津高和一

没年月日:1995/01/18
分野:, (洋)
読み:つたかわいち

 大阪芸術大学名誉教授の洋画家津高和ーは1月17日の兵庫県南部地震のため倒壊した家の下敷きになって死去したことが、18日に確認された。享年83。明治44(1911)年11月1日兵庫県西宮市高木西町9番6号に生まれる。昭和2(1927)年、詩作を始め、個人雑誌「貌」を創刊。同7年篠山衛生病院に衛生兵として入隊し、翌年ハルピン陸軍病院に派遣される。同11年より13年まで結核のため療養生活を送る。この間同12年詩誌「神戸詩人」の同人となる。同14年頃より絵にも興味を抱き、大阪中之島洋画研究所で学ぶ。同18年召集により満州に派遣される。戦後同21年第1回行動美術協会展に「黄昏の車庫裏」を出品。同25年行動美術関西展に出品して友山荘賞を受賞。同26年第6回行動展に「母子像」を出品して、評論家今泉篤男などにより注目される。同27年第7回行動展に「埋葬」を出品して同会会員となる。翌年第4回秀作美術展に「埋葬」を出品するとともに第1回ゲンビ展(現代美術懇談会)に出品する。同30年大阪大丸で「詩と造形」展を開催し、第3回日本国際美術展に出品。また、同年吉原治良須田剋太八木一夫らと国際アートクラブ関西支部を創立。戦後のアンフォルメル運動の隆盛を背景に、書との関連などから国際的に興味を抱かれた津高の作品は同31年東西交流アメリカ巡回展、スミソニアン・インスティテューションをはじめアメリカを巡回した「日本現代美術6人展」にも出品された。同32年第4回サンパウロ・ビエンナーレに出品。同年神戸そごうで「津高和一自選展」を開催する。同33年「日本現代美術展」のヨーロッパ巡回展に出品。また同年第3回現代日本美術展で優秀賞を受ける。同34年中南米に旅行し、サンパウロ、リオデジャネイロ、ブエノスアイレスなど各地で個展を開催。同35年ニューヨークのグッゲンハイム賞美術展に出品する。同37年より56年まで毎年秋自宅の庭で「対話のための作品展」を開く。同37年渡欧しミラノ、トリエステで個展を開催。同40年行動美術協会を退会する。また同年作品・エッセー集『美の生理』(天秤パブリックス)を刊行。同43年大阪芸術大学美術学科教授となる。同44年および45年、ブラジルへ旅行し、各地で個展を開催。同46年ブラジルへ旅行しサンパウロに滞在する。同50年兵庫県立近代美術館で「抽象の四人-須田剋太津高和一元永定正白髪一雄」展、同54年米国ワシントンのフィリップス美術館で「岡田謙三・篠田桃紅・津高和一」展、同年大阪グランドギャラリーで「岡本太郎元永定正津高和一」展、同58年和歌山県立近代美術館で「津高和一泉茂吉原英雄」展、同63年東京池袋西武百貨店で「透明な抽象空間-津高和一展」が開催される。詩画集『動物の舌』(亜騎保・津高和一共著)(昭和36年)、素描集『架空通信』(同51年、石版画集『無の空間』『対位する空間』(二部集、同51 年)、画と論『騙された時間』(同53年)、詩画集『鳥の眼』(同61年)、画集『津高和一作品集(もうひとつのコスモス)』(同62年)がある。1950年代の初頭までは具象画を措いたが、その頃からすでに対象の形態を簡略に線でとらえ、色面と線による画面構成を行っており、以後、それが独特の詩情ある抽象画へと展開した。同60年大阪芸術大学名誉教授となり、平成3年国立国際美術館で大規模な回顧展を開催。西宮大谷記念美術館で個展を開催する準備を進めている中での被災であった。

出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(309頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「津高和一」『日本美術年鑑』平成8年版(309頁)
例)「津高和一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10621.html(閲覧日 2024-04-26)

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