本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1893(明治26) 年1月5日

 一月五日附 パリ発信 父宛 封書 新年の御祝儀申上候 去る十二月二十五日暮村出発巴里ニ出て来申候 此の頃ハ巴里ニてハ宿なし故あすここゝの下宿屋をとまり歩く次第 夫レガ為気も何と無く落付き不申候 明日より野村公使の肖像ニ取り掛る積故其仕事相始メ候上ハ心も少シハ静ニ可相成存候 宿ハ諸生町のスフロウと申下宿屋ニ当分極め置き可申候 暮村ニて描申候画四五枚先日教師ニ見せ申候処余程満足の体ニて今度本国へ帰へり行くハ仕方なき儀なれバ一と先帰朝し是非かき溜たる画を数十枚集めて自分の画計の展覧会ヲ此の地ニて開く様可致など色々深切ニ申呉れ候 仕合の儀ニ御座候 当地此の頃ハ寒さも中々強く雪も時々降り申候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1893(明治26) 年1月20日

 一月二十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)おせうぐわつはじめからこうしののむらさんのかほをかきはじめました それからまたいまより一しゆうかんほどまへからおんなをやとひましてはだかのゑをこうしくわんでかきます のむらさんがおんなニくれるぜにとゑのぐのだいをはらつてくださるつもりです そのかわりニかいたゑハのむらさんへあげるのです けいこになりますからよろしゆうございます くめさんも五六にちまへにぱりすへかへつてまいりました はなしあいてができてよいことです 新二郎からも二三日まへニたよりがありました わたしのかへつていくのももうぢきですよ めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1893(明治26) 年2月4日

 二月四日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)公使野村氏の為ニ此頃描き居候女子のはだかの画ハ次第ニ進み申候 今尚一月程も描き候上一と先教師へ見せ若し気ニ入候へば此の画ヲ共進会へ持ち出す様都合致し度存候 手本雇入代絵具代等は総て野村氏の引受にて私ハ只描クと云丈ニ御座候 其代りニ出来上りたる画は野村氏の物と相成事に御座候 去年よりかきため候画の内上出来の分大小六七枚の額ニふちを附ケさせ申候 之レハ皆御尊公様への御土産ニ御座候(後略) 早々 頓首 父上様  清輝拝

1893(明治26) 年2月16日

 二月十六日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気にて近頃ハ公使館にてかき居候女の画ニのみ骨を折り罷在候 御休神可被下候 未だ教師ニハ見せ不申候得共是非共此の画ハ共進会へ持ち出シ度存し三月十七八日頃ニ開候私立共進会有之候其レへも当年ハ出品支度其手続致置候 此の方ハ金を出シテ会員と為り候上ハ一人ニ付き六枚程も出品出来候事故便利ニ御座候 日本へ帰り候上も毎年かきたるものを此の会ニ送りて西洋人ニ見せ申度存し他日名を為すの種と相成かも知れずと存候 旅費も三月の中ニハ手ニ入り可申候 其金受取次第ニ出立仕こそ当然ニハ御座候得共当年迄当地ニとゞまり候もつまり申せバ共進会の為のみニて有之候間其開会も今一二ケ月と云時に相成みすみす帰るハいかにも残念ニ被思候事ニ御座候 依而甚ぬびぬびして御意ニそむき候様相成候得共せめて共進会への出品の結果の知るゝ迄ハ此処ニ居り度ものニ御座候 御存しの通共進会ハ例年五月ニ開ケ候故三月のなかバから五月のなかバ頃迄と見て二ケ月程の食ヒ込ニ相成次第ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1893(明治26) 年3月9日

 三月九日附 パリ発信 父宛 封書 一月二十七日附の御尊書並ニ五百円の為換券昨日慥ニ相届申候 其御地皆々様御揃益御安康奉賀候 当年ハ寒さ強く候由当地にても先頃ハ随分きびしきさむさ致し候 セイヌ河に氷が張りつめたるなどハ此年始めて見申候次第ニ御座候 グレ村の方などニてハ雪四尺程も積りたる処有之車の従来ハ一時止まりたる様子ニ承り候 其レニ引かへ此の頃ハ誠ニよきはだもちにて木の芽も少シづゝ出て来り候 残別としてグレ村の侯爵ド・カゾウと申人去六日に私を夜食ニ招き候間即ち一夜泊ニてグレ村ニ差越し申候 田舎に行て見て始めて都住ひの不意気なるを覚申候 なまぬくき日ニ当りながら青みかゞりたる森をながむるなどハ先づ極楽の遊かと被思申候 グレ村ニカナダ国生れの画師一人住居候 妻ハ瑞典人ニテ彫刻の業を心得たる者ニ御座候 夫婦共珍らしき好人物にて私グレ村滞留中も始終深切ニ致し呉れ候 今度帰朝の旨知らせ候処残りをしき事ニ思ヒ紀念として瑞典国産の細工物など沢山呉れ申候 今より三年目位ニハ是非日本へ遊ビニ行などゝ申居候 日本へ来れバどの様ニとも御世話致さんと陳へ置候 公使館にての画も此の週間限りにて描き上げ候都合ニ御座候 独立美術家組合と申私立の共進会へハ六枚程差出シ置申候 来る十七日が開会ニ御座候 其画ハ第一ロアン河辺の雪景 第二波 第三納涼 第四菊 第五秋の園 第六花下美人索句(之レハ日本画の出来そこないと云風の画にていつか新聞紙へ出す画を描き候時見本としてかき候ものニ御座候 只画のみにてハ面白からず存候ニ付吉田義静と申人ニ頼み詩一首書きそへ貰ヒ候) 今度の金にて借銭などさつぱりと片附ケ安心仕考ニ御座候 去る二月十六日附にて申上置候通り五月の共進会迄ハ当地ニとゞまり五月の末か六月の極始メ(御願申上候二ケ月分たし前の金子受取次第)ニ立て米国へ渡りチカゴの博覧会を見物するなどハ此の上も無き好都合と喜居候事ニ御座候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈上候

1893(明治26) 年3月18日

 三月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 皆々様御揃益御安康奉大賀候 旅費慥ニ相届候事ハ先便より申上置候 共進会への画教師へ見せ申候処甚ダ気ニ入り候 画風が新らしき故三四年前ニ別レテ新しく出来たる共進会の方へ出す方可然との言ニしたがひ其会の会頭ニ面会 画ヲ見せ意見ヲ聞キ申候処思ヒの外ほめられ仕合の議ニ御座候 二三ケ処直す処など示し呉れ申候 来る二十五日が出品の期日ニ御座候得共二十七日迄日延の特許なども貰ひ得る事ニ相成候 此の画ハ先ヅ受ケ取られる事ニ違ヒ無シト申てもよろしき位ニ御座候 たとへ受取られずとも会頭及ヒ教師の気ニ入りたる丈ニてもうれしき儀ニ御座候 其会頭と申人ハ七十計の老人にて名ヲピユビス ド シヤバヌと申候て仏蘭西一と申画師ニ御座候 外の小さな一と通りの画師ハ数百年の後ニ至れバ大抵皆消失せ行事必せりと云ても此のピユビス先生丈ハ独り十九世紀から二十世紀へ掛ケテノ画師の親方としてのこるなる可しと評判致候

1893(明治26) 年3月26日

 三月二十六日附 パリ発信 母宛 封書 二月十一日つけのおてがみさくじつこうしくわんにてたしかニうけとりました みなみなさまおんそろひごきげんよくおんくらしのよしおんめでたくそんじあげます わたしハからだハまことニげんきでございますけれどこのごろのいそがしさハまことニへいこうでございます きようしんくわいのことばかりならともかくもいまニかへつていかなけれバならないといふおゝしごとがあるもんですからどうもどうもきがおちつかずせわらしいことでございます きようしんくわいニだしますゑハ二つともとうとうけふぎりでできあがりましたからあしたにんそくをたのんできようしんくわいのほうへおくつてやるつもりです 二まいともふらんすで一ばんといふゑかきのぴゆびす ど しやばぬといふぢいさんにみてもらひましたらたいそうほめられましたからたぶんこんどハきようしんくわいにうけとらるゝことだろうとおもつてをることでございます さてかへつてゆくことゝなつてみるといろいろつまらないようじができてまいります まあどうしてもこちらをたつのハ六月のなかばごろニなるだろうとぞんじます こないだからひらけてをるちいさなきようしんくわいに六まいほどゑをだしてをきましたらある三ツ四ツばかりのしんぶんしににつぽんじんのくろだといふやつがせいようゑをかくだのなんのかんのとかいてありましたよ もう四五ねんもこつちにをつたならすこしハせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです いまこれからといふときになつたところでかへつていくのですからかなしいもんです だがしかたハございません につぽんへかへつてからてがさがらなけれバよいがとおもつてをります せいようじんにまけんようにやろうといふのハむづかしいもんです せいようじんハ一せうべんきようをしてをるのににつぽんじんハながくて十ねんばかりきり それからにつぽんへかへつてゆくとせけんのやつがなんにもできないもんですからすぐにひとりてんぐになつてしまいなんニもできないようになつてしまいます わたしもそういふようになつてしまうのかとおもふとみがずうつといたします わかれとなりますとかねてせハになつたひとたちにハすこししんもつなんかもしなくつちやなりますまいとぞんじます いろいろとつまらないことニものいりがをゝくまことニこまります ことニよつたらしよもつもゑもすこしハこゝにをいておかなけれバならないようニなるかもしれません まへにかいてをきましたとうりこちらをたつのハどうしても六月のなかごろニなるでしようよ そうするとにほんにつくのハ七月すゑごろニなるでしようよ こんどハまづこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし もうぢきですよ

1893(明治26) 年4月3日

 四月三日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉大賀候 此頃ハ毎日天気よろしく木も余程青く相成申候 巴里の森も此年ぎりと思ヒ眺申候事ニ御座候 野村靖氏の為ニかき申候女子裸体にて化粧の図共進会ニ受取られ申候 仕合の儀御安心奉願上候 二三日の内ニ気晴し旁倹約の為メ田舎遊ニ出懸申度存候 久米 寺尾 大鳥諸氏已ニ田舎の方へ被差越候故巴里ハ殊の外淋しく相成候 貝坂の杉氏の三男梅三郎と申者二三日前ニ当地着 昨夜独逸へ被立候 梅の兄竹二郎五六年前より当国里昂府留学 今度弟の道案内として当巴里へ来候 兄弟共日本ニて知り合居候故久し振にての面会うれしく覚申候 昨日ハ一緒ニ終日暮し申候 梅公の話ニ赤坂見附下辺の体裁余程変り候様子 九年間ニ変り候事不少と奉存候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1893(明治26) 年4月14日

 四月十四日附 パリ発信 父宛 封書 先便より申上候通り共進会一件も首尾能く片附き画の方の事ハ全く終り申候得共引上の為ニ日々面倒臭き事出来いそがしく暮し居申候 久米氏も来月の十日頃ニハ当地出発 先づ伊太利国を一通り見物しエヂプト印度を経て帰朝さるゝの見込ニ御座候 私も亜米利加を通らぬ事なれバ此の上も無き道連 数年間一緒ニ学ビたる上世界一の美術国を共ニ経廻り歩き金の盡次第ニ舟ニ飛ヒ乗り帰り行こそ愉快千万ニハ御座候得共何分ニも東西ニ別れねばならぬ道都合残念至極ニ御座候(中略) 帰り着て直ニ困らぬが為六尺計の幅の布長さ四丈半計手ニ入れ試ニ送り出す様絵具屋ニ申付候 絵具ハ別ニ独乙国ノミユニクと申処へ注文可致存候 此の絵具ハ未だ試み下申候得共近頃の発明とかニて余程よろしきとの事承り候(後略) 父上様  清輝拝

1893(明治26) 年5月20日

 五月二十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)こんどのびんでゑもいろいろおくりました ゑハみんな父上様にさしあげますのです にほんでハてほんのいゝのがないのにハなニよりのこまりたろうとぞんじます 四五日まへにわたしのゑのせんせいのいなかニあそびニいきました せんせいハこのごろハぱりすからてつどうばしやで三十分ばかりかゝるしづかなところニひつこんでをりましておんなのてほんをたのんでゑをかいてをります うらやましいことです またじぶんのたのしみニいろいろめづらしいはなをうへつけてをります わたしがたつときにハめづらしいはなのたねなどをくれるとゆつてをります せんせいはもうことしで四十四五になりますがなかなかきぶんのひとニていろいろおもしろいはなしなどいたします(中略) あめりかにながくひつかゝりさへしなけれバ八月にハおめにかゝることができます(後略) 母上様  新太拝

1893(明治26) 年6月1日

 六月一日附 ブロル発信 父宛 封書 皆々様御揃益御安康奉大賀候 私立仕度も今ハ全クすみ只舟の出る日を待ち暮居るの姿ニ御座候 巴里ニてぶらりと致し居れバつまらぬ事ニ物入多く且何となく心せわしく候故又々例の如く田舎ニ引込みゆつくりと最後の日を送る事ニ御座候 今度の田舎ハ巴里より気車にて僅一時間半計の処ニ御座候 泊り客七八人も有之候得共皆静かな連中にて仕合の儀ニ御座候 私ハ手本ヲ雇ひ毎日野原の木の蔭にて勉強仕り面白く暮し申候 船ハ来月十七日ニ出る筈の処十三日ニ相成候 十日頃迄ハ此処ニ画などかき遊ビ居積ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1893(明治26) 年6月14日

 六月十四日 (船中日記) 西洋の千八百九十三年の六月の十四日朝十時二十分の気車で巴里を立つ とうとうオレの命が之レできれて仕舞ニけりだ 停車場迄送て来た者ハ皆親友の者共計さ 先其名ヲ記せバ寺尾 河北 大鳥 吉田 杉田 川村 別れと為ても別ニかなしい事もなニもない 矢張近在ニ遊ニ行時の心地さ ブローニユニ着たのハ二時十分頃也 途中でハ若夫婦一組いやニつゝき合たりなんかしてふざけるので思ひの外時が早く立た 亭主ハ英人 妻ハ仏人也 妻の野郎ハ仏語が出来ないと見へて亭主が例の妙な調子で仏語をしやべる 一寸をとなしい半分馬鹿の様ナ男だ 中々以て女ニほれて居ると見へて雑談をする 人目をはゞかるなんかんて事ハ西洋でハ流行らぬから別ニめづらしい事もネへ 雑談をされて女がノンと云処をやさしく色めかしてニヨンと云のハ面白かつた 中々ぬからぬ面付のめすさ 目口鼻の相様一と通りまつげが長いので何ニと無く一寸悪ク無様ニ見ゆる 毛の色ハ黒さ まあなんでも間男ハ受合の方らしい 手の指などのふとい処を以て奴が英人を亭主ニした原因を考て見るニ其女ハどこかの田舎の者で身分の軽き者 其レニ英人先生旅の空でほれ込みまじめな男だもんだから口車ニ乗せられてとうとう本式ニ妻とした者と裁判す 今ニ舟に乗つたら今少シハすゞしく為るだろうなんかんて話して居る 処でハア此奴等もオレと同船するのか之レハ妙だと一時思つたハ大間違 奴等ハ英国ニ渡るのだつた 此の者共の外に気車ニ乗合た者ハ独逸人夫婦 棒も壺も六十以上の老人等 極まじめでなニか話して居る それから仏人が一人 三十五六の男 どこかの会社の雇で用向で英国ニ行と察す 始の頃ハ手さげの中の書附などの取調をして居たが後ニハ腕を組で仕舞た ブローニユニ着く三十分位前ニ湖水の様ナものゝ有る処を通つたが其処で英人の妻の仏人と話が始まりました ツールトとか云て泥見た様ナもので日ニほして薪の代用ニするものを取る 重ニ貧民の用ゆる所也云々 弁ぜつたくましく論した 其外ニハ本当の英人夫妻 年の頃五十計 此奴等ハ真ニ英人さ 前向ニ座て居たが気車の着少し前ニ何ニやらたつた一と言云ひカわした計 ブローニユニ着くと船会社から人が来て居たので其者共ニ荷物の切符を渡し只傘と杖と持た計りで奇妙な宿引を引連れて町見物ニ出懸く 先づ宿屋ニ傘かくしニ入レテ置た小説をあつけ波止場に行く 船ニハ今夜の十一時半頃ニ来いと云事だから此の方ハ安心 波止場ニ行着くとなんだ夕立と云次第 波止場の中頃ニ在る御休家と云様ナ茶見世に立寄る 雷が鳴るやら大雨さ 此の雨を幸手紙ヲ少シ書く オレハ全体亜米利加の銭がもう直ニ入るだろうから少シ(半分以上)銭を替へさせなくつちやなるめへと案内ニ相談して見ると銀行ニ連れて行くと云 其処で少々小降ニ為た時をうかがひ茶屋を出るとザアザアと来て走り出シテ税関の出張所と云様ナ処の門ニしばし雨宿 又小降ニ出ると又大雨 又雨宿 とうとう鉄道馬車ニ飛ビ乗り銀行ニ行着く 百仏丈銭を替へた 皆札でよこした 亜米利加ニハ日本の様ニ紙幣流行と見ゆ 此の銀行から出様とした時の雨ハ盛さ しのをつくとハ此事なるべし 向の辻の坂の様ニ為た処ニ川が出来鉄道馬車ハ通らなく為て仕舞ヒ上つた オレ様なんか傘がネえので大困り 又走つたり雨宿したりして近所の酒屋に立寄しばし休息 それからとうとう雨が晴れたので宿屋に帰る 時に六時頃だつたか それから又手紙書を始た さて夜のめしハ先づ上等 独りで食たから中々愉快 食後ニハ又手紙ヲ書た 郵便切手と状ぶくろを買に煙草屋に行たら驚た すてきな美人がへい入らつしやいましと云訳 アヽブローニユと云処中々以テ馬鹿ニならぬ処だぞと思た 十一時半の乗込と云のだから時が少し有り過る体だ 此の方が急ぐのよりいくらいゝかしれない あつちこつち港の辺をぶら付 時を計つて宿屋ニ帰り案内者を連て船付場ニ行く オレ様の御召船ハ御値段がお安い丈植民を連て行舟だそうだ 道理でさつき種々さつたな出立をした連中が大きな包などしよつたり頭の上ニのせるやらして町を通つたのハオレ様の御伴の者共なりと知られたり 其一隊が船附場の待合所ニ一杯這入込で居上るわい アゝどうも変ナ心持ちにならせ腐る 住なれし国を打すてゝ又生て帰るか帰らぬか知れない旅ニ行く どんな考をして居上るだろう ナンタ若い者共は雑談なんかして居て苦のネへ野郎共だ いよいよ乗込ヲ始めたのハ十二時過ニ為た 先づ伴廻りから乗せ上ら 世話人の奴等がヒツチかるやらなニやら丸で毛だもの同然ナ取あつかいをする 十九世紀で文明とかなんとかかんとか立派ナ様ナ事を云て居る世界ニハ珍らしい 人間同等の権理なんかんて御ふざけハいやですよと云議論ヲ実行して見せて呉れ様ナものさ 移住者の人種は三四種ごたませ也 伊太利人と渋色のアルメニヤ辺の者共が多い様だつた 総勢で百八十人とか聞く 其奴等が乗り込んでから上等中等の御客が乗た さて其乗た舟ハ小蒸気ではしけ舟也 岸から本船迄十五分位懸つた 本船ニ乗り移る時ニハオレなんかが先で移住者が次也 這入口ニ船の御医者が立て居男でも女でも子供でも赤んぼでも皆一々頭を検査シテから通す 頭がはげた様ニシテ出来者でも有りハしないかと思ハれる様ナものハ別にして置て皆とまぜず 之レがすんでから荷物積が始まつた なんでも舟の出たのハ二時頃だつた どうもねる気が無かつたからかんばんをぶら付て居たら夜がほのぼのと明て来た

1893(明治26) 年6月15日

 六月十五日(船中日記) あんまりおそくなるから甲板から下りて部屋ニ這入つてさてこれから寝ませうとして見るとサアなんだか変だ 変だと云船ニ酔たのかと思かもしれないがそうぢやネへ 何と無ク別れがつらいとでも云様ナあんばいさ だが今度の旅ハ又来る事があるわいと云考が充分ニ有ると久し振で帰ると云のと二つあるもんだから九年前ニ日本を出る時の心地とハ大違だ なんだ此の辺の海ニ青光の有る事ハ妙だ 先年ブランケンベルクで和郎や次郎公なんかと砂を海ニなげてピカリピカリとするのを見て楽だ事が有つたなどを思ヒ出す アヽモウ事も人もさよならだ 此処ニ一つの仕合有り オレの這入る部屋ハ全体二人入だか上等客が少ないので独りで押領 少ないと云ても随分居る 幾人か知らん 三四十人ハ居るよ 朝七時頃ニ目がさめたが少しぐつぐつして居る内ニ鐘がなつた 之レが朝めしの金でもう八時だ 海も静でハあるし気分ハなんともないから一番食ヒニ行た 上等丈あつて食堂ハ広々として中々奇麗だ 長い机が二ツならびニ為て居て給仕人が一つの机ニ二りづゝ居る さて何ニをめし上りますかと云てこん立を出されたのニハ閉口 英語の様ナもので書て有るからさつぱり解らネえ ぐつぐつして居てやつたら之レハどうだと云て持て来たものを見れバ米とむぎとこネまぜたネいぼの様ナものさ 先つ其レヲ少し取て食た 砂糖と牛の乳とを懸て食うのだから甘い甘い 其レヲペロリとやつつけて仕舞うとこんどハ何ヲと云体 こいつハしめたりだがこん立が解らねい くりかへくりかへみて居る内ニコールドミイトと云のニ見当る 之レハ目の前ニチヤーンとバタやからしなんかと列べて有るので手をのばせバ直ニ取れるのだ だが横文字が読めるのだ 食物を申付ケルのニぐづぐづして居たのハ食ヒ度いものが無かつたからの事だと云事ニ察さして仕舞つて呉れんと思ヒ其冷肉ヲ呉れと云て取て居る処に今独りの給仕が之レハ如何と云て肉のてり焼と云体のものを持て来た うつたりもたりさ 其レも取て食ふ 其外ニ豆茶ヲ一杯やつゝける 其レがすんで外ニ出て見ると下等奴等の植ぼうそうが始まつて居上ら 之レハ一種の見物だ 小僧がなく 女子がしかみつゝらをする 就中十七八の尼ちよ等いやがつてにげようとするのを水夫がふんづらまへと医者がごしごし丸で肉でもきるようニして植る 女ハべそをかくやらオラオラと云てさけぶ 間もなくすんで仕舞なんかんてのハ面白かつた 之レがお昼頃迄つゞく 昼めしも無事ニすむ 晩めしハ五時半頃 それから又夜の九時ニお茶だ 今日ハ終日袖が浦の中だつたから始終色々ナ舟ヲ見懸た 陸も右の方ニ時々見ゆ 英国の南岸と知られたり 夕方から少しづヽ波が立つて来たがナアーニたいした事ハネへ だがなんだかめしヲ食のニきびが悪かつた

1893(明治26) 年6月16日

 六月十六日 (船中日記) 今日ハ曇りだ 舟もたてニ上つたり下つたり 段々へどヲはく奴等が多くなつてきた 下等の奴等ハ大抵皆やつゝけて仕舞板の間ニ女子供皆ごたまぜニごろねだ 此の船は日本通の仏船とハ違つて上等ハ船の中央だからたてゆれの時ニハ余程ゆれが少ない 夫レニ引かへ下等ハ頭とけつだからむちやにゆすぐられる おまけニ食ヒ物が悪いのだものを なんだかパンににしんの干物の様を食て居る たまるもんか 下等のかんぱんハ下で上等のハ上だ 中等の甲板ハ矢張上等の続だけれども垣がこしらへて有つて上等の処ニハ来る事ハ出来ない 上等の奴ハどこニでも行ける 仕合仕合 オレなんか巴里で支那人と云ハれて閉口して肩幅狭く暮し付ケテ居たのだから殿様ニ為た心地で大威張 ゆうべ夜中の内ニ袖が浦ハ通り過て仕舞て今日ハ大西洋 波が有ると云のぢやネへが何分ニも波が大きいから舟ハひよこ付てる 上等奴等も段々べとをはき始めた 晩めしニハ余程人数がへつた オレが船ニ弱いくせニなんとも無いのは不思議でならない めしなんかゞ非常ニうまいぜ 九年間西洋食で体が前より丈夫ニ為たのかナ 夫レとも酒をのみならつてお酒でへどをはいた事なんかゞ有るから容易ニ胸が悪クならないのか知らんて 酒で思ヒ出シタ 此の船ハ米利堅流で食事ニ酒は無い 水計だ 酒の飲み度い奴ハ葡萄酒でも麦酒でも別ニあつらへて取るのだ オレ様ハ御倹約でお冷ヲめし上る 船中でのオレの楽しみハ下等の奴等のごたネの様を見るのだ あワれ至極 むかしの戦争のあとか又飢きん年とでも云ヒそうナざまだ いごけない様ニいき付て居るおつかさんの母をさぐつて居る赤子があるとかとみれバ又其わきニげろをまくらニして目をぎたつと見出シテ青ざめて居る小僧も有り 此の者共ハ総てゞ七百五十人計だそうだ ホロニユの猶太人が一番多いそうだ 其他伊太利人アツシリヤ人等也 仏人も少シハ居るとの事 大抵荷もなニも持たず只打被のまゝの者が多いそうだ 気楽ナ連中也 上等の客ハ四十人だ 中等ハ四十五人 中等の中ニハ随分下等ナ人間が多い様ニ見ゆ 今日夕方に一人の亜米利加人が話ヲしかけた 此の男仏語ハ出来ない よんどころなくイエスと云しやれ久米公ニオレの得意ナ処ヲ見せてやり度いナ 其米人ハ独逸で音楽の修業をしたのだそうだ 直ニ其奴の知人の女ニ引合した 其女も伯林からの帰りだそうだが仏語を一と通り話すので先づ訳は解る ブーロニユニ此の船ニ乗る時ニ若い二十五六の男が独り乗た やせぎすの色黒 寧ロ黒より黄ろの方 まあ誰れかれと云より久米公の種類だ どうもどこかで見た奴ニ違ヒないと思つて居る内ニどう云ピウシかで話が始まり聞て見ると此の男ハオレが暮村で先年知り合ヒ一緒ニ水浴びなど幾度もしたカナダ国の画師キヨユルンの友人でいつか暮村ニ来た事も有り又キヨユルンから暮ニ居た黒田と云奴の事ヲ兼て聞て居るとの事 道理で見た様ナ奴だとオレが思つたのよ 処でハゝアそうかと云て直ニ知り合ニ為た アヽ河北の女博士ニ聞度い事が出来て来た 舟がこんなニ非常ニゆれる時ニともかはなかに立て居て見ろ キユーツと高くなる時ハいゝがシユーンと下る時ニハからだ丸で浮様でへその下の辺から金玉の根の方迄こそぐつたいような変な心地がするぢやネへか 之レから先が問題だ なんと女もこんな心地がするかナアー 金玉がなかつたらこんな心地ハしないだろう それとも和郎の説ニ依て女ハ男ニ金玉のはへそこなつたのだとして見れバアノ手や足を切てのけた人が寒い時など無くなつた手の先や足の先が寒いと云様ニなく為た金玉がこそぐつたくなるかも知れぬ 分らネへや

1893(明治26) 年6月17日

 六月十七日 (船中日記) 今朝も曇だ 舟のゆれ方も昨日の様ナもんだ オレ様ハ未だ酔ハない 変だぞ いよいよ酔ハないのかナ そう為てくれゝバ何よりの仕合だ 下の甲板の奴等が何ヲ歌うかと思ヒ気ヲつけて聞て見るとアノ学校などよく人が歌て居たトンテーヌ云々だ 妙ナ感を起させ上るわい 之レハ仏人の一群か知らん 多分伊太利人で仏蘭西から来た奴等なるべし 此のほかニ女まじりで英語だの又何処語だか知らない言葉で歌歌ふ一組有り 歌の調子等で歌ふ祈りの歌ニ似て居てかなしくてよし 半分ハ波の音ニまじり半分ハ風ニ消えアヽあんなきたない奴等がどうしてあんなにいゝ声を出すかと思ハするわい ブーロニユではしけ舟に皆を乗りこました時にアツシリヤ人が独り大声で丸で日本のをいわけ歌の様ナ調子で歌ヒ始めた時ニハ余り面白い心地ハしなかつた 移住者の内ニ独り風琴(アツコルデオンと云器)を引く奴が居る 時々プーピープーピーとやつて居る 之レデ一番米国ニ渡り金貰でもやらかさんかとの大胆者か或ハ自分の道楽か何ニしろしほたれ切て居る者の中て面白そうニやつて居るのハ却てかなしく聞える様だわい 其野郎も今日ハいき付たものか琴の音ハさつぱり聞えなく為て仕舞つた あゝ今日ハ昼後は少し晴れたが其代ニ夕方から波が一としほ高く為たかと思ハる かへすがへすも不思議ナノハオレがなんともなくめしなどをうまうまやらかすのだ 今日なんか湯など命じて潮湯と云次第 なんとしやれてるだろう 日本通の舟では毎日でも只匁で湯ニ入られた事だと覚えて居るが今の船ではそう云訳ニハ行かぬ 妙ナ切手の様ナものニ記名をさしたから銭を取られる事ニ違なしだ 段々と知り合が出来る 昨晩の男が今朝若い女を又一人引合した 此の女ハ矢張米国産にて画ヲ一年程巴里で学だとの事だ ブーグロ流がきらいだと云ので遠慮なく話が出来る オレの画の写真だの両サロンの絵入番附など引出しテ来て見せてやつた 之レから少シ美人の評判を致しませうかネ 先づ中等ニ二人有り 黒毛ニ黄毛だ 黒毛の方の奴年の頃十六計り 即ち二八と云処だから結構でげす 兄の様ナ奴と二人でブローニユで乗つたが人種はとるこ辺らしい 舟乗場で誰かと話す処を聞たが仏語の達者な事丸で仏人の如シサ 面ハ決シテ美人と云のぢやネへが一寸奇ナ面だ 下ツピロの方だ 矢張面中で一番いゝのハ目だろう 目が黒い様ニして少シ釣て居るから悪くネへ アハレナるかや舟ぎらいと見へて直ニやつゝけ時々黄い青い色ヲしてちんばを引乍ら甲板ニ上つて来る アヽ何処かのやんごとなき御方かナア 病気ニ為るとハやさしい 第二号の美人ハ黄毛だ 此の者ハたいした面ぢやネへ 何処と云て非常ナ処ハない 只ちよいと悪気のない様ナ面をして居ると云丈の事 年の頃は十八九 アンペラの夏帽でいやニめかした様ナ処身分のいゝ者とハ決して思ハれない 多分田舎者だろうよ 若い処と引張の分子が少い丈で持て居るのだ 下等の出カセギ連ノ中ニハ可成ナのが居る様だが人数が多いのとごたネニ寝込で居るのでどうも取調が行届き兼る 一番よく倹査ニ及だのハ上等だ

1893(明治26) 年6月18日

 六月十八日 (船中日記) さて上等の女連始終見懸る奴ハ十五六人も居るが此の内子供や婆を取りのけてサア入らつしやいましと云壺が十人計ハ大丈夫居る ナサケなやと云言が直ニ出て来る こんなニ大勢居る内ニ面と云程の者僅ニ二つ丈だ 此の者共ハいづれも和蘭陀種だ 矢張黒ニ黄だ 年の頃二九か二十かと云処だから申分なし 姿ハ中々いゝ オレの話し相手の米国の画師アレキサンダーハ黄い方の奴が悪く無いと云つたがなる程面立ハ黄い方のがいゝ様だがどう云もんかオレは黒い方の奴がいゝ 金の鼻はさみの目金ヲ懸けて少シあをぬいた様ニして歩くざまがお気にめした どうかして知り合ニなり度いがそう云わけニも行かず 先づ女なんかとつき合ハ大抵此の位の処が極た 只見る為ニ出来てる動物だものヲ 上等の客ハ独逸人 和蘭人 亜米利加人 仏人だ 仏蘭西の婆さんで三十五六の者が一人十位の小娘ヲ連れて乗て居る 博覧会見物ニ行のだそうだ オレ様ニ話ヲしかけた 乗合人の内で博覧会ニ行かないと云奴ハ一人もない オレも博覧会見物だと云て居るがべらぼうめ博覧会なんかどうでもいいのだ 米人のめすと云奴ハ一種奇な動物だ 朝逢た時もこつちからへいつくばつてびんたヲ下てあいさつを云ニ行くのを待て居るのか中々向から礼をし腐らネへ 之レか三四週間ハ奴等の在所をへめぐるのだから一番研究してやるぞ まあなんと云ても此の舟中で面白いのハ下等だ 体屈ニ及ぶと直ニ下等見物ニ出懸る 五六ケ国の人間が集つて居る丈面付モ種々雑多だ あつちこつちと見廻つたら可愛いのが三つ四つ見当つた どんな心持で居上るか知らん 昨晩などもアツシリヤ人と伊太利人の様ナノと集つて一人が笛をふき三四人手ヲたゝいて拍子を取りアルゼリヤの躍の様ナのをやつてしきりニ楽で居た 教育のない連中だから苦しみ少なくわれわれよりハ気楽なりなんかと云人有れどどうもオレニハそうとは思ハれない なぜそんなら夕方などニあんなニ悲しい調子の歌など海をながめ乍ら歌て居るのだろう ナアーニ奴等だつてすみなれし処を去て言葉も分らぬ之レから先どうして生て行けるか知れない処ニ向ケ行ノハ悲いニ違ヒないのだ あのゴロ寝をして居ながらオレなんかゞ見物して歩くのをさもうらめしそうニして見て居るぢやネへか 此の一事でさへも困しみ有る事ハ明かナもんだ オレの考でハ奴等ハ教育が無い程困しいの悲しいのと云事が多いだろうと思ハれあの下等の奴等が直ニ腹を立てゝ見たり又賎い者の子供ハいやニなき虫だのなんかハいゝ証拠だ 教育が有れバこそ悟りニ近づいて居るのだからつまらない事ニ感じネへ道理だ 物事ニ取て弱いのを女子供と云ぢやネへか 今日終日曇だが気候ハ昨日なんかよりあたゝかだ 海ハあらいと云程ちやネへがお昼御膳の頃から少シぺこ付始めた 食たものが少シ不平ヲ云て居る体だ 下等で五ツニなる小僧が一人今朝ごネたと云話 今ニ又死ぬ奴が出来るだろう あんなニきたなくごたごたニして居る上ニ只の時でもべとニ為りそうなものを食て居るものヲ無理ハネへ 之レモ亦一生だ どうも下等の奴等が気ニなつていけない 今晩もめしを食てから丁度二階から通りヲ見る様な理屈で上等の甲板の手摺ニ依て下等見物をした オツト其前ニ其前一と事有つた 今晩のめしニ金米糖類の菓子を出シたので其レヲ食ハずニかくしニ入れて来て下等の小僧等ニなげてやつたのさ 其レヲ御縁ニ仏語を話す伊太利人 之レハ年ハ三十位だが子供等の親爺と見へて小僧等ニ仏語で難有旦那様と申なんかんと云て其序ニマア聞て下され 此の船の食物があんまり悪いので今ニ此処に居る者ハ皆いき付て仕舞ます(on va crever)と云た 夫レからすこしして前ニ云た手摺ニ依りかゝつて又下等を見物したのさ そうすると前の男が顕れ出でゝまあ御覧被下こんなものを食ハせます 之レで生て居られるもんですかと云て半分腐た様ナ見た計でも胸の悪く為る様ナハラン(我ニシンの類)とパンを二片れ見せた 丁度其時に船の医者(米人)と副船長(蘭人)とが下等の病室の様ナ処ニ這入て行たので先づあいつ等ニ此の食物を見せてもつと何か食へる様ナ物を貰ハんと思つたのか今一人の骸骨の様な伊太利人で年の頃二十三四と見へた男が其にしんとパンを取て副船長のあとニ副て這入らんとしたのさ 其処ヲ水夫が見て手早く押しのけた 云ヒ訳ヲ云へども言葉は通ぜず水夫の方ぢや聞もせず 処で腹ヲ立て手ニ持て居たものを地ニたゝきつけた(感腹面白し) 水夫ハ相手が地ニ打ちつけたものをひろつて皆海ニすてゝ仕舞た どうも天下の事ハ思う様に行かず腹立たしき事が多い 今夜此の伊太利人の不平を聞て教育のないものだと云て困しみの少ないと云事ハない オレなんかなら不充分ながらも世の中の事ハ大抵此の位の事とあきらめを付くると云事が有るけれども下等のものどもハそう云わけに行かないから困しみハ却て多いニ違なし 切角知合が出来たのだから之レから色々下等の事ヲ研究してやろうナンダ考て見る 船の奴等が此の下等ナ者共をあわれと思ハないのハ無理ハ奴等ハ始終此の類の人間を見付て居るから 併し昔し話でもなんでもなくしかも文明国の真中で此の類の生活が有るのハどうも変だ おとなの奴等ハアヽどんな苦しみをしてもいゝと云様なものゝ可愛そうなのハ小供だ 大勢居る内ニ中ニハそれこそ玉の様ナのも居る どう為り行ものか知らん アヽ入らん事ニ心配する 之レモ日暮し芝居ニ行てないて帰て面白かつたと云が如し さつき四時半頃ニハハア今夜ハめしが食へまいかと思ハする様ナ胸具合がしたからこん畜生めと大憤発船の鼻の高低く為る処ニ行てどしどし運動してやつた 一時間たらずやつたら汗が出て来た 其処で下襦袢を取りえへ夏の襟かざりなどしてチーンとしやれ込み食堂ニ出懸るとめしの甘かつた事 いつもニかわらずめでたしめでたし 今日ハお天気ハ先曇勝 此の辺の海ハブレハ辺とそんなニ色ハ違ハない 夕方などハ特ニブレハの北海の事などを思ヒ出すわい 武烈坡の時代ももう一と昔と為て今から考へると矢張妙な考ニ為る 久米や河北や次郎公なんかもこんな心地ニ為るか知らん アヽ過去し事と云ものハいゝもんだ 上等の女の子の話ニ一人忘れたのが有つた 和蘭陀の女で一人旅と見ゆるが和蘭国の服ヲ得意で平気で威張て被て居るわい あの例の金銀の甲ハ冠て居ないが白い頭巾ニ金のかんざしを小びんニさし込み腕の半分迄きりやネへ袖の黒の衣物だ 腕ハアノミツデルブルグ辺で見たのゝ様ニうでだこの様とハ此の事だ どうしてあんなニ赤くなつてるもんか不思議千万 其女年の頃二十四五ニも為る 面付き丈長く立派ナ代物さ いやニチーンと構て居るが先づ下女かなんかだろうと思ふ

1893(明治26) 年6月19日

 六月十九日 (船中日記) 日ニ増し舟のゆれ方がつよく為る様だ 今日ハたてニも横ニもゆれるわい いつ胸が悪く為る事か知れないからけんのんでならない 今日の波の様子ハ本当ニ大西洋だと云てもいゝ 随分きも太く打ち上る 曇てる相様ハ昨日ニかハらず 大西洋と云ても大西洋の北の方の事だからこう云曇天気の方が相応で面白い 尤も下等の奴等の中ニハアツシリヤ或ハ伊太利などあつい国の者が国風の儘でしやがんで居るのだから日の無い方がかなしみをそへて目出たし 米利堅人の女ニへいつくばる事ハ実にあハれだ 女ならでハ夜の明けぬ国と云のハ先づ此の米国の事とした方がましだ オレなんかを二つ合しても中々及びもしない様ナ丈夫な女があまへ面をして長椅子ニべらりとやらかすと先づ其足をケツトで丁寧ニ包でやる 夫レから寝ながら何ニか食と御仕舞ニ為りました時ニハへいと云体で皿だの猪口だの取てのける(中略) 一人の奴などハ毎日女を取りかへて何時間となくこそこそ話の様ナ事ヲやつたり又書物を読で聞かしたりして居る オレなんか余程気ニ入つた奴とでなければあんな事ハとても出来ネへ お勤だと思つてやつて居るのか 将又壺でさへあれバと云あきらめ心から来て居るのか なニしろ妙な生れ付の御方がた也 オレの知合のアレキサンダーはオレの友達丈有つて奇な奴で米人と生れて居ながら女ハ面倒臭いと云て御近付ニならずニ居上る 開ケタ奴だ感心 今霧雨が降出したので皆幕の下ニ来て長椅子ヲならべてオレ様に面みせと云体だ オレは長椅子を借りなかつたから舟ニくつゝいてる共有の腰かけニ懸て居るから丁度奴等の前に居る ナーンダへたな面の行列 余りほめたもんぢやネへ 先づ矢張此の連中で見るニ足るのは和蘭壺の鼻目金だ オイネへさんおめへさんは一寸見上げたぜ 休でる暇ニ針仕事ヲ始めた めすハ矢張めすの様にして居なくつちやだめだ オレ様はなんと云ても下等の連中が好きだ 之レから少し下等の美人の評を致しやせうから此の上等の甲板から士官部屋の間ニ一人有り 年の頃十七計(オレハ若いのでなけりや見が付かない)中肉中ゼへ面丸き方 目大き方 歯ハ至て奇麗でよくそろつて居る 毛の色ハ栗色 陸ニ居る時なら前髪の処をちゞらすのだろうが今ハやつれきつて其毛がひたいの処ニ半分計右から左の方へたれかゝつて居る 人を見る時ニハ左の目をネブツて片めつほをして見る ネズみの一寸さつぱりとしたはかまニ黒の上衣 肩の処が少シ高く為つて居ても腕の処がそんなニ広くないのを以て見れバ去年の流行の衣物也 頭ニハ何ニやら黒い布を冠つて居る 言葉ハよくは分らないが独逸語の様ナのを話して居るらしい 此処を通り過て船の頭の方ニ行くと三人列んで座て居る娘達有り こいつらハポロニユの猶太人ならんか オレ様のお気ニめしたのハ三人の内の真中の奴だ 毛の色ハ矢張栗だが極うすいのだ 仏語でももう此の位のハブロンと云のだ 面の形ハ余程丸い 年の頃ハようやく十六 チエスト おつと女ニチエストと云ノハ男の恥だつた ごめんなさい 被物ハ上衣が茶色の竪横じま そで口などニ椽が取つて有る そんなに破れハ居らぬ様だが色合から形ちからどうしても四五年以前のものと見ゆ はかまハ黒で羅紗のうすつぺらなやつだ 頭ニハ白の極うすい毛織の布をかぶつて居るが乱髪の後ニたれたる様シコの多い事と察せらる 人相ハ口小さき方 鼻あまり高からず 外ノ二人の様ニ決して猶太鼻ぢやネへ 目も余り大きくハネへが目付何となくおとなしく其内ニはずかしみとかなしみとをふくませたる まあどう云不運でこう云人間のくづの中ニこんな顔色をした者が有るかなと思ハせる アヽ下等のもの思の少ないと云うのハどうしてもうそニ違ない 昨日そうつと其女を見て居たら仲間の娘連と指くらべの様ナ事をして居たがアノ左の手の紅指ニ可成大きな仏蘭西で云アリヤンスと約束の指わの様ナ金の指わをはめて居るのハどう云訳かナ 此の女の立つた処ハ未だ見ないけれど今一人の奴と大抵同じ位の高さらしい せいぜい高くてオレ位のもんだろう オレより却て低くハあるまいか 面の色ハ第一奴ハ青白の方だが第二の奴ハ少し赤みを帯て居る オレ第二の奴の目付が余程気ニ入つたわい 他分こんな奴等ハ亜米利加で地獄でもやるのだろう はずかしい様なまの悪い様ナ面付ヲするのも此の船中限りの事なる可し 始終変り行のが浮世だ こいつが消ゆれバ又外のものが出て来るわい 盡せぬとハ甘い言葉だ さつき伊太利人の奴を見かけたら今日の昼めしニハかなりなものを食ハしたと云てよろこんで居た 此の貧乏人の集まりをおつかさんニ見せて上たらいくらお金が有つても足りまい オレでさへも銭を呉れてやりたく為るから 昨日のひる後ニハ燕の様黒い小さな鳥が二三匹船ニ付てしばらく飛で来た 又遠方ニ大きな長三四間もあろうかと思ふ様な黒い魚がビンタをヒヨツクイヒヨツクイ出して行のを見たが今日ハそんなものハさつぱり見ず 船ハ矢張毎日見懸る 今日ハいつもより横ゆれが強い故今机の上ニ皿なんかゞ落ない様ニ箱を置て舛ヲ造つた 又三等の話だ さつき和蘭陀人の亜米利加ニ二十五年程住て居ると云奴が来いと云ので奴ニ付て三等の甲板ニ行た 奴ハ中々面白い事をやらかす 三等中の美人の様ナのをよつてそいつニ葡萄酒を半本づゞ貰れてやるわい そこでオレが前ニ記した頭ニ白い布を冠て居る一寸目付が悪くネへと云奴の処ニも行た 畜生め 独逸語を話すのだからオレ様ニハ何をぬかすのだかさつぱり分らない いよいよそばニ依てよくよく見て見ると少しでぶすぎおまけニ横の方ニ歯が二三本足りないや 困つたもんだ女なんてものハ之レだから困る 之レで奴の云事でも解ろうもんならおしまいニ違なしだ 今夜ハ月がなかなかよかつた 船の奴等の面も見知つて今日なんか一緒ニいろんな事をして遊だ 先づ船中の遊と云ハ甲板ニごばんの様ナものを書き其碁ばんの中ニ四とか十とか又十五とか書て有る 其レニ向テ遠から丸い板を長いへらの様ナものでスルスルツと押てつき込むのだ 夫レで其丸い板が甘クごばんの中ニ入れ其這入た処ニ書て有る数を取るのだ 其丸い板ニハ赤い筋のと白い筋のと二た通り有つて同じ色のが四ツヅつ有るから総て八也 今日此の勝負を米国ニ二十五年居ると云おぢいのイタリと云奴と麦酒を一本懸てやつたら負ケた 又綱で丸い大小のわが出来て居るのを丸い高サ一尺足らずのキヨンをニユーツと立つた棒ニ向て遠からなげて夫レニわを引懸つこさ 之レハおれ様ハ未だやらない 今一つの遊ハ六人仲間が居れバ五ツ白墨で場所の印をつけて置き一人ハ鬼でチヨイと自分の場所をはなれて外の奴の処ニ移る奴が有ると其明場所をネらつて飛ビ込むのだ そうして始終皆チヨイチヨイ走り廻り這入処のなくなつたのが鬼さ 此の外の遊ハ皆ジグリーと丸く為て立て居り丸く為つてひもを皆ニギツテ居る 其真中ニ鬼が立て居ひもニはめてある小さナのを皆隣から隣手から手ニ歌の調子でまわす 其丁度手ニ握り合した処を見付ケられたのが鬼ニなるのだ 船長なんかも一緒ニ為てこいつを一度やらかした

1893(明治26) 年6月20日

 六月二十日 (船中日記) 今朝昨日の蘭人と銘々半瓶の酒を三四本かくしニ入れて下等の奴等ニほどこしニ行た 先づオレハ奴の下知ニ従てやる理屈 これハ全ク心静めの為だからどうでもいゝ様ナものゝ色気の有る糞の様ナそんなニ貧乏でも無い様ナ先づ安引張か極みだらな職人で子の一二匹ハ大丈夫隠しびりをしたと居体の奴ニ呉れたりなんかするのハ余り感服セヌ 一と廻りして帰りがけニ例の伊太利人ニ出つこあした こいつハ先づ一寸此の連中でハ気が利て居て面白いから仏蘭西の残り銭が一仏隠ニ這入居たを幸其レヲ呉れてやつた ひる後の三四時頃から雨が降り出シた 散歩する場所が無く為つたので極に困る 下等の奴等の閉口の様ハ言語道断 夜食前部屋ニ引込み少シ読書す 夜ハ亜米利加人 和蘭陀人等と煙草部屋でドミノウイストと云かるた打をならつてそれをやらかしとうとう二仏計の勝ニ為た 給士の黒んぼニ呉れてやろうとしたらあした之レで酒を買てのむから取て置けと云ので其儘持て引込む 時ニ十一時也 部屋に這入てネようとして見たがなんだか色々と巴里辺の事が頭ニ浮で来てネむられず 書物を開てしばらく読む〔図〕

1893(明治26) 年6月21日

 六月二十一日 (船中日記) 今朝起てみると天気がなかなかいゝ 朝めしを食て甲板ニ上つて見ると日がかーんと当つて居るが随分寒い だが丁度十一月の初霜の頃の寒さの様ニいゝ寒さがす 暮村で木靴をはいて紅葉の落て居る中をグワサグワサ云ハして歩いた頃の事などが思ひ出されて面白い心地ニ為て来た もう今ハ大西洋も半分の余通り過て丁度テルヌーブと云島の前の辺ニ来て居るそうだ アヽ時の立つのハ早いもの 前週の今朝ハ寺尾の板の間で目をさましたのだつたがもう今と為てハ巴里も友達も皆もうだめだ 此辺のこんなニ気候の寒いのハ氷が近所ニ流れて居るからなど云人有り 此辺の海ニハくじらが沢出居ると見へてあつちこつちニ潮を吹くのを見受た 但し此のくじらハ通常のくじらとハ少し違つて一種小さきもの也とぞ 聞くがまゝニ記す 今朝も和蘭人と酒二本計持て下等ニふる舞ニ行た 今日ハばゞあの様な奴ニ計呉れたから先づよかつた 夫レから帰つて来て居ると下等の甲板の片隅ニ年の頃二十五六の男が鼻水をたらしながらしやがんで居る 其者ひざの処二頭から布をひつかぶつて居るからよくハ別らないが先づ年の頃十四五とも見ゆる女の子がつぷして居る 其ざまいかニもあわれニ見へたからナンダこんな奴ニこそ酒でも飲ましてやつたらあつたまりもしてよかろう 且兄弟か夫婦か知らぬが二人で中よくぬくもつて居るところハ面白しと思ヒ直ニ葡萄酒ヲ一本買ヒ同船の若い和蘭陀人の小僧に持たして呉れてやつたら其男の驚た事此の徳利を何ニするのだろうと云様ナ体でなんとも云ハズキヨロリとした処実ニ奇だつた 思ハず吹き出シて其儘ニして帰つた あとハどう為たか知らん

1893(明治26) 年6月22日

 六月二十二日 (船中日記) 今日ハまあ無事 和蘭陀国のお娘様方の御望みとか云事で画師をお招きニ相成る 難有仕合即ち蘭人二人の面と鼻ばさみをして居る女の面とをかく 明晩此の船で寄芝居をやらかすので其番附ニ何ニか画をかいて呉れまいかとアレキサンダーもオレもたのまる 無拠次第也 下ニ下りて見ると米人の女の野郎共三四人で何にかの新聞紙の入画などを写して一生懸命ニ番附のかざりをやつて居るわい べらぼうめ本職の画をこんな糞一緒ニされてハめいわく千万とハ云て見てもはて何を画ていゝのかさつぱり分らずソウツト逃げ出シテ呉れた 夕方和蘭陀連と鬼ごつこの様ナ事をしてかけ廻る 九時のお茶のあとで甲板ニ上つたら月がさへて居て誠ニ見事也 仏蘭西人の四十計ニ為る子持の婆さんが其処ニ居て月の見事ナと云処から人生のはかなき事仮令宗旨の考ハともかくも何ニか人間外の人力の及ぶ可からざる力が有ると云事を思ハしむるなど云話が出た アヽ言葉の通ずると云ものハ便利なもんだわい そうして居る処ニ独逸人の小僧が下で皆がカルタをやると云待て居るから早く来いと云ので婆さんニ別れて引込み例の如く十一時迄やらかす アヽ今日ハどうもかるたをやる気ニハならなかつた

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