1912(明治45 / 大正1) 年1月1日
一月一日 (昔人庵迎年日誌) 天気好ク静ナル元旦ナリ 郵便局ニテ笄町様ト鹿児島平之町ヘノ年賀状ノ端書ヲ認メ八幡宮ニ参詣シ後チ由井ケ浜町ニテステツキ一本ヲ求メタリ 夜ニ入ツテ風立ツ 女子共ト双六ナドシテ遊ブ 〔図 「昔人庵迎年日誌」表紙・裏表紙あり〕
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
一月一日 (昔人庵迎年日誌) 天気好ク静ナル元旦ナリ 郵便局ニテ笄町様ト鹿児島平之町ヘノ年賀状ノ端書ヲ認メ八幡宮ニ参詣シ後チ由井ケ浜町ニテステツキ一本ヲ求メタリ 夜ニ入ツテ風立ツ 女子共ト双六ナドシテ遊ブ 〔図 「昔人庵迎年日誌」表紙・裏表紙あり〕
一月二日 (昔人庵迎年日誌) 昨夜雨ヲ聴ク 又今日ハ終日曇天ニテ北風吹キ止マズ 昨日ヨリモ寒シ 午後三時頃ヨリ皆々連レ立チテ由井ケ浜町ヘ行キ海岸橋ヘ回ハル 夕刻薄井氏ヨリ小包到来セリ 晩餐後読書ス
一月三日 (昔人庵迎年日誌) 夜中ニ霰降リタリト見エ朝日ノ照サヌ家ノ影ナドハ薄白クナリ居タリ 併シ今日ハ風モ無ク暖カナリ 午後二時過ヨリ外出 先ヅ郵便局ニ到リ大森ナル薄井氏ヘ電話ヲ懸ケ贈物ノ礼ヲ述ベ夫レヨリ浜辺ヘ下リ光明寺前ヨリ弁ケ谷ノ入口ヲ左ヘ折レテ帰ル 夕刻兼清来着 夜ハ共ニ語ル
一月四日 快晴ニテ風モ無シ (昔人庵迎年日誌) 午後二時半ヨリ兼清 照子同道長谷ノ大仏辺迄散歩セリ 夜左官佐吉来レリ
一月五日 昨日ニ同ジク晴天ナリ (昔人庵迎年日誌) 例ニ依リ午後二時過ヨリ兼 照ト三人連ニテ散歩ニ出懸ケタリ 大室山ノ横手ノ山道ヲ通リテ大御堂ケ谷ニ出テ大塔宮ニ参拝シ大倉ヨリ八幡宮境内ヲ経テ帰途ニ就ク 大槻貮雄君来訪 九時頃ヨリ一同ニテかるた取りヲ為シ一時過ニ至ル 但シ拙者ハ読人ノ役ヲ勤メタルニ過ギズ
一月六日 曇天ナリ (昔人庵迎年日誌) 十時頃大給近清君来ル 是レニテ東京ノ客三人トナル 午後例刻ヨリ五人連ニテ浜伝ヒニ小坪ニ到ル 途中処処ニ昨年ノ暴風雨ノ跡ヲ留メタリ 又飯島ニ鐘乳石ノ洞穴二ケ所発見セラレテ見料ヲ取ル可ク設備整ヘルナドハ昨夏以来ノ事ニテ今日始メテ知リタリ 小坪ヨリ北ヘ上リ名越ノ切通ヲ抜ケ一寸松葉ケ谷ノ長勝寺ニ立チ寄リ帰宅ス 今夜ノかるた取ハ昨夜ニ比シ一層賑カニテ拙者ノ役目ハ矢張昨夜ニ同ジ 午前二時寝ニ就ク
一月七日 晴天ナレドモ北風吹キ出デヽ寒シ (昔人庵迎年日誌) 逗留ノ三子午後三時頃皆去ル 両大氏ハ東京ヘ還リ兼清ハ大磯ヘユケリ 照子ト共ニ三子ヲ送リ二回プラツトフオームニ立ツ 今夜ハ寒サト淋サトニテ十時前ニ床ニ入リ一時間許読書ス
一月八日 風ハ止ミテ晴レタリ (昔人庵迎年日誌) 例ノ如ク朝昼兼体ノ食事ヲ済マセタル時地主ノ娘阿秀さん来ル 此人ノ案内ニテ光明寺附近ノ格安ノ売家ト云フヲ見ニ行ク 格安丈アリテ破損ノ程度モ甚シク望ミ人無キモ尤ナリ 今日ハ当地ノ消防夫ノ出初ニヤ此狭キ往来ニテ梯子登ナドアリ 中々ノ賑ヒナリ 一旦内ニ帰リ又四時頃ヨリ絵ノ具箱ヲ携ヘテ名越ノ切通ヲ過リ小坪街道ニ到リ山路ノ夕景ヲ写ス 是レ今年ノ試筆ナリ 夜読書
一月九日 天気模様昨日ニ同ジ (昔人庵迎年日誌) 此地ノ人ハ寒サ強シト云ヘド左程ニモ思ハレズ 昼食後大町ニテ髪ノ刈込ヲナシ三時半頃ヨリ又小坪街道ヘ出向キ昨日作リタル図ノ修正ヲナス 雑木林ヲ照ラス夕日ノ色殊ニ美ナリ 帰途既ニ薄暗クナリタル山ノ景色ヲ眺メント思ヒ路傍ノ小高キ丘ニ登ラントシテ溝ニ辷リ落チ泥マミレトナリタリ 是レ今年最初ノ失態ナリ 夜佐吉ノ母来ル
一月十日 今日モ天気好シ (昔人庵迎年日誌) 一時頃東京ヨリ中村勝次郎君来訪 三時半頃ヨリ照ト三人ニテ長谷ノ観音ニ到リ坂ノ下ヨリ海浜ヲ通リ若宮大路ヲ上リ右ヘ海岸橋ヲ渡リテ帰ル 夜雑談
一月十一日 昨日ニ劣ラヌ好天気ナリ (昔人庵迎年日誌) 午後一時半頃ヨリ三人打連レテ建長寺ヘ行ク 先ヅ大町ヨリ連文士辻説法ノ遺跡ノ前ヲ通リ妙隆寺ヲ一寸覗キ辻ヨリ左ヘ馬場道ニ出テ八幡前ヲ西ヘ鉄ノ井ノ向フ角ヲ北ヘ小袋坂ヲ上リ新居ノ閻魔堂ニ寄リ態々案内ヲ頼ミテ縁起ヲ聴ケリ 建長寺ニテモ細カニ見物セリ 帰リニハ寿福寺ヘ回リ実朝 政子ノ供養塔迄登リ夫レヨリ御用邸ノ前ヲ経佐介稲荷道ヲ左ヘ延命寺橋ヲ渡リテ帰宅ス 時ニ五時半ナリ 今夜モ只話ノミ
一月十二日 (昔人庵迎年日誌) 十時過櫻井 下女たかヲ連レテ来着セリ 午後一時半ヨリ中村君ト櫻井ト三人ニテ補陀落寺ニ頼朝公ノ木像ヲ観ル 外ニ平家ノ赤旗ナルモノアリ 九万八千軍神ト記シタル長サ二尺位ノモノナリ 吾家ニ蔵スル所ノ軍旗ハ赤色ニモ非ズ亦大小ノ差モアレドモ同ジク九万八千軍神トアリ 且ツ其書体ノ能ク似タル又裂地ノ具合ヨリ見テモ確ニ同時代ノ品タル事疑ナシ 堂守ノ老婆曰ク此寺ハ明治六年ニ火災ニ罹リ一時ハ全クノ小屋掛ナリシヲ漸ク今ノ姿ニ持チ直シタリト 併シ現今ノ有様ナルモノガ山門モナケレバ垣モナク建物モ何カノ事務所カ番所メキタルモノニテ寺ラシキトコロ少ナシ 此処ヲ出テ光明寺ヘ行ケリ 案内者ニ導カレテ本堂 方丈 書院等ヲ一巡ス 何トナク京都ノ知恩院ヲ見ルガ如キ心地セリ 裏手ノ経時ノ墓所ヨリ山手越エテ小坪ヘ下リ海岸ヲ回ハリテ帰ル 今日ハ正午過ヨリ雲多クナリテ時々日光ヲ遮ル 故ニ少シク寒気加ハリアルノ感アリ 櫻井 たかノ二人来リテ人数俄カニ増加シタレバ又かるた取催サレ拙者読人トナル 併シ先頃中ノ如ク賑カナルニ至ラズ
一月十三日 気候ハ昨日ニ比シテ幾分カ寒キ方ナリ (昔人庵迎年日誌) 一時頃霊山医師来ル 後チ中村君 照 櫻井等ト来迎寺ノ貸地ヲ見ニ行ク 此処コソハト思フ程ノ地所ニモ非ズ 夫レヨリ櫻井ト中村君ヲ送リテ停車場ニ到ル 同君ハ四時四十分発ニテ去ル 晩食中兼清再ビ来ル 因テ今夜モ亦かるた始マレリ 拙者ハ例ノ如シ
一月十四日 (昔人庵迎年日誌) 十一時半頃菊地鑄太郎君来ル 昼食後同君及兼清 照 櫻井ト五人連ニテ散歩ス 海浜ヲ光明寺岸ヨリ西ヘ滑川ヲ波打際ニテ飛ビ渡リ稲瀬川口ノ小橋ヨリ長谷ニ入リ三橋旅館ノ角ヨリ由井ケ浜町ヲ若宮大路ヘ延命寺橋ヲ渡リ鉄道踏切ノ手前ヲ右ヘ土手下ヘ降リ畠道ヲ通リテ帰ル 櫻井ハ今夜八時五十分ノ汽車ニテ立ツ 又例ニ依リかるた取アリ 菊地君ノ道化ニ殊ノ外活気ヲ生ジ夜ノ更クルヲモ識ラズ 今日ハ午後少シク曇リタリ
一月十五日 (昔人庵迎年日誌) 朝八時頃吾々ノ未ダ起キ出ヌ間ニ菊地君去レリ 今日ハ曇天ノ上風立チテ寒カリシ故夕刻一寸外出シタルノミニテ終日内籠リセリ 夜ハ兼清ノ社会研究談ナルモノヲ聴ケリ
一月十六日 (昔人庵迎年日誌) 天気又持チ直シ午前ハ晴天ナリシガ午後ハ雲多ク現ハレテ稍曇リ気味トナル 兼清三時半ノ汽車ニテ東京ヘ帰ル 照ト停車場迄見送リ夫レヨリ八幡宮ニ参詣シ序ニ宝物ヲ拝観セリ 鎌足公ノ鎌 政子ノ鏡ナド何日モナガラ頼朝公御幼少ノ髑髏ヲ連想セシム 今日ハ堂内薄暗ク酒顛童子ノ盃ハ一寸見当ラザリシガ鎌ナドノ丁重ニ保管サレシヲ以テ見レバ此珍器モ必ズ今ニ存在セルナラン 前ノ宮司某ノ秘蔵セシ元禄何年ト記セル高師直ノ書幅ハ如何ナリシカ 点灯時帰宅 食事ヲ了ヘテ後少シク読書セリ 報知ノ夕刊ニ大阪大火ノ詳報見ユ
一月十七日 今日モ午後ハ少シク曇リタリ (昔人庵迎年日誌) 佐介ケ谷ヨリ静子殿 頼綱ヲ連レテ来訪セラル 父上ニハ今回ハ御来遊ナシ 新年以来只ブラブラト暮シテ諸学校ニ欠席スルコト一週間以上ニ及ビタレバ今週ハ是非トモ登校セザルヲ得ズ茲ニ一ト先ヅ中戻リノ必要生ジ三日間滞京ノ予定ニテ即チ八時五十八分発列車ニ乗ジテ帰京ス
一月二十日 晴 (昔人庵迎年日誌) 午後五時新橋発再ビ鎌倉ヘ赴ク 滞京中モ幸ニ毎日晴天ナリシ 此間高商(十八日)美術学校(十九日)女子部研究所(二十日)ニ出勤シ笄町(十八日)橋口家 眞塚氏 宮島氏(十九日)ヲ訪ふ 長谷寺ノ墓参(十八日)ヲナス 又橋口兼清 中村勝治郎(十八日夜) 山本鼎 松山省三 大給近清 大槻弐雄 荻原一羊(十九日夜)ノ諸氏ニ面接セリ
三月三日 日 五時ノ直行ニテ鎌倉ヘ赴ク 家屋代三五〇円ヲ払ヒ渡ス
三月七日 木 借入地ノ工事ニ着手ス