本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1888(明治21) 年11月30日

 十一月三十日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事至極元気毎日コラン先生の学校にて勉強致居候間御休神可被下候 此ノ週間より当地美術大学校の解剖講義ニ参り候間又少しく繁しく相成候 併し只一週ニ二度ヅヽの講義故大ニ仕合ニ御座候 其講義ハ実物ニ引キ合セての話ニ御座候間至而解し易きものニ御座候 先日ハコラン先生の御馳走にて町の立派なる料理屋ニ行き又共ニ散歩など仕候 不相変深切ニ致し呉れ候間仕合ニ御座候(後略) 父上様 清輝

1888(明治21) 年12月6日

 十二月六日附 パリ発信 父宛 葉書 今日ハ甚だ繁しく端書にて一左右申上候(中略) 丁度日本の手紙日に美術学校にて講義有之候間一層繁しき事ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様 清輝

1888(明治21) 年12月28日

 十二月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉賀候 私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 去二十三日より昨日迄例のバルビゾンと申田舍に友人(米人一人英人二人)三人ト出掛ケ毎日山の中を散歩仕候 大ニ愉快相極め申候 二十五日ハ耶蘇の降生日ト当地にて名ヅクル日にて西洋一般大祭りに御座候 同日の夜ハ田舍の旅店ニテシヤンパン酒などの御馳走有之客人亭主共都合二十人計りにて皆々歌を歌ふやら又西洋人の得意なる踏舞をするやらにて大騒き致し候 私も人ニすゝめられ致し方なく霜満□□(原文不明)云々の詩を大声にて歌ひ申候 異人等大によろこび候 踏舞ハ日本ニ無き者故なかなか真似をする事難く只人の踏舞をするのを見て馬鹿げたる者なりと思ひながら見物するの外無御座候 今四五日にて正月と相成事なれば御地ハ例の如ク色々な儀式の為に御繁しき事と奉存上候 先ハ御歳暮迄 早々 頓首 父上様 清輝拝  御自愛専要奉祈候  皆々様へ宜敷奉願上候

1889(明治22) 年1月3日

 一月三日附 パリ発信 父宛 封書 新年の御祝儀申上候 御全家御揃益々御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極壮健勉学罷在候間御休神可被下候 原書記官来月下旬帰朝の筈出発の跡ハ余程淋しく相成候半と今より想像罷在候 私学資金のとりしまりかたハ新任の書記官(大山氏の由承り候)へでも原氏より万事不都合なき様頼み呉れらるゝ積りに御座候間御安心奉願上候(後略) 父上様 清輝

1889(明治22) 年1月17日

 一月十七日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)一さくばんかわぢさんがどいつといふくにからかへつておいでなさいました またご一しよにすまつてをります ひさしくひとりになつてをりましてこのごろはさみしさになれておりましたところまたまたにぎやかになりまことによいことです(中略) まづわたくしはさいわいにげんきがわいわいしておりましてまいにちがつこうにもかゞさずにでてべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハゑの大がくこうのこうしやくをきゝに一しゆうかんに二どづゝいきます ひとのほねぐみやまたにくやすぢなどのおはなしにてまことにおもしろいことでございます ほんとうのひとのしがいをそこにすゑてをいてそうしてにくなどをひつぱりだしてこうしやくをするのですからなかなかよくわかります はじめてひとのしがいのはんぶんかわのはいであるのをみたときにはなんだかいやなこゝろもちがいたしましたけれども二どもみましたらもうなんともないようになりました(後略) 母上様  新太より

1889(明治22) 年2月1日

 二月一日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 昨日転居仕候 今度の処は巴里の極ク端にて都ト云よりモ田舍の方に御座候 静にして妙ニ御座候 併し今迄の処よりモ余程不便利に御座候 画かき部屋ヲ一つ借り受け其中ニ住み込み申候 一左右迄 早々 頓首 父上様 清輝

1889(明治22) 年2月28日

 二月二十八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)さてわたくしこともいつもながらげんきでございます そうしてやつぱりあいかわらずまいにちがつこうにでゝゑをかいてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし こんどひつこしましたうちはゑをかくようにできてをるうちですからたいへんあかるくまことにしやわせです がつかうからかへつてからまたうちでゑをかきます てほんになるひとをたのんでかくとよろしゆございますけれどもなかなかこのほうハおかねがかゝりますからたゞわたしのへやのすみつこのねだいのあるところのふうなどをかいてをります 四月か五月にでもなりあたゝかになりましたらまたどこかのちんとしたいなかにでもでかけてゑをかこうとおもいます このまえへのびんせんからはらさんごふうふづれおかへりなさいました(後略) 母上様  新太より

1889(明治22) 年4月12日

 四月十二日附 ブロル発信 父宛 葉書 益御安康の筈奉大賀候 私事大元気にて去る八日よりブロルト申巴里より気車にて一時間位の田舍ニ参り今ニ滞在 田舍の小娘を雇ヒ友人ト画ヲかき申居候 両三日内ニハ帰巴する積に御座候 天気ハ毎日降たりてつたりニ御座候得共近頃ハ余程暖かニ相成申候 頓首 父上様 清輝拝

1889(明治22) 年4月19日

 四月十九日附 パリ発信 父宛 封書 益御安康之筈奉大賀候 私事大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 先便より申上候通りブロルト申田舍ニ去る八日より十四日迄滞在子供の画をかき申候(後略) 父上様 清輝拝

1889(明治22) 年5月3日

 五月三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)くめさんのしつてをるひとがちかぢかのうちににつぽんへかへるそうですからそのびんからわたしががつこうでかいたゑをおくつてあげます さくねんぢうからことしにかけてかいたのです みんなおとこやおんなのはだかぼです(中略) この二三日うちにがつこうのともだちのあめりかじんといぎりすじんと三にんづれでまたいなかにゆき一しゆうかんばかりとまつてくるつもりです いなかではひやくしようやだのきだのかわだのゝゑをかくのですからなかなかたのしみになりまたけいこになります こんどハまづこれぎりにしたします めでたくかしく 母上様  新太拝 せつかくおからだをおたいせつになさいまし みなさまへよろしく

1889(明治22) 年5月10日

 五月十日附 ボアニュビル発信 父宛 封書 益御安康之筈奉大賀候 元老院廃せらるゝニ付来年より学資御送り被下事相成難く依而公使館へなりとも入り込み其月給にて傍ら画学修業致す様海老原丹堂氏を以て書記官大山氏へ勤願ひ御頼み被下候由先日委細公使館にて承り申候 今日ハ以前トハ違ひ試験の上にて役人取立ニ相成事なれバ飛入りに公使館の役人ニなるなどハ余程六ヶ敷兎ても出来可き事ニ非ざるニ依り其旨私より御尊公様へ御知らせ可申上大山氏の仰ニ御座候 右ニ付色々相考へ申候処仮令公使館ニ容易ニ入り込みたるニせよ月給こそ沢山取れ美服美食にハ此上もなき事ニ御座候得共勤メ傍々画学修業トハ至而六ヶ敷時日のみ費し業の成り難き事ハ明かに御座候 已ニ法律学をも止めて専ラ画学ニ身を入れ候次第今更交際官の奴ト相成事甚ダ面白からず 此ノ策より他ニ学資の出道ち無之候ハヾ寧ロ帰朝するニ不如ト相考申候 毎度申上候通り画学は他の学問トハ違ひ幾年にて卒業などと申事ハ無之上手ニなるとならぬハ只其人ノ上達如何ニ有りて月日ニハ無之候 私事此ノ学問相始メ申候より僅ニ三年 人を画てようやく其形を為す位の事にて未ダ教師ヲ離れて独立するの力無之事ニ御座候得ば今帰朝するハ私一身一家ハ勿論日本国の為メにも相成らざる事と奉存候 御手元ニ金子無之候共誰か学資金を向ふ七八年間位相当の利子ニテ貸し呉る人ハ無之候や 今四五年も致し候ハヾ少しハ手も上り可申又七八年の後ニハ金子返済の見込みなきニも無之と奉存候 尤も私ハ金持ちニ相成一生を安楽ニ送るが目的ニハ非ズと奉存候 只残念なるハ学資なきが為メニ業中ニして帰朝する事ニ御座候 文蔵様御残し置き被下候一ヶ年分の学資金の中より同氏御注文の品物の為メニ百仏丈払ひ計算致し候処今月分をも差引き残り七百仏ニ御座候 此ノ七百仏にて向三ヶ月計ハ続き可申候間其後の分即ち九月よりノ分なる可早目ニ御送り被下度奉願上候 正綱にも農学修業として北海道へ差越候由実ニ大慶の至奉存候 私事去る七日より友人等三人連にて此ノボアニユビルト申巴里の南方にて気車ニテ二時間半位の田舍へ参り景色画の稽古罷在候 三四日の内ニハ帰巴の積ニ御座候 当時当地ハ花の時節にて随分見事に御座候 先は用事迄 早々 頓首 父上様 清輝拝 御自愛専要奉祈候

1889(明治22) 年5月12日

 五月十二日附 ボアニュビル発信 母宛 封書 一ふで申上度候 ますますごきげんよくいらせられ候よしおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしこといつもあいかわらずだいげんきにてさる七日よりまたまたいなかにまいりいまだにたいざいいたしをります このちはパリすよりちかくそうしてけしきもよいとゆうほどでハありませんがまづまづせいようにてしはかなりにてゆわやまたまつのきなどもたくさんございます いくらいなかとゆつてもせいようハやつぱりせいようにてにつぽんにをるようなわけにハいきません またこちらのけいしよくハにつぽんのけいしよくのようでハなくなんとゆつてもやつぱりうまれたとちがよいようです いまこちらハはなのじせつにていろいろなくさばながのばらにさきまたりんごやすもゝのようなきのはながさかりでございます さくらのはなはもうすぎてしまいました りんごのはなはもゝいろとしろとのまぜにてまことにきれいでございます またのばらによめじよがたくさんはへてをります このよめじよをみるたんびにみやこんじよのことをおもいだしますよ きたいなものです わたしはともだちと三人づれでございます ひとりハあめりかじんもうひとりハいぎりすじんです このふたりハまことによいひとたちにてしじゆうわたしといつしよにゑんそくなどいたします こんにちハにちようびにてあさのうちハ三人づれにてきんじよのいなかをあるきそれからをひるのごぜんをたべてからやどやのうしろのほうにあるをかのうへにのぼりまつのきのかげにやすみましてこのてがみをかきます ともだちのやつらもみんなてがみをかきます たゞいまてんきがわるくなりあめがぽちぽちぽちぽちぽちぽちとあゑてきました あめがふつてきてハそとにハをられませんからこれからやどやにかへります さてやどやにかへりつきましたからこれからまたすこしをハなしをいたしませう こんげつのはじめにまいとしあるゑのはくらんくわいのくわいぎようしきがございました この日にはゑをだしたひとかまたおかねを二ゑんばかりだしてきつてをかつたひとでなければみにいくことハできないのです わたしハともだちのあめりかじんがつれていつてくれました このあめりかじんハあぶらゑをひとつだしました だれでもあぶらゑをだしたひとハともだちをあさひとりとひるごにひとりつれていくことができるのです それゆへにわたしハこのくわいぎようしきをみることができました さてこのゑのはくらんくわいのくわいぎようしきにハぱりすにをるなだかいゑかきなどハもちろんやくしややまたくさぞうしなどをかくひとやなのしれたひとたちハみんなかないなどをひきつれてみにくるのです このひとたちハみんなゑをみにくるよりもひとをみにくるのです それゆへにをんなのひとたちハ一しようけんめいなしやれにてあかいきものもあれバあをいのもありくろいのもねずみいろのもしかじかざつたにてまことにきたいなみものでございました(中略) さる六日には大はくらんくわいのくわいぎようしきがございました わたしたちともだち三にんづれにてばんめしをたべてからはなびをみにいきました こんどはくらんくわいのためにできたせかいだい一といふたかいひのみやぐらのようなものゝなかにひをつけましたもんですからそれがくわじのようにまつかになりずいぶんきれいでした またかわじようきにハちようちんといろいろなはたをたくさんつけをんがくをしてかわをあちこちいたしました りようごくのかわびらきもこれにハかなうまいかとおもわれます(後略)〔図〕 母上様  新太拝

1889(明治22) 年5月24日

 五月二十四日附 ボアニュビル発信 母宛 封書 ますますこきげんよくいらせられ候はんとおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしこといつもあいかはらずだいげんきにてまだいなかにをりいなかのむすめごなどのかほなどをかいております なかなかをもしろいことでございます たつた一しゆうかんのつもりでこゝにまへりましたけれどもともだちのやつらにひきとめられまして二しゆうかんのよこゝにとまつてをります しかしながらこのつきのすへにはぱりすへかへるつもりです(後略) 母上様  新太より

1889(明治22) 年5月31日

 五月三十一日附 ボアニュビル発信 母宛 封書 (前略)わたくしこといつもあいかはらずまことにまことにたつしやなことにてまだいなかにをりましてべんきようをいたしてをります もう二三日もしたならぱりすへかへらうとぞんじます このいなかにはおもいのほかながたいざいをいたしました ぱりすのゑのがつこうもらいげつ一ぱいでおやすみになるとのことでございます そうしましたらまたまたこのいなかにこようとおもいます(後略) 母上様  新太郎

1889(明治22) 年6月8日

 六月八日附 パリ発信 父宛 葉書 益御安康奉大賀候 私事昨日田舍より帰り申候 来十一日より又々学校ニテ勉学の積ニ御座候 学校の方モ近頃ハ教師来らずとの事ニ候 是レモ夏休み前ニテ生徒の数も少なくなりたる故なり 今日限りニテ学校も休みニ相成由ニ御座候間来月早々又田舍ニ出掛け勉強致す考ニ御座候 昨日午後始メテ大博覧会見物仕候 実ニ盛なる者ニ御座候 委細ハ後便ニ附候 早々 頓首 父上様 清輝

1889(明治22) 年6月21日

 六月二十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)がつこうのほうももう一しゆうかんにておやすみになりますからそうしたらまたいなかにでかけましてすこしべんきようしようとおもひます 八月か九月にハおかねのつごうしだいでことしもまたべるじつくへいつてなつやすみをしようかとせつかくかんがへてたのしみにしてをります 一どべるじつくへいきつけましたらなんだかまいとしいきたいようなこゝろもちがいたします それといふのもまつがたさんだのなんだのいろいろしつたしよせいのしがたくさんをりそのうへばんはるとらんさんのひとたちがたいへんしんせつにしてくれまたうゑべるさんといふひとのうちなどへハいつでもかつてなときにあそびにゆきまことににつぽんへでもかへつたようなこゝろもちがいたしますからのことです またこのごろハかわぢさんもべるじつくへいつてをります たゞへいこうするのハばんはるとらんさんのうちへでもとまりにいつてをりますといなかにをるときのやうにわがまゝかつてなようすをしてをることができないのです なんにもしやれるにハおよびませんけれどもひとなみのようすをしてをらなけれバなりませんよ しかしまづさいわいなことにハばんはるとらんさんのうちのひとたちもたゞこぎれいにしてをるだけにてけつしてしやれてハをりません さてわたくしがいなかにをるときのようすハこのとうりです〔図〕 まさかりつぱなひとのうちにやつかいにでもなつてをるとこんなようすハできませんよ こまつたものです(後略) 母上様  新太拝

1889(明治22) 年6月28日

 六月二十八日附 パリ発信 母宛 封書 いとうげんべいのびんからおくつてくださいましたおてがみやおちややまきがみそれからいろいろなほんなどたしかにあいとゞきまことにまことにうれしくあつくおれい申上度候(中略) はくらんくわいにでてをるにつぽんのおんなをたのんでそのかほをくめさんとふたりでまいにちかきます なにぶんにもはくらんくわいのほうにまいにちあさハ九じはんか十じごろからよるの十一じまでゞていなけれバならないのですからひまがまことにすくなくわたしなんどのうちへきてくれるなどといふことハとてもできませんものですからこちらからそのおんなのうちへいきましてやつがはくらんくわいへでるまへには八じごろから九じすこしすぎまでかきます なかなかはかどりません(中略) がくこうのほうもあしたぎりでおやすみになりますから二三日うちにまたまたともだちのやつといなかにいこうとおもいます こんどいなかにいつたらなにかいなかのゑをねんをいれてかこうとたのしんでをります(後略) 母上様  新太

1889(明治22) 年7月5日

 七月五日附 ボアニュビル発信 父宛 封書 暑気甚敷ノ処御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気に御座候間御安心被下度奉願上候 学校の方も休みニ相成候 去る二日より又々此のボアニユビルと申田舍ニ米人と来り勉強罷在候 友人なる英人一人已ニ当地ニ来り居候間合して三人と相成にぎやかなる事ニ御座候 此の前ニ参り候時画き候田舍屋の室の内にて十七八の女と八九歳位の子供と針仕事を為し居画教師へ見せ候処かなりよろしく候故念を入れて今一枚額をかき見てハ如何と申候 依而今度ハ其考にて勉強仕候 本式ニ額をかく時ニハ窓ハ窓人ハ人と皆別々ニ下画をかき而後ニ一つの額面ニ集め申候 依而随分ひまもかゝり申候 巴里出発前一週間程日本の女を頼み其面をかき申候 未だかき終らずして出立仕候間帰巴後ハ又々三四日其面をかゝんと考居候 此の女ハ親父と妹と三人連れにて欧洲へ来り見世物同様に相成居候 親父ハ大工にて島原の者の由 随分正直なる田舍男と相見申候 只金もうけのために来りたりとの事ニ候 先づ憐れむ可き人間と奉存候 西洋人を雇ひ画をかくよりも此の女の面をかくにハ金も少しハ高く掛り候得共同国の者ニ金を与えると思へバ心地よく御座候 此の十二三日頃当地へ滞在仕候て一週間程巴里へ帰へり英国又ハ白耳義などより博覧会見物の為メ来る友人等へ逢ひ而又当地へ来り勉強仕度存候 来月の末か九月ニハ十日程休暇の為白耳義へでも出掛んかと相考申候 何ニも其節の金の都合と奉存候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候  皆々様へよろしく奉願上候

1889(明治22) 年7月18日

 七月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康奉大賀候 私事大元気にて此一週間程巴里へ帰り居毎日英国などより遊びに来りたる友人(日本人)などゝ博覧会の見物致し候 明後日より又々田舍ニ引籠少しく勉強仕考ニ御座候 田舍ニハ例の虫多く有之候 之レニハ誠ニ閉口仕候 田舍ニテ一二の額仕上げ候上ハ例年の如く白耳義へでも遊びニ出掛ケ度者と存候 余附後便 草々 頓首 父上様  清輝

1889(明治22) 年7月25日

 七月二十五日附 ボアニュビル発信 母宛 封書 (前略)わたくしことまことにげんきにてこの四五にちまへにまたまたいなかへまへりましてゑをかいてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハこのいなかでハずいぶんすずしいことでございますからまことにうれしいことです けれどもあめがよくふるのにハまことにへいこうでございます ひがてつてゐてあめがふることがたびたびございます こないだぱりすからこのいなかにかへつてまゐりますときにあめりかのおんなのやつが三人とおとこのやつがひとりそれからわたしのゑのせんせいのいもとさんが一しよにまへりましてみんな二三にちとまつてをりました まことににぎやかなことでございました けれどもおんなのやつらばかりでしたからうんどうなどするときにハ一しよにあるかないわけにもゆかずべんきようハちつともできませんでした せいようでハなるたけおんなにへいへいしないとわるくちをゆわれますからこまつたもんです わたしハまづまづどうかこうかつきあいができるようです こんどハまづこれぎりにいたしてをきます めでたくかしく 母上様  新太より この九月ごろにはまたまたべるじつくのばんはるとらんさんのうちへあすびにいこうとおもつてをります まことにしんせつなひとたちにてことしもぜひぜひあそびニやつてこいとゆつてよこしました

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