本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1886(明治19) 年1月15日

 一月十五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事昨年休暇後松方氏ノ御世話ニテ当地ノ中学校通学ヲ始メ殆ンド二ヶ月半程同処ニ於テ勉強致し候 然ルニ今般松方氏ヘ相談之上更ニ策ヲ変ジ中学ヲ去リ只別ニ教師ヲ取リ勉強スル事ト相定メ申候 其後ハ当地中学学校ノ課目中ニハ羅甸希臘ノ二語十中七八に位シ仏語学ハ至而少シ(仏人ハ別ニ仏語学ト云テ専門ノ様ニ勉強セザルトモ年ト共ニ充分ニ語学ヲ学ヒ得ルナリ) 故ニ外国人ノ為ニハ甚ダ不都合ナル学課ト云可シ 尤モ羅甸ハ法律ヲ学フニハ至而必要ナル者ト承リ候得共希臘語ノ如キニ至而ハ法律ヲ学フ為メニハ少モ用ナシト申事ニ御座候(中略) 且ツ私事ハ第五級ニ入候故普通学ヲ卒業シ大学ニ入ル迄ハ尚五年ヲ要ス 而又大学ニ少ク共四五年ハカヽル事ナレバ前後十年ノ後ニ非ザレバ一人前ト為ルヲ得ザルナリ 右之通故余リ馬鹿ゲタル一件ト存ジ松方氏ニ委細相談仕中学を去ル事ト相定メ已ニ去月二十八日ヲ以テラシヌ町ト申処ヘ引移リ毎日アルカンボウト申教師ヲ取リ二時ヅヽ仏語ハ勿論羅甸ト英語ヲ少シヅヽ勉強致居候 又来期ノ始メ即ち今年夏休後ヨリハ是非共法律専門ニ入リたき事ト存ジ候 依テ耳慣シノ為メ時々法律大学校講義傍聴ニ罷越候 普通ノ話ニハ最早不都合ナキ様ニ相成候得共未ダ講義ナドハ充分ニ解スル事ヲ得ズ残念此事ニ御座候 併シ折角勉強致し候間御休神可被下候 又万事松方氏之御世話ニ相成候間甚ダ仕合ニ御座候 法律専門相始メ候事ニ付テハ田舍ノ大学校ニ於テ勉学スル方ガ此巴里ノ都府ニ於テスルヨリモ金モ入ラズ萬事徳用ナリト田舍行ヲスヽムル人ナド有之又松方氏モ田舍行ノ事ニ付テハ至極御同意ニ御座候間当時松方氏ニ依頼シ可然田舍さがし方ニ御座候 多分田舍ニ行く事と相成と存しいづれ定まり次第委細御報道可仕候間左様御承知可被下候 松方氏モ今般辞職ノ上官費生と為りベルジク国ニ行き交際学ヲ勉強セントテ辞表モ已ニ奉リ日本政府ノ許可次第当地出発ノ由承リ候 ベルジク国ハ当地ヨリハ近キ処ニテ矢張仏語ヲ話ス処ノ由ナリ(後略) 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年1月29日

 一月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)以先便申上候通已ニ中学校ヲ去リ当今ハ毎日法律学校又仏蘭西校ト申処ニ二時間位ヅヽ罷越法律経済なドノ話ヲ耳ナラシノ為傍聴仕居候 又毎日二時間特ニ教師ヲ雇ヒ勉強致し候間御休神可被下候(後略) 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年2月10日

 二月十日附 パリ発信 父宛 封書(前略)次ニ私事至極壮健先般松方氏ノ御世話ニテモンルージユト申処のミルマンと云老人の私塾に入塾仕此ノ処より毎日法学校又ハ仏蘭西校ト申処ヘ通学仕講義傍聴致居候 下宿屋ニ居ルよりも塾ニ居りて勉強致す方仏語学の為メニも宜しく又当地ハ書生ノ為ニハ有名ノ危険ノ場処故入塾致し居方皆々様も御安心可被遊と奉存候 松方氏も去五日午後六時二十分之気車ニテベルジク国ヘ向ケ出発ニ相成候故当地ハ甚ダ淋しク相成申候(中略) ミルマン塾ヘハ是迄渡氏ヲ始メトシテ日本人常ニ絶エズ入塾致し居し処ノ由ニテ日本人ノ写真なども沢山御座候(中略) 臥遊席珍五冊先日慥に公使館にて請取閑暇ノ折読み居申候 余程面白き事ニ御座候 右厚く御礼申上候 公使館ニテ一ヶ月一度ヅヽ日本人ノ会がある事ニ相成去る七日が初会ニテ御座候 山本(当地在留ノ画工)藤(工部大学卒業生ニテ同工部省より官費ヲ以テ油絵ヲ学ブ人)林(当地在留ノ日本画其他諸古物ナドノ商人先ヅ一寸云ハヾ古道具屋也)ノ諸子ガ日本美術ノ西洋ニ及バザルヲ嘆ジ私ニ画学修業ヲしきりに勧め申候 且つ私ニ画ノ下地あるを大ニ誉め曰ク 君ニシテ若シ画学ヲ学ひたらんにはよき画かきとなるや必せり 君が法律を学ぶよりも画を学びたる方日本の為メニモ余程益ならん などゝ迄申候故少しく画学を始めんかとも思ヒ居候 固より好きの事故少しく勉強したらんには進歩可致と存候 先ヅは一左右草々如此御座候 頓首 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年3月19日

 三月十九日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先日藤島ト申当地在留ノ本願寺僧ノ世話ニテ当地ノ諸大学校生徒相集り組織せる書生会ト申へ入会仕候 会費ハ一ヶ年分十二仏ニテ即チ一月ガ一仏ナリ 此会ハ二年前ニ立チシモノニシテ只今ニテハ余程盛ナルモノニ御座候 諸生ノ為メニ出来シ会故諸生ニ取テハ都合よき事不少 同会々員ノ証ヲ持チ居レバ写真ヲ写す時モ(同会ニテ定メタル写真屋)其価ノ幾分カヲ減ズ 芝居(之レモ同ジク会ニテ定メタルモノニ限ル)ニ於テモ亦然リ 第一私ノ為メ便利ト申ハ撃剣ニテ同会ノ教師ヲ頼ミ修業スル時ハ今迄ノ半額即チ一ヶ月分十仏ニテスミ候 本月より同会ニテ修業致ス積リニ御座候 又其会ニハ勉強室書籍庫等有リ 今般ノ大改革ニテ官吏モ試験ヲ受ケ採用セラルヽ事ト相成候由為国家大慶之至奉存候 私モ来朝ノ始メヨリハ是非専門学ニ移りたきものと折角勉強罷在候間御休神可被下候 今日ノ洋学者ハ十年前ノ洋学者トハ異ひ候間官員目的よりも自力生活方法ノ方専要ナリト存候 只今ノ処ニテハ先ヅ先ヅ生活モ容易ナル可キモ他日西洋各国ノ如ク余リ外国人ニ自由ヲ与ヘ白人種ガ日本ノ内地ニ入リ込ミ金ニ任セテ各種ノ業ヲ興ス時ニ至ラバ始メテ日本人難儀可致ト存候 此ノ害即チ外国人ガ内地ニ入リ込ミ内国人同様ノ権利ヲ以テ生活シ内国人ノ利ヲ奪フ如キハ此ノ仏国ニテモ同ジ事ナリ 即チ外国ノ職人が沢山入リ込ミテ内国人の職ヲ奪ヒタルガ為メ内国人ハ非常ノ困難ニおちいりたり 米国が支那人ニ於ケルモ皆同シ 折角勉強三四年ノ後ハ是非一人前ノ人間ニ相成可申候間御休神可被下候 先は御返詞迄 草々 頓首 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年4月9日

 四月九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしもこの五日の日にこちらにおるにつぽんじんみんなとはぶるといふところにふなおろしをみにまいりました なかなかおもしろいことでございました(中略) なんでもこちらからいつたにつぽんじんがふしみのみやさんやこうしくわんのひとたちをみんなあわせて二十二三にんばかりでした さてはぶるといふところにつくとかいぐんのひとなどがむかいにきておりすぐにばしやにてはぶるだい一といふやどやにまいりました このやどやはうみばたにてまことによいところです わたしはふぢとごうだといふひとと三にんですぐはまべにでてかけあるきました ひさしぶりでうみをみましたからまことにうれしいことでした(後略)母上様  新太郎より

1886(明治19) 年4月23日

 四月二十三日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)当地気候全ク春ニ相成申候 此頃ハパークト申当地ノ大祭ニテ諸学校等二週間程ノ休業有之候 私ノ居ル学校ハ明土曜日より休ニ相成来週中ハ休業ノ事ニ御座候(中略)我塾長ミルマン氏ハ昨日出発フヲンテヌブロート申当地有名ノ絶景ノ地ニ罷越し候 妻君モ同ジク同地ヘ向ケ明日出発するとの事ニ御座候 私モ此ノ休中ニハ遠足デモせんかと独り考ヘ居申候(後略) 父上様  清輝拝〔図 写生帖より〕

1886(明治19) 年5月7日

 五月七日附 パリ発信 母宛 封書 だんだんとまたなつがちかよつてまいりましたがみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候おんことまことにまことにおんめでたくなによりけつこうなことでございます つぎにわたくしことはいつも申あげますとうりげんきなことにてべんきようをしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし どうもこちらはなんともかんともゆわれないよいてんきですからそちらもやつぱりよきおてんきがつゞくだろうとかんがへます せつぺせけんにでかけておあるきなさいまし わたしもちよいちよいちかくのいなかにふぢといふこちらにきておるあぶらゑのゑかきさんといつしよにでかけます わたしはあぶらゑはかけませんからたゞゑんぴつとかみをもつてゆきます そうしてふぢさんがかいておるわきでけいしよくをかきます そうしてあとでなをしてもらいます なかなかよいたのしみになりますよ またこれはたゞたのしみばかりでななくよいゑのけいこでございます こんげつのはじめからこちらのまいとしあるゑのはくらんくわいがはじまりましたからわたしも一どみにまいりました どうもどうもきれいなことです けれどもことしのはきよねんのにくらぶれバよいゑがすくないともうすことでございます あんまりゑがたくさんあるものですからわたしははんぶんもみないでかへりました またこのつぎのにちようにみにいかうとおもつております わたしがしやしんとりにゆくことはまだとじまりません こないだあらかわみのしさんにおめにかゝりそれからまたこうしんくわんでむらたつなたろうさんにもひさしぶりであいました けれどもわたしはみなさんがげしくをしておいでなさるところからずいぶんはなれたところにおるもんですからたびたびあいにゆくわけにもゆかずそのうちにおやすみもすんでしまつたものですからたつた一どあつたぎりでした もうたぶんみんなたつておしまいなさつたゞろうとぞんじます こんどはまづこれぎり めで度かしこ おせつくもすんでしまいましたねー 母上様  新太  このつぎのびんぐらいからしんじろとなをにゑいりしんぶんをおくつてやりますからそうゆつてください ほくかいどうにおてがみをおだしなさるときにはよろしく

1886(明治19) 年5月21日

 五月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 三月三十一日附ケノ尊書謹而拝誦仕候 其御地御尊公様御始メ御一同御揃ひ益御安康之由奉賀候 次ニ私事至極元気勉強致し居候間御休神可被下候 元老院ニテモ幹事被廃只議長議官ノミニ相成ニ付テハ御尊公様モ舊ノ議官ニ御復職被遊候由官費ノ御隱居定而御満悦ノ事ト奉遠察候 筆を取り剣を振りて国の為め盡せし君を神やわすれん 私事法律学を修行致し候積ニテ只今迄只語学ノミを勉強仕候得共能ク能ク将来ノ事ナドヲ相考ヘ申候ニ如御意今日ハ已ニ法律家も多キ世中ニ御座候間普通ノ法律学を学ヒ得テ帰国候とも左程国益ニも相成申間敷と被存申候 又今日ハ独逸学ノ世ニ御座候間仏学ニテハ政府ヘノ向き甚ダ悪しき事ならん 当地ニテ学士位ノ免状を得候ハヾ御試験ノ上政府ニテ三四十円位ノ小役人ニ取立被下カモ不知候得共(原文傍書)(是レモ至テ難キ事ナリ)貴重ノ金銭ヲ費シ数年間外国ニ在リ帰国後僅カ三四十円ノ為メニ繋カレテ面白カラザル御役人様ノ下ニ腰ヲ屈スルナドハ余リ心地能キ事トモ被存不申 さればとて政府ノ御影ニ付カザル時ハ三四十円ハオロカ忽チ活計ニ苦ムハ目前ニ御座候 如何トナレバ仮令西洋ノ法律ニ達シタレバトテ私如キ漢学ノ力ナキモノハ書ヲ著述スル事ハ勿論西洋書ヲ翻訳スル事サヘモ無覚束候 又通常ノ笑談デサヘモ口もづれて思ニ任セザル私ニ御座候得ば代言人ト為リテ能弁ノ名ヲ得ンナドノ事ハ最モ難キ事ニ御座候 右ノ如ク色色ト相考ヘ申候ニ法律専門ニテ国益ニナル程ノ事を為サンハ余程六ヶ敷被存候 依而今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修業ト決心仕候 於当地現ニ油画ヲ修業致し居日本画工三人有之候(五姓田・山本・藤氏) 皆日本ニテハ屈指ノ画家ト申事ニ候得共美術ニ長ジタル仏国ノ事ニ御座候得ば其人ニ乏カラズ 右三人ノ画ノ如キハ先ヅ西洋人ノ中ニ持出ス可キ程ノモノニ非ズト申事ニ御座候 尤モ何学ニテモ一通迄ハ皆々相達シ可申候得共只難キハ少シク人ノ上ニ出ル事ニ御座候 又画学ハ他ノ学問ト異ひ何年学べバ卒業スルト云事ハ無之年ノ長短ハ只其人ノ天才ニ依ル事ニ御座候 私一度決心致し候上ハ一心ニ勉強可仕候 其結果ノ好悪ハ只天ニ御座候 日本ニハ西洋諸国ノ上下院ノ規則及体裁等を熟得したる人に乏しき由 右ハ別ニ専門学ヲ要スルト云程ノ事ニモ無御座候間折角注意致し折可申候 左様御休神可被下候 当地此頃ハ随分あつさニ相成申候  むしのなく声を聞ても思ふかな我故郷のなつのゆうくれ 先ツハ御返事傍草々如此御座候 頓首 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年

 五月二十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)父上様がなんでもやいつけることのできるものをけいこしろとゆつておやりなさいましたからこんどゑをほんとうにけいこしようとおもいます 二三日のうちにわたしのしつておるずいぶんいゝせんせいのうちにいつてはなしをしてみようとおもつております(後略) 母上様  清輝拝

1886(明治19) 年5月28日

 五月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 寸楮拝呈仕候 追々暑気相催候処其御地御尊公様御始皆々様御揃益御安康奉賀候 次ニ私事至而元気勉学罷在候間御放念可被下候 先便より申上候通今度愈画学修業ト相定メ去二十二日兼而存居候コラント申当地ニテ随分評番よき画家ヘ目的ヲ述ヘ即チ弟子入仕候 依而同氏ノ指図ニテルーブルト申当地第一ノ博物館ニ在ル石像ヲ折角写居申候 已ニ三日続けて午後のみ相通ヒ申候ニ付右館内ノ風ニモ略相慣れ申候 古キ油画ヲ写しニ来リ居者ハ勿論石像ヲ写ス者モ随分多く有之其中女ノ画かきも不少候 見物人ノ沢山有ル中ニテ黄色人種ナル上ヘヘタナ画ヲかき居ルハ赤面ノ至ニ御座候得共是レモ肝ヲ大クスルノ一端ト存候得ば大先生ノ様ナ面ヲシテ平気ニテ写像スル等実ニ愉快ナル一件ニ御座候 昨日は木曜日ニテ諸学校半休日ナリ 依テ或学校ノ教師生徒一隊ヲつれて博物館見物ニ来リ私ノ顔色ノ異りたるト白紙上ニ只一線ノ引キアリシノミナルヲ見テ生徒等大ニ嘲リ之レハシヤレテオルト申候故ウマク出来テ居ルダロウト笑ヒながら答へたるものヽ実ハ赤面仕候 又同館従覧人中過半ハ英人ノ様ニ御座候 私画学ヲ始メタル事ハ当地ノ日本人ハ一人モ不知少シ出来様ニナル迄ハ秘シ置積ニ御座候 先ハ一左右如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 皆々様ヘ可然御伝言願上候

1886(明治19) 年6月11日

 六月十一日附 パリ発信 父宛 封書 一筆拝呈仕候 御尊公様御始メ皆様御揃益御安康大慶至極ニ奉存候 次ニ私事至而元気毎日午後ノミハ博物館ニ於テ画学稽古致居候間御休神可被下候 私教師ト頼ミ候コラント申人中々深切ナル男ニテ当分(同人ノ学校ヘ通学ヲ始ムル迄ノ内)無月謝ニテ授業致し呉れ候 甚ダ仕合ワセナ一件ニ御座候(尤モ一週一回即チ土曜日二週間ニ画キタル小生ノ画ヲ同人ノ宅ヘ持参シ之レハ悪シトカ又少シハ善シトカ評ヲ受ルノミナリ)此ノ教師日本ヨリ布ヲ送リ貰ヒタキ旨ヲ私ニ依頼致し候 其布トハ同氏ガ画ヲ画ク時ニ用ユルモノニシテ錦類ノ事ニ御座候 当地ノ人物画家ハ裸カ或ハ腰部ヲ少シク隱シタル画ヲカクヲ好ミ毎年ノ共進会ニモ裸体ノ女ナドハ非常ニ多ク有之候 扨テ教師ガ日本ノ布ヲ望ムハ之レヲ女ノ体ニ巻キ付ケタリナドシテ其の像ヲ写サンガ為メニ御座候 尤モ錦ト限リタルニハ非ズ只金糸或ハ各種ノ糸ヲ以テ花鳥或花斑ナドヲ縫ヒ出シタルモノト申事ナリ 地ハ赤ニテモ青ニテモ何ニテモカマワズ花斑ナドハ支那メキタル方ヨリ却テ日本風ニシテ俗ナル方可然ト存候 新ラシクシテ品ノ悪キモノヨリ少シ位破レタリ又色ガサメタリシテ居候トテモ品ノ良キ方ヲ好ミ申候 古着屋ニ有ル模様付ノ古布レ其他掛ケ物ノ縁ニ付クル様ナ布ナド可然モノヲ御見立数品御送リ被下候ハヾ幸甚之至ニ奉存候 布ノ大サハ幅モカナリ広クシテ長サモ少シ長キモノ差当リ無之候ハヾ二尺位ノ小布ニテモ宜敷候 此ノ教師ハ画学ノ方ニ取リテハ随分良キ教師ニ御座候間進物ナドヲシテなる可くよく取り扱ヒ置く時ハ少シモ損ハ無之ト存候 右ハ随分六ヶ敷キ注文ニハ御座候得共御見当り次第通運よりなりとも御送り被下度奉願上候 又同氏ハ非常ノ花狂人ニシテ日本ノ花ナドモ少シハ庭ニ植ヘ楽ミ居候 日本ノ山野等ニ生ズル草花木ニ付テノ書物デモ有ルナレバ是非手ニ入レ度キモノ故之レモ日本ヘ注文シテ呉れト申事ニ御座候 絵入ノモノ有之候ハヽ格別ニ御座候得共若シ絵入有之候ハヾ小生仏語ニ翻訳可致候間何カ日本ノ花木ニ付テノ書物御送リ被下度奉願上候 人情ハ何処ニテモ同シ事ニ御座候得共当地ニテハ進物ノ功能格別ノ様ニ御座候 当地此頃ハ晴雨不定一日ノ中雨ノ降ラザル日ハ稀ナリ 先ハ用事迄 草々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ可然御伝声奉願上候

1886(明治19) 年6月25日

 六月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)画学は折角勉強致し居候 余り進みの悪シキ方ニ無之教師も随分満足致し居候 先便より色々面倒なる御注文申上候 又日本の花菖蒲の種を送り貰ひ度旨頼まれ候に付各種の実数種づヽ幸便ノ折にても御送り被下候はヾ幸甚の至に御座候(後略) 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年7月23日

 七月二十三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎにわたくしことはいつももうしてあげますとうりぴんぴんです またゑのけいこはおこたらずいたしておりますからどうぞごあんしんくださいまし(中略) さる十四日こちらのおゝまつりでした わたしはもう二どもみましたからことしはみたくなくふぢといふにつぽんからゑのけいこにきておるひとゝ十三日のゆうがたからがるしゆと申ちかいいなかにとまりがけにてあすびにまいりました そのがるしゆと申ところにわたしのしつておるせいようじんのゑかきがおります 十四日のひはそのひとのうちやまたそのとなりにおるひとのうちなどでごぜんのごちそうになりました ゆうめしごはそのゑかきがふうふそのほかりようどなりのふうふとわたくしたちふたりまたよそのおかみさんがひとりつがうあわせて九にんにてにわのうゑきににつぽんのつろを十二三もぶらさげはなしなどをしておるうちにぱりすではなびをあげだしましたからみんなで二かいにのぼりはなびのけんぶつをなしのちまたにわにいきました こんどはみんなでうたをうたうことにて(後略)〔図〕

1886(明治19) 年7月30日

 七月三十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書 六月三日おだしのおてがみたしかにあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたしましたら父上様 あなたさま御はじめみなみなさま御そろひますますごきげんよくいらせられ候よしまことにまことにおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎにわたくしこといつもかわらずげんきなことにてさる二十八日まつがたさんがぱりすにちよつときておかへりなさるをさいわい一しよにべるじつくといふくににいきました このべるじつくではやつぱりふらんすのことばをつかいますからすこしもふじゆうはございません またわたしなどのおるべるじつくのみやこぶりゆくせると申ところはたいへんきれいなところにてちいさなぱりすとでももうすようなところです につぽんじんのしよせいがしごにんおります わたしは一月ばかりおるつもりです いろいろめづらしいことがございますからこのつぎのびんにくわしく めで度かしこ 母上様 ぶじ  新太拝 せつかくごようじんごようじん みなさんによろしく なつやすみにたびをするのはことしがはじめてです

1886(明治19) 年8月13日

 八月十三日附 ウォータルー発信 父宛 葉書 今日ハ手紙日ニ御座候得共長き手紙ヲ認むる事不能 端書ヲ以て只壮健ノ旨ヲ御報申上候 島村 松方ノ両君ト有名ナル古戦場ウヲテルローヲ見物仕只今帰る処ニ御座候 頓首

1886(明治19) 年8月20日

 八月二十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書 (前略)まつがたさんのおせわでうゑべるさんといふうちをしりました(中略) わたしはそこのうちにあすびにいくときつとゑをかきます おかみさんのしやしんをみてかいたのをもつていつてやりましたらよくにておるといつておゝよろこびをいたしましてそれをがくにするとかゆつておりました けふはそのおかみさんが一しよにゑのはくらんくわいをみにつれていくからひるめしをたべずにこいともうしました それゆへこれからすぐにそこのうちにゆきみんなと一しよにごぜんをたべそうしてゑのけんぶつにゆくつもりです めでたくかしこ 母上様  新太拝

1886(明治19) 年9月12日

 九月十二日 ラエ発信 母宛 封書 七月十六日同二十三日のおてがみさる十日にあいとどきさつそくはいけんいたしました そのおんちにては父上様 あなたさまおんはじめしたのうちでもまたあねさんたちもみなさんおんかわりなくますますおげんきのよしなによりおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎにわたくしことまことにまことにげんきにてやつぱりたびをしております どうぞどうぞごあんしんくださいまし このまへのびんにはついついてがみをあげだしませんでした そのかわりにけふはすこしわたしのたびをしたはなしをいたしませうよ さる一日にべるじつくといふくにのみやこぶりゆくせるといふところをたちましてぶりゆじゆと申ところにまいりました このぶりゆじゆといふところはたいへんふるくからあるまちにていませけんにあるようないゑでないふるいいゑなどがたくさんございます そのいゑのかつこうはこんなあんばいです〔図〕 それからそのほかふるいあぶらゑのはくらんくわいなんどがございます たいへんめずらしいところです 一日のあさ十一じごろにつきましてそれからゆうがたの七じごろまでかゝりたいていけんぶついたしそれからまたきしやにのりぶらんけんべるぐと申ところにまいりました このところはうみぎはにてこちらのかねもちなんどがあつさよけにあすびにいつておるところです そこにまつがたさんのしつておるばんはるとらんといふぶりゆくせるのひとがあすびにいつております そのうちにまつがたさんもいつておいでなさいました それゆへわたしはきしやがらおりるとすぐにそのうちにたづねてゆきまつがたさんにあいました そのばんハまつがたさんのおせわでやどやにとまりよく二日にはばんはるとらんといふひとのむすこがあさ六じごろにわたしのやどやにきてくれました それから一しよにはまべをあるきまたわたしは七じごろにみづをあびりました それからそのばんはるとらんさんのうちにゆきあさごぜんをたべまつがたさんやばんさんのむすこそのほかふたりのしよせいと五にんづれにて八じごろからまたぶりゆじゆにゆきゆうがたみなと一しよにぶらんけんべるぐにかへりました そのばんもまたばんさんのうちでごちそうになりました そうしてそのばんもまたこのぶらんけんぶるぐのやどやにとまりました そのばんはるとらんといふうちはかないぢゆうそろつてみんなよいひとたちにておとこのこがふたりおんなのこが五にんばかりおります そのそうりようむすこはことし二十ばかりのやつですけれどもたいへんりこうなやつにてことし大がくこうをそつぎようしたとかいふはなしです また二ばんめかのむすめはたいへんよくゑをかくやつにてずいぶんおもしろいやつです 三日のひにはあさ十じごろのきしやでたつゝもりでしたけれどもおかみさんがひるめしをたべてからたてとしきりにすゝめますからそれにしたがいました それからむすこやむすめたちと一しよにみづあびにゆきました ひるめしをたべてからまつがたさんとばんさんのむすこと三にんにてまちにおもちやのかひものにゆきました そうしてうちにかへつてからばんさんのうちのおゝきなむすめをはじめきんじよのむすめやちいさなこどもなんどをあつめふくびきをしておゝわらいをいたしました かれこれしてあそんでおるうちにおそくなりました 六じのきしやにてぶらんけんぶるぐをたちおすたんどといふところにまいりました このおすたんどといふはやつぱりかねもちのひとたちがなつやすみにあすびにゆくところにてぶらんけんべるくよりもすこしきれいです つくとすぐにやどやをきめそれからめしをくいのちひとりではまべをあるきました よくじつはあさ九じすぎのきしやでおすたんどをたちがんといふまちに十一じごろにつきゆうがたまでかゝりゑのはくらんくわいやうゑきやなどをけんぶついたし七じごろのきしやでこんどはあんべるすといふところにゆきました このあんべるすと申ところハにつぽんでいはゞよこはまのようなところにてなかなかりつぱなところです このばんはきしやにのるまへにごぜんをたべるひまがありませんでしたからすていしよんでうでたまごをひとつとちいさなぱんをひとつかいましてそうしてきしやのなかでたべました きしやのなかにへいたいがひとりをりましてそのひとがなかなかしんせつなひとにてやすいやどやをおそゑてくれましたからきしやがつくとそのやどやにゆきましたところがやすものかひのぜにうしないとやらにてそのやどやにはいつもわたしがくわれるあのわるいむしがたくさんおりましてよぢうよくねることはできませんでした 大へいこういたしました そのむしのおかげであさもはやくおきうしのちゝをのみぱんをたべてすぐにそのやどやをとびだしうむすさんといふゑかきのうちにゆきました このうむすさんといふひとはぶりゆくせるでわたしがたいへんおせわになつたうゑべるのおかみさんがよくしつておるひとにてそのうゑべるのおかみさんがわたしがぶりゆくせるをたつときにもしあんべるすにいつたらうむすさんにあつてめづらしいゑなんどをみせてもらゑとのことにてわざわざしんせつにてがみをかいてくれましたからそのてがみをもつてうむすさんにあいにいきました ところがあいにくうむすさんはいまいなかにいつておると申ことにてあうことができませんでした それからすぐにいろいろなけだものゝおるはくらんくわいをみにゆきました またゑのはくらんくわいも二つみました ひるごの三じはんのきしやであんべるすをたち七じごろにおらんだのみやこらゑといふところにつきました こうしくわんからこうしのむすこなかむらじろうさんといふことし十三ばかりのひとがばしやでむかいにきてくれました それゆへすぐにこうしくわんにゆきました まだいまでもこうしくわんのごやつかいになつております こうしのなかむらさんといふおかたはたいへんいいひとです わたしがついたときにはおかみさんをつれてぱりすにいつておいでなさいましたからるすでしたが三四つかまへにふたりともかへつておいでなさいました わたしはあんまりながくごやつかいになつておるのはおもしろくございませんからもう二三にちのうちにこちらをたちまたぶりゆくせるにゆきすこしおりそれからぱりすにかへりべんきようをはじめるつもりです ことしのなつやすみにはおかねはすこしたくさんいりましたけれどもまことにいゝたのしみをいたしました さくじつはこゝのこうしくわんのしよきくわんをしておいでなさるしまむらさんと申ひとにあむすてるだむといふところにつれていつてもらいました このらゑよりきしやで一じかんのすこしうゑかゝるところです たいへんりつぱなまちです いろいろなけだものゝかつてあるところやゑのはくらんくわいそれからろうざいくのいきにんぎようなどけんぶついたしました あさ八じはんごろのきしやででかけましてよる十一じごふんにうちにかへりました ゆうめしはりつぱなところでたいへんなごちそうになりました たびのはなしをかきだしましたらついついこんなにながくなりました このまへのびんにてがみをあげなかつたかわりですからどうぞそうおかんがへくださいまし こないだのびんにまきがみがまだあるかどうだとゆつておやりなさいました まだたくさんぱりすにもつております なくなつたらすぐそうゆつてあげますよ まきがみよりこのかみのほうがよつぽどかるいようですからこのごろはしじゆうこのかみにかきます かごしまのおぢさんへぜひおてがみをあげなけれバならないのですけれどもどうもどうもとじまりませんよ いづれそのうちにあげますからどうぞよろしく したの父上様からのおてがみハまことにありがたくはいけんいたしました みなさんおげんきでめでたし またおみねぼんハまだうちだされずにおしやべりをしておるとの事まづしやわせのよいことです あねさんたちはまたまたほくかいどうにおいでなさるよし さぞあとはおさみしくなりましたろうとそんじます あねさんにはながくてがみをあげずごぶさたをいたしております ごめんごめん よろしくよろしく おゑいさんにもいつもこのごろハごぶさたばかり これもおなじくごめんごめんごめん そちらではことしハたいへんあつかつたそうです さぞおこまりなさいましたろう こちらではわたしがぶりゆくせるをたつまへに四五にちばかりすこしあつうございましたがそんなにたいしたことはございませんでした このおらんだはもうたいへんすゞしいことです わたしはなつでもなんでもげんきですからどうぞどうぞごあんしんくださいまし につぽんとこちらはちがいますからにつぽんがあついからせいようもあついだろうとよけいなおしんぱいはめしもすな またふらんすもひろいところですからたとへふらんすでわるいびようきなんどがはやるなどゝいふことをおきゝなさいましてもけしておしんぱいをめすにはおよびませんよ なんでもおしんぱいは一せつおやめおやめおやめおやめ こないだのびんからにほんのにしきのきれをおくつてくださいともうしてあげました そのてがみがつきましたよし そうしてよいきれをめつけておくつてくださるとのことまことにまことにありがたくあつくあつくおんれい申上ます もうこんどはたいがいこのくらいにしておきませう めでたく かしこ 母上様 ぶじ  新太拝  せつかくおからだをおだいじになさいまし みなみなさまによろしく ともだちのやつたちにはしばらくてがみをやりません もしだれかがまいりましたらよろしくゆつてくださいまし

1886(明治19) 年9月24日

 九月二十四日附 ブリュッセル発信 父宛 封書 寸紙拝呈仕候 秋冷之候先以テ御尊公様御始メ御一同御揃益御安康奉賀候 次ニ私事未タ休暇中ニテ先便より申上候通ベルジク国中処々見物ノ末ヲランダ国ヘ罷越ハアゲ公使館中村氏方ヘ十二三日御厄介ニ相成去ル十七日同処ヲ発シ又ベルジク国都ブリユセルヘ来リ当時プラスサントギユヂユルト申処ニ松方氏ト共々下宿致居候 本月末迄ハ当府ニとどまり居積ニ御座候 身体ハ至テ壮健ニ御座候間御休神可被下候 ヲランダ国公使中村氏ニハ今度非常ニ御世話ニ相成候間御閑暇ノ折礼状として一通御送リ被下候ハヽ幸甚 今日ウエベルト云人ノ妻君及ヒ其子どもたちと一緒ニ写真ヲ取リニ罷越し候 本月末ニハ出来るとの事ニ御座候 出来次第早速御送リ可申上候間母上様へも左様御申上被下度候   ヲランダ国ハアゲ府出発ノ前夜月甚ダ宜しく候し故秋の月と云意味ニテ  秋の月見れハ見る程すみかへり光りもさむき心地こそすれ 先ハ左右如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ可然御伝声奉願上候

1886(明治19) 年10月8日

 十月八日附 パリ発信 父宛 葉書 益御安康之筈奉賀候 時間無之端書ヲ以テ御伺申上候 私事去る一日ベルジク国出発帰巴仕再ビ画学稽古モ相始メ申候 御送り被下候箱未ダ当地ニ達セズ 毎日相待居候 日本開花の性質及外一冊都合二冊慥ニ相達候 頓首  黒田清輝

1886(明治19) 年10月15日

 十月十五日附 パリ発信 父宛 封書 追々寒気相催候処益御安康大慶至極ニ奉存候 次ニ私事大元気ニテ勉強致居候間御休神可被下候 御送リ被下候箱昨十四日税関ニテ慥ニ受取申候 錦ノ古切手実ニ見事ナル者ノミ故教師定而満足可致と存候(中略) 去る十一日より画学教師コラン先生ノ画学校ヘ行く事ニ相成朝八時より十二時迄実物ヲ見テ稽古致し候 教師は一週二回即チ火土二ノ日ニ十一時頃より来り画ヲ直シ呉候 生徒総計十人計ニテ其中日本人ハ三人ニ御座候(藤・久米の二氏及私) 久米氏ハ一二月前専ラ画学修業として日本より来リタル人也 当地の画学生徒など云者は実ニ不勉強ナルノミナラズ人物ガ一般ニ賎シキ様也(後略) 父上様  清輝拝

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