本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1913(大正2) 年1月1日

 一月一日 水 晴 (不迎庵日誌) 諒闇中ニテ何方ヘモ年賀状ヲ発セズ 又迎歳ノ設備トシテハ神前ヤ床ノ間ニ気休メノ小ナ御供ヘヲシタバカリデ松飾モ何モセズ 一時頃ニ起キ出 紋附ノ羽織ニ袴ヲ着ケテ氏神様ヘ参リ例年ノ家内中会食ノ儀ヲモ廃シテ照ト只二人朝昼兼体ノ膳ニ向ヒタリ 随分ミソボラシキ元旦ナリ 午後二時頃森岡子夫婦子供連ニテ来ル フロツコートニ小紋ニ紋附羽織ト云フ純然タル回礼姿ナリ 暫クシテ大槻子羽織袴ニテ入来 此等ノ人達ト雑談ヤラカルタ取スル中ニ日ノ暮レテ晩餐トナル 食後橋口家ヨリ兼清 三郎 金矢 夏子 満子等打連レテ来ル 是ヨリ大々的ニカルタ遊始マル 此期ニ余ハ独画室ニ引込ミ年賀状ヲ披見シ又旅行ノ準備トシテ年内ヨリノ来信其他ノ書類ノ整理ヲナス 当年ノ賀状程奇なるハナカルベシ 何レモ諒闇中欠礼ノ意義ヲ寄セタルモノナレドモ中ニハ諒闇中謹テ新年ヲ賀ストセルモアリ 何故ニ諒闇中ノ文字ヲ冠セルニヤ 又態ト諒闇中ノ語ト目出度キ賀ノ字トヲ避ケテ恭迎新年トセルモ亦人ニ贈ル言葉トシテハ余リ自己本意ノ感ナクンバアラズ 十二時過寝ニ就キタレドモ眠ル能ハズ 所謂碌々歳ヲ重ヌル事ヨリ色々ト考ヘ始メ三千世界中ニ始ナク終ヲ知ラヌ時ノ中ノ四五十年ノ人命ノハカナサナド思ヒ浮ベテ心細キ事限リナシ

1913(大正2) 年1月2日

 一月二日 木 晴 (不迎庵日誌) 年末ニ降リシ雪ノ今ニ庭ノ面ヲ覆ヒタルニ清ラカナル日光ノ照ラセルヲ見テハ夜中ノ陰気ナ思想ハ何処ヘヤラ早人生ハ忘レテ自ラ楽観的ナリ 午後訪客ニ接シ又少シク雪景ヲ描ケリ 夜照ト本年ノ財政方針ヲ語ル

1913(大正2) 年1月3日

 一月三日 金 晴 (不迎庵日誌) 午前九時半頃大槻子拙作習作ト題セル額面受取ノ為入来 此画日本橋辺ノ某氏所望ノ由也 本日ハ愈々鎌倉ヘ出掛ケントテ家内中朝ヨリ其用意ヲナシ漸ク夕刻五時五分新橋発ノ汽車ニ乗ルコトヲ得タリ 照子 君子 女中高 竹 稲ノ三人ト櫻井ヲ連レテ行ク 昨春ノ昔人庵ハ数月前ヨリ町田氏ノ占領スル所トナリタレバ今回ハ同邸内ナル他ノ一小屋ヲ借ル 家賃一ケ月金八円ナリ 兼清余等ニ先テ当地ニ在リ 明朝一番ニテ帰京スル筈

1913(大正2) 年1月4日

 一月四日 土 晴 (不迎庵日誌) 流石ニ鎌倉ハ避寒地トシテ適当ナル場所也 今朝ナド南北ノ障子ヲ開ケ放チタル中ニ立チテモ亦素足ニテ椽先ニ出テモ寒冷ヲ覚エズ 正午頃町田氏ヲ訪問ス 又二時半頃茂子 三郎同道ニテ来訪 四時頃ヨリ照ハ櫻井ヲ連レテ買物ニ出掛ケ余ハ佐介ケ谷ニ伺候セリ 六時半頃退出 微カナル星明ニ畔道ノ歩行困難ヲ極メタリ 二十七年ノ初秋佐介ケ谷ニ寄寓セシ事アリシガ其頃ニハ今ノ由井ケ浜町ナドハ畠ノ中ノ通路ニテ佐介稲荷ノ一ノ鳥居ノ左側ニ小サナ蓮池ノアル鰻家一軒貸蒲団ナドヲ兼業トシテ開店シ居タル外長谷ノ入口迄人家ハ無カリシ 今後数年ノ後ニハ今ノ佐介谷ナドノ如キ片寄リタル処モ或ハ別荘ノ立チ並ブヲ見ルナランカ 兼清再ビ東京ヨリ来リタリトテ来訪 又佐吉ヨリ啓運寺貸地々代及工事ニ関スル昨年中ノ報告ヲ受ク

1913(大正2) 年1月5日

 一月五日 日 晴 (不迎庵日誌) 明ケ方ニ霰降ル音ヲ聴ケリ 今日ハ雪カト思ヒシニ起出シ頃ハ少シク風立テ曇気味ナリシノミニテ後晴レタリ 然シ昨日ニ比シテ寒気加ハレリ 例ノ如ク朝寝ノ為午前中ハアツケナク過シ午後櫻井ニ命ジ又余自身モ手ヲ下シテ厳島ノ古図ヲ画布ノ上ニ復写ス 夕刻ヨリ照ト八幡前ニ買物ニ行キ余ハ手袋ヲ購ヒ帰ル 夜通リカヽリタル売ト者ヲ呼ビ入レテ運勢ヲ占ハシム 水地此ノ卦ヲ得 兼清モ来合セ人相ノ話ナド聴キ打興ジタリ 此売ト翁ハ常州潮来ノ人 姓ハ新橋今年六十八歳 維新ノ際ニハ剣客トシテ函館ニ籠リタル由ナリ 櫻井ヲ九時四十分ノ汽車ニテ東京ヘ還ラシム

1913(大正2) 年1月6日

 一月六日 月 快晴 (不迎庵日誌) 午前少シク散歩ス 帰宅後啓運寺新住職倉本啓次師ノ訪問ニ接ス 借地ノ件ニ付テナリ 昨年三月先代倉本日身翁ヨリ啓運寺附属地ノ一部三百六十坪許借入置タルニ請求ノ地代約束ト符合セザルノ憾アリタレバ佐吉ヲ以テ質問スル所アリ 然ルニ啓次師来訪セラレ茲ニ地代問題全ク氷解スルニ至レリ 啓次ハ日身ノ実子ニシテ藤沢辺ノ小学校ニ教員ヲ勤メ居タリシガ昨年ノ秋日身病没セシカバ父ノ後ヲ襲ヒ父同様啓運寺ノ不読経住職トナレルモノナリ 抑々啓運寺ハ本尊モ何モ無キ明キ寺ニテ吾借家ト四目垣ヲ隔テタルノミノ隣家ナレバ今住職ニ逢ヒタルヲ幸同寺内ニテ製作ノ事ヲ語リ快諾ヲ得タリ 因テ午後二時画布及絵ノ具箱等ヲ啓運寺ニ運ビ直チニ描キ始ム 夜友人ノ手紙ヲ二三通認メタリ

1913(大正2) 年1月7日

 一月七日 火 晴 (不迎庵日誌) 終日宮島ノ図ヲ描ク 夕刻姉上様東京ヨリ御出成サレタレバ此寓居ニ於テ晩餐ヲ呈シ後緩々橋口家ノ将来ニ付愚見ヲ申述タリ

1913(大正2) 年1月8日

 一月八日 水 晴 (不迎庵日誌) 本日モ終日啓運寺ニ籠リタリ 大図ノ上可也ノ面積ナレバ中々ニ果取ラズ 期限アル製作ノ事トテ心忙シ

1913(大正2) 年1月9日

 一月九日 木 曇 (不迎庵日誌) 製作ニ従事セシコト前日ニ同ジ 午後一時半頃造船出張所ノ山田氏ヨリ電報ニテ神戸本社ヨリ十二日中ニ作品ヲ受取リ度キ旨申越シタレバ十一日中ニ発送セヨトノ事也 即刻櫻井ヘ電話ヲ以テ右不可能也十三日当地ヨリ直接神戸ヘ持参ス可キ筈ナリト山田氏ヘ返事スルヤウ申送ル 頭痛ノ為メ晩食ヲ延バシ腹薬シテ六時頃ヨリ一時間バカリ眠ル 正月ノ事トテ往来ノ人声騒ガシク安眠スル能ハズ 併シ病気ハ平癒セリ 今夜近松心中天ノ網島ヲ読ム

1913(大正2) 年1月11日

 一月十一日 土 晴 (不迎庵日誌) 今日モ午前ニ仕事ヲ始メ夜十二時半頃ニ終ル 午前十時頃姉上様御入来 又午後二時頃静子殿 頼綱ヲ連レテ来訪 同四時半頃七年前ニ暇ヲ取リタル下婢御宿ノます来ル 照ハ今朝九時五十五分ノ汽車ニテ東京ヘ回リタル留守中ノ事ナレバ余代リテ四方山ノ話ヲ為セリ ますハ今年二十五歳ニテ五歳ニナル一女ヲ産ミシモ故アリテ昨年離婚シ当時扇ケ谷ノ或ル別荘ニ少々ノ縁引ノ関係ヨリ頼マレテ一老人ノ病床ニ侍スト云フ事也 照六時過帰宅 ますハ八時頃去ル

1913(大正2) 年1月12日

 一月十二日 日 晴 (不迎庵日誌) 矢張夜ノ十二時過マデ仕事セリ 漸ク大体ノ着色ヲ了ヘタリ 明日ハ出来ル丈補筆スル積也 午後三時頃磯谷氏外箱ヲ持参シタレドモ寸法ヲ違ヘタルニヨリ直ニ近所ノ指物師ニ命ジテ別ニ一個ヲ製造セシム 磯谷氏総テ是等ノ指図ヲナシ晩餐後七時過去レリ 一昨十日新設セラレタル電灯ノ下ニ夜ナベヲナシタル以来昨日モ今日モ啓運寺ヘハ行カズ

1913(大正2) 年1月13日

 一月十三日 月 晴 (不迎庵日誌) 製作ノ最終日ト思ヘバ心落着カズ 午後三時頃ニ至リ漸ク一ト通リ成就セリ 因テ直ニ箱ニ納メ今朝東京ヨリ呼ビ寄セタル櫻井ニ命ジテ荷車ニテ停車場ヘ運バシム 即チ此荷物ヲ携帯シテ午後四時五十二分鎌倉ヲ発シ神戸ヘ向フ

1913(大正2) 年1月14日

 一月十四日 火 (神戸) 午前七時二十分神戸着 加藤旅館ニテ仕度ヲナシ九時頃作品ヲ造船所ヘ持参同所ニテ午餐ノ饗応ニ預ル 午後一ノ谷ノ古跡ヲ観七時十分ノ東上急行車ニ乗リ帰途ニ就ク

1913(大正2) 年1月16日

 一月十六日 木 (鎌倉) 材木座ノ海浜ヲ散歩ス 今年始メテナリ 蜜柑船着シテ箱ヲ運ブ人忙ハシク見ユ 古道具屋ニテ鳩ヲ彫刻セル欄間板ヲ購フ

1913(大正2) 年1月19日

 一月十九日 日 (鎌倉) 午前照ト小坪迄散歩ス 午後二時頃ヨリ櫻井ヲ伴ヒ海上ノ日光及海浜ノ小径ナドヲ写ス 晩餐ニハ曾我君贈与ノ兎ヲ料理セシム 七時半櫻井 君子ヲ連レテ東京ヘ帰ル

1913(大正2) 年1月20日

 一月二十日 月 (鎌倉) 午前十一時頃小坪ノ崖道ヨリ富士ヲ望ミタル景ヲ描ク 午後四時頃ヨリ佐介ケ谷ニ伺候ス 父上様御風気ナリ 熊谷感状ノ事承ル

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