本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1887(明治20) 年8月11日

 八月十一日 朝ハ曇 木曜 (トレポール紀行) 今朝ハ目ガ七時頃ニサメタリ 昨夜虫ガ出ナカツタノハ実ニ以テ目出度し 第一番ニ断岸ノ上ニ昇リタルニトレポールノ町ヲ目下ニ見オロシ海辺などニウロツク人ナドハ丸デ蟻ノ如シ 又海辺ノ砂上ニ色々ノ石ヲ以テ敷石セシ如ク見ユルハナニナランカトよくよく見レバ之レハ潮ノ干タル小石原ニ村民ガ洗濯物ヲホシナラべタルナリケリ 是亦一ノ見物ナリ 此ノ景ヲ見ナガラ少シク書物ナド読みたり 心自ラ快ナリ 此処ヲ去テ海辺ニ下リ子供等ノ遊ぶ所などを立テ見物シ食事ニ帰ル途中ニテレールノ娘ニ出遇ヒ其より婆様ガ少シ不快ナル事ヲ聞キタリ 今朝原氏ヘ端書一枚出シタリ 食事後御病気見舞旁レール家ニ行キイバナさんと少シク話ヲ為シタリ 此ノ近辺ノ風景ノよき所ナドヲ教へ呉れしに依り同家ヲ立出デ独りぶらぶらと歩キナガラ景色ナド写シ遂ニウート云町ニ行キタリ トレポールヨリ此ノ所迄四キロメートルトカ有ル由ナレバ我一里余位ノモノカト思フ也 此ノウーニテ見ルべキモノハ寺ト学校ナリト云 此処ニ至ル道ハ砂ホクリガ非常ニ立ち丸デ日本ノ如シ 此ノ町ノ入口右側ニ大ナル公園地有リ 巴里ノ公園ニ比スレバ掃除行キ届カズ余程イナカメキタルモノ也 併シ大木などありて見事也 ウーノ寺ノワキヲ通リ進みしに一ノ掘割リニ達シタリ 此ノ掘割ニソウテトレポールニ帰ヘレリ 途中一二ヶ処ニテ景色ヲ写したり 夜食後亦断岸ノ上ヲ遊歩セリ 人少ナクシテ妙ナリ 暗クナル迄クサノ上ニねころびて西洋手紙ノ下書キヲナシタリ 後又人ノ絶タルヲウカヾヒ野糞ヲタレタリ 之レモ話ノ一ツナレバ臭キヲカマワズ此処ニ記ス 之レヨリ海辺ヲ少シ歩シ帰宅シ手紙ノ下書キなどして十一時過ギ床ニ入リタリ

1887(明治20) 年8月12日

 八月十二日 金曜日 天気よし (トレポール紀行) 今朝ハ少シ朝寝ヲシテ九時頃ニ起キ出デタリ 後チ日本ヘ端書一ツ久松君ヘ端書一ツ藤島君ヘ手紙一本ベルジクナルバンハルトランヘ端書一ツヲ出シタリ 今朝ハよほどすゞしク日なたが恋シキ心地セリ 海辺ヲ少シク歩シテ帰宅セリ 食後母上様よりノ御手紙及ビ吉田麟君より一通ポルトサイドヨリコブレーガ一通 川路 久米両君ノ御手紙ト共ニ達シタリ 実ニうれしさ限りなし 二時頃アルカンボウ先生ヘ一通出シソレヨリタイクツ千万故レール氏ヲ訪ヒタリ 妻君ハ一昨夜要事アリテ巴里ヘ一寸行昨夜十二時ニ御亭主同道ニテトレポールヘ帰リ来る積なりシ故御夫婦トモ無事御着ナリシヤト問ヒシニ下女曰ク 御両人共御無事御着只今旅ノ労ヲ休メ居ル処故明日来レト 小生此ノ不亭主ヲ食ヒタルニ余リ心地よろしからずさらバ明日と云テ立出デしももうハ此家ニ二度ト行クまじとまで考ヘタリ(肝ノ小ナル知ル可シ) ソコデ之レヨリ又例ノ如クボツボツト歩キナガラ景色ヲ写シ先ヅ先ヅ心よく時間ヲ費シ五時半頃海岸ニテ小ナ乞食ヲツカマヘテ一銭ヲ与ヘソレヲ手本ニシテ写シタリ 又洗濯ヲシテ居ル婆ニ子供ガイタヅラヲシテ居ル処ナドヲ見テ独リデ笑而居ル処ニレールノ婆様ニ出遇ヒタリ フト見レバ夫婦娘トモ皆揃ヒテ来れり 婆様及妻君が昼ノ不亭主ノ取アツカヒヲ下女ノ失トシテ謝シたれバ不平も亦消ザルヲ得ズ 今夜ハ共ニ音楽ヲ聞キニ行カントテ約ヲ為シテ別レタリ 食後七時二十分頃ニ昼ニ再ビ入ラジト思ヒタルレール家ニ行キタリ ブドウ酒ヤ菓子ヤスモヽ又珈琲等ノ御馳走ニナリタリ 八時過ギニ皆打ち揃ヒ音楽聞きニ行キタリ 音楽がすみてから皆ヲ送リレール氏ノ門口迄行キソレカラ波止場ノ上ヲ少シク歩シ帰リテ此ノ日記ヲ記シ畢リタル時ハ已ニ十二時十分ナリ

1887(明治20) 年

 八月十二日附 トレポール発信 父宛 葉書 益々御安康奉大賀候 私事去十日巴里ヲ出発仕只今ルトレポールト申仏国ノ北岸海水浴ノ地ニ滞在致居候 知人ト申テハ只レールト申仏人ノ一家族アルノミニ御座候故余リ面白ク無シ御座候 依テ三四日中ニ当地ヲ去テベルジク国友人方ヘ罷越積ニ御座候 当地ニハ外国人至テ少ナク大抵仏人ノ様ニ御座候 当地ニテ一番見事ナルモノハ海岸絶壁ニ御座候 来遊者ハ大抵金持ち也 遊びニ来リ居るト云よりも新調ノ衣服ヲ見セニ来ルト云方ニ御座候 余附後便 早々 頓首 父上様  御自愛専要奉祈候

1887(明治20) 年8月13日

 八月十三日 土曜 晴 (トレポール紀行) 朝八時頃より海岸ヲ遊歩シ一二ツ画などかきタリ 今朝ハ時計クルイテ十一時ト十二時ト取リ違ヘ十一時なりト思ヒテ帰宅セしに十二時にて食事将ニ終ラントシテ居ル処ナリシ 食後カジノ中ノ読書室ニテ巴里ナル川路 久米 郷 久松君等ヘアテヽ手紙ヲ一ツ認メタリ 後カジノニテ音楽ヲ聞キタリ レール氏ノおかみさん達ニモ面シタリ 今夜食事後久松氏ヨリノ伝信達シタリ 今夜九時四十分トカニトレポールニ着スルトノ事故宿屋ノ女亭主ニ室ノ事など一寸話シ置キテカジノニ踏舞見物ニ行キタリ 九時半頃ニカジノヲ去リレール君ト暫時珈琲店ニテ話ヲ為シソレヨリ停車場ニ行キタリシニ巴里ヨリ来着者ノ出向ヒニ来リテ居ル人非常ニ多シ 停車場ノ中ハギシギシノ姿ナリ 然ルニ九時五十分トカニ着ス可キ気車ハ乗リ人多クシテ一時間ダケ遅レ十一時ニ着スルトノ事ガ知レタレバ皆失望ノ色ヲ顕したり 小生ハ愈其言の信ナルヲ聞キ定メ去リテ又カジノニ行キタリ 十一時頃ニ停車場ニ行キシニ待ち受ケ人ノ多キ事前ノ如シ 間モ無ク気車ノ着スルモノ都合二ツ目ヲ見開キテ居リタレドモ久松氏ヲ見ズ 残念ナガラ他分他一方ノ出口ヨリ出デタルモノナラント思ヒ帰宿シテ友人ハ未ダ着セザルヤト問ヒシニ下女曰ク 着セリ 而又停車場ニ君が行キタルト云コトヲ聞キ直ち立出デタリト 小生亦家ヲ立出デシニ町の門ニテ久松ニ出遇ヒタリ 時刻已ニ遅シト雖トモ共ニ海岸ヲ歩シタリ 一ツノ珈琲店ニテシヤルトルーズト云甘キ酒ヲ飲みテ帰宅セリ 久松君ノ室ニテしばらく話ヲ為シ帰リテ床ニ入リタル時ハ已ニ一時頃ト覚ユ

1887(明治20) 年8月14日

 八月十四日 日曜日 晴 (トレポール紀行) 今朝ハ久松君ト海岸などヲ遊歩セリ 午後四時頃ニ例ノ如クレールノ妻君等ニカジノニテ出遇ヒタリ 今日ハイバナサンガ一冊ノ小ナ書物ヲ持ち来リタリ 之レハ日本デ云ハヾ女大学トデモ云ヒソウナモノニシテ行儀ナドヲ記セシモノナリ 其中ニ人ノ気ニ入ルニハ如何ニス可キモノナリナドト云フナドモ記シ有リタリ 如此本ナドヲ持ちてカジノニ来ルナド皆我身ヲ売リ付クルノ一助トナサンガ為メナランカ 随分御骨ノ折レル次第ナリ 此ノ年頃ノ女ノ心中思ヒヤレバ吹キ出シソウナリ 弾丸ノアタラヌ処デ戦ヲ見物スル様ナモノニテ少シモ関係ナキ外国人ノ身ニテ亭主サガシヤ嫁サガシナドヲ見テ居ル程奇ナル見物ハ又トアルマジ 今夜々食後モ亦カジノニ久松君ト共ニ行キタリ

1887(明治20) 年8月15日

 八月十五日 月曜 晴 (トレポール紀行) 朝久松氏ト断岸の上ヲ遊歩セリ 午食後約束故久松氏ト共ニレール家ニ行きタリ 珈琲ヤ音楽などの御馳走ニなりたり 其内ニドサンジユリヤン夫婦モ来レリ 皆打そろひてモンチヨンニ出掛ケタリ 此ノ処ハトレポールノ町より十四五町位の処ニテ茶みせモ有リ亦踏舞場など庭ノ真中ニ出来居ルなり 今日ハ已ニ約束等有リシモノト見エトレポールノカジノナドニテ見受ける娘や青年等多く来りたり 暫時休息シテ舞踏始マリタリ レールノかみさんなどのすゝめに依リイヤナガラ踏舞場ニ昇リ即カドリユナルおどりをなしたり 僕ト一組みになりしハ第一ノ時ハドサンジユリヤン伯ノ妻君第二度目ニハレールノ娘さんなりし 此ノ二人共兼テ知リ居ル人なりし故幾度モ幾度モ間違ヒシカドモ先ヅドウカコウカ引マワシテ呉れタリ 此ノ舞がすみし時ニハ蘇生シタルノ心地セリ 久松氏ハ已ニ踏舞ヲヤリシ事有ルトカニテポルカトカ云二人男女抱キ合ヒテくるくるトマワツテ躍ルおどりをなしたり 併シ其未熟なる一目して知ラレタリ 其足ツキナドノおかしさに取リ敢エズ狂歌の如キモノを  知つたぶりをどりし君が足つきハさながら猫ニふくろなりけり 後チ小生等ハレール氏ヤドサンジュリヤン氏等ト共ニ帰路ニ就キタリ 夜食後波止場ノ上ヲ少シク歩シソレヨリ八時十五分位前ニ停車場ノ前ニ行キタリ 是レ今夜ハ此ノトレポールヨリ皆打ち揃ヒテ隣邑なるメルスノ踏舞ニ出掛ケントノ約束ありし故ナリ ブロンデル氏已ニ乗合馬車ヲ雇ヒ待ち受ケ居リタリ 後チ次第次第ニ集リ来リ同勢二十一人皆其馬車ニ打チ乗リメルスヲ指テぞ進みける 其馬車ハヘゴノ葉ヲ以テ飾リたれバ此ノ馬車ニ乗リテ居ル者ハさわぐ気ノ有ル者タルハ云ハズシテ知ラレタリ 只残念なるハ夜暗クシテ人ノ目ニ能ク付かざりしのみ 婦女や老人等ハ馬車ノ中ニ入リ小生等若キ男ハ皆馬車ノ頂上ニ座シタリ メルスニ着シカジノノ前ニテ馬車より下りカジノニ入ルヤ否舞踏ヲ始メタリ 小生等如キ躍リヲ知ラザルモノハ只見物スルノ外手段ナカリシ 後チ余リたいくつ故カジノヲ立出デ海岸ヲ独リ歩シタリ 夜ハ暗ク人トハ居ラズ只耳ニふるハ岸打つ波の音ばかり カジノノ如キ淫風盛ナルヤカマシキ処ヨリ立出テヽ此ノ処を歩すれバ実ニ仙境ニデモ入リシ如ク心自ラ愉快に堪ヘズ  やみの夜に岩打つなみの音聞かぬ人は躍れ琴のしらへに 後チ又カジノノ中ニ入リシカドモ今度ハピヤノノ音モ耳ニ入らず舞フなる美人モ目ニ付カザリシ 今夜始メテコチイヨンナル躍ヲ見タリ 此ノコチイヨンナルモノハ甚ダ奇ナルモノニシテ先ヅ座ノ中央ニ椅子ヲ一ツスエ其上ニ女ヲ一人座サシメ其足モトニキレヲ一枚敷キ男ガ二三人ヅレニテ其女ノ前ニ行キ一人一人其布ノ上ニ膝ヲツカントス 其時女ガ其布ヲ足ニテ引キ込マシタル時ニハ男トハ躍リ度なきトノ印ナリ 又其布ヲ其儘ニスエヲキテ男ヲシテ膝ヲ充分ニツカシメタル時ニハ其男ト躍る気ノ有ル証ナレバ直ニ二人組み合テ舞フナリ 其跡ニハ又他一人ノ女ヲツレ来テ座セシム 其他女ニ鏡ヲ持タシメ置キ男ガ順番ニ出デヽ後ロヨリ面ヲ其鏡ニ写スナリ其写リたる面ガ女ノ気ニ入ラザル時ハ指ヲ以テ其鏡面ヲコスルナリ 若シ気ニ入リタル男ノ面ガ鏡ニ写リたる時ニハ其鏡ヲ棄テヽ直ニ其男ト躍る也 其他女ニおしろいはけヲ持たシメテ其前ニ出テ来リたる男ガ気ニ入ラヌ時ニハ其面ニおしろひをぬらしむるも有リ 又題ニ出デヽ居ル女ノ両側ニ一人ヅヽ女ヲ座セシメ其前ニハ前者ノ如ク男一人ヅヽ出テ来るナリ 両方ノ人ガ犬ノ吠声ヲナシタル時ハ其男ハお気ニ入ラヌ也 若シ両方ノ人ガ猫ノ声のまねをしたる時ニハ其男ハ及第ニテ真中ノ女ハ直ニ立ちて其男ト躍る事也 又女ニ更フルニ男ヲ以テシ其前ニ女ヲツレ来る事モ有リ 此ノコチヨンナルモノハ前ニ述ぶる如キモノナレバ余輩ノ如キ風習ヲ知らざるモノガ見ル時ハ実ニ奇ナル思ヒヲ為ス事也 少キ女ヲシテ男ヲ撰マシメ又男ヲシテ其気ニ入リたる女ヲ撰マシムルナド遊ビトハ云ヘ少シ度ニ過ギテ甚ダシキガ如ク見ユレドモ西洋人ト云フモノハ変ナモノニテ平気ナ面デなんとも思ハズ 又其父母タルモノモ矢張同然ニソダチシモノナレバ其娘等ガ遊ブヲ見テ愉快ソウニシテ居ルナリ 日本ニテモ近頃踏舞盛ナリト聞ク 此ノコチヨンナル舞ハアルカナキカハ知ラザレドモ随分人ノ性質モ欧洲めきたりと知られたり 小生如キハ通常ノ踏舞ヲ見ルデサヘモ赤面ノ至也 皆々又馬車ニ打ち乗りトレポールニ帰りし時ハ一時頃かとも覚へたり

1887(明治20) 年8月16日

 八月十六日 火曜 雨 (トレポール紀行) 今日ハ朝九時レール家ニ出会ヒソレカラ田舍遊ビニ出掛ケントノ約束なりしカドモ雨天故他分田舍行ハだめの事ならんとハ思ヒシカドモ先ヅレール家迄ともかくも行テ見ル方可然ト相談シ即チ久松君ト共ニ出掛ケタリ 到ればブロンデル氏已ニ在リ 其後十時頃ニドサンジユリヤン伯夫婦来りたり 後又パイヤント云おかみさんが其むすめとむすこをつれて来りたり 即チ人数モ略ソロヒタルニ依リ乗合馬車ヲ雇ヒ之レニ打のり雨をもかまわず打チ出デシハさすが西洋人ノ女たちだけ有リテ勇気有りと僕ひそかに感服仕たり 時ニ十一時頃也 十二時頃ニマヌビルトカ云処ニ着シタリ 此ノ処ニハ一軒ノ茶屋有リ 田舍茶屋ノ事なれバ手まわしなど至而よろしき方ニ非ず 且つおしかけ行きたる人たちはみな巴里人の事なれバおもしろ半分若キ娘等自分にて戸棚の中よりさじヤほうちょうさらなどを取り出しテぺちやぺちやと口をたゝきながら御膳立てをしたるも亦一興なりけり やがて皆々席ニ付き食事の段と為りぬ パイヤンサンノおかみさんとドサンジユリヤン伯の妻君トガ此ノ場中能弁家ト見受ケラレタリ 竹薮ノ雀ト云ハンカ砂利の上を騎兵隊が走ると云ハンカ随分にぎやか過ぎてやかましき程なりし 議事の問題ハ芝居ノ評番役者ノよしやしにていづこも同し女ハ女なりと肉などを食ヒながら感じたり 食事将に終ラントセシ時イバナさんが自分デなにか菓子ヲつくるとて食堂を立出でたれバ之レに続ヒテパイヤンサンのおかみさんそれから一人立ち二人立ち遂ニ皆食堂ヲ打ち捨テヽ台所ニゾ入リニケル しばらくありて菓子も出来上がり食事モ全ク終りたるは已ニ三時頃なりける 是レより又馬車ニテ圃の中ヲ横リクリルトカ云処ニ到ル 此ノクリルハ海岸ニテ見ハラシナド可成よろし 人家と云ヘバ煉化造りのもの二三軒皆家根ハ落ち窓ハ破れ住する人有ル可クモ有ラズ 古戦場とも見受ケラレテイトモあはれなる有様なり 之レ此ノ地ハ至テ不便ニシテ遊ビに来る人なく折角家など建タレドモ皆打すてゝ来らずト云ひ岡の半腹景色最モ美なる場所ニ一軒のあばらや有り 以前ハ金銀宝珠ヲ首ヤ手に飾りし人の住たるものと見エ尖塔有レバ廻り縁有りねだも落ち窓戸ニがらすもなけれども此処らあたりハ大抵客間なかりしかとも知られたり 其家のかた一方の方ニ百姓一人住したり 其百姓が畜ヒ居ル鷄をサンジユリヤンサンの犬が逐ヒ回シ一匹のめんどりの尾のわきの処を赤はだかに為シたりける 圃の番人之レヲ見テ承知せず遠くより集り来リて争ヒ是ニ興りける ブロンデル氏三仏にテ其とりヲ買ヒ入レ遂ニ事穩やかにすみぬ 直ニ其とりを極楽ニ送リ皆又馬車ニ打ち乗リテ走りける 小生等若キ男ハ皆馬車の上ニ乗リ其とりのほろむきなどなしたり(茶屋ヲ出る時より雨ハ止みたまにぽつぽつ降りしのみ) 一つの村ニテ馬車を止麦酒一杯をカタむけソレヨリ皆若キ連中ハ小サナ旗ヲ一本トおもちやのらつぱを一ツゞツヲ買ヒ馬車の二階ニ乗リ込みたり(小生久松氏ト砂糖菓子ヲ少シク買ツテ皆様ニ進上致シタリ)之レヨリ道々其ラツパヲ吹キトレポールニゾ帰へりたり 皆人ニ此ノ様を見セルガ為メニ馬車ニ打乗りたる儘ニテ海岸ヲ一回シ帰へりし時ハ七時頃なりし 食事後ハ例の如クカジノニ行キタリ

1887(明治20) 年8月17日

 八月十七日 水 雨 (トレポール紀行) メルスノ海岸ヲ過ク時雷雨(雹を交ヘタリ) 珈琲店ニ立ち入リテ一杯仕りたり 今日ハ午食ニ久松君ハシヤルパンチエ氏ヘ行キタリ 僕少シク遊歩したり 食後久松君シヤルパンチエ氏ト三人ニテメルスノ海岸ニムールト云貝ヲ取リニ行キタリ 小生久松君ト其貝ヲ網の袋一杯取リ来リレール氏ニ進上セリ 今夜ハコチヨン躍りの大会故夜食後カジノニ出掛ケタリ 十時迄ハ音楽ト只ノ躍ノミ有リ 十時ヨリコチヨン舞ヲ始メ二時ニ終リタリ 随分見事ナ事デゲシタ 今夜加藤書記生よりのお手紙ヲ受け取りたり 

1887(明治20) 年8月18日

 八月十八日附 トレポール発信 母宛 封書 一ふで申上度候 その御ちにては父上様あなたさまおんはじめみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことせんじつはがきでちょつと申あげ候とほりさる十日の日にぱりすをたちましてるとれぽうるといふところにまいりました このるとれぽうると申ところはぱりすからいそぎのきしやにのりまして三じかんはんばかりかゝるところでございます うみばたであるせいかぱりすからみるとよほどすゞしいことにてなつやすみにあすびにくるところにはもつてこいでございます わたしがこないだのおやすみのときにほんてぬぶろうと申いなかにあすびにいきましたときにしりあいになりましたれいるといふひとがかないぢゆうでこのところにあすびにきております そのれいるさんのおかみさんがよきやどやなどをめつけてくれましてまことにしやわせをいたしました そのれいるさんのひとたちはみんなそろつてよいひとにてよくしんせつにしてくれます よいあんばいです わたしがこゝにきてから三日めにひさまつさんがついてきましたからはなしあいてができまいにち一しよにはまばたをあるくやらまたむるといふゆはにくつゝいてをるくといほそながいかいをとりにゆくやらしてまいにちおもしろく日をくらしております またこないだのばんれいるさんのひとたちやそのほかよそのひとたちおとこおんなばゞやむすめあわせて二十一にんづれにてのりあいばしやを一つかりきりそれにのつてめるすといふはまつゞきのとなりのまちのおどりばにおしかけましてさんざんにおどりちらしてよるの十二じごろにかへりました(わたしなんかはおどりができないもんですからたゞぽかんとしてみてをるばかりずいぶんまのぬけたはなしです) またぢきこゝのきんじよのいなかのもんちよんといふちよいとしたちやみせのあるところにもれいるさんのかないぢゆうと一しよにいきました そこのにはのまんなかにいたのまができておりましておどりをするようになつております さてその日にそこにあつまるといふやくそくでもあつたものとみゑわたしなんどがいつてからよそのおぢようさんやおかみさんやわかいおとこなどだんだんとあつまつてきましてとうとうおどりをはじめるといふだんになりました ところがれいるのおかみさんやおぢようさんがわたしたちにもぜひをどれをどれとゆうことにてなんぼいやとゆつてもきゝいれずとうとうおどりだいのうゑにひきあげられました さてそのおどりはつうれいのおどりのようにおんなとおとことくみあつてぎいぎいめのようにきりきりとまわるおどりではなく おんなとおとことつごう六にんにてふたりづゝならんでまるくなりそれからたてにならぶやらまたてつなぎをしてまわるやらするをどりでした わたしとくみになつたひとはさんじゆりやんといふくわぞくさまのおかみさんにてしつておるひとでしたからまことにつがうよくよいあんばいにひきまわしてくれました 二どめのおどりのときにはれいるさんのむすめのいばなといふひとがわたしをひきまわしてくれました うまれてからはじめておどりなんどといふものをしてみました こちらはにつぽんとかわりおどりがまことにはやりなにごとゝゆへバすぐにおどりですからどんなひとでもおどりはしつてをります またをどりなんどもするときにはかならずおとこのほうからおんなのまへにわざわざでかけてどうぞわたくしとをどりをなさつてくださいましとあたまをさげておたのみ申あげてをどりをするのがれいしきです それゆへわきからみてをるとじつにふきだしそうにおかしいことがございます わたしなんかのようにおんなのひとたちがぜひおどれおどれとすゝめるにいやだいやだとことわるほどしつれいなことはなくまたきのきかないいなかじんめきたはなしです けれどもしらないことはいたしかたはございませんよ またおとゝいはれいるさんのひとたちやまたぱいやんさんといふところのおかみさんとおむすめとむすこそれからさんじゆりやんさんがごふうふづれそのほかわかいおとこのひとでぶろんでるといふひとがひとりつごう十一にんにてのりあいばしやをかりきていなかまわりをいたしました ひるのござんはまぬびるとかいふところのいなかりようりやにてたべました めしをたべてしまつてからかいゆといふところにいきました こゝはうみばたにてずいぶんみはらしのよいところですけれどもすまいてはなくじんかは三つ四つありますけれどもみんなやねもかべもこわれてひとはすまわずあばらやになつてをります これはあんまりべんりがわるいのでみんなひとがこなくなつてしまつたといふことです そのあばらやのうち一けんもとはりつぱなうちだつたろうとみゑとんがつたやねがあるやらまたてずりがあるやらなかなかりつぱなうちがあります そこにもだれもすまつておりません まどはこわれねだはおちさもあわれなすがたになつております たゞそのいゑのかたはぢのほうにひやくしようがすまつております そのひやくしようがかつてをるにはとりをわたしたちと一しよにいつたさんじゆりやんのいぬがおつかけまわしとうとう一ぴきのめんどりのけつぺたのところのほろをまるでぬいてしまいかわもひきさけてしまいましたところをひやくしようがみつけてしようちせずとうとうだれかがそのにわとりを六十せんとかでかいました こゝからまたばしやでかいゆのまちにゆきました そのとちゆうでわたしなんどわかいおとこがよつてたかつてばしやのうゑでにはとりのほろむきをいたしました かいゆのまちでびるを一ぱいづゝのみそれからみんなちいさなふらんすのはたを一ぽんづゝとおもちやのらつぱをひとつづゝかいましてわかいものはおとこもおんなもみんなばしやの二かいにのりそのらつぱをフくやらうたをうたうやらしながらるとれぽうるにかへりました ちよつとおもしろいあすびでした わたしはこのやすみのうちにはせつぺおもしろくあすびやすみがすんだら一しようけんめいにべんきようしようとおもつております につぽんからのかわせもぱりすのこうしくわんについてをるそうです いづれかへつてからうけとりませう めでたくかしこ 母上様  新太拝

1887(明治20) 年

 八月十八日 木 晴 (トレポール紀行) 今朝郵便局ニ行き加藤氏より送り呉れたる二百仏ヲ受け取りタリ 午後久松君トシヤルパンチエ方ニ行キ後ち三人ヅレニテ遊歩セリ 四時頃ニ水あびをシたり 実ニ寒くしてなんともかんとも御話しにならず 二三分間ヲ水の中ヲ飛ヒ歩き陸ニ上リテ更衣室ニ入リシ時ニハ歯ニ痛ミヲ覚エタリ 之レ寒サの為メニ歯ヲヒドクカミシメタルガ為メナリ 後チ共ニ一珈琲店ニ入リ珈琲及ビコンニヤク酒ヲのみたり 夜レールノ妻君等カジノニ来ラズ 僕ハ日本ヘ出ス手紙ヲ読書室ニテ認メタリ

1887(明治20) 年8月19日

 八月十九日 金 晴 (トレポール紀行) 今朝十時頃ニ日本母上様ヘ手紙ヲ一通出したり 後チシヤルパンチエ氏及久松氏ト舟ニテ一時間丈デ海上ヲアチラコチラトまわりたり 心地よろしからず 今朝久米氏よりの御手紙着セリ 午後例の如クカジノニテレールノ妻君等ニ会ヒタリ 夜モ同然 シヤルパンチエ氏及久松君ト三人ニテカジノノ中ノ珈琲店ニテ茶ヲのみ話ヲ為シ十時頃ニ立チ出シ時ニハ音楽モ早終ワリ人皆立去る所なりし レールノ妻君等ヲ逐ヒカケテ行キテ別ヲ告ゲタリ

1887(明治20) 年8月20日

 八月二十日 土 晴少シ雨 (トレポール紀行) 今朝バンハルトランヨリのお手紙ヲ受ケ取りたり 此頃ノ天気ハ晴ト云より曇ト云方也 午食後レール家ニ先日ムルヲ入レモち行キタル網ヲ取リニ行きたり 今日ハ二時頃より仏蘭西ホテルト云旅店ノ主人ナルルトレートル氏ノ別荘ニ行カントノ事故久松ヲ呼ビニ帰リ海岸などヲ尋ねしかども見当タラズ依テ一人ニテ又レール氏ニ行キタリ おばあさん おつかさん及イバナさん都合四人ニテ出掛ケタリ 一町計りの処故間モなく着シタリ 後チコイユト云若キ男モ来りたり 此ノ人ハ所謂色男ト云風ノ人ニテ至テしやれもの也 イバナの母さまが此ノ人ヲ娘ノむこに引キ込まんとする風見エたり 実ニ奇ナリ 五時半頃皆打ちつれ立て帰りたり 夜食後ハ例のカジノニ行きたり 今夜ハ久松氏少シ不快にてカジノニ来らず 只食事後遊歩のみして帰られたり

1887(明治20) 年8月21日

 八月二十一日 日 晴 (トレポール紀行) 今朝食事ニシヤルパンチエ氏ヲ久松君ガ招キタリ(食事前右両氏及他一人ノ仏人ト四人ヅレニテ少シク遊歩セリ) 食後シヤルパンチエ氏方ニ行キコニヤク酒ノ御馳走ニナリ後シヤルパンチエ氏 久松君ト三人ニテ寺見物ニ行キタリ 此処ニテシヤルパンチエ氏ニ別レタリ 後例の如クカジノニ行キレールノ妻君等ニ面シタリ 又カジノヲ出デホテルドフランスの珈琲店ニ打チ寄リレールノ妻君が珈琲ノ御馳走ヲシタリ 今夜ハメルス邑ノカジノニ行カントノ事ナリシ故夜食後レール家ニ行キタリ 久松君ハイヤダト云テ来ラズ レール家ニテ又珈琲ノ御馳走ニナリ画師セネシヤル氏夫婦及レールノ婆様等ト談話セリ 九時頃ニレールノ妻君 婆様 むすめト四人連レニテ乗合馬車ニ乗リメルスノカジノニ行キタリ 今夜此処ニ来りしもコチヨンナル舞ガ有ルトノ事ナリシ故也 シカルニ此ノコチヨン舞ハ夜の十二時ニ始まるとの事ヲ聞き小生ハ潜ニ閉口仕候 扨テ是ニ一ツノ奇談ゾ起りける 今夜ハ知人少ナキ地ニ来リし事故レールノ娘舞ノ相手なくポカントシテ居ル事多かりけれバ少シク御タイクツ被成タルモノト見エ今夜はモウねむくなつたる故帰らんなど雑談半分云ヒなどし居りしを婆様ハ至極の同意ニテコチヨンモ十二時ニはじまるなれバ見ずして帰るニ不如トノ説ヲ立テ居られしがレール妻君の気ニ入らず 議論数回説遂ニ合ハズ折角コチヨンヲ見ニ来リたるニ今更帰らんなどとハ其意ヲ得ズ併シさ程ニ帰リタケレバ直ニ帰らんと外套など引キ掛ケテ立タル相様ハ勇マ敷ぞ見エにける 併シ娘ハ娘ダケソウ云ハレテハ帰リモ得ズ妾ハ帰ラずト云ヒツヽグツグツトシテ居ル 其内ニ早十二時ニナリぬれバコチヨン舞を始メント若キ娘ヤ少年等皆立さわぎまたゝく内に椅子ヲ以テ円陣ヲぞ作りける 此ノ時群の中より顕れ出でしハかわいと思ふコイユさんあり たゞしくイバナさんに向ヒ君ノ為メ一人ノコチヨン相手ヲ見付タリ 躍リ給ハヾ此方ヘト云ハレテ娘今ハ又躍リ度キ気の出デたるも是非なかりける事どもなり はいと答へし娘の声を母様わきより打ち消してコイユヲ謝絶したるにぞなみだの種とハなりぬ いと花やかに躍り出したるコチヨンヲ後になして四人連カジノヲ出でしは十二時十五分頃と覚エタリ メルスノ浜の土手ヅたヒばゝにむすめにまごむすめ切テモ切レヌ三人が中の争ヒ言も元をたゞせバ躍リから楽み変じてなげきとなり娘の為メに娘をなかし笑ふて帰る此ノ浜道をないて過るも楽みを楽む事を知らざりける女わらべの身の上ぞ墓なかりける レール家の門に迄送リテ帰リ床ニ入りし時ハ一時少し前トハ見エタリ〔図 写生帖より〕

1887(明治20) 年8月22日

 八月二十二日 月 晴 (トレポール紀行) 今朝十時頃ニ起キ出で少シク海浜ヲ歩し帰リテ食事ヲ為したり ソれより久松氏ヲ送リテ停車場へ行きたり 同氏ハ一時十七分ノ気車ニテ巴里ヘ向ケ発られたり シヤルパンチエ氏モ来り居られたり 之レヨリ又此ノトレポールニ一人ト相成淋みしき事也 後チ海辺ヲ少シク歩しソレヨリカジノニ行昨日ノ日記ヲ記シタリ シヤルパンチエ氏モ同処ニ来りたり 後シヤルパンチエ氏ト海辺ヲ遊歩シ六時前ニホテルドフランスノ珈琲店の前ニレールノ妻君等ヲ見掛ケ暫時立寄りて話ヲ為シ後チ打ち連れて立出でたり(是ヨリ先キカジノヲ出デテシヤルパンチエ氏ト巴里珈琲店ニテ茶ヲ一杯のみたり シヤル氏ノ馳走) 夜食後同ジ旅店ニ居ル一青年ト遊歩シ九時頃ニカジノニ入りたり レールノ妻君等已ニ在リ 今夜ハ踏舞なく只音楽のみ故ニいつもより早くしまいたり レール家の門迄送りて帰りたり 僕の時計先日より大病なりし処今日誤テ板敷の上にをとしたれバ遂ニ全クくたばりたり 不自由此ノ上もなき次第也

1887(明治20) 年8月23日

 八月二十三日 火 晴 (トレポール紀行) 今朝は久松君へ端書一ツ出したり 朝食事前少シク遊歩シたり 食後カジノニ行キ久米氏等へあて端書一ツヲ認めたり 後ち波止場の橋の上ニテ乞食老人の面を写し居ル時シヤルパンチエ氏ノ友人ニ出会ヒ後ち共ニ遊歩セリ 別れて後同宿ノ若キ男ニ出会又共ニ遊歩しめるす町の手前迄行きたり 此ノ男ハ家内打ち連れ立ちて今晩七時頃ニ出発し帰ると云 巴里ノ近在ナルシヤンチイトカ云処ノ者ニテ馬車製造家の子ナる由なり 同人と別れてよりカジノニ行キタリ 時ニ四時半頃ナリ 即チ読書室ニ入リテリヽヤツドヲ少シ読みたり レールノ妻君等来らず 夜食後独リニテ少シク遊歩し後カジノニ行キレール氏ノ為メニ場所ヲ取りたれども来るか来らぬか知れぬ故念ノ為問合セニ行きたり 門口ニテ出会ヒタリ 今夜ハカジノの辺ヲ散歩するのみにてカジノの中ニハ入らずトの事也 即チ小生モ御同道仕たり レールの妻君 娘の外ニチユモン氏夫婦ニ一人のむす子及セネシヤル氏ノ妻君等なりし 余ハカジノニ立寄りて椅子ノ上ニのせ置キたる杖ヲ取リ来りたり 後ち皆様と御一緒ニカキネノ外ニ立ちて舞などを見物し夫レカラレール氏ノ門口迄行キテ帰れり 時計なけれバ時を知る不能

1887(明治20) 年8月24日

 八月二十四日 水 晴 (トレポール紀行) 食後エドワール及ヒコラン先生ヘ手紙ヲ出シタリ 今夜レールノ妻君が巴里ヘ行クトノ事故暇間乞カタガタ六時頃ニ同家ニ行キシニ折角食事セントシテ居リシ処なりけれバ一緒ニめしヲ食テ行ケトノ事ニテ遂ニ御馳走ニなりたり 御深切感入る次第也 七時前ニ妻君ハ出立せられたり 今日久松君よりの手紙ヲ受ケ取リたり

1887(明治20) 年8月25日

 八月二十五日 木 晴 (トレポール紀行) 今日ハレール氏ト魚市ニテ出会ふ可キ約束ヲ為シ置キシ故七時頃ニ家ヲ出デ八時頃迄魚市をぶらつき居りしかども来らず 依テレール家ニ行シニ折角出で来らんとして居処なりし 即チ共ニ又魚市ニ行キタリ 後レール家ニ帰ヘリレール氏ト猟銃ヲ一ツヅヽ肩ニカケテメルスノ射的ニ行キタリ 之レ此ノ銃ノ力ナドヲ試る為メなりし 午後日本ヘ手紙ヲ一通出したり 三時頃ニ家ヲ出テレール家ニ行キタリ 之レバアサマヤムスメト共ニツタノ葉ヲ取リニ行カン約束ヲナシ置キタル故也 到れバ二人共一足先キニ出デタルトノ事也 故ニ直ちニ其つた取りニ行きし処ニ行キツタ取リノ手ツダイヲ為シタリ 併シ此ノ処ニハ思ふ様なツタカツラなかりし(此ノツタハ今夜ノ舞の衣ニ付ン為メノモノナリ)之レヨリヂユモン家ニツタモラヒトシテ出掛ケタリ 夜食後レール家ニ行キシニ妻君モ巴里より帰リ居リ久松氏ノ日本衣モ持ち来り呉れたり 折角娘ノ仕度最中ニテ二階ニテ大騒きヲ為シ居りたり やがて仕度モすみて二階より下りける其様子ヲ見れバカヤノ様な白キ布ノ衣ヲキて頭ニハツタノ葉ノ冠ヲ頂キ首ヤ胸腰のあたりにはツタノカヅラヲハヒマワさせ衿のヒだにモ同ジクツタノカヅラヲぬい付ケタリ 髮ハ乱しテ後ニ下ケ衣の丈ケハスネ半分胸カら腕ハハダヲ顕ハし手ニハ五尺計リノツタノカヅラヲ巻キ付ケタル杖ヲ持ちタレバサナガラ山姥の出来ソコナイトゾ見られたり 西洋ニ来リテカラ如斯様子ヲ為シタル事なけれバ何トナクキマリノ悪キ事ナリける 時刻ハよしト家内中皆打ち揃ヒテ出デタリけり 小生トレールノ娘ハ面ヲカブリテ馬車ニ乗ジ他の人ニ先キダちテ躍リ場ナるホテルドリヨンドールトカ云処ニ行キタリ 今夜ノ会ハカジノノ主人ポルトマン氏ノ御馳走ナリ 来客ハ男女共ニ種々様々ナ様子ヲ為シタリ 或ハ船ドウト為リタル有リ或ハアラビア人ト化ケタル有リ曲馬ナドニ出てヲドケヲスル役者之風ヲシタル人モ四五人計リ料理番ト為リシ人モ三人見受ケタリ 其他荷物ヲツヽム極あらき布ニテ作りたる礼服ヲ着タルモ有リ 又古代ノ服ノマネシタルヲ着シタルナド見事ナリケリ 女ハ大抵田舍娘の風ニ仕だしたり 中ニハ金色ノ銭ノ如キモノヲヌイ付タル衣ニ冠ヲ頂キ天竺ノ女王トデモ云ヒソウナ風ヲなしたるモ有リ 又画ナドニ見ルエヂプト女ニ化ケタルモ有リ 又アルザスノ女モイタリアノ女モ見受ケタリ 右ノ化者連ガ皆寄リ集リテ例ノ如クキリキリキリト踏舞ヲ始メシ有様ハ随分見ルニ足るモノナリシ 或人シキリに小生ニ躍リをすゝめいくら不知ト断リテモ聞入れず合手ノ女ハ某が周せんするニ依リ是非次回ニカドリユヲ試みる可シト云ヒシニ依リ迷惑千万ながら遂ニ諾シたり 然ルニ同人女ヲ尋ねに行キタルニ未ダ合手ヲ得ザル女二人有リトノ事ナリ而其二人ノ女ハ一人ハおかみさん一人ハ未嫁人ナリ 依テドチラニテモ好みの女ト躍る可しト小生以為躍は少シモ不知我身なれバ少キ女を引キつれて赤面さするより寧ロばさまをこまらするニ不如ト思ヒ然らば其おかみさんの方ニつれ行き給ヘト云ヒければ直ニ其女の前ニつれ行きたり 見れバ先日よりカジノナドニテ度々見タル姿ハ牛ニよく似て居り年ハ三十ニナルカナラズ いやにめかして一目見テモへどの出そうな女なりけれバこいつ一番しまつたりト思ヒシガ最早致し方なかりし 小生ヲ連れ行きし人其牛女ニ向ヒ此ノ人ハ未ダ躍ヲ心得ざる人なり 共ニ躍ヲ試み給ハヾ幸甚之至なりと云ひしニ牛女ニガ笑ヒシテ曰ク 未ダ躍りし事なき御方ナラ甚ダ以テ難儀なりト 小生心ニ打ち歓びこいつ甘しト一礼し私事ハ未ダ一度モ躍を仕候事無御座又是非躍リ度気のある者ニモ有之候得ば御暇可仕候トいんぎんに礼ヲ述べて其前ヲ立去りける 世話ヲせし人此ノ牛女が小生ニ向ヒテ如右無礼のあいさつをなしたるヲ気の毒ニ思ヒけん レールノ妻君ノ前ニ来リテ彼ノ女ハ実ニ愚ナリ愚ナリト声高らかに述ベタルゾ奇なりける 夫レヨリ又暫時シテ小生ノ処ニ来リ是非今度ハ他一人ノ少女ト躍る可シト云ヒけれども小生已ニ前の失錯ニこりたれバ二度迄同し芝居ヲするニ不及ト思ヒ断然謝絶セしモ不聞入 此ノ少女ハ仮令躍を知らざる人なりとも一向かまわずトノ事ナレバ是非来れと云に依り其深切ヲ無ニするも不本意ト思ヒ遂ニ其少女ト躍る事トハなりぬ 此ノカドリユト云躍ハ先日レールノ娘ナドヽモンチヨンニテ躍リし事モあれバまんざら全ク知らざるニも非ザリシ 且ツ今夜ハ一生懸命と云勢ニテ念ヲ入れたる事なれバさ程みぐるしき失策もせずどうかこうか首尾よく此ノ舞をすましけるぞおかし 此ノ処ヲ立出でし時ハ早四時過にして天モ少シづゝ明ケ始むる時なりし 馬車ニテレール家ニ行キパンヤスモヽ又葡萄酒などの御馳走になり暫時話ヲシテ帰宅セし時ハ五時頃ニシテ夜ハ殆ンド明ケ渡リタリ

1887(明治20) 年

 八月二十五日 トレポール発信 父宛 封書 一書拝呈仕候 酷暑ノ候御尊公様御始メ皆々様御揃ヒ益御安康之筈奉大賀候 私事モ至而壮健去十日巴里出発仕候後未ダニトレポールト申海水浴の地ニ滞留罷在候間御休神可被下候 実ヲ申せバ本年ハ旅行など致す程金子ハ無之候得共此ノ休暇中ニ巴里府ニ引き込み居りてぐつぐつと日を送るも余り面白く無御座候 少し入費ハかさみ候得共処々めづらしき処など見物し面白く日ヲ送る時ハ気も快に相成休暇後勉強相始メ候時も自ら憤発致す事ニ御座候 御送り被下候為換も公使館ニ相届き居り候由ニ御座候 御休神可被下候 四五日内ニ此ノ地ヲ去リ昨年一寸罷越候ベルジク国海岸なるブランケンベルクと申地ニ出掛る積ニ御座候 尤モ昨年同地ヘ罷越候折バンハルトラント申者ト近しく相成今年ハ同人ノ招キニ応シ右バンハルトラン家ヘ向ケ直ニ差し越す積ニ御座候 尚トレポールニ於テハ巴里ノ人ニてレールト申者至而深切ニ致し呉れ時々食事ノ馳走などにも相成仕合の至ニ御座候 家内中皆揃つて手軽き性質故書生ノ身ニ取りてハ都合よきものニ御座候(中略) 先頃ノ便より申上候通リ私一身ニテ二業一事ニ修むる事ハ到底むつかしく御座候ニ付来期ノ始メよりハ愈画学専修ト決心仕候 尤モ法律学ノ如きも学ベバ一通位ニ達するハ必然ニ御座候得共私ノ性質ニテ法律ヲ以テ一生ヲ終るト云事ハ兎テモ出来ざる事ニ御座候 依而法律ハ全ク打ちすて画学のみに死ぬ迄力を入れん積ニ御座候 上手になるならぬハ天命ニ御座候 余附後便 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆様ヘ可然御伝声奉願上候

1887(明治20) 年8月26日

 八月二十六日 金曜 晴 (トレポール紀行) 今朝十時過頃一ね入したり 久松君が送り呉れたる時計一個端書一つ其他藤島君よりの手紙一つを受け取リタリ 食後日本吉田麟太郎君への手紙一通久松君への返事一通ヲ出し而後レール家の近処なる小さな公園の様な遊び場に行キタリ(先日ツタノ葉取リニ来リシ処) 此ノ公園ハ高見ニシテ見はらしよく且ツ後ハ小高クなりし薮あれバ影多く至而涼しき処なり 暫時ニシテレールノ妻君おばあさん及びむすめさん本など持ちて来りたり 後ちロベール氏及他一人の青年来リタリ ロベル氏ハ先日よりレールノ妻君ト不和ヲ生ジ会し時モ礼モせず居リシニ昨夜故なクテフト中なほりしたりけり 此ノ一条ニ付テハ実ニ奇なる話あり 此ノ滞在中尤モ小生のなぐさみになりしハロベルトレール氏一家トノ関係に付テノ話なりける 併し事ながけれバ此処には不記 皆打ち寄りて面白く遊ビ後ち小生ハレールノ妻君等ト海岸を遊歩したり 途中カジノノワキニテバンダト云ポロニユ国ノ女の母親がレールノ娘ニ向カヒ悪口ヲ云ヒタリ 之レ昨夜ノ躍ノ時バンダノ女がロベールト躍ル可キ時ニレールノ娘がロベールト躍りたれバ其恨みヲ述へたるなりト小生等大笑ヒシタリ(之レモロベール レール物語リニ関係スル一事ナリ) 実地ニ小説を見る事故実ニ愉快なり 夜食後八時頃迄波止場ノ辺を一人にて遊歩し後レール家ニ行キ門口ニこしかけてレール氏ヤばあさまト少しく話ヲ為し後ちレール氏ト少シク遊歩セリ 同氏ニ別れて カジノノ読書室ニ入リ新聞紙などをいやながらひろげ居りしに窓よりシヤルパンチエ氏が呼ヒタリ 即チ出でゝ同氏ト少シ遊歩しカジノ中ノ珈琲店ニ入リテ茶をのみ談話せり 九時半頃ニシヤルパンチエ氏ニ別れ海辺ニ出で月をながめなどして帰り床に入りし時ハ十一時頃なりと覚ユ 今晩少シク雨

1887(明治20) 年8月27日

 八月二十七日 土 今朝少し雨 (トレポール紀行) 九時半頃ニカジノの読書室ニ行キ二十四五日ノ日記ヲ少シ記シタリ シヤルパンチエ氏及ロベール氏ニ会ヒタリ 午後昨日行キタル小公園ニ行キ読書セリ 五時頃ニカジノノ方ニ出掛ケシニレールノ妻君及娘サンニ逢ヒタリ 之レヨリ三人ニテ少シクブラツキタリ 此時ロベル家ト絶交スル事ニ付テノ御相談ニ預リタリ 後ち遂ニロベルノ父と其子ノ不品行ヲ述べ而後可然取あつかひヲスル事ト相談一決セリ 即ちレールノ妻君ハロベルノ父ト談判センガ為メ魚市前ノ珈琲店ニ行キタリ 小生ハ娘ト共ニルトンカ氏(ホテルドフランスノ珈琲店)ニ行キタリ 暫時ニシテシヤルパンチエ氏及他ノ一人ノ青年此ノ珈琲店ノ前ヲ過タルニ依リ小生出てゝ話ヲシテ居ル時娘余ニ向テ勝手ニ友人ト遊歩ス可シト云ヒタルニ依リ誠ニ難有キ事ニテ娘ヲルトレート翁ト共ニのこし置キテ友人ト三人連ニテ打ち出でシヤルパンチエ氏ノ指揮ニ従而レールノ妻君ノ談判シ居る珈琲店ノ隣ノ珈琲店ニ入リ苦ガ甘ヒ酒ヲ飲ミタリ(シヤルパンチエ氏ノ御馳走) 後チ暫時三人連ニテ遊歩シレールノ娘ノ方ニ行イテ見タルニ已ニ立去リシ後ナリシカバ其儘小生等ハ又少シク遊歩セリ 夜食後レール家ニ行キ後皆つれ立ちてカジノニ行キタリ ロベル家トハ全ク絶交シタル由ヲ聞タリ

to page top