井手宣通

没年月日:1993/02/01
分野:, (洋)

 日本芸術院会員で文化功労者の洋画家井手宣通は2月1日午前6時15分、呼吸不全のため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年81。明治45(1912)年2月1日、熊本県上益城郡御船町に生まれる。大正7(1918)年御船小学校、同13年熊本県立御船中学校に入学。中学3年の頃画家を志し、昭和5(1930)年東京美術学校に入学。石膏デッサンを長原孝太郎に、人体デッサンは小林万吾に学んだ後、藤島武二教室に進学。同8年小絲源太郎を知り、師事することとなる。同年第20回光風会展に「コスチューム」で、第5回第一美術協会展に「女」で初入選。また、同年の第14回帝展に「漁夫と子供」で初入選し、以後官展への出品を続ける。同9年第21回光風会展に「兵士と馬」を出品してK夫人賞受賞。在学中から早熟な画才を示した。同9年から「坊也」と号する。同10年東京美術学校西洋画科を卒業し、同校彫刻科に再入学。北村西望朝倉文夫の指導を受ける。同年第22回光風会展に「子供と馬」を出品してF氏賞受賞。翌11年光風会会友、同14年同会員に推される。同15年東京美術学校彫刻科を卒業するのを機に「坊也」の号を廃する。同年第27回光風会展に「子供二人」を出品して佐分賞受賞。同17年海軍報道班員としてジャワ、ボルネオ、セレベス、シンガポール等へ赴く。同19年大使館嘱託として南京、蘇州、上海に滞在。同20年中国から帰り、翌21年伊豆にアトリエを構え、第2回日展に「斜陽」を出品して官展に復帰する。同22年朝井閑右衛門らと新樹会を創立した。同30年より31年まで渡欧、同37年日展に「野馬追」を出品するが、この制作にあたり福島県原町市の相馬野馬追祭を見たことから、日本の伝統的祭りに興味を抱き、以後祭りを好んで描くようになった。同39年第7回社団法人日展に「賀茂祭」を出品して文部大臣賞受賞、同40年第8回日展に出品した「千人行列」に対し、同41年日本芸術院賞が贈られた。同41年光風会を退会する。同44年日本芸術院会員に就任するとともに日展理事となる。同52年日洋会を創立して運営委員長に就任する。同54年1月、胃潰瘍で入院後、熱海で静養し、のち熱海にアトリエを建てたため、この地に取材した作品が多くなる。同58年日本経済新聞社主催による「画業五十年井出宣通展」を東京の日本橋三越で開き同年『井出宣通画集』を発行。平成2(1990)年に文化功労者に選ばれ、同3年日展理事長となった。晩年は大規模な建築装飾も手がけ、昭和56年横浜駅東口に陶板画「横浜の詩」を制作したほか同59年大阪駅のアクティ大阪誕生記念「大阪の過去 現在 未来」(ドイツ製アンティック・グラスによる制作)と、アルミキャストによる「世界にひらく大阪」をルイ・フランセン、角卓と共同制作した。鮮やかな色彩、活達な筆触を特色とする活気ある画風を示した。
帝展・新文展・日展出品歴
第14回帝展(昭和8年)「漁夫と子供」、15回「子供」、第二部会第1回展(同10年)「子供と馬」、文展鑑査展(同11年)「湖畔」、第1回新文展(同12年)「砂丘」、2回「蒼空の話」、3回「兵の子供達」、4回「協力」、5回不出品、6回「ジャワ踊り」、戦時特別美術展(同19年)「農民」、1回日展(同21年春)不出品、2回「斜陽」、3回不出品、4回「真鶴風景」、5回「夏の伊豆多賀」、6回「和歌の浦」、7回「みかん畑」、8回「四谷風景」、9回「横浜」、10回(同29年)「強東風」、11回不出品、12回「古城の朝」、13回「日照雨」、第1回社団法人日展(同33年)「初港」、2回「高西風」、3回「涼夜」、4回「蔵王堂」(吉野山)、5回「野馬追」、6回不出品、7回「賀茂祭」文部大臣賞、8回「千人行列」、9回「祇園祭」、10回(同42年)「火祭」、11回「御車車」、第1回改組日展(同44年)「春日おん祭」、2回「斎王」(葵祭)、3回「古都の祭」、4回「管弦祭の物語」、5回「天草殉教祭」、6回「風流傘」(葵祭)、7回「薪能」、8回「旗祭」(相馬野馬追)、9回「古都名月」、10回(同53年)「達陀」(お水取り)、11回「馬で来た花嫁」、12回「梅雨晴れ」、13回「熱海夕景」、14回「瞬花開宴」、15回「虹立つ」(同58年)、16回「飛雲」、17回「東海旭日」、18回「かたらい」、19回「彩雲駿河湾」、20回(同63年)「颱風一過の朝」、21回「楠若葉の二重橋」、22回「横浜のハイカラさん」、23回「日本のまつり京都葵祭」、24回「関越道を行く」、25回(平成5年)「月渡る」

出 典:『日本美術年鑑』平成6年版(316-317頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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