治41(1908)年8月28日、新潟県新発田市に生まれた。軍人であり、後に教職についた父四郎に従い、秋田市、朝鮮江原道春川、新潟市、宮崎市で幼少時代をすごした。中学時代から、美術や文学に親しむようになり、昭和2(1927)年に山口高等学校に進学した後も、芸術を愛好する仲間たちと絵画や詩をつくっていた。高等学校卒業後の同8年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわら日本に紹介されはじめたノイエ・タンツなどの前衛舞踏に関心をもち、舞踏家とも交友するようになり、また同11年には、滝口修造が中心となって組織された「アヴァンガルド芸術家クラブ」に参加した。同14年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。翌年、第二次世界大戦がはげしくなり、日本人画家が帰国するなかパリに留まっていたが、ドイツ軍の進駐を逃れて、マルセイユに移り、同地の日本領事館で働いた。同19年、マルセイユも危険となり、スペインに逃れようとするが、捕虜として警察に拘留された。同21年、復員船で帰国。この年の11月、パリ在住時代親しくしていた井上長三郎に再会し、ついで松本竣介麻生三郎とも親しくなり、その縁から22年自由美術家協会に参加し、会員となった。また、帰国直後には、大戦中のヨーロッパ美術の動向を知る唯一の画家として、新聞、雑誌にヨーロッパ美術に関する記事を寄稿した。同29年再渡欧、フランスのプロヴァンス地方を訪れたことが契機となり、それまでの半抽象的な群像表現から、光を意識した色彩による流動的な抽象表現へと画風が変化した。同39年、自由美術家協会を退会し、主体美術協会結成に参加し、会員となる。同44年、福沢一郎の後任として、多摩美術大学学長代行に就任したが、翌年退任。平成4年、板橋区立美術館で「末松正樹-その抽象と舞踏の時代」展が開催され、初期から近作まで126点によって回顧された。

出 典:『日本美術年鑑』平成10年版(393頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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