本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年1月2日

 一月二日附 パリ発信 父宛 封書 謹賀新年 (中略)学校の方も昨日丈ハ休みニ相成申候 来週の始め即ち明後日頃より又々田舍ニ出懸教師の気に入候画の直し方などニ取りかゝり申度考ニ御座候 共進会ニハまだ少しはひまも御座候間今一つ別ニ新しき者を相始め可申候 当年の夏ニハ第一ニ昨年の夏一寸描始め置候婦人の立像を仕上げ仕る覚悟に御座候(後略) 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年1月16日

 一月十六日附 グレー発信 父宛 葉書 益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気ニて田舍ニて勉強罷在候間御休神可被下候 当年の寒さハ余程つよく私当国ニ参リ候より之レ程の寒ハ初メてニ御座候 本日も雪降リニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1891(明治24) 年1月23日

 一月二十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)ことしの寒さハいつもニないさむさでしたがこの二三日はだもちがすこしかわりましていまでハそんなニさむくなくなりましてゆきどけやしもどけでじくじくしてきたないことですがつよいさむさよりもよろしゆうございます もうすこしあたゝかニなりましたらいまよりももうちつとつめてべんきようをするかんがへでございます いまのところてハひとをたのんでゑをかくのでもへやのなかニどんどんひをたいたりまたそれでもすこしさむいといへばなニかかけてやつたりしなければならずなかなかいまのところでハおもうようニはべんきようハできまんせよ たゞまいにちなニかかいかしてをるといふくらいのことです こないだももうしてあげましたとうりよる$らんぷ$をつけておんながはりしごとをしてをるゑをいまかきかけてハをりますがまいにちそればつかりニほねをるといふわけニはいけません といふものハよるのところですからうちのなかをくらくしてあかりをつけそれをとのそとからのぞいてみてかくのですからこのさむいのニひのないところニたつていてかくのはすこしかんしんいたしませんからあたたかくなるのをまつてをります それゆへまづとうぶんハちいさなゑばつかりけいこがきニかいてをります おくつてくださいましたうゑきもせんじつたしかニとゞきました せんせいもたいそうよろこんでをりますからどうぞさよう父上様に申あげてくださいまし くさぞうしのつゞきをまたすこしばかりかきましたからおくつてあげます こんどハまずこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし みなさまへよろしく

1891(明治24) 年1月30日

 一月三十日附 グレー発信 父宛 封書 (前略)国会議事堂丸焼けニ相成候様先日当地之新聞ニ見ヘ申候 立派ナ議論をして世間の人を一番驚かして呉れんなど思ひ居し人達ハ随分閉口致し候事と奉存候 当地此の一週間程前より気候急ニ変り只今のところにてハ外ニて画をかき候ても余り寒さを覚エ不申候 つよき寒さのあと故少しの暖きも余程うれしく感申候事ニ御座候 二三日の内ニ学資金受取旁巴里へ出で来月中ハ学校にて勉強仕三月ニ相成候ハバ又々此の田舍ニ参り共進会への画の仕上ニ専ら力を盡す考ニ御座候 今度御送り被下候金子にて額ぶちの買入れ方など可仕候 額ぶちは殊の外金高な者にて少し見るニ足る程のものは三尺四方位にて百四五十仏ハ掛り候と申事ニ御座候 私二つ程入用ニ御座候間三百仏程ハ丸で此の方ニ取られ可申閉口の至ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年2月5日

 二月五日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎニわたくしことハいつもながらだいげんきニて四五日まへニぱりすへかへつてまいりましてこのごろハまいにちがくこうでべんきよういたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし まづこんげつぢゆうハこゝにをりましてそれからまたいなかのほうニいこうとおもつてをります くめさんもこんげつのすへごろニどこかのいなかニいこうとかゆつてをりますからわるくしたらわたしもくめさんといつしよニをなじところニいくかもしれません けれどもらいげつどうしてもゑのはくらんくわいニだすゑをかきとらなければなりませんからやつぱりいまゝでをつたところニかへつていかなければなりませんよ(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年2月13日

 二月十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたしハまたいなかニまいりました ゑのはくらんくわいニだすゑをせつかくかいてをります どうしてもこうしてもらいげつの十日か十五日ごろまでニかいてしまハなけれバなりませんよ こんどハまづこれだけニいたしてをきませうよ めでたくかしく 母上様  新太拝

1891(明治24) 年2月20日

 二月二十日附 グレー発信 父宛 封書 益御安康の筈奉大賀候 私事大元気にて矢張田舍ニて勉強罷在候 御休神可被下度奉願上候 共進会へ出品の期も段々近づきし為いそがしく相成候 今日より又々別ニ一つかき始メ申候 田舍の女子が野ニてよめなを摘む処の図ニ御座候 此頃の天気ハ真ニ春ニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1891(明治24) 年2月27日

 二月二十七日附 グレー発信 母宛 封書 このごろのおてんきハまことニけつこうです まるではるニなつたこゝちがいたします それゆへまいにちそとでべんきようをいたします けふもこれからすぐニかきにいかなけれバなりませんよ はくらんくわいニだすゑも一つハたいていできました(後略) 母上様  新太郎

1891(明治24) 年3月5日

 三月五日附 グレー発信 母宛 封書 一月二十日つけのおてがみたしかニあいとゞきありがたくはいけんいたし奉候 みなみなさまおんそろひいつもおかハリなくおげんきのよしなニよりおんめでたくぞんじあげます つぎニわたくしこといつものようニたつしやでやつぱりいなかニをりましてべんきようをいたしてをりますからごあんしんくださいまし さてべんきようをしてをるとハもうすものゝときどきハなまけますよ こんげつの一日のひから三日ニかけてまいにちまいにちゑんそくをいたしました このわたしのをりますところか六りばかりあるところのいなかニくめさんがこないだからいつてをりますのでぜひちよつといつてみようとハおもつてをりましたがいつこうとじまらずニをりました ところがくめさんと一しよニいつてをるがつこうのともだちのいぎりすじんのやつがもう二三日するとぱりすニかへるからそのやつがかへらないうちニぜひこないかとくめさんからゆつてよこしましたからとうとうふんぱつをいたしましてこの一日のひニでかけていきました こゝからぼつぼつとあるいていこうかとおもひましたがあんまりをそくなりますから二三りばかりてまへのところまできしやでまいりました そうしてそこでおひるごぜんをたべました そこハぶろると申ところニて二ねんばかりまへニいまそのくめさんといつしよニをるいぎりすじんと一しよニしばらくいつてをつたことがあります それですからやどやのやつなんどもみしつてをりましてひさしぶりだとゆつてよろこびました たつた二ねんきりやたゝないのですからなんニもたいしてかわつてハをりませんでしたがたゞそのやどやのむすこやむすめつこがをゝきくなつていたのニはおどろきました まづそこでおひるごぜんをたべまして一じごろまでゆつくりといたしそれからぼつぼつあるいて三じすぎニくめさんのところニいきつきました とちゆうハまるでなつのようニあつうございましたからきものをぬいでちよつき一つニなつてあるきました それでもやつぱりあせがでました くめさんのいつてをるいなかニハいぎりすじんのほかニあめりかじんがひとりをります そのあめりかじんもやつぱりがつこうのともだちニてたいへんわたしなんかとちかしくするのです 一さくねんのなつぼあにゆびるといふところニわたしがいつてをりましたときもそのをなじあめりかじんといぎりすじんといつしよニいたのです そのあめりかじんハそのいまくめさんのいつてるいなかニもう一ねんのよもすまつてをります そのやつハわたしなんかのようニびんぼうものですがなかなかぎりをたてるやつニてせいようじんニしてハまことニめづらしいやつです わたしなんかゞそのやつのところニいきましてもやどやのはらいなんかをけつしてさせませんよ なぜはらいをさせないかといゝますとわたしがをまいニあすびニこひとゆつてきたのだからをまいがやどやのはらいをするどうりハないとゆつてどうしてもきゝません きたいなやつです そこでわたしがひよつくりでかけていつたもんですからたいそうよろこびました またそのあめりかじんのやつハそこニしばらくをるつもりニてまるで一けんひやくしようやをかりきつてしまいましてすまつてをります 二日のひニハ十一時ごろニそこをたちましてわたしのをるいなかニみんなをひつぱつてまいりました ふをんてぬぶろうと申ところのもりのなかをあつちこつちとみちをまちがつたりなんかしてあるいたもんですからなかなかをそくなりましてこゝニついたときハなんでも七じごろにてもうまつくらニなつてをりました ずいぶんこのひハくたびれました やまのなかをぶらつくときなんかハなかなかあつくあせがながれました こゝでハわたしがみんなニごちそうをいたしました 三日のひニハこゝから二三りあるもれといふところまであるいていきましてそれからきしやでふをんてぬぶろうまでゆきそこでしやしんをうつしました これハこんどのたびのしるしでございます やまのなかやいなかのみちをあるくときのまゝのようすでみんなうつしたのですからなかなかおもしろいのです できてきましたらさつそく一まいか二まいおくつてあげますよ 十二まいを四にんでわけるのですからひとりで三まいづゝきりやとれませんよ ふをんてぬぶろうハりつぱなじようかニてまづとうきようへんニたとへてみましたらうつのみやとでもいゝそうなところです しやしんをうつしましてからみんな一しよニちいさなきたならしいめしやニはいりましてめしをたべましてそれからみんなニわかれました やつらハ三にんづれでやまみちをあるいてかへつていきました ふをんてぬぶろうからやつらのをるふろりといふいなかまでハなんでも三りか三りはんばかりもあるでしよう わたしもみんなニわかれてからぼつぼつとうちまであるいてかへりました わたしのをるところまでハようやく二りはんばかりです そうしてやまみちとゆつてもこのへんのみちハはゞハひろくなかなかりつぱニできてをります ふをんてぬぶろうからこゝへとうてをるみちハぱりすからのほんかいどうですからなをさらりつぱです たなかさんといふうちのおとなりのおかたがこちらニをいでなさいますよしもうおつきニなつたかもしれません 四五日のうちニぱりすへちよつとかへりますからきいてみませうよ またそのびんニけつこうなものをおくつてくださいましたよしまことニありがとうございます あつくおれいを申上ます おゑいさんニもよろしくおれいを申上げてくださいまし そちらでハまたまたわるいかぜがはやりますよしこまつたもんです せつかくごようじんんさいまし まづこんどはこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  ごようじんなさいまし めでたし みなさんへよろしく

1891(明治24) 年3月13日

 三月十三日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事大元気にて本日田舍より巴里へ参り申候 共進会への画も昨日迄ニてかき上候 今より四五日の間ハ出品の都合かれこれニすこしあちこちせねバなるまじと存じ余は附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年3月20日

 三月二十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎニわたしハまことニまことニたつしやにてこのごろハぱりへかへつてをりましてがつこうでべんきようをいたしてをります どうぞどうぞごあんしんくださいまし またぢきニいなかニいくつもりです きようしんくわいニだしますゑもとうとうかきとりましてがくニいれてきのふだしました せんせいニもこないだもつていつてみせました せんせいのおつしやるのニはできがかなりいゝからたぶんうけとられるだろうとのこと もしせんせいのおかんがへどうりニうけとられますようなつごうニなればよいがとおもつてをります またもう二三ねんもべんきようしたならたいていよくかけるようニなるだろうとせんせいのおつしやることです そうゆうわけですからどうしてももうすこしハこちらニをつてべんきようをいたしたいものとぞんじます 父上様ニもわたくしがもうすこしゑがじようずニなるまでハこちらニをいてくださるおかんがへのよしまことニありがたいことでございます わたくしもせつぺべんきようをしてなるべくはやくじようずニなるかんがへです うちのおとなりとかのたなかさんといふおかたもおつきニなりましたとのことニてそのびんからおくつてくださいましたけつこうなものハ二つゝみともこうしくわんにをいてございましたからうけとりました たなかさんニハまだおめニかゝりません あなたさまからのゆうぜんのきれはまことニきれいなものです これハことしのなつおんなのきものニしたてさせましてそれをだれかにきせてそのゑをひとつかこうとかんがへてたのしみニしてをります(後略) 母上様  新太

1891(明治24) 年3月27日

 三月二十七日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気ニ御座候間御休神可被下候 先便より母上様迄申上候通共進会への画も全く描終り差出し置候 今ハ只審査役人等の考一つニて陳列品中ニ加る事ニ御座候間先つ運を天ニ任かして安心致し居候 尤教師ヘハ前以テ見せ申候処至極満足之体ニて少女窓之そばにて読書之図之方ハ多分受け取らるヽ様相成べく共進会之審査役人も此の画を断る様な愚ニハ非ざる可しなど申呉れ候間たとへ断られ候とても気分よき事ニ御座候 且当年ハ幸にして教師も審査役ニ相成候故十ニ八九迄ハ首尾よくはこび可申と奉存候 此ノ前之週間ハ巴里之学校ニテ勉学仕候得共此の週の始より又々田舍ニ帰申候 併し五六日前ニ二日程雪降リ申候 余寒強く其上思ふ様な好天気少なく只部屋の中ニテ少シヅツ修業致すのみ思ひの外勉強出来不申閉口之至ニ御座候 学資金も来月分として二百仏丈残り居候まだ安心ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 私額面ニハ日本字ニて記名仕候方日本人の画なる事直ニ知れてよからんと教師申候 なる程日本人故日本字ニテ記名する事尤の儀と存即ち如左記し申候  明治二十四年   源清輝写  源とか平らとか云姓を記すニハ何んとか云規則(昔からの習わしの如き)もありてみだりニ書く事などハ出来ぬ者ニハ非さるかとも考へ候得共区役所などへ出す書き物とハ異り画之事故源とする方一寸面白しと思ひかくハ記し申候 又他日私が人ニも知るゝ程の画かきニ相成候時とても黒田と無くとて源清輝とあれバ黒田清輝なる事明と存候 御序ニ源平などの姓字のつかひ方御教へ被下度奉願上候 鋤柄清雄様より御手紙被下候得共未だ御返事差上不申候間御尊公様より可然御伝声奉願上候 実ハ何ニも書て上る事無てそれが為延引致候 以上 共進会へ出品の為四方より持ち出したる額面の数ハ六千ニて其内僅ニ千八百程のみ陳列相成事之由ニ御座候

1891(明治24) 年4月2日

 四月二日附 グレー発信 父宛 封書 二月十八日附母上様よりの御手紙慥ニ相届難有拝読仕候 皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事至極元気にて此の週間も亦田舍にて有暮し申候 五六日前一寸巴里へ出候時教師ニ面会仕候処私の画ハ共進会の方にて已ニ検査ずみニ相成油画二枚の内一枚丈ハ陳列品中へ加へらるゝ様都合相成候と申事ニ御座候 先づ之レにて一寸学校の試験ニ及第したる様な心地仕候 一枚にても受取られて仕合の儀ニ御座候 御休神被下度奉願上候 当地の共進会へ油画を出品せしハ日本人にてハ私三人目ニ御座候 尚一層憤発仕来年ハ今少シ上出来の者を出し呉んと折角工夫罷在候 余附後便候 早々 以上 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年4月24日

 四月二十四日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)つぎニわたくしこといつもあいかわらずだいげんきにてやつぱりいなかにてべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし らいげつのはじめからきようしんくわいがはじまりますからこの二三日のうちニぱりすニかへつていきませうとかんがへてをります そうしてらいげつぢうハことニよつたらぱりすでべんきようしようかとおもひますがまだしつかりとハきめませんよ こないだぢうハしじゆうおてんきがわるくそとでべんきようをすることなどハちつともできませんでしたがこのごろようやくおてんきがなをりはななんどもすこしづゝさきはじめました(中略) たつたいまうんどうをいたしましたときはたけのすみのやぶのなかニさくらのはながさいてをりましたのをみつけましたからすこしばかりつまみきつてもつてかへりました めづらしいせいようのいなかのさくらですからこのてがみのなかニいれておくつてあげます こちらのさくらハみんなこんなやまざくらみたようなはなです こんどハまづこれぎり めでたかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1891(明治24) 年5月1日

 五月一日附 パリ発信 父宛 葉書 三月十三日母上様よりの御手紙先日相届拝読仕候処皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 共進会も昨日開会相成候 私も友人二人伴ひ出掛け申候 中々盛なる事ニて出品人の外ニ招かれし人又銭を払て見物ニ来し人等総ニて昨日中ニ一万七千五百人とか来しと申事ニ御座候 金持ちの女子などハ新しくつくりたる春の被物を毎年此の共進会の開会の日より被始むるとか申事ニて皆々非常ニめかし居よき見物ニて有之候 男ハ大抵高帽ニて候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年5月6日

 五月六日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)このまへのしゆうかんのげつようびにくめさんと一しよニいなかからかへつてまいりましてからハがつこうでたつた一どゑをかいたばかりでなまけてをります まるでなつやすみニでもなつたようなあんばいです それといふのもゑのはくらんくわいがはじまりましてそのかいぎようしきニいくやらまたぎんこうにおかねをとりニいくやら しやくせんをはらうやら こうしくわんニおかねをもつていつてあづけるやら それからまたにつぽんのゑをかいてくれとたのまれたのがありましたからそれをかいてもつていつてやるやらなにやらかやらにてなかなかいそがしく一にちたち二かたちしてとうとうまるで一しゆうかんあすんでしまいました どうもこんなことでハまことニいけません しかしもうたいていつまらないめんどくさいようじハすんでしまいましたからこれからまたいなかニひつこんでかきかけてをいたをんながよなべをしてをるゑなんどをかこうとおもつてをります くめもきのふぼあにゆびるといふいなかにたつていつてしまいました たつたひとりニなつてまことにさみしいことです それでもう一ときもはやくいなかニひつこみたくなりました いなかでハしじゆうひとりをりつけたもんですからひとりをつてもそんなニさみしいことハございませんがこのぱりすでひとりニなりぽかんとしてをるのハまことニいやです それでてほんでもやとつてまたなニかうちでかきはじめようかとおもひましたがまづこれもとうぶんおやめニしてとうとうまたいなかにひつこむことゝいたしました あしたのあさの九じごろのきしやでたつていきますつもりです(後略) 母上様  新太拝

1891(明治24) 年5月15日

 五月十五日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしことこの一しゆうかんほどいなかニてべんきようをいたしてをります このごろハてんきもよくなりまたたいそうあつくなりました まるでもうなつです これからまたほねををつてべんきようをしなければなりません ことしハぜひなニかをゝきなものをかこうとおもつてをります をゝきなものをかくようニなりますとどうしてもゑかきべやをかりなけれバならないようニなります そうするとまたまたおかねがよけいニかかります しかしどうもしかたがございませんよ きのふハうしのゑをかきました なかなかおもしろいことです どうもうしなんかハじつとしてをりませんからなかなかむづかしゆうございます うしをかりてそのゑをかくのニそのかりちんをださなければなりませんよ 一じかんニにつぽんのおかねで十七八せんもとります なかなかたかいものです あさとひるごとすこしほねををつてべんきようするとぢき一ゑんぐらいとられてしまいますよ それですからなかなかうつかりとしてハをられません よつぽどべんきようしないとそんです こんどハまづこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじになさいまし またかまくらニでもたびたびおでかけなさいまし かまくらニハかゞをりますかどうです

1891(明治24) 年5月22日

 五月二十二日附 パリ発信 母宛 封書 またぱりすへちよつとかへつてまいりました そのおんちにてハみなみなさまおんかわりなくおげんきのはづおんめでたくそんじあげまいらせ候 わたくしこともいつもあいかわらずげんきでございますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハやつぱりまいにちてんきがわるくなかなかそとなどでべんきようをすることなどはできませんしそれからこのごろハまたもうひとつゑのはくらんくわいができましたからそれをみるためかれこれニちよつとこゝにかへつてまいりましたのです あしたハせんせいのうちにいつてかいてきたゑなんどをみてもらいそれからあさつてハまたいなかへかへつていつてべんきようをするつもりです このごろハもうそちらでハもうよほどおあつくなりましたでしようとぞんじます かまくらなどハさぞよいことでしようよ こないだあるひとニにつぽんのゑをかいてくれとたのまれまして七八まいちいさなゑをかいてやりました そのゑハゑいりしんぶんのようなしんぶんのゑニでるそうです もしそのしんぶんがでましたらかつておくつてあげませうよ こないだにつぽんでじゆんさがろしやのてんしのむすこニきりつけてけがをさしたといふことがしれましてしんぶんニもいろいろなことをときどきだします そのじゆんさがきりかゝつたときのゑだとゆつてきみようなおかしなゑをしんぶんニだしましたからおくつてあげます まことニばかなゑです(中略) いなかでわたしのてほんニなつてくれたをんなのやつニしんもつをしてやるのニなにをやろうかとおもつてかんがへてみましたがなんニもくれるようなものハありません それからだんだんかんがえてみましたところがそのやつハまだとけいをもつてをりませんからとけいをひとつかつてやろうというかんがへがでました さいわいこんどにつぽんのゑをかいたのでおかねがすこしとれましたからこれさいわいとそのおかねでちいさなとけいをひとつかつてやりましたらおゝよろこびをいたしましたよ まづこんどハこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1891(明治24) 年5月29日

 五月二十九日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひおげんきのはづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことハだいげんきにてべんきようをいたしてをりますからごあんしんくださいまし このごろハやつぱりいなかニをりますがまいにちおてんきがわるいのでそとでおもふようニべんきようをすることハできませんよ こんどハなんニもかいてあげるほどのことハございませんよ こないだひまのときニまたまたくさぞうしのつゞきをすこしうつしましたからおくつてあげます まだなかなかかんぢんなおもしろいところニハいきませんよ またそのうちニつゞきをかいてあげます けふまたしんぶんニでたにつぽんのじゆんさがろしやのひとをきるところのゑをおくつてあげます こちらのやつハにつぽんのじゆんさがどんなようすをしてをるかさつぱりしらないのです それからしんぶんニかいてあるのニハそのじゆんさのやつがふいニろしやのひとニきりかけたところがそのろしやのひとのいとこのぎりしやといふところのひとがつゑでそのじゆんさをうちたをしてしまつたとかいてございます いくぢのないじゆんさですねへ せつかくいのちをはめてやるのニつゑで一とうちニうちたをされるなんかんといふのハまことニこまりますよ こんどハこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし めでたしめでたしめでたしめでたし

1891(明治24) 年6月6日

 六月六日附 グレー発信 父宛 葉書 四月十九日附母上様よりの御手紙先日慥ニ相届き拝読仕候 皆々様御揃益御安康の由奉大賀候 次ニ私事至而元気矢張田舍にて勉強罷在候 先日より牛の画一つかきかけ候処已ニ殆ンド出来上り候間其れを持ち巴里へ二三日の内ニ出掛る考ニ御座候 而気晴らし旁風景研究の為久米氏と共ニ仏国東南境よりスイス国辺へかけて三週間か一月程旅行の見込ニ候 景色のよき地ごとニとゞまり画をかき何日ニ何地迄行着などときめる事ハせぬ積ニ御座候 巴里より五六十里の処迄気車にて行きそれから先ハぼつぼつ歩き進み可申候 気車ニてハ景色ハ見へ不申候 以上 父上様  清輝拝

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