本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1886(明治19) 年5月7日

 五月七日附 パリ発信 母宛 封書 だんだんとまたなつがちかよつてまいりましたがみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候おんことまことにまことにおんめでたくなによりけつこうなことでございます つぎにわたくしことはいつも申あげますとうりげんきなことにてべんきようをしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし どうもこちらはなんともかんともゆわれないよいてんきですからそちらもやつぱりよきおてんきがつゞくだろうとかんがへます せつぺせけんにでかけておあるきなさいまし わたしもちよいちよいちかくのいなかにふぢといふこちらにきておるあぶらゑのゑかきさんといつしよにでかけます わたしはあぶらゑはかけませんからたゞゑんぴつとかみをもつてゆきます そうしてふぢさんがかいておるわきでけいしよくをかきます そうしてあとでなをしてもらいます なかなかよいたのしみになりますよ またこれはたゞたのしみばかりでななくよいゑのけいこでございます こんげつのはじめからこちらのまいとしあるゑのはくらんくわいがはじまりましたからわたしも一どみにまいりました どうもどうもきれいなことです けれどもことしのはきよねんのにくらぶれバよいゑがすくないともうすことでございます あんまりゑがたくさんあるものですからわたしははんぶんもみないでかへりました またこのつぎのにちようにみにいかうとおもつております わたしがしやしんとりにゆくことはまだとじまりません こないだあらかわみのしさんにおめにかゝりそれからまたこうしんくわんでむらたつなたろうさんにもひさしぶりであいました けれどもわたしはみなさんがげしくをしておいでなさるところからずいぶんはなれたところにおるもんですからたびたびあいにゆくわけにもゆかずそのうちにおやすみもすんでしまつたものですからたつた一どあつたぎりでした もうたぶんみんなたつておしまいなさつたゞろうとぞんじます こんどはまづこれぎり めで度かしこ おせつくもすんでしまいましたねー 母上様  新太  このつぎのびんぐらいからしんじろとなをにゑいりしんぶんをおくつてやりますからそうゆつてください ほくかいどうにおてがみをおだしなさるときにはよろしく

1886(明治19) 年5月21日

 五月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 三月三十一日附ケノ尊書謹而拝誦仕候 其御地御尊公様御始メ御一同御揃ひ益御安康之由奉賀候 次ニ私事至極元気勉強致し居候間御休神可被下候 元老院ニテモ幹事被廃只議長議官ノミニ相成ニ付テハ御尊公様モ舊ノ議官ニ御復職被遊候由官費ノ御隱居定而御満悦ノ事ト奉遠察候 筆を取り剣を振りて国の為め盡せし君を神やわすれん 私事法律学を修行致し候積ニテ只今迄只語学ノミを勉強仕候得共能ク能ク将来ノ事ナドヲ相考ヘ申候ニ如御意今日ハ已ニ法律家も多キ世中ニ御座候間普通ノ法律学を学ヒ得テ帰国候とも左程国益ニも相成申間敷と被存申候 又今日ハ独逸学ノ世ニ御座候間仏学ニテハ政府ヘノ向き甚ダ悪しき事ならん 当地ニテ学士位ノ免状を得候ハヾ御試験ノ上政府ニテ三四十円位ノ小役人ニ取立被下カモ不知候得共(原文傍書)(是レモ至テ難キ事ナリ)貴重ノ金銭ヲ費シ数年間外国ニ在リ帰国後僅カ三四十円ノ為メニ繋カレテ面白カラザル御役人様ノ下ニ腰ヲ屈スルナドハ余リ心地能キ事トモ被存不申 さればとて政府ノ御影ニ付カザル時ハ三四十円ハオロカ忽チ活計ニ苦ムハ目前ニ御座候 如何トナレバ仮令西洋ノ法律ニ達シタレバトテ私如キ漢学ノ力ナキモノハ書ヲ著述スル事ハ勿論西洋書ヲ翻訳スル事サヘモ無覚束候 又通常ノ笑談デサヘモ口もづれて思ニ任セザル私ニ御座候得ば代言人ト為リテ能弁ノ名ヲ得ンナドノ事ハ最モ難キ事ニ御座候 右ノ如ク色色ト相考ヘ申候ニ法律専門ニテ国益ニナル程ノ事を為サンハ余程六ヶ敷被存候 依而今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修業ト決心仕候 於当地現ニ油画ヲ修業致し居日本画工三人有之候(五姓田・山本・藤氏) 皆日本ニテハ屈指ノ画家ト申事ニ候得共美術ニ長ジタル仏国ノ事ニ御座候得ば其人ニ乏カラズ 右三人ノ画ノ如キハ先ヅ西洋人ノ中ニ持出ス可キ程ノモノニ非ズト申事ニ御座候 尤モ何学ニテモ一通迄ハ皆々相達シ可申候得共只難キハ少シク人ノ上ニ出ル事ニ御座候 又画学ハ他ノ学問ト異ひ何年学べバ卒業スルト云事ハ無之年ノ長短ハ只其人ノ天才ニ依ル事ニ御座候 私一度決心致し候上ハ一心ニ勉強可仕候 其結果ノ好悪ハ只天ニ御座候 日本ニハ西洋諸国ノ上下院ノ規則及体裁等を熟得したる人に乏しき由 右ハ別ニ専門学ヲ要スルト云程ノ事ニモ無御座候間折角注意致し折可申候 左様御休神可被下候 当地此頃ハ随分あつさニ相成申候  むしのなく声を聞ても思ふかな我故郷のなつのゆうくれ 先ツハ御返事傍草々如此御座候 頓首 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年

 五月二十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)父上様がなんでもやいつけることのできるものをけいこしろとゆつておやりなさいましたからこんどゑをほんとうにけいこしようとおもいます 二三日のうちにわたしのしつておるずいぶんいゝせんせいのうちにいつてはなしをしてみようとおもつております(後略) 母上様  清輝拝

1886(明治19) 年5月28日

 五月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 寸楮拝呈仕候 追々暑気相催候処其御地御尊公様御始皆々様御揃益御安康奉賀候 次ニ私事至而元気勉学罷在候間御放念可被下候 先便より申上候通今度愈画学修業ト相定メ去二十二日兼而存居候コラント申当地ニテ随分評番よき画家ヘ目的ヲ述ヘ即チ弟子入仕候 依而同氏ノ指図ニテルーブルト申当地第一ノ博物館ニ在ル石像ヲ折角写居申候 已ニ三日続けて午後のみ相通ヒ申候ニ付右館内ノ風ニモ略相慣れ申候 古キ油画ヲ写しニ来リ居者ハ勿論石像ヲ写ス者モ随分多く有之其中女ノ画かきも不少候 見物人ノ沢山有ル中ニテ黄色人種ナル上ヘヘタナ画ヲかき居ルハ赤面ノ至ニ御座候得共是レモ肝ヲ大クスルノ一端ト存候得ば大先生ノ様ナ面ヲシテ平気ニテ写像スル等実ニ愉快ナル一件ニ御座候 昨日は木曜日ニテ諸学校半休日ナリ 依テ或学校ノ教師生徒一隊ヲつれて博物館見物ニ来リ私ノ顔色ノ異りたるト白紙上ニ只一線ノ引キアリシノミナルヲ見テ生徒等大ニ嘲リ之レハシヤレテオルト申候故ウマク出来テ居ルダロウト笑ヒながら答へたるものヽ実ハ赤面仕候 又同館従覧人中過半ハ英人ノ様ニ御座候 私画学ヲ始メタル事ハ当地ノ日本人ハ一人モ不知少シ出来様ニナル迄ハ秘シ置積ニ御座候 先ハ一左右如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 皆々様ヘ可然御伝言願上候

1886(明治19) 年6月11日

 六月十一日附 パリ発信 父宛 封書 一筆拝呈仕候 御尊公様御始メ皆様御揃益御安康大慶至極ニ奉存候 次ニ私事至而元気毎日午後ノミハ博物館ニ於テ画学稽古致居候間御休神可被下候 私教師ト頼ミ候コラント申人中々深切ナル男ニテ当分(同人ノ学校ヘ通学ヲ始ムル迄ノ内)無月謝ニテ授業致し呉れ候 甚ダ仕合ワセナ一件ニ御座候(尤モ一週一回即チ土曜日二週間ニ画キタル小生ノ画ヲ同人ノ宅ヘ持参シ之レハ悪シトカ又少シハ善シトカ評ヲ受ルノミナリ)此ノ教師日本ヨリ布ヲ送リ貰ヒタキ旨ヲ私ニ依頼致し候 其布トハ同氏ガ画ヲ画ク時ニ用ユルモノニシテ錦類ノ事ニ御座候 当地ノ人物画家ハ裸カ或ハ腰部ヲ少シク隱シタル画ヲカクヲ好ミ毎年ノ共進会ニモ裸体ノ女ナドハ非常ニ多ク有之候 扨テ教師ガ日本ノ布ヲ望ムハ之レヲ女ノ体ニ巻キ付ケタリナドシテ其の像ヲ写サンガ為メニ御座候 尤モ錦ト限リタルニハ非ズ只金糸或ハ各種ノ糸ヲ以テ花鳥或花斑ナドヲ縫ヒ出シタルモノト申事ナリ 地ハ赤ニテモ青ニテモ何ニテモカマワズ花斑ナドハ支那メキタル方ヨリ却テ日本風ニシテ俗ナル方可然ト存候 新ラシクシテ品ノ悪キモノヨリ少シ位破レタリ又色ガサメタリシテ居候トテモ品ノ良キ方ヲ好ミ申候 古着屋ニ有ル模様付ノ古布レ其他掛ケ物ノ縁ニ付クル様ナ布ナド可然モノヲ御見立数品御送リ被下候ハヾ幸甚之至ニ奉存候 布ノ大サハ幅モカナリ広クシテ長サモ少シ長キモノ差当リ無之候ハヾ二尺位ノ小布ニテモ宜敷候 此ノ教師ハ画学ノ方ニ取リテハ随分良キ教師ニ御座候間進物ナドヲシテなる可くよく取り扱ヒ置く時ハ少シモ損ハ無之ト存候 右ハ随分六ヶ敷キ注文ニハ御座候得共御見当り次第通運よりなりとも御送り被下度奉願上候 又同氏ハ非常ノ花狂人ニシテ日本ノ花ナドモ少シハ庭ニ植ヘ楽ミ居候 日本ノ山野等ニ生ズル草花木ニ付テノ書物デモ有ルナレバ是非手ニ入レ度キモノ故之レモ日本ヘ注文シテ呉れト申事ニ御座候 絵入ノモノ有之候ハヽ格別ニ御座候得共若シ絵入有之候ハヾ小生仏語ニ翻訳可致候間何カ日本ノ花木ニ付テノ書物御送リ被下度奉願上候 人情ハ何処ニテモ同シ事ニ御座候得共当地ニテハ進物ノ功能格別ノ様ニ御座候 当地此頃ハ晴雨不定一日ノ中雨ノ降ラザル日ハ稀ナリ 先ハ用事迄 草々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ可然御伝声奉願上候

1886(明治19) 年6月25日

 六月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)画学は折角勉強致し居候 余り進みの悪シキ方ニ無之教師も随分満足致し居候 先便より色々面倒なる御注文申上候 又日本の花菖蒲の種を送り貰ひ度旨頼まれ候に付各種の実数種づヽ幸便ノ折にても御送り被下候はヾ幸甚の至に御座候(後略) 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年7月23日

 七月二十三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎにわたくしことはいつももうしてあげますとうりぴんぴんです またゑのけいこはおこたらずいたしておりますからどうぞごあんしんくださいまし(中略) さる十四日こちらのおゝまつりでした わたしはもう二どもみましたからことしはみたくなくふぢといふにつぽんからゑのけいこにきておるひとゝ十三日のゆうがたからがるしゆと申ちかいいなかにとまりがけにてあすびにまいりました そのがるしゆと申ところにわたしのしつておるせいようじんのゑかきがおります 十四日のひはそのひとのうちやまたそのとなりにおるひとのうちなどでごぜんのごちそうになりました ゆうめしごはそのゑかきがふうふそのほかりようどなりのふうふとわたくしたちふたりまたよそのおかみさんがひとりつがうあわせて九にんにてにわのうゑきににつぽんのつろを十二三もぶらさげはなしなどをしておるうちにぱりすではなびをあげだしましたからみんなで二かいにのぼりはなびのけんぶつをなしのちまたにわにいきました こんどはみんなでうたをうたうことにて(後略)〔図〕

1886(明治19) 年7月30日

 七月三十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書 六月三日おだしのおてがみたしかにあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたしましたら父上様 あなたさま御はじめみなみなさま御そろひますますごきげんよくいらせられ候よしまことにまことにおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎにわたくしこといつもかわらずげんきなことにてさる二十八日まつがたさんがぱりすにちよつときておかへりなさるをさいわい一しよにべるじつくといふくににいきました このべるじつくではやつぱりふらんすのことばをつかいますからすこしもふじゆうはございません またわたしなどのおるべるじつくのみやこぶりゆくせると申ところはたいへんきれいなところにてちいさなぱりすとでももうすようなところです につぽんじんのしよせいがしごにんおります わたしは一月ばかりおるつもりです いろいろめづらしいことがございますからこのつぎのびんにくわしく めで度かしこ 母上様 ぶじ  新太拝 せつかくごようじんごようじん みなさんによろしく なつやすみにたびをするのはことしがはじめてです

1886(明治19) 年8月13日

 八月十三日附 ウォータルー発信 父宛 葉書 今日ハ手紙日ニ御座候得共長き手紙ヲ認むる事不能 端書ヲ以て只壮健ノ旨ヲ御報申上候 島村 松方ノ両君ト有名ナル古戦場ウヲテルローヲ見物仕只今帰る処ニ御座候 頓首

1886(明治19) 年8月20日

 八月二十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書 (前略)まつがたさんのおせわでうゑべるさんといふうちをしりました(中略) わたしはそこのうちにあすびにいくときつとゑをかきます おかみさんのしやしんをみてかいたのをもつていつてやりましたらよくにておるといつておゝよろこびをいたしましてそれをがくにするとかゆつておりました けふはそのおかみさんが一しよにゑのはくらんくわいをみにつれていくからひるめしをたべずにこいともうしました それゆへこれからすぐにそこのうちにゆきみんなと一しよにごぜんをたべそうしてゑのけんぶつにゆくつもりです めでたくかしこ 母上様  新太拝

1886(明治19) 年9月12日

 九月十二日 ラエ発信 母宛 封書 七月十六日同二十三日のおてがみさる十日にあいとどきさつそくはいけんいたしました そのおんちにては父上様 あなたさまおんはじめしたのうちでもまたあねさんたちもみなさんおんかわりなくますますおげんきのよしなによりおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎにわたくしことまことにまことにげんきにてやつぱりたびをしております どうぞどうぞごあんしんくださいまし このまへのびんにはついついてがみをあげだしませんでした そのかわりにけふはすこしわたしのたびをしたはなしをいたしませうよ さる一日にべるじつくといふくにのみやこぶりゆくせるといふところをたちましてぶりゆじゆと申ところにまいりました このぶりゆじゆといふところはたいへんふるくからあるまちにていませけんにあるようないゑでないふるいいゑなどがたくさんございます そのいゑのかつこうはこんなあんばいです〔図〕 それからそのほかふるいあぶらゑのはくらんくわいなんどがございます たいへんめずらしいところです 一日のあさ十一じごろにつきましてそれからゆうがたの七じごろまでかゝりたいていけんぶついたしそれからまたきしやにのりぶらんけんべるぐと申ところにまいりました このところはうみぎはにてこちらのかねもちなんどがあつさよけにあすびにいつておるところです そこにまつがたさんのしつておるばんはるとらんといふぶりゆくせるのひとがあすびにいつております そのうちにまつがたさんもいつておいでなさいました それゆへわたしはきしやがらおりるとすぐにそのうちにたづねてゆきまつがたさんにあいました そのばんハまつがたさんのおせわでやどやにとまりよく二日にはばんはるとらんといふひとのむすこがあさ六じごろにわたしのやどやにきてくれました それから一しよにはまべをあるきまたわたしは七じごろにみづをあびりました それからそのばんはるとらんさんのうちにゆきあさごぜんをたべまつがたさんやばんさんのむすこそのほかふたりのしよせいと五にんづれにて八じごろからまたぶりゆじゆにゆきゆうがたみなと一しよにぶらんけんべるぐにかへりました そのばんもまたばんさんのうちでごちそうになりました そうしてそのばんもまたこのぶらんけんぶるぐのやどやにとまりました そのばんはるとらんといふうちはかないぢゆうそろつてみんなよいひとたちにておとこのこがふたりおんなのこが五にんばかりおります そのそうりようむすこはことし二十ばかりのやつですけれどもたいへんりこうなやつにてことし大がくこうをそつぎようしたとかいふはなしです また二ばんめかのむすめはたいへんよくゑをかくやつにてずいぶんおもしろいやつです 三日のひにはあさ十じごろのきしやでたつゝもりでしたけれどもおかみさんがひるめしをたべてからたてとしきりにすゝめますからそれにしたがいました それからむすこやむすめたちと一しよにみづあびにゆきました ひるめしをたべてからまつがたさんとばんさんのむすこと三にんにてまちにおもちやのかひものにゆきました そうしてうちにかへつてからばんさんのうちのおゝきなむすめをはじめきんじよのむすめやちいさなこどもなんどをあつめふくびきをしておゝわらいをいたしました かれこれしてあそんでおるうちにおそくなりました 六じのきしやにてぶらんけんぶるぐをたちおすたんどといふところにまいりました このおすたんどといふはやつぱりかねもちのひとたちがなつやすみにあすびにゆくところにてぶらんけんべるくよりもすこしきれいです つくとすぐにやどやをきめそれからめしをくいのちひとりではまべをあるきました よくじつはあさ九じすぎのきしやでおすたんどをたちがんといふまちに十一じごろにつきゆうがたまでかゝりゑのはくらんくわいやうゑきやなどをけんぶついたし七じごろのきしやでこんどはあんべるすといふところにゆきました このあんべるすと申ところハにつぽんでいはゞよこはまのようなところにてなかなかりつぱなところです このばんはきしやにのるまへにごぜんをたべるひまがありませんでしたからすていしよんでうでたまごをひとつとちいさなぱんをひとつかいましてそうしてきしやのなかでたべました きしやのなかにへいたいがひとりをりましてそのひとがなかなかしんせつなひとにてやすいやどやをおそゑてくれましたからきしやがつくとそのやどやにゆきましたところがやすものかひのぜにうしないとやらにてそのやどやにはいつもわたしがくわれるあのわるいむしがたくさんおりましてよぢうよくねることはできませんでした 大へいこういたしました そのむしのおかげであさもはやくおきうしのちゝをのみぱんをたべてすぐにそのやどやをとびだしうむすさんといふゑかきのうちにゆきました このうむすさんといふひとはぶりゆくせるでわたしがたいへんおせわになつたうゑべるのおかみさんがよくしつておるひとにてそのうゑべるのおかみさんがわたしがぶりゆくせるをたつときにもしあんべるすにいつたらうむすさんにあつてめづらしいゑなんどをみせてもらゑとのことにてわざわざしんせつにてがみをかいてくれましたからそのてがみをもつてうむすさんにあいにいきました ところがあいにくうむすさんはいまいなかにいつておると申ことにてあうことができませんでした それからすぐにいろいろなけだものゝおるはくらんくわいをみにゆきました またゑのはくらんくわいも二つみました ひるごの三じはんのきしやであんべるすをたち七じごろにおらんだのみやこらゑといふところにつきました こうしくわんからこうしのむすこなかむらじろうさんといふことし十三ばかりのひとがばしやでむかいにきてくれました それゆへすぐにこうしくわんにゆきました まだいまでもこうしくわんのごやつかいになつております こうしのなかむらさんといふおかたはたいへんいいひとです わたしがついたときにはおかみさんをつれてぱりすにいつておいでなさいましたからるすでしたが三四つかまへにふたりともかへつておいでなさいました わたしはあんまりながくごやつかいになつておるのはおもしろくございませんからもう二三にちのうちにこちらをたちまたぶりゆくせるにゆきすこしおりそれからぱりすにかへりべんきようをはじめるつもりです ことしのなつやすみにはおかねはすこしたくさんいりましたけれどもまことにいゝたのしみをいたしました さくじつはこゝのこうしくわんのしよきくわんをしておいでなさるしまむらさんと申ひとにあむすてるだむといふところにつれていつてもらいました このらゑよりきしやで一じかんのすこしうゑかゝるところです たいへんりつぱなまちです いろいろなけだものゝかつてあるところやゑのはくらんくわいそれからろうざいくのいきにんぎようなどけんぶついたしました あさ八じはんごろのきしやででかけましてよる十一じごふんにうちにかへりました ゆうめしはりつぱなところでたいへんなごちそうになりました たびのはなしをかきだしましたらついついこんなにながくなりました このまへのびんにてがみをあげなかつたかわりですからどうぞそうおかんがへくださいまし こないだのびんにまきがみがまだあるかどうだとゆつておやりなさいました まだたくさんぱりすにもつております なくなつたらすぐそうゆつてあげますよ まきがみよりこのかみのほうがよつぽどかるいようですからこのごろはしじゆうこのかみにかきます かごしまのおぢさんへぜひおてがみをあげなけれバならないのですけれどもどうもどうもとじまりませんよ いづれそのうちにあげますからどうぞよろしく したの父上様からのおてがみハまことにありがたくはいけんいたしました みなさんおげんきでめでたし またおみねぼんハまだうちだされずにおしやべりをしておるとの事まづしやわせのよいことです あねさんたちはまたまたほくかいどうにおいでなさるよし さぞあとはおさみしくなりましたろうとそんじます あねさんにはながくてがみをあげずごぶさたをいたしております ごめんごめん よろしくよろしく おゑいさんにもいつもこのごろハごぶさたばかり これもおなじくごめんごめんごめん そちらではことしハたいへんあつかつたそうです さぞおこまりなさいましたろう こちらではわたしがぶりゆくせるをたつまへに四五にちばかりすこしあつうございましたがそんなにたいしたことはございませんでした このおらんだはもうたいへんすゞしいことです わたしはなつでもなんでもげんきですからどうぞどうぞごあんしんくださいまし につぽんとこちらはちがいますからにつぽんがあついからせいようもあついだろうとよけいなおしんぱいはめしもすな またふらんすもひろいところですからたとへふらんすでわるいびようきなんどがはやるなどゝいふことをおきゝなさいましてもけしておしんぱいをめすにはおよびませんよ なんでもおしんぱいは一せつおやめおやめおやめおやめ こないだのびんからにほんのにしきのきれをおくつてくださいともうしてあげました そのてがみがつきましたよし そうしてよいきれをめつけておくつてくださるとのことまことにまことにありがたくあつくあつくおんれい申上ます もうこんどはたいがいこのくらいにしておきませう めでたく かしこ 母上様 ぶじ  新太拝  せつかくおからだをおだいじになさいまし みなみなさまによろしく ともだちのやつたちにはしばらくてがみをやりません もしだれかがまいりましたらよろしくゆつてくださいまし

1886(明治19) 年9月24日

 九月二十四日附 ブリュッセル発信 父宛 封書 寸紙拝呈仕候 秋冷之候先以テ御尊公様御始メ御一同御揃益御安康奉賀候 次ニ私事未タ休暇中ニテ先便より申上候通ベルジク国中処々見物ノ末ヲランダ国ヘ罷越ハアゲ公使館中村氏方ヘ十二三日御厄介ニ相成去ル十七日同処ヲ発シ又ベルジク国都ブリユセルヘ来リ当時プラスサントギユヂユルト申処ニ松方氏ト共々下宿致居候 本月末迄ハ当府ニとどまり居積ニ御座候 身体ハ至テ壮健ニ御座候間御休神可被下候 ヲランダ国公使中村氏ニハ今度非常ニ御世話ニ相成候間御閑暇ノ折礼状として一通御送リ被下候ハヽ幸甚 今日ウエベルト云人ノ妻君及ヒ其子どもたちと一緒ニ写真ヲ取リニ罷越し候 本月末ニハ出来るとの事ニ御座候 出来次第早速御送リ可申上候間母上様へも左様御申上被下度候   ヲランダ国ハアゲ府出発ノ前夜月甚ダ宜しく候し故秋の月と云意味ニテ  秋の月見れハ見る程すみかへり光りもさむき心地こそすれ 先ハ左右如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ可然御伝声奉願上候

1886(明治19) 年10月8日

 十月八日附 パリ発信 父宛 葉書 益御安康之筈奉賀候 時間無之端書ヲ以テ御伺申上候 私事去る一日ベルジク国出発帰巴仕再ビ画学稽古モ相始メ申候 御送り被下候箱未ダ当地ニ達セズ 毎日相待居候 日本開花の性質及外一冊都合二冊慥ニ相達候 頓首  黒田清輝

1886(明治19) 年10月15日

 十月十五日附 パリ発信 父宛 封書 追々寒気相催候処益御安康大慶至極ニ奉存候 次ニ私事大元気ニテ勉強致居候間御休神可被下候 御送リ被下候箱昨十四日税関ニテ慥ニ受取申候 錦ノ古切手実ニ見事ナル者ノミ故教師定而満足可致と存候(中略) 去る十一日より画学教師コラン先生ノ画学校ヘ行く事ニ相成朝八時より十二時迄実物ヲ見テ稽古致し候 教師は一週二回即チ火土二ノ日ニ十一時頃より来り画ヲ直シ呉候 生徒総計十人計ニテ其中日本人ハ三人ニ御座候(藤・久米の二氏及私) 久米氏ハ一二月前専ラ画学修業として日本より来リタル人也 当地の画学生徒など云者は実ニ不勉強ナルノミナラズ人物ガ一般ニ賎シキ様也(後略) 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年10月22日

 十月二十二日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)またわたくしがかいたゑをなにかおくつてやれとゆつておやりなさいましたけれどもいまかくゑはたゞひとのかたちやまたつらなどをたゞやきずみでかくのですからおくつてあげそうなものはなんにもありません けれどもいづれそのうちになにかしらんかいておくりますからまつていてくださいまし くろだきよたかさんにたのんでおくつてくださいましたすみはたしかにとゞきました(中略) すぐにそのすみをうちのおやぢにやりましたらおゝよろこびでした(後略) 母上様  新太より

1886(明治19) 年11月5日

 十一月五日附 パリ発信 父宛 封書 寒気日ニ増候処御尊公様 母上様御始御一同御揃益御安康奉大賀候 次ニ私至而元気勉学致居候間御休神可被下候 去三日より大学校通学モ相始メ申候ニ付近頃ハ甚ダいそがしき事ニ御座候 画モ不惰勉強致居候 学力ナキ時ハ画道ニノミ達し候ても只画工タルニ不過と存候ニ付先ツ当分ハ学問ヲ為シ傍画ヲ学ヒ一人前ノ人間ト為りたる後専ラ画ヲ学ヒ而望ヲ達セント存候 月日ヲ重ぬるニしたがひ志のみ次第ニ大きく相成候故定而御心配被遊候半と奉存候 乍併能能相考申候ニ貧富ハ只一世 死後ノ名ニ目ヲ附ルコソ男子なりと奉存候 御送り被下候錦切画学教師ニ贈り候処大歓にて御尊公様へ宜敷御礼申上呉れとの事に御座候 塾長ミルマンへも古墨を与へ候処之レモ同しく大よろこひ致し候 今度大学ノ通学を相始メ候ニ付テハ入費モ相かさみ候間去月限リニテミルマン塾ヲ去リ只今ハドランブル町ト云処へ下宿致し居候 大学校へ行ニハ二十分計ヲ要スル処ニ御座候 画学ノ塾ハ二三分位ノ処ニ御座候間至而便利ニ御座候 昨日法律ノ別課教師ヲ一週三回ニテ一ヶ月八十仏ト約束相定メ即チ今日より相始メ申候 先ハ用事迄 草々 頓首 父上様  清輝

1886(明治19) 年11月19日

 十一月十九日附 パリ発信 父宛 封書 十月七日附之尊書本日相達し難有拝見仕候処御尊公様御始メ皆々様御揃益御安康奉賀候 次ニ私事至而壮健勉学致し居候間御休神可被下候 先便より一寸申上候通り去る三日より大学校の講義相始り候故近頃は甚ダいそがしく且短日ノ折柄画ヲ学ブ次官至而少く閉口罷在候 画ニ志シ法律ヲ学ブトハ甚ダ以テ迂闊ナル仕方ニ御座候得共学力なき時ハ画学ニ達し候とも先ツ悪口すれば画カキノ職人たるに過ぎず 之レ通常画家ガ人ニ軽ゼラルヽ所以と奉存候 故ニ此ノ三ヶ年間ハ法律ヲ学ビ一通リノ人間と相成候て而後力ヲ画ニ尽さんと存候 尤モ画ハ他ノ学問トハ異ヒ何年すれバ卒業するなどゝ云事ハ無之候間即チ終身之業ニ御座候 右之次第ニ付当分画学ハ第二段ニ置キ法律勉強致し居候 御休神可被下候 法律別課教師を一週四回一ヶ月分八十仏我貨幣ニテ二十円計ニテ相雇ひ申候 法律学校ノ生徒たるニは当地ノ中学卒業免状ヲ要する事ニ御座候 併シ外国人ハ此ノ仏国ノ中学ヲ卒業セズトモ其国ニテ相当ノ教育を受けたること公使館より証明する時ハ中学卒業相当ノ免状ヲ得ル事也 而其免状ヲ得るニハ金百二十仏余ヲ要する事ニ御座候 又学校ニテ試験有ル度毎には必ズ百仏とか二百仏トカヲ出さねバならぬ事故誠ニ以て閉口之至ニ御座候 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年12月3日

 十二月三日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事至而壮健毎日法律校へも通学勉強致居候間御休神可被下候(中略) 本月ハ法律校入校免状受取ニ付キ通常学資外ニ百二十仏ヲ要シ候故百仏丈ハ丈ハ来月分を使ヒ込まざるを得ざる都合ニ相成申候 左様御承知可被下候 当地ニ日本ノ庶民夜学校の如き夜学校有之種々ノ学を無月謝ニテ教授致し候 其中画学ノ課も有之候 私ハ昼間ハ充分ニ時間無御座候故当分其夜学校ニ行き勉強致居候 木土の二日をのけて其外ノ日ハ八時より十時迄稽古する事ニ御座候 余附後便 草々 頓首

1886(明治19) 年12月17日

 十二月十七日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)ゑのせんせいがたいへんていねいにしてくれますからまことにしあわせなことです たびたびふぢさんといふゑかきさんとふたりごぜんのごちそうなんどになります このごろはひるまはひまがありませんからよるゑのけいこをいたします まことにおもしろいことです(後略) 母上様  しんたろより

1887(明治20) 年1月13日

 一月十三日附 パリ発信 母宛 封書 十一月四日 十一日 二十五日のおてがみいづれもたしかにあいとゞきありがたくはいけんいたしました 父上様 あなたさまおんはじめみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候よしおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎにわたくしこといつもあいかはらずげんきにてべんきようをいたしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし ひるまはほんをよみよるはゑのけいこをいたします どうもちかごろはよほどいそがしいことがございます それゆへこないだからたゞはがきばかりあげててがみをあげることができませんでした(中略) さてわたしがさくねんのなつたびをしたときあげましたてがみにぶらんけんべるくといふところでみづをあびつたといふてあげましたらあなたさまのおてがみに「いわしたさんのむすこさんはせいようじんとあびくらつこをしてしれなくなつたおひとだからみづあびもけんのんな事に候」とかいておよこしなさいました まことにあなたさまのおつしやるとをりしぬようなあぶないところでみづをあびるのハまことにあぶないことですけれどもこちらのひとがなつやすみなんどにおよぎにゆくところはすこしもけんのんなことはございません さてそのみづあびばで一ばんおかしいのわおんなのようすです かねてハしりのところにざるのようなものなどをいれたりしてむりにしりをたかくしごぞんじのとおりながいきものをひきつゝてあるくやつがこのみづあびばでハたゞめりやすのぢばんのようなのを一まいきてぴよんぴよんとんであすぶのです こちらでなつのあつさよけにうみばたにあすびにゆきみづをあびるのわちようどにつぽんでとうぢにゆくようなものです それゆへかねもちでなければいくことわできません わたしがぶらんけんべるくといふところにいつたときめしのごちそうなどになつたばんはるとらんさんのうちではなつのあついときたつた二かげつばかりいつておるために一ねんぢゆう一けんのうちをかりきつておると申ことです(中略)わたしがかいたゑをなんでもいゝからおくつてやれとゆうておやりなさいますけれどもいまかくゑはたゞやきずみでいしやつちでこしらゑたにんぎようをおゝきくかくのですからてがみのなかなんどにいれておくることはできません またゑのぐをつかつてほんとうのにんげんをみてかいたのとはちがいまことにつまらないゑです けれどもきよねんのなつやすみまへからかいたのがずいぶんたまつておりますからよいびんのときにおくつてあげます(中略) わたしもたまにともだちなんかといなかにゆきうまにのります そのうまはかしうまにてよつぽよつぽしてどんどんぴちやぴちやとぶんなぐつてもなかなかかけることのできないへこたれうまです そんなへこぼうまだもんですからわたしがのることがてきるのですよ(後略) 母上様  新太郎拝 せつかくおからだをおだいじになさいましこれはかねてのようす これがみづあびばのようすです このかさのもちかたわはやりです こちらのおんなハどんなやつでもみんなこんなあんばいにかさをだいてあるきます〔図〕

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