本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1899(明治32) 年1月1日

 一月一日 晴(静浦日記) 九時頃ニ起き十時頃に雑煮を食い御祝儀トシテ宿屋ニ三円下女ニ二円ヲ与フ  閑院宮 小松若宮 山階宮 大隈伯 田中子 曾根 松方伯 樺山伯 岡倉覚 高嶺秀 久保田鼎 外山正 九鬼男 大山侯 大久保侯 花房男 原敬 仏公使アルマン 西園寺侯 宮川久 松岡 浅井 長沼 今泉秀 原田直 呉秀三 久松伯 細川侯 右の人達へ年始ノ名札ヲ出ス 午後久米 磯谷と東北の圃の中から沼津街道へ散歩 暮方ニ帰つて見ると名和岩内 箱根越太と云二人が我々をたづねて来たとの事 誰だらうと思ふと安仲ニ菊地だつた 菊地の親類の鈴木愈と云人も一緒だつた 之れで大層賑やかニ為た 夜食後皆打連て佐野の迎ひとして沼津へ行く 八時頃静浦を出た 沼津で煙草など買ひ市中をぶら付 九時半頃ステーシヨンへ行く 十時九分の汽車を待つ 汽車が着て佐野が来ず 其儘帰る 十一時過宿屋へ帰り着く 途中月が出て夏の夜の明方の如き心地す

1899(明治32) 年1月2日

 一月二日 晴(静浦日記) 午前皆と江ノ浦見物ニ出懸けたり 此の江の浦ハ一昨年の夏オレが箱根ニ居た間ニ久米 小代等が居た処だ 小池と云郵便局の二階で茶などのみ後其辺ヲ見物して帰る 佐野が帰て来て待て居た これで同勢六人 鈴木氏を加へて七人と為た 午後写景ニ出懸く 夜ハ皆花カルタを始む 安仲とオレ丈ハ仲間ニ入らず オレハ笄町へ出す年頭状及逗子へ向ケ母上へ上げる手紙等をかく 又伊藤源三 篠塚へ端書ヲ出ス

1899(明治32) 年1月3日

 一月三日 晴(静浦日記) 朝めし後即ち十時頃から牛臥見物ニ出かく 世古六太夫方ニて休息して一時過帰る 三時頃から又画をかく 夜鹿児島と逗子へ出す手紙をかく 皆ハカルタをやる 今日東京から鹿児島よりの十二月二十六日附の御手紙が送て来た 又母上がいよいよ昨朝逗子へ出立なされた事が知らせて来た

1899(明治32) 年1月4日

 一月四日 晴(静浦日記) 風有り 夜ニ入り最も強し 午前畝の中より富士をかく 午後風の為外へ出ず 佐野の肖像をかく 今朝未明ニ菊地東京へ帰る 夜二十一ヲヤル〔図 白馬会徽章〕

1899(明治32) 年1月5日

 一月五日 晴風強し 朝めし後磯谷静岡へ向けて立つ オレハ後の畝の中ニ安藤と一緒ニかきに行く 午後佐野の肖像の仕上ニ懸る 此の時風の強かりし為帰つて仕舞ふぢやないかと云議が出て忽ち一決し弁滑君を写したる鈴木氏を一人残して皆立つ 六時半頃の直行にて東へ帰る 夜食ハ汽車の弁当なり 折角食つて居たらおかずが汽車の動くのでひつくりかへり大ニ閉口 佐野からかまぼこ一つ安藤から漬物二切れを貰つて漸くめしをすませた 九時二十分大船着 此処ニて佐 久 安の三人ニ別れ逗子へ行く 十時頃養神亭着

1899(明治32) 年1月6日

 一月六日 晴(逗子) ぼんやりぶらぶらして暮す なんだか我家ニ帰り着た様な心地す 夜でろれん左衛門が門ニ立ちたるを聞き付け呼込で曾我の敵討を三段程やらせた 此のでろれんハ上総の男にて中々上手なりし 鎌倉時代の武士の姿など見るが如く壮快也

1899(明治32) 年1月10日

 一月十日 午前曇 寒し 学校へ行ク 午後晴 新二郎ヲ訪ネ父上ヨリ預リ来リタル銀行ノ帳面ヲ渡ス 四時五十分ノ汽車ニテ又お照ヲ連テ逗子へ引返ス

1899(明治32) 年1月11日

 一月十一日 晴(逗子) 此日朝少シク富士ヲ描ク 午後年始状ノ返シトシテ端書六十八枚名札一枚ヲ出ス  東京―須貝 八田裕二郎 春山 宮永某 フーク 小柳善 早崎稉吉 井上宣 井上良雄 吉田太郎 村瀬春雄 堀井 竹越 戸所 福岡 橋本 杉田 森篤次郎 大橋新 川崎幸平 大橋又 土肥 小柴 田中克 小山正 巖谷 大熊 松岡常 寺山  京都―堀江 森知道 横山剣舟 日野 吉川 松尾紹美 和田 小山 橋本正徳  大阪―中川小十郎  新潟―田中本吉  鹿児島―溝口 折田一郎  熊本―米谷  長崎―平田泰輔  三重―橋村正璟 十一日出ス  愛知―久保田米斎 村瀬義徳  台湾―横山壮 白尾 加藤重任 大迫重威  北海―北村格  宮崎―平田之芳  富山―黒田清二  福岡―安松某  箱館―夏井  横浜―宮川香山 岩本  奈良―元橋  岩手―中島  神戸―山口年六 中井  姫路―曾我  横須賀―松井甚  呉―中村市  水戸―鵜木  釜山―古川栄造  丹波―高橋某 雲多ク風強シ 海ノ色濁リタリ 午後鎌倉へ行ク 東京ヨリ持チ来リタル父上ヘノ書状名札等ヲ持参シタルナリ

1899(明治32) 年4月1日

 四月一日(京都出張日記) 樺山伯一行(上田専門学務局長 正木秘書官等)ト新橋午後十時発の汽車にて京都へ向出発 大久保利武夫婦大磯迄同行

1899(明治32) 年4月2日

 四月二日 (京都出張日記) 午後四時過京都着 懸庁の馬車に四人相乗り(樺伯 上田 正木 堀之内)にて宿屋へ行く 宿ハ麩屋町俵屋ナり 京都ニテ馬車ニ乗リタルハ始メテナリ 直ニ堀江ヲ新聞社ニ訪ヒタリ 堀江ノ案内ニテ上田君モ誘ヒ祇園ノ中村屋ニテ夜食 夜桜ヲ見物シテ帰ル

1899(明治32) 年12月1日

 十二月一日 朝学校ニ出る 昼めしハ Veurese 氏の招ニて精養軒 主人其他仏人三人 トロンコワもあり 食後又学校ニ出て第二教室の方を見る 帰りニ小石川へ廻る 長沼の家でしばらく話し松岡へも一寸立寄る 夜食ハ金子で母上 種ト三人 聊か別れの為母上ハ車でお帰りニなる 我々ハ一旦内へ帰つて又麹町ヘ散歩ニ出かく 帰りニ一寸橋口家を訪ふ 御夫婦共留守

1899(明治32) 年12月2日

 十二月二日 (京都出張日記) 朝京都出張の辞令を受取る 十二時半ニ内を出て永田町の樺山文相の邸ニ立寄り新橋ステーシヨンニ行 久米見送りの為学校の校長 教員 職員 生徒其他友人親藉等多人数集まり居れり 一時四十分の気車にて立つ 出る時久米君万歳を三度呼ぶ 高島が音度取りをやる 品川まで見送る者長原 安藤 藤島 中村の四人 横浜まで来る者ハ小代 松波 佐野 菊地 合田 杉五一 岩村 吉岡及び久米の beau-frère 等也 西村屋ニ投ず 然ルニ西村屋不行届の為船ノ切符を買ふ事が出来ず直ニ松波が船会社ニ出懸けて談判をすると云さわぎニ為る 今日ハ土曜であるし又明日ハ日曜だから不都合だが特別ニどうかするから明朝早く来いと云事ニきまる それから皆で船見物ニ出かく 船ハ Océanien と云のだ 江戸幸と云横浜第一と云鰻屋ニ行く 松波の案内也 鰻ハ赤阪の金子ニも不及 西村屋ハ不都合だから他ニ引越すと云議が起り六橋桜山崎屋と云処ニ行て談判して此処ニ泊る事と為る 六橋桜と云のハ此辺ニ六ツ橋が有るからの事 それから此の六橋の名ハ柳桜をこぎまぜての歌から取つて柳橋とか桜橋とか付けたそうだ 之れハ松波の説也 これより車を命じて quartier へ走る 此の途中皆歌などどなつて中々ナ景気也 其勢で quartier をぶらつく 随分さきの方まで行て気付いたのハ小代が見へぬ事だ 先程山崎屋の談判中から奴ハ見ヘぬ そうすれバ車ニハ乗らなかつたものと見へる それから手分けをしてさがすやら大心配 又議論も盛ニ出た 佐野が車ニ乗てステーシヨンから山崎屋辺をたづねたがとうとう知れず 又伊勢屋カラ電話で山崎ニ聞合ハセを度々やつた 之も無効 On a retenu en tout cinq femmes et par le moyent du tirage au sort on a décidé que parmi nous il y aura les cinq qui resteront. J’ai laissé ma place à Gauda.  岩村と四人で車で宿屋まで帰る 此時十時半也 今暫らくして立帰る旨を告げて又四人で東屋と云料理やニ上る On a fait venir deux chanteuse dont une s’appellé Kominé 松波が景気付た事ハ不思議ニて一人で歌などうたふ どうだ zinfandel でも取らふかなど云ひ出す それから皆で松波を zinfandel と字す 松波益得意也 鯛めしと云ものを食ハせると云て鯛と豆腐と今座敷で煮て食た汁の中ニめしを入れて煮て食ハした 形ハ丸でへどの如きものであつたが腹がへつて居たから甘かつた 十二時半頃宿屋に帰る 米 合二人ハもう帰てねて居る それからオレなんか雑談を云ひながらねて居ると一時過ニ為つて芳 菊二人帰つて来た 杉ハ伊勢から東京へ帰ル

1899(明治32) 年12月3日

 十二月三日(京都出張日記) 七時半頃ニ目をさましねながらものごと云て八時半頃に起る 松波ハ M.M.会社ニ出かけて切手の談判をして荷物積込の都合をつけて来た 朝めしハ皆一緒ニ食ふ それから久米が一人で西村ニ置てあつた荷を船ニ積ミ込ませて帰へる これから皆で唐物屋ニ買物ニ出かけた オレハシャツだのコルだのを買つた 此ノ時松波が十円でおもちやの気車を買ふ約束をした 皆で大笑して之れハ zinfandel 以上の景気だと云た 菊 岩 吉の三人ハ東京へ帰る 昼めしニハ合 松 久 佐と五人丈ニ為つた めし後ニハ宿屋の二階で話しをした とうとう松波が気車の買物をやめる事と為る 四時二十七分の気車に乗る事と為り皆とステーシヨン内の buffet で珈琲をのみ wine をのみ別れをした 佐 松 合ハ東京へ帰る オレなどの気車が少し先きニ出た 六時頃に大磯駅ニて下車 町を散歩して千鳥と云ふ小さい料理屋ニ這入り食事す 七時四十三分の直行気車ニ乗る 久米ハ横にて長崎までの通し切符を買ふ 今日横で新らしいシヤツを買つたから東京から持て来た古いシヤツとカラハ合田ニ頼で東京へ返へす

1899(明治32) 年12月4日

 十二月四日(京都出張日記) 米原で弁当と正宗を買ふ 午前九時過ニ七条ステーシヨンに着す 直ニ車を命じて木屋町富貴楼へ宿を取る 堀江を訪ふ 幸在宅 其れから三人で市役所へ行き市長ニ面会 今回出張の主意を話して去る 又其足で河原町の京都新聞社を見る 富貴楼にて昼めしをやる めし後ニ寺町の古道具古仙堂にて久米が仏像の買物をやる 堀江と三人で祇園の中村屋で晩めし 夫れから尾張楼ニ出懸けこゝに一泊 小房 小円 三代子等を久振にて見る 午後東京へ電信并ニ端書を出す

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