本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1887(明治20) 年8月28日

 八月二十八日 日 雨降リタリやむだり也 (トレポール紀行) 今日ハ断岸の上ニ十字架ヲ建ツル儀式ガアル由ニテレールノ妻君等ト共ニ見物ニ行カン事ヲ約シ置キタル事ナレバ午食後レール家ニ行キタリ(食後道ニ同家ニ行キタル時ニハイツデモ珈琲ヤ果物の馳走ニなる事也)二階ニテしばらく話をなしそれより皆そろつてホテルドフランスノ珈琲店ニ行キタリ 之レ此処ニテ行列ノ過るヲ見ン為メ也 行列ノ過る時ハ四時頃ニテ大雨ノ降る最中なりし 行列の人数中白衣ヲ被タル十三四歳位の女子ヤ少年がびたぬれニなりて過ル有様ハ実ニあわれなりけり 夜食後レール家ニ行キタリ レール氏が烟火ヲ上ルヤラ又小生ガ青キ火ヲ道ノ真中デモヤシタリ又二階ノエンガワデ其火ヲ付ケレールノ妻君が白布ヲ頭カラカブツテヲバケノマネヲシタリナドシテ十時過マデ遊ビタリ(マワリドウロウヲ四ツ五ツ往来ニナラべ立テ見物ナドシタリ)

1887(明治20) 年8月29日

 八月二十九日 月 雨 (トレポール紀行) 今日藤島 久松両氏ヘ端書ヲ一通ツヽ出したり 今朝レール氏ニ魚市ニテ逢ヒタリ 而白葡萄酒ノ御馳走ニナリ後チレール家迄行キタリ 午食後二時頃ニ又レール家ニ行キヌ 後皆サントカジノニ行キタリ 夜食前みなし子ノ学校の生徒が皆揃ふて舟遊ビニ出掛ケント舟ノ上ニテ音楽ヲ奏スルヲ見タリ 食後亦レール家ニ行キ珈琲ノ馳走ニなり後ち皆さんと例の如クカジノニ行キタリ 途中橋ノ角ニテ先キノ生徒ガ軍楽ヲ奏シテ学校ヘ帰ヘリ行クヲ見 往来ノ人皆拍掌シテ祝シタリ 其生徒皆ミナシゴニシテ男女二ツニ別ち男ハ前ニ進み楽ヲ奏シ 女ハ後ニ従テ歌ヒタリ 生徒ハ皆十三四歳ヨリ十七八歳位の者也

1887(明治20) 年8月30日

 八月三十日 雨天 (トレポール紀行) 朝宿屋ノ下女ニ起サレテ大アワテニテ衣物ヲ被タルニ五時半頃なりシ 之レヨリ下女ニ荷物ヲ持タセテ停車場ニ行キタリ 第六時ニ涙ナガラト云ニハアラネドモナニトナクナゴリヲシゲニトレポールヲ発シアブビルト云処ニ達シタルハ七時二三分過ナリ 此処ニテ車ヲ更ヘカレーヘ向テ行キタリ ブロニユと云処ニテ又車ヲ更タリ 此ノブロニユト云村ハ矢張トレポール如キ海水浴ノ地ナリ 併シトレポールニ比スレバ余程立派ナル様ニ見受ケラレタリ 此ノ地ハ英国ニ近カケレバ英人ガ多ク来る由也 此ノブロニユ停車場より乗合セタル四十前後ノ人二人ト知リ合ニナリタリ 一人ハ巴里ノ人ニテダンケルクニ行クトノ事(僕ト同ジ道也) 他一人ノ者ハ仏国何県ノ者カ知らネドモリルと云地ニ行クトノ事 兎モ角モカレー迄ハ三人共同シ道也 巴里ノ人ノ方ハ何ニカ商買ノ取引ヲスル人ト見エ此ノ辺ノ道中ニハよくナレタル者也 カレーニ気車ノ着シタルハ午前十時二十三分也 而此地ノ発車ハ午後一時二十二分故一寸市中ヲ見物する位ノ時間ハ充分ニアル事也 僕等ノ着シタル停車場ハサンピエールト云地ニ在リ 此ノサンピエールハ申サバカレーノ隣邑ナレドモ今日ハ合シテ一ノ町トナリタル由也 此ノ地ノ名物ハダンテルトチユルナリ 之レハ二ツ共織物也 サンピエール停車場カラカレーに行ク道ナド右モ左モ其織物製造所のみ 随分盛ナモノナリ 併シ近頃ハ至極不景気ナリト云 右皆先キニ知リ合ヒタル巴里人ノ説明スル所也 又同人ノ案内ニテサンピエールノ町ヲ過リ橋ヲ渡リテ(モトハ此ノ橋ヲ以テサンピエールトカレートノ界トナシタルトノ事)カレーノ町ニ入リ海岸迄行キタリ 古代ノ城壁及釣橋(戦時ニハ引キ上グルモノ)ナドノ今ニ存スルヲ見タリ 之レヨリ前ノ二人ト連レ立ちテ鉄道馬車ニ乗ジテサンピエールニ帰リタリ 此ノ鉄道馬車ノ代ハ一人前二銭ヅヽ小生ガ支払ヒタリ 之レ前ニカレーノ町ニテリルニ行クト云髯爺ガ僕等ニ麦酒ヲヲゴリタレバ其返シ旁カクハ取リハカラヒタルモノニシテ余程気ヲキカシタル積リナリト知ル可シ 巴里人ノ導キニテサンピエールナル一ノ小サナ料理屋ニ入リ三人連レニテ食事ヲナシタリ 食後今度ハ巴里人ガ僕等ニ酒ヲノマシタリ 後ちステイシヨンニ行キリルヘ行ク人ニ別レ僕ハ巴里ノ人トダンケルクニ行ク気車ニ乗ジタリ 時ニ一時二十二分 三時頃ニダンケルクニ着シ巴里商人ト鉄道馬車二乗シプラスジヤンバールト云辻迄行キ一寸別れて同人が教ヘ呉レタル旅店ホテルドシヤツポルージユト云ニ行キカバンヲ預ケソレヨリプラスジヤンバールノ角ナル珈琲店ニ入リ巴里人ノ御馳走ニテ麦酒ヲ飲ミ名札ナド取リカワシタリ 是レヨリ又巴里商人ニ従テ港ノ荷上ゲ場ナドヲ見物シ遂ニ同人ニ別レテ一人波止場の上ヲ歩シ海辺ニ出デ砂の上ニ暫時休息シ而後旅宿ニ帰リタリ 此ノ旅店ハ非常ニ立派ナ処ニテ当地一二ト云可キモノナランカ 食事ノ時ニハ肉ガ三ツモ四ツモ出デタレ共残念ナガラ腹大キクシテ皆平ラグル事能ハザリシ 之レ今日赤髯ノ老人ノ酒飲み等ト一しよニ居リ其御馳走ニテ麦酒ヲ飲み過タルガ為メ也 巴里商人ノ名ヲバルカント云 夜食後独リぶらぶらトしながら公園地及カジノノ相様ヲ見物シタリ 此ノカジノノ在ル地ハダンケルク外ニシテ邑名ヲロザンダールト云 鉄道馬車アリテ交通甚ダ便ナリ カジノノ建築ハカナリ奇麗ナリト雖トモ今夜ハイカナルモノカガスノ火モ少ナク又其辺ヲ遊歩スル人ナド一人モナクカジノノ中ハ知ラネドモ外カラ見タル通リデハあまり感心セズ 此ノカジノノ近所ニ一ツノ小ナル水晶宮ノ如キモノ有リ 此ノ方ハ少シニギヤカナル様ニ見受ケタリ トレポールノ如ク海岸ナドヲ遊歩する人ノ無キハ気候ノ寒キニ依るものか 海辺の様子ヲ申サバ第一ニ浜ハトレポールノ如ク小石原ニ非ズ 只ポクポクトしたる砂のみ 子供ナドガ走ケタリ転ゲタリシテ遊ふにハ至極妙ナル可シト雖ドモ少シク風デモ立なバ戸ノ外ニ目ヲ開テ出る事ハ一寸モ出来まじ ぶらつきながらかれこれと独り心ノ中デ評ヲ為シ之レヨリ鉄道馬車ニ乗ジダンケルクノプラスジヤンバール迄行キ車より下リテ後市中ヲ遊歩し終ハリテ床ニ入リタリ 今夕トレポールナルレール家ヘ礼として当地の写真を送りたり

1887(明治20) 年8月31日

 八月三十一日 朝ハ極上天気なりしニ九時頃ニ大雨降れり 後ハ風トなりたり (ブランケンベルク紀行) 今朝久松君へ手紙一通出したり 又市中ヲ少シク遊歩セリ 午前十時四十七分の気車ニテヒユルヌト云処ヘ向ケ出発せり 此ノフユルヌよりハベルジク国トス 此ノ地ニ着シタル時ハ十二時少シ過ギナリ 停車場外ニ待ち受ケ居タル蒸気鉄道馬車ニ乗ジ(馬車ト記シタレドモ馬ハナシ 此ノ車ハ日本ナドニハ無ク先ヅ通常ノ蒸気車ニ比スレバ極手軽ルニ出来上等ト中等ト合ワシテ車三ツ四ツ計リツナギタルノミ 鉄道馬車ト蒸気車トノアイノコノ如キモノ也)十二時二十五分頃ヲスタンドヘ向ケ出発 ヲスタンドニテ車ヲ更ヘ二時発ニテブランケンベルクニ向フ 同三時過キニブランケンベルクニ安着シ直ニバンハルトラン氏ニ行キタリ 之レヨリ此ノ家ノ食客ト為ル 十日間ノ滞在中大抵雨カ風ニテ上天気ナシ 毎日朝カラネる時迄エドワールト共ニ居リシ事故日記ヲ付クル暇トテナカリシ 此ノ地ノ生活ノ風ハトレポールトハ大ニ異ナリタレバ同シ青目ノ西洋人デモカク迄性質ノカワリタルモノカナト独奇ナル思ヒヲ為シタリ トレポールニ来テ居ル女子等ハ仏国者ダケニ只飾る事ノミニ日ヲ暮し踏舞や音楽ニウカウカトウカレタルニ引キ更ヘ此ノ地ニ来リバンハルトラン氏ノ家内の様子ヲ見ルニ子供ハ男女七人兄弟ノ中至而睦シク誠ニ目出度キ次第也 又娘ノ衆達トテモ日本ヤ巴里ノ如クおしろいなどをぺちやぺちやト付ルナド変ナシヤレヲスル事トテハ更ニナク晴天ナレバ田舍ヲ遊歩シ種々ノ草花ナドヲ取リテ楽ミ雨ガ降レバ内ニテ花ノ画ナドヲカイテ遊ぶ等実ニ真正ノ楽ヲ知る者ト謂可シ 右ノ如キ人達ト居ル事故之レゾ可笑ト大口開テ笑フ様ナ事ハナカレドモ心自ラ快ニ日モ早ク立ち僅カ二三日ト思ふ内ニ早一週間ノ余ニモナリヌレバ永滞在モ気ノ毒千万遂ニ九月九日ヲ以テ出発ノ日トゾ定メタリ〔図 写生帖より〕

1887(明治20) 年9月1日

 九月一日附 ブランケンベルク発信 父宛 葉書 去る三十日朝六時ノ気車ニテトレポールヲ出発仕カレー港ト申処ニテヒルメシヲ食ヒ又市中ナドヲ略見物シ一時過ノ気車ニテダンケルクト云仏国ノ第三番目ノ港ニ向ケ出発仕候 三時頃ニ安着 港ノ模様や市中などヲ見物仕候 今夜ハ此処一泊翌三十一日朝十時四十七分ノ気車ニ乗シフユルヌト申村ニ十二時頃ニ着シソレヨリ蒸気鉄道馬車ニテ午後三時頃ニ此ノブランケンベルクニ安着仕友人エドワール氏方ニ厄介ニ相成居候 家内中揃ふて深切な人達にて至而ねんごろに致し呉れ候得共食客なりと思ヘバ何トナク肩幅狭キ心地致し候 今年ハブルクセル府ニ留学シ居ル日本人ハ松方氏始メ皆のこらず右エドワールノ招キニ応シ同氏方ヘ四五日ヅヽ遊ビニ来リタル由也 此ノ御礼トシテ何カ進物致シ度候ニ付御序ニ日本ノキヌ布ニテモ御送リ被下度奉願上候 頓首  父上様  ブランケンベルクより 清輝拝

1887(明治20) 年9月9日

 九月九日 久し振リニテ天気よし (ブランケンベルク紀行) 朝九時頃よりエドワル ロベール君(エドワールノ友人)ヘルマン(エドワールの弟)アンジエリナ(エドワールの妹)ト五人連レニテ此ノブランケンベルク邑よりブリユジユ村ニ通ズル掘割ニ舟コギトシテ出掛ケタリ 第二番目ノ橋迄漕ギ付ケ小生ハロベール君ト共ニ百姓家ニ入リ牛乳ヲのみたり 舟ヲ漕ギのどのかわき居りし時ニ鮮しき乳ヲのみたる事故一層美味ヲ感じタリ 十二時頃ブランケンベルクニ帰レリ エドワール ヘルマン アンジエリナト四人ニテイソギ潮ヲあびりたり 此地ニ着してより天気ノ都合ナド宜しからずシテ今日迄水ニ入ラザリシカドモ今日ハイツモより天気モヨク且ツ今日限りの事故暇乞ヒ旁水ヲあびりたるもの也 食事の時も近ケレバ大急ギニテ飛ヒ上リ走リテ家ニ帰ヘリ又潮ニ入シ時ニハカナリ冷カナリシカドモ直ちニ体モアタタマリタリ トレポールニテアビリシ時ノ比ニ非ズ 今日午後二時何分トカノ気車ニテ出立スル積リナリシカドモ皆サンノおすゝめニ依リ五時頃ノ気車ニ乗る事ト定メタリ 食後珈琲ナド飲ミテおかみさん及ビバランチヌさん(エドワールの妹)などと少シ世間話などして笑て居る内ニ早五時近クナリタルヲ以テ主人公及ビジヨルジナ(総領娘)さんに暇乞ひして出立でたり おかみさん始メエドワール バランチヌ マルグリツト ルイズ アンジエリナさん等皆送り来リタリ ロベール君其姉某 カルパンチエ氏の娘某等モ同ジク停車場迄送り来て呉れたり 実ニ御深切難有次第也 気車ハ上等ニ乗リたり 之レ送リ来りたる人ニ対シテかくハなしたるもの也 気車ノ中ニエドワールノ知人某氏乗リ合セ居リ新聞など貸し呉レタリ 一室中二人のみにて大仕合致したり 新聞ヲ読ハアマリ面白クナキニ依リ古今集ヲ取り出して読み時間を費したり 八時二十分頃ニブリユクセル府ニ着シホテルドコロニユト云旅店ニ投ズ

1887(明治20) 年9月16日

 九月十六日附 ブリュッセル発信 父宛 封書 御一同様御揃益御安康奉大賀候 私事去る九日午後五時頃ブランケンベルクナルバンハルトラン氏ヲ立出て当時ブリユクセル府滞留中ニ御座候 毎日友人等トアチコチシテ実ニ面白キ事ニ御座候 松方氏モ旅より今日帰へり来らるゝ由折角の事故会テから巴里に帰り行かんト思ヒ今日迄金の入るのに滞在致し候次第ニ御座候 バンハルトラン家ニハ去月三十一日より今月九日迄十日間計厄介ニ相成実ニ難有次第 如何ニして此ノ返礼をせんか学問成就の後ちに非されバむづかしき一件也 又当地に来れバジロント云人の内から飯食ひに来れト招かれウエベルト云人の家にてハ毎日の様に御馳走に成り実ニ此ノベルジク国ニ来れバ本国にでも帰へりたる様な心地致し候 又当地在留の書生ハ皆々学問も有り人物よき人達にて巴里に帰へり度なき様な心地致し候事ニ御座候 頓首 父上様  清輝拝

1887(明治20) 年9月23日

 九月二十三日附 パリ発信 母宛 封書 さる二十日のばんがたこのぱりすにかへつてまいりましてうちにかへつてみましたら七月二十二日および八月十二日つけのおてがみそれからまるまるちんぶんなどがついておりましてまことにうれしくさつそくおてがみをはいけんいたしました(中略) わたくしはこといつもながらぴんぴんにてとれぽをると申ところに二十日それからぶらんけんべるくといふところに十日ぶりゆくせるに十日ちようど四十日だけあちらこちらとぶらついてまいりました(中略) ぶらんけんべるくでハともだちのばんはるとらんといふひとのうちに十日ほどやつかいになつてをりました そこのうちのおやぢさんはじめみなみなそろつてよいひとたちにてまことにしんせつにしてくれました このふらんすにはながくをりますけれどもこんなよいうちはありませんよ(中略) そのばんはるとらんさんのうちのむすこのゑどわるどといふやつとまいにちうんどうをいたしました またあめでもふつててんきがわるいとそこのむすめさんのばらんちぬといふひととゑをなどをかいてあすびました このばらんちぬさんはゑがたいへんじようずにてことしはゑのがくこうにて一ばんのほうびをとつたそうです かんしんなものです(中略) ぶりゆくせるではうゑべるといふきよねん一しよにしやしんをうつしたひとのうちをわがやどのようにおもつておひるにいけバひるめしのごちそうになりばんまであそんでをればばんめしも一しよにくつていけとゆわれまたぜいむすいふ大がくこうのせんせいのうちやじろんといふひとのうちからめしによばれたりしていつごつさつごつていねいなめにあいまことにしあわせなことです もう一しゆうかんばかりするとゑのけいこがはじまります そうするとまたたいへんいそがしくなります こんどはゑのほうばつかりべんきようするつもりです そうでないとふたつ一しよにしておつてはほねばかりをれてけいこはなかなかすゝみません(後略) 母上様  新太

1887(明治20) 年10月7日

 十月七日附 パリ発信 母宛 封書 八月五日のおてがみたしかにあいとゞきありがたくはいけんいたしました 父上様 あなたさまおはじめみなみなさまおんかわりなくいつもいつもおげんきのよしまことにおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことはいつもだいげんきにてゑのけいこもこのまえのげつようびからはじまりましてまいにちべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし よるもやつぱりながやすみまへのように八じからよるのがつこうにいつてゑのけいこをいたします ずいぶんおもしろいことでございます このごろはもうふゆになつたようなあんばいにてまいにちくもりてんきばかりにてまことにこまります(後略) 母上様  新太拝

1887(明治20) 年10月14日

 十月十四日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康大慶至極ニ奉存候 私事も大元気にて画学勉強罷在候間御休神可被下候 先便より度々申上候通り今年ハ法律ノ方ハ全ク打チ棄て画学専修の積ニ決心仕候ニ付左様御承知被下度候 画学教師コラン先生も不相変深切ニ致呉候間仕合の事ニ御座候 公使田中不二麿様ニも先日当地御安着相成私も去る九日友人両三輩ト公使館ニ於て御目通り仕候 前ノ蜂須賀公使ノ殿様ニ引キ更ヘ実ニ御丁寧なる御方ニ御座候(後略) 父上様  清輝 (後略)

1887(明治20) 年10月21日

 十月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 九月三日九月十三日之御手紙慥ニ相届キ謹而拝誦仕候処御尊公様御始メ皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事至極壮健毎日画学勉強罷在候間御休神可被下候 本日公使館ニ於テ原敬様ニ御面会仕候処法律学校の事ニ付御話し有之候故平常の志を述るニよき機会ト存し私儀ハ法律学士などニなる気ハさらに無御座画学ヲ以テ一身ヲ立んと存候と申述候処原様の仰にハ近頃理屈の世の中 子ノ如キハ画の名人トナルニモ及バヌ事矢張法律を学ぶ方身の為メニよろしからん 且ツ画がすきなりと云事なれバ法律学士の免状を得て後画の稽古をするも遅くハあるまじ云々 右当時官吏等世間なみの意見ト奉存候 併し私ハ感服不仕候 第一 昨年法律学を始メタル所以ハ只精神ヲ養ハンガ為メニシテナニモ法律ヲ以テ一身ヲ立テンが為メニハ非仕ザリシ也 而今年ハ之ヲ断然打棄てゝ顧みすト云訳ハ画学ノ為メニハ法律学ノ要用ナラザルヲ悟リタル故ニ御座候 第二 私ノ画ヲ学ぶと云ハ楽みニ非ズ 之レヲ以テ一生ヲ終ラントスル者ニ候得は今三四年モ此ノ役ニ立タザル法律ノ為メニ打ち棄て而後隱居仕事ノ様ニ画ヲ学ぶなどと云様なまのろき事ハ出来ぬ事ニ御座候 第三 三四十円取りの役人ト為リ肉ヤ魚モ人なみに食ふ事が出来世間ノ人よりも一寸尊敬さるゝ事などをよろこぶ人の為メニハ学位などを得ルも至而要用なれども私の如ク人がよく云ふが悪ク云フガ又貧窮しようが金持になろうが如此事ニハ心ヲ動かすに足ラズ只画の為メニ力ヲ盡す心得ノ者ニハ法律学士などになる必要ハ少しもなき事ニ御座候 以上私ノ考ヲ略原氏ニモ申上ケ度存候得共同氏等ハ全ク反対ノ精神を有せらるゝ事の様に相見ヘ候付無益ト存じ只熟考す可キ旨申述ヘ置キ引取リ申候 今日之世にてハ之レトならバ一生ヲ終ると云者ヲ以テ目的とするこそ当然ト奉存候 合田 山本両氏ニ托し御送申上候画も相達し又直左右等御聞取被下候由安心仕候 文蔵様にも御帰京被遊十月頃御出発欧米御巡行と相定候由当年中にハ御面会致し得る事と御待申上候 旅行中気車の中にて読み候例のごまかし歌入御覧候御一笑被下度候   雁  春を知らて秋にのみ来る雁かねハ世のうきのとなき渡るらん   ぶらんけんべるくに行く時ニハ秋になりし如くよほど涼しく相成候得ば  袖か浦浪の音にハ聞へねと今朝吹く風に秋を知りぬる ぶらんけんべるくハマンシユト云海の岸に在り此ノマンシユト云語は仏語にて袖ト云意味もあればかくハ訳したるものに御座候 ぶりゆくせる府にて公園を通る時木の枝一枝紅葉しけるを見て秋風も矢張世中のものと見エゑこひいきをするかなと云心持にて左の通り読み申候 よほどごまかしに御座候  秋風も同し浮世のものなれや枝をわきつゝ紅葉しにけり (後略) 父上様  清輝拝 (後略)

1887(明治20) 年10月29日

 十月二十九日附 パリ発信 父宛 葉書 (前略)文蔵様にも最早御地御出発被遊候事と奉存上候 伊太利国ニテ五六年画学修業被致候松岡ト申人公使田中氏ニ随ヒ当巴里府ニ来居られ候得ば当時画かき仲間一人増し愉快なる事ニ御座候 頓首 父上様  従巴里 清輝拝 (後略)

1887(明治20) 年11月4日

 十一月四日附 パリ発信 父宛 葉書 益々御安康大賀候 私も至極元気此週間ハ朝もひる後も画の稽古有之候故随分いそがしき事に御座候 昨日ハ天長節にて友人の方ニテ日本の三味線弾有之酒ヲ飲むやら歌ふやら大愉快ヲ致し申候 夜ハ公使館にて夜食有之候て皆々出掛ケ候得共私ハ昼ノ酒ニ閉口仕夜迄御祭をする程の元気なく残念ながら内にのこり申候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様によろしく奉願上候

1887(明治20) 年11月18日

 十一月十八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)またゑかきのともだちのふぢさんといふひとのうちににつぽんからさみせんやたいこなんどがおくつてきましてひさしぶりでしやみせんのねをきゝました につぽんではさみせんはやかましいやらなにやらへんなものでしたがこちらできくとめづらしくてなかなかよろしゆうございます ふぢさんといふひとはなかなかげいにんにてさみせんをよくひきます こんげつの三日のひわてんちようせつでしたからふぢさんのうちでおさけをのむやらうたをうたうやらとぶやらはねるやら大さわぎをいたしました さみせんがあつたもんですからまことにおもしろいことでした わたしはにつぽんにをるときからみるとおさけものめるようになりました けれどもまだなかなかにてぶとうしゆかびるでさゑもこつぷで一ぱいものめばもうせけんがとうくなつたようなこゝろもちになるもんですからこの三つかの日もすつかりよつぱらいみんなとわらつたりなにかしてあそんでをるときはよろしうございましたけれどもうちへかへつてからはなかなかくるしいことでございましたよ わかいしよせいばかりあつまつてこんなにさわぎをしたことわこちらにきてからはじめてでした ぶんぞうさんもいよいよおたちになりましたよし もうとうからぬうちにこちらにおつきなさるだろうとまいにちおまちもうしてをります またぶんそうさんのびんからいろいろとよいものをおくつてくださいましたよしあつくおんれい申上ます わたいれのきものはまことにありごとうございます そつそくきてみませう このごろはわたしのをるところのぢきわきにいちがたちましてなかなかにぎやかなことでございます まづちよつとゆつてみればおてんじんさまのおまつりのながくつゞいたようなものです あめやだのめがねだのまたけだものゝみせものやらきでつくつたうまにのるのやらぶらんこやしやしんやしゆじゆざつたなものがでてをります わたしなんどもばんめしをたべてからうんどうながらいつてみます なかなかにぎやかなことです 新二郎やなをなんどがをつたならずいぶんみたいものやかいたいものがたくさんあることだろうとぞんじます またしゝつかいなんどもでゝおります ずいぶんおもしろいといふはなしです まづこどもなどの一ばんたのしみになるのはきでつくつたうまでしよう それハこんなあんばいです〔図〕 こんなにまるくしてをりましてくるくるとまわります そうしてまんなかのところでをゝきなおるごるのようなものでをんがくをしてをりますからなかなかおもしろいようです またこのうまにのるのはこどもばかりではなくおゝきなおんなやおとこがたくさんのつてよろこんでをります またこんなふうのうまもあります〔図〕 このほうはまわりもなにもいたしません たゞうへにのつてをるひとがほんとうのうまにのつてをるようにからだをまへにやつたりうしろにそねくつたりするとこのきのうまがほんとうのうまがはしるようにいごきます わかいをんななどがのつてきやあきやあゆつてたのしんでをるのはずいぶんみものです せいようのおんなは一たいにつぽんのおんなよりおてんばのほうですけれどもこんなうまなどにのてきやあきやあゆつてをるようなおんなはみんなしよくにんのむすめかなにかにてごくしかたのないやつばかりです(後略)

1887(明治20) 年12月29日

 十二月二十九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしことはいつも申あげますとをり大げんきにてあいもかわらずべんきようをいたしておりますからどうぞごあんしんくださいまし このまへのしゆうかんにゑのがつこうでまたしけんがございましたらこんどハよいあんばいにすみゑで一ばんをとりました わたしと一しよにをなじく一ばんのなかまにいつたひとは三人にてわたしもいれて四にんでした その三にんのひとたちハひとりハいぎりすじん それからあめりかじん もうひとりのひとはいぎりすのきたのほうのゑこすと申くにのひとでした まづよいあんばいでした どうぞどうぞごあんしんくだいまし(中略) こないだぶんぞうさんにおみやげにもらいましたおかねでみれといふなだかいゑかきがかいたゑのほんを一さつ九ゑんばかりだしてかいそのほかいろいろなほんを三四さつかいました まことにうれしいことです(後略) 母上様  新太拝 (後略)

1888(明治21) 年1月20日

 一月二十日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)次に私事大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 橋口文蔵様にも当時独乙国都伯林ニ御滞在にて御壮健之由ニ御座候間御安心可被下候 樺山様にも先日当府御出発どこか田舍ノ方へ御出掛ケ被遊候 学校ニテハ今迄ハ只焼炭ノ画ノミ稽古致し居候得共此ノ二週間程前より午後のみハ教師の許ヲ得て油画ノ稽古致候事に御座候 此ノ様子ニテ今四五年も勉強致し候へば少シハかくる様に可相成と奉存候 七丁目父上様にも今度林務官トカニ御役更ヘ被遊豊後国ヘ御出被遊御積リノ由御目出度奉存上候 又私事今般華族ノ長男ト云フカドニテ従五位ニ叙セラレ候由実ニ以テ難有次第ニ御座候 併し只有功者ノ子ト云ノミニテ何ニモ訳ノわからぬ青二才ニ此ノ重き称号ヲ賜フトハ難有過ル御処置ノ様乍恐奉存候 私ハ只一身ヲ画ニ打チハめて国恩ヲ報ズル心得ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年1月26日

 一月二十六日附 ジュイアンジョザス発信 母宛 封書 一ふで申上度候 そのおんちにてハ父上様あなたさま御はじめみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎにわたくしこと大げんきにてさる二十二日よりぱりすより一じかんはんばかりかゝるいなかにまいりましてこゝでいなかやなどをかいてをります まことにおもしろいことでございます もう四五にちするとぱりすにかへります こゝはじゆいあんじよざすと申ところにてにつぽんじんのだいくのげんべいといふひとがひとりをります ほんとうのいなかですからまことにおもしろいことです まいにちいなかのめしやでいなかのおりようりをたべてをります そのめしやのばあさんはまことにしんせつなやつにてこのごろなれたところがわたしをむすこむすことよびます おもしろいことです(後略) 母上様  清輝拝

1888(明治21) 年2月9日

 二月九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしことはいつもあいかわらずだいげんきにてまいにちゑのけいこをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし いなかからはこんげつの二日のひにかへつてまいりました いなかでもまいにちゑをかきましてまことによいたのしみをいたしまたいなかはぱりすのみやこからみるとすこしはさむさがつよいようでしたけれどもそんなにたいしたことはありませんでした わたしがいつてをるうちにゆきなんどがふりましてまことによいけしきでした ゆきのふつたけしきなんどもかきました そのいなかでわたしがまいにちめしをたべにいつためしやのおばあさんにちかしくなりましてそのばあさんおむすめのつらをかいてやりましたらたいそうよろこびましてたつ日などはめしのごちそうをいたしました またそのおばあさんにたのんでそのいなかのびんぼうなきたないばあさんをめつけてもらいおかねをくれてそのばあさんのつらをけいこのためにかきなどしてまことにおもしろいことでした わたしハみやこのにぎやかなやかましいところよりもきたなくてもこんなしづかないなかのほうがすきです ともだちのくめさんも四五日ばかりゑをかきにきましたからはなしあいてができてまことによいことでした(後略) 母上様  新太拝

1888(明治21) 年3月9日

 三月九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしはいつものとうり大げんきにてまいにちまいにちゑをかいてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし(中略) わたしと一しよにをるくめさんといふひとがいすぱにやと申くにゝはくらんくわいがあるのでそのほうにでかけていきましたからこのごろはかわぢさんとふたりぎりになりすこしさみしいようです(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年5月11日

 五月十一日附 パリ発信 父宛 葉書 今度も亦手紙差上兼候間端書ニて只壮健の状のみ申上候 其御皆々様御揃ヒ益々御安康之由奉大賀候 去五日午後より文蔵様及米国人(学校友達)一人とグレト申田舍ニ参リ昨日午後帰巴仕候 田舍ニテハ野原ヤ牛ナドノ画ヲカキ余程稽古ニ相成候 又明後日午後より友人レイムスデル(米人)ト申者ト再ビグレヘ行キ今度ハ一週間位滞留仕牛ヤ牛使ヒナドノ画ヲカク心得ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

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