本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1887(明治20) 年8月21日

 八月二十一日 日 晴 (トレポール紀行) 今朝食事ニシヤルパンチエ氏ヲ久松君ガ招キタリ(食事前右両氏及他一人ノ仏人ト四人ヅレニテ少シク遊歩セリ) 食後シヤルパンチエ氏方ニ行キコニヤク酒ノ御馳走ニナリ後シヤルパンチエ氏 久松君ト三人ニテ寺見物ニ行キタリ 此処ニテシヤルパンチエ氏ニ別レタリ 後例の如クカジノニ行キレールノ妻君等ニ面シタリ 又カジノヲ出デホテルドフランスの珈琲店ニ打チ寄リレールノ妻君が珈琲ノ御馳走ヲシタリ 今夜ハメルス邑ノカジノニ行カントノ事ナリシ故夜食後レール家ニ行キタリ 久松君ハイヤダト云テ来ラズ レール家ニテ又珈琲ノ御馳走ニナリ画師セネシヤル氏夫婦及レールノ婆様等ト談話セリ 九時頃ニレールノ妻君 婆様 むすめト四人連レニテ乗合馬車ニ乗リメルスノカジノニ行キタリ 今夜此処ニ来りしもコチヨンナル舞ガ有ルトノ事ナリシ故也 シカルニ此ノコチヨン舞ハ夜の十二時ニ始まるとの事ヲ聞き小生ハ潜ニ閉口仕候 扨テ是ニ一ツノ奇談ゾ起りける 今夜ハ知人少ナキ地ニ来リし事故レールノ娘舞ノ相手なくポカントシテ居ル事多かりけれバ少シク御タイクツ被成タルモノト見エ今夜はモウねむくなつたる故帰らんなど雑談半分云ヒなどし居りしを婆様ハ至極の同意ニテコチヨンモ十二時ニはじまるなれバ見ずして帰るニ不如トノ説ヲ立テ居られしがレール妻君の気ニ入らず 議論数回説遂ニ合ハズ折角コチヨンヲ見ニ来リたるニ今更帰らんなどとハ其意ヲ得ズ併シさ程ニ帰リタケレバ直ニ帰らんと外套など引キ掛ケテ立タル相様ハ勇マ敷ぞ見エにける 併シ娘ハ娘ダケソウ云ハレテハ帰リモ得ズ妾ハ帰ラずト云ヒツヽグツグツトシテ居ル 其内ニ早十二時ニナリぬれバコチヨン舞を始メント若キ娘ヤ少年等皆立さわぎまたゝく内に椅子ヲ以テ円陣ヲぞ作りける 此ノ時群の中より顕れ出でしハかわいと思ふコイユさんあり たゞしくイバナさんに向ヒ君ノ為メ一人ノコチヨン相手ヲ見付タリ 躍リ給ハヾ此方ヘト云ハレテ娘今ハ又躍リ度キ気の出デたるも是非なかりける事どもなり はいと答へし娘の声を母様わきより打ち消してコイユヲ謝絶したるにぞなみだの種とハなりぬ いと花やかに躍り出したるコチヨンヲ後になして四人連カジノヲ出でしは十二時十五分頃と覚エタリ メルスノ浜の土手ヅたヒばゝにむすめにまごむすめ切テモ切レヌ三人が中の争ヒ言も元をたゞせバ躍リから楽み変じてなげきとなり娘の為メに娘をなかし笑ふて帰る此ノ浜道をないて過るも楽みを楽む事を知らざりける女わらべの身の上ぞ墓なかりける レール家の門に迄送リテ帰リ床ニ入りし時ハ一時少し前トハ見エタリ〔図 写生帖より〕

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