本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年3月24日

 三月二十四日(百草園紀行) 午後一時二十五分四ツ谷停車場発 同行ハ佐野昭 小林萬吾 湯浅一郎 北連蔵 安斎豊吉に拙者ト都合六人なり 高島 矢崎 中澤等も来る約束であつたが来らず 三時十五分頃日野駅ニ着す これより道を聞きながら百草を指して行く 途中の景色ハ平たき畑にて其中ニ処々小川有り 水清し 玉川の支流を渡りて間もなく不動堂の立派なものあり 不動より百草までハ半道足らずと思ふ 百草園と云ふのハ松蓮寺とも云ふ 松蓮寺と云寺の跡にて今ハ一個人の有なりと聞く 寺の形ハ今ニ存すれども旅宿営業を為す 此ノ旅宿営業はいゝかげんのものにて吾れ吾れは折角此処をあてにして行たけれど至極不丁寧の四十位の婆が居てめしも無く又寝所もないなどとぬかしとうとう此処を立ち去ることゝ為る 此の松蓮寺は高き山の頂上に在り玉川の流を目の下に見る 又此処に桜もいくらか植ゑ付けてあるから桜時には来る人も多くあるよし 山を下り麓の居酒屋玉川屋と云ふに這入り味噌汁にあぶらげの焼いたのと漬物にて甘くめしを食ふ 汁が非常ニ甘かつたから三杯かへて食た 此の代価六人前にて二十四銭とハ安いものだ あまり安いやうだつたから別に茶代をやつたら此処の婆さん大によろこんだ 日野より此の辺までは二里はたしかなり 玉川屋を出る時は早五時過なり 此の玉川屋ニ来合せた豆腐屋ニ案内されてしばらく行く 薄暗く為る頃に豆腐屋に別れ左に折れて川を渡り府中へ向つて行く 河原に出た頃はもう一歩先きに行く人の形ハ真黒ニ見ゆ 砂原のやうな処をやゝしばらく行きそれから畠け道と為る 真暗にて方角も分らず幾遍も途中のあかりのある藁家をたゝいて道を聞く 畠道の中にて玉川屋より買つて来た蝋燭に火をつけ地図を開き評議をしたなどハ一寸困つた印なり アヽ此処まで来れバ安心だといふ一本筋の広い道で両側にまだらに人家の有る処に出てから本当の府中の町と云処まで出るまで二十町位はあつた 兎に角百草から此の府中迄は少なくも一里半はあるに違ない 地図を開いて評議した辺などが所謂分配野の真中頃でもあつたろう 府中といふ処一寸繁華な処で此の辺の市場だ 人口六千許 松蓮寺で宿る事を断ハられたお蔭で府中といふ処を知つた 仕合也 八時頃ニ此の町に着き宿屋を鳶屋と先づ極めて這入込だが座敷が悪く取あつかひも面白からず 六人の内佐 小とオレとの三人が委員と為り他の宿屋を聞合せに出懸く 先づ警察所に行き聞合ハしたるに中屋と云ふがよからうと云ふので其中屋と云ふのに行て見たら宿の女主 下女等まで至極心地よき連中にて今夜は都合悪く客多けれどどうにか都合すると云事でとうとう仕舞に六畳二た間の離れを明ける事に決し大に安心し鳶屋へ残して来た三人の者を早速呼び寄せ此処に宿る これより風呂ニ入り酒にめしといふことに為り食後には皆寄つて今日の紀行を例の狂句にて作ることをやつてとうとう二時半に為つた

1900(明治33) 年3月25日

 三月二十五日 (百草園紀行) 今朝方は大分雨が降つた 九時頃にぼつぼつ一人起き二人起き皆床を出て直にめしを命じたが飯を済ませ勘定をして宿屋を出る時は早十一時過ニ為つた 府中の町中での立派なものと云ふのは国魂の社であるらしい 此の社ハ武蔵の国といふのを神としてまつゝてあるのだそうだ 社の有る処ハ杉森の中でいかにも神様のありそうな処だ 社殿の構造も悪くは無い様だ 只拝殿の屋根が柱の高さに比べて大き過ぎるやうだ 此の国魂の社の境内を通り抜け右の細い道に出てこれより川を指して進む 河原ニ出る手前で道は(以下不記)

1900(明治33) 年5月25日

 五月二十五日 晴 (欧洲出張日記) 朝五時半頃ニ起きて仕度を為し氏神様を拝み六時少し過ニ内を出て新橋へ行く 送る者は佐野 菊地 中村 矢崎 中澤 篠塚也 安藤ハ神戸まで一緒ニ行くとて昨夜荷物を持て来て今朝亦来て一緒ニ立つ 新橋にハ磯谷 白瀧 湯浅 小林 安斎 伊藤 長原其ほかに時事の堀井卯之助君及び美術学校の生徒某が一人来て居た 長原君ハ昨夜中村 菊地の二氏と内にとまつたが何か用が有つて今朝吾れ吾れの出る前に何処かへ廻つて来ると云て出かけ停車場で再び一緒ニ為つた 六時五十分新橋発の気車ニ乗る 篠塚 堀井及生徒某にハ此処で別れた 今度同船で仏蘭西へ行く人達で此の同じ気車ニ乗る人が有る それハ農商務の商品陳列所長の佐藤顕理君だ 日本美術院の岡崎雪声氏も此の気車で立つ だから停車場ハ見送り人で一杯だ 吾れ吾れはこそこそと赤切符で乗り込だ 横浜に着いて一寸六橋桜に立ち寄り安藤の乗船切符等の事を頼み直ニ船へ行く 横浜の西洋人で国へ帰る者の見送人や又佐藤 岡崎其他の渡航者の見送人で桟橋ハ勿論船中ハせき合ふ程にぎやかだつた 九時ニ船が動き始めた 見送りの十二人は桟橋の上に立つて居つてハンケチを杖の先ニ付けて振つたりなんかして居たが段々小さく為つて誰れが誰れだかよく分らなく為つて来た 此の時にハ向ふからも此方の形も知れなく為つたと見えて十二人の一と塊りが散り始めた 兎ニ角安藤が一緒だから皆ニ別れても心細い様な感ハ起らない 此の船は仏国のメサジユリー・マリチーム会社のサラジーと云船だ 吾れ吾れハ中等ニ乗つた 同船の日本人ハ上等ニ佐藤氏始め四名計り 中等ニは吾れ吾れ二人と岡崎氏のほかに三人 尤も二人ハ女だ 此の女供ハ綿羊的で西貢迄行くものだそうだ 中等の室ハ一室ニ四人づゝ這入るのだ オレハ岡崎氏等と三人同室する事に為つたが今ハ全体乗客が少ないから多く為つたら又元へ帰ると云約束で部屋を替えて貰ひ安藤と二人で一室を占領する事ニして貰つた 食事ハ一日ニ五回だ 第一は茶か珈琲かシヨコラで六時より八時の間に食ふ 第二は十時で本当の昼めしだ 第三は一時でソツプの外に冷肉にチイス位 又ソツプがいやなら茶でも飲ませる 第四が六時でこれハ夜食だ 之れが一番念入りの食事だ 第五が九時で茶にビスケツト位のところだ 海が静な上ニ安藤と一緒だから雑談など云てのんきに暮らす 夜遠州灘でも思ひの外静でよかつた

1900(明治33) 年5月26日

 五月二十六日 (欧洲出張日記) 朝九時頃に神戸に着いた 京都の堀江君からの電信を受取つた 直ニ上陸して内と堀江とに電信をかけた 日野敬全氏が安藤の迎ひかたがたオレの別れにわざわざ京都から来た 三人連で元町を散歩し買物など済ませ夫れから日野氏の指図で天王と云ふ所ニ行た 天王と云ふ処ハ湊川の上の山の麓で温泉が有り連込用の茶屋が沢山有る 三川屋といふのを撰んで這入つた 先づ湯かたに被更えて風呂ニ行く 風呂は何か鉱泉で少し臭い 三川屋の直く下に小さな家が有つてお宮の拝殿の様な姿の建物が見ゆる それが湯やだ 湯壺は美麗で深い 胸の辺まで湯がある 湯から出て食物を命じ又芸者を二人呼びニやつた 芸者は柳原と云ふ処から出張するのだそうだ 三四時頃ニ為つて芸者が来た 地ふた(上り下り)といふものをひいてきかしたが静な調子で中々面白いものだ それから大あばれニあばれて七時頃まで居た 安藤と日野が船まで送つて来た 又餞別ニ二人から葉巻煙草を百本呉れた 船で仏蘭西の麦酒を御馳走してお土産ニ仏蘭西煙草を日野氏ニ贈つた 九時半ニ二人ニ別れた 正十二時ニ船が出た

1900(明治33) 年5月27日

 五月二十七日 (欧洲出張日記) 朝から雨で瀬戸内のいゝ景色は一切見えない 四時頃ニ赤間ケ関の前ニ来た フアーブル・ブラント氏が御維新前の話などしてあすこに長州の陣の有つた処だなどと指示してくれた 白い幕ニ黒い丸をかいて外人ニ大砲と見せる積でやつて居つたなどハ随分可笑い話だ 夜の入らぬ内ニ瀬戸を通り抜けて仕舞つた 今日は雨の上ニ風も少しあるから玄海でハかなりゆれるだらうと思ふ 今晩の食事ニはエイマールの兄弟の頭の者が一人とオレと二人切りだ

1900(明治33) 年5月28日

 五月二十八日 (欧洲出張日記) 玄海も思ひの外静であつた 今朝三時に船が止まつたので目がさめた 窓からのぞいて見ると陸が近く見える 長崎港の入口ニついたのだ 又寝床ニ這入つて六時頃に再び起きた 長崎港ハ今朝の九時ニ出帆だといふので上陸する暇がない 内と鹿児島とへ出す端書を書いて三井物産の人ニ頼で出す 其内ニ三井物産の小汽船が有るから一寸町へ行て見様かと云話が起り佐藤 岡崎 飯塚の三氏と上陸 皆一寸した買物を為し又オレハ内へ安着の電信かけた 船へ帰つてから安藤へやる手紙をかき三井物産の人ニ頼で出した 三井の人ハつまり佐藤氏の為めニ来たものと見える 今日ハ午前の内ハいゝ天気だつたが午後曇て来た 又沖ニ出るニしたがつてうなりがつよく為つて四時頃ニハ船が随分つよく横にゆれた 今晩の食事にハエイマールと岡崎氏と長崎から乗つた希臘人だと云ふ奴とオレと四人丈だつた

1900(明治33) 年5月29日

 五月二十九日 (欧洲出張日記) 今日ハ曇だ 朝六時半ニ起き風呂などニ這入つた 海ハ至極穏かで病人も段々よく為つて甲板ニ出て来た 午前十一時前頃から支那の猟船がぼつぼつ見えはじめ又海の色が一変して黄色を帯て来た 之れハ揚子江の入口の印だそうだ 又右と左に小さな島が遠くに見えた 二時頃ニ為つて左右ニ条を引た様な陸が現れた 即ち吾れ吾れの船は揚子江の川口ニ這入つたのだ 水の色は全くどろ色だ 雪どけか又は嵐のあつた時の川水の色だ 之れハ今日ニ限つてこんなのではなくいつでもこういう色だそうだ 検疫の為めニ一時船をとめ英人の医者が小蒸気でやつて来て船員船客の頭数を調べた これが四時頃でこれから又船を少し進めて錨を下した メサジユリー会社から小蒸気をよこして皆其船に乗り移つた 此の時ハ五時頃だつた 丁度二時間計川をさかのぼつて上海に着いた〔図 写生帳より〕 吾れ吾れ日本人一同東和洋行の番頭に案内されて人力車で其宿屋に行た 此の東和洋行といふのハ日本人がやつて居る宿屋で下女なども日本人だ 下女は今六人居るそうだが皆日本服だ 此の家の主人が佐賀人だそうで雇人も大抵同国者のやうだ 日本語の分る支那人も一人居る 直ニ案内者ニ連れられて人力車を五台連ねて支那料理に出かけた 泰和館とか云ふ家だ 一とテーブルで六円と云料理を云ひつけて食た 兎ても五人でハ食ひきれない 燕の巣といふものなどを始めて食つた 此の料理屋は一寸大きな家だ 先づ此の地屈指のものだそうだ 這入て突き当りに座花酔月といふ時が書いて有る 座敷と云のは二階だ 往来の側に一と部屋一と部屋にしきりがしてあり部座と部座との間は硝子障子の様なものだから隣は無論のぞける 一体に実ニきたならしいが芸者などをよぶのは矢張こう云ふ処で呼ぶのだそうだ 此処を出て四馬路の寄の様な処ニ這入つた 栄華富貴楼といふ処だそうだ 舞台の左右に扇子形の額がかけてあつて栄華富貴とかいてあり又正面ニハ横長の額が有つて響過行雲とかいて有る〔図 写生帳より〕 此処ハ一人前四十銭だ やかましい音楽をして其節ニ合ハして歌ふのだが芸人ハ皆若い女だ 其女を自分の机の処ニ呼ぶ事が出来るのだそうだ 此処ニ這入つて腰をかけると銘々にお茶を出した 又コツプ形の白い茶碗に紅茶のやうなものを入れて出し舞台の芸人の前にも此のコツプ形の白い茶碗がならべてある 此の辺のにぎやかさは実に想像外だ こんな見世物の中ニも人が多いが往来も一杯の人だ ぶらぶらして居る人の中を大いそぎで籠ニ乗て通る女が有る これハ芸者がお座敷に出る処だそうだ 籠の先にハ提灯をつけた人足が走つて行く 此処を散歩して居るものハ大抵皆支那人で西洋人ハ殆んど見えない 今這入つた寄の前に大きな珈琲屋の様なものが有る 此の家ハ客が一杯だ 又縦覧随意といふやうな風で出る人入る人がせき合つて居る位だ 中ニハ一つの机に二三人四五人づゝ居つて女ニ雑談などして居る 女ハ女郎の様なもので云ハバ遣手婆と云ふ種類の老婆が若いのに附て居て客を引く 若い女ハ十五六とも見ゆる位のが沢山居た 驚く程の美人といふべき奴ハ見えなかつたが其代こんな奴がといふ程の醜婦も居なかつた 此処ハ即ち春江評花処といふ家だ 亜片を飲む部屋ニハあやしげな目付をした男がいくらもごろごろして居て見て歩いて居る人にハ一向気もつかないで一生懸命ニ吸ひつけて居る 亜片ハ必ず寝ながら吸ふものと極まつて居ると見え椅子の大きな様なものがあつて其椅子の中央部に朱檀の盆の様なものがはまつて居る 即ち其盆の上に亜片の道具を置き其両側に寝ころんで亜片を吸ふのだ 此の亜片をのむ処ハ一種不思議な臭がする 此の四馬路 五馬路といふ所は東京で云へバ新橋とか吉原とかと云ふやうな処で色町だそうだ 古道具屋を冷かし夫れから西洋料理屋ニ行てラムネを飲だ 古道具屋ハ中々懸値を云ふ 先づ一円五十銭とゆふたものなら五十銭位にハまける 西洋料理屋ニハ机の上に硯と紙と備へてある 其紙にハ活字で老爺……勿遅と書いたものが何だと聞たら芸者を呼びニやる札だそうだ 其札の中ニ自分の呼びたいと思ふ女の名を書き入るれバ使の者が持つて行くのだそうだ 又此の料理屋ニ芸者の名のかいてある帳面が有つた 此地ハ遊ぶ方の事ハ中々開けて居るらしい 芸者を呼ニやる札ハ桃色の西洋紙にして老爺叫の下に女の名をおき第と号の間ニ部屋の番号を入れて送るのだそうだ 中々便利な仕方だ 芸者で尤も有名なのは(原文数字空白)と云ふのだそうだ 支那でハ芸者の事ヲ何々先生と呼び芸者屋の事ヲ何々書屋と云ふそうだ どうしても支那ハ文字の国だナ 此の西洋料理を出て帰りがけニ広東女の居る家を一寸見る 至て下等なものらしい 様子なども之れぞと云て面白い点がない —- 老爺叫 至四馬路東首一品香 第  号房内侍酒速 速勿遅—-

1900(明治33) 年5月30日

 五月三十日 (欧洲出張日記) 中々今日は暑い 佐藤 岡崎 飯塚の四人連で馬車を雇ひこの東和洋行ニ居る日本語の分る支那人を案内ニ連れて市中見物ニ出かけた 愚園 張園などを見る いづれも支那の金満家がこしらへた遊び場処で人の縦覧を許すのだ 愚園の方ハ入場料が一人前十銭だ 支那風の楼閣が出来て居て其中をあつちこつちと通る様ニ為つて居る 廊下や建物の周囲に大胡不流の岩がセメント固メデ出来て又建物は中ニ蓮池を取り囲でどうしても唐詩選中の或るものを形ニした様だ 蓮ハ未だ花ハない 漸く新しい葉が少し許出た処だ 張園の方ハ丸で趣が異つて居る 此の方ハ欧洲風だ 三つ許離れ離れの建物が有るが重なものは集会所ニ使ふ為めのものか椅子や机が沢山列べてある 之れに附属して西洋料理屋が有る 此の部分ハ西洋人がやつて居るのだそうだ 此の洋風の張園に不似合なものは支那の人相見が一人園中の奥の家ニ居る事だ 支那で人相を見て貰ふも亦一興と忽ち二十銭憤発スル事と為つた 其処で案内に連れて行た支那人が筆を採つて人相見の爺が云ふ事を記した  尊相骨格清高今歳僅交眼運部目像鳳形三停相配六府相匂五官端正乃是富貴相局眼生威厳可惜鼻太低以致富厚貴子息先女後子為寉寿元古稀有余子ト三人団円福寿双全 在上海張園内 清国醒世道人評 光緒二十六年夏月 東和洋行華人代筆 昼飯はホテルデコロニーといふ仏国風の宿屋でやらかし後買物などして午後五時半頃MM会社の小蒸汽にて本船へ帰つた

1900(明治33) 年5月31日

 五月三十一日 (欧洲出張日記) 今日もいやな暑さだ おまけに昨日あついのニ上海を見物して歩いた結果の例の持病の頭痛が始まつた 船の看護人に云て氷を貰つて頭を冷した 又看護人がレモン水や熱さましの薬なと持て来て呉れた 昼めしハ食ハず ソツプ丈部屋で飲で寝て居た 早く用心したから早く気持がよく為り晩めし時ニハ平常の通に為つた 午前十一時ニ出帆した

1900(明治33) 年6月2日

 六月二日 (欧洲出張日記) 今日もむしあつい 午前十一時頃右手ニ赤つちやらけた陸が見えて猟船などが沢山出て居た 同船の平山氏が支那通の人であれが多分汕頭ならんと云話であつた 午後二時頃ニ寒暖計を見たら摂氏の三十一度ニ昇つて居た 四時頃から雨が降り出し少しくすゞしく為つた 五時頃から半時間位は実ニ盛んに降つた 丸で日光の雨のやうだつた 此の熱帯地方にはこう云雨のふる事が時時あるそうだ 晩めしを食て甲板ニ出て見ると近くに島が見え又色々な色のあかりが見えた 即ちこれが香港だ 大小のあかりがずたりと前に見ゆる体は天が目の前ニ下つて来たかと思ふやうであつた 九時頃と覚しき頃ニ船が止まつた 今夜ハ船ニ居つて明朝上陸する事と為つたので甲板ニ同船の日本人や日本育の人達が集まり佐野君が日本の歌を歌ふやら又同船の或人の身振の真似などして見せて皆を笑ハした 日本育の人達といふのハ Fabre-Brandt の兄弟三人と Eymard の兄弟四人だ 皆日本語ハ日本人の通りで中々都合のいい人達だ 十一時頃まで笑つてそれから部屋ニ引込だ〔図 写生帳より〕

1900(明治33) 年6月3日

 六月三日 (欧洲出張日記) 今日ハ雨ふりと云ふ天気でハないが矢張時々降つて居た 午前九時頃ニ佐藤 岡崎 飯塚の三君と共ニサンパンを一艘雇つて上陸した 岸から人力車ニ乗つて東洋館と云ふ処に平山周氏をたづねて行た 平山氏ハ此処が目的地で昨夜船が着くと直ニ上陸されたのだ 二見楼と云ふ日本の料理ニ居ると云ふので其処へ尋ねて行た 此の二見屋ハ擺花街といふのニ在る 支那町の真中だ 此の辺の家は門並五階造り位の家だが支那人の住居だから実ニきたならしい 又此頃ペストの中心点ニ為つて居るのも此処だそうだ 全体比の香港ニハ大分体裁のいゝ家が有るけれどいづれも外側だけがいくらかいゝので雑な家が多い 先づ平山氏の周旋でラムネや氷又夏蜜柑等が出た 佐藤氏ハ午後の四時過ニ領事館で出遇ふ 約束で何処へか出て行た 吾れ吾れ三人ハ残つて平山氏及び同船の綿羊的日本女二人等と日本めしを食た 綿羊等ハ是非上陸したいが連がないから連れて行て呉れと云事で此処まで一緒ニ来たのだ 此の二見楼にも日本の女が三四人居る 大抵長崎辺のものらしい 木綿のきたない被物を着て給仕などしてをる めしを食て居る時ニ非常ニ雨が降つて来た めしは豆腐の味噌汁 鶏 竹の子 松茸 蓮根の甘煮 玉子焼 海老に木瓜の酸の物等で実ニ甘かつた 岡崎氏ハ知己を訪問するとてめし後ニ一人出かけた 飯塚君とオレは平山氏としばらく話をして午後の二時半頃から平山氏に導かれて此処の銀座通とでも云ふべきクインスロードに行き銀細工物など冷かし夫れから此の地の名物の籠ニ乗つて公園地に行た 熱帯其他の地方の珍しい植物を沢山集めて中々美事ニこしらへてある 蓮の花 鳳仙華 朝顔 日廻り草 紫陽花などが咲いて居た 此の公園にハ噴水が一つ銅像が一つ有る 銅像ハ M.Raggi の作でロンドンで出来たもので千八百七十二年から千八百七十七年まで此処の大守で有つた Arthur Kennedy の像だ 彫刻物は此の銅像の外ニ海岸ニある英女王の像が一寸よく出来て居る 日本ニもせめて此の位のものがほしいナア 全体香港と云ふ処ハ赤土山のつまらない処だ 夫れが今日の体裁を為して居るのは全く人工のお蔭だ 建築物は外側ハ一寸見られるやうなのが少しハあるが中ハいかにもお麁末な様だ 又籠でクインスロードまで下り見世を少し冷かした 此処でハ見世に這入つて何かあの品を見せろと云ふと其品を出す前ニ必ず先づ直段を云ふくせが有る 又何処の見世でも見世番ハ大抵支那人だ 不思議なのハ支那の車夫や籠かきだ 値段をきめず何処までやれと云て乗つて向ふニ行ていゝか減ニ金をやるのだ そうすると其車夫やかごやは必ず不平で金がにせものだから他のをくれとかなんとかかとか云て増賃を請求する それを一向構ハずに来て仕舞ふのだ 上海などではこう云場合の時ニは必ず杖か何かでぶんなぐるのだ そうすると其儘閉口して行て仕舞ふ 其処で或る西洋人などハ此のなぐる方法を利用して只で車の乗りにげをやるのもあると云ふ事だ 香港でハなぐる事ハ禁じて有るそうだが巡査ハ時々ポカリポカリやらかす 上海の居留地の巡査ハ英人 印度人 支那人だが此処の巡査ハ英人ト印度丈だ 丈の高い立派な奴等だ 又此の香港ハ坂計の様な土地の為か馬車は一つもない 又上海で見るやうな一輪の押して行く車もない 平山氏ニ別れて飯塚氏と二人領事館ニ行た 佐藤氏ト岡崎氏ハ己ニ来て居た 上野領事ニ面会した 書記生の某氏が案内で海岸に下って郵船会社の小蒸汽で船へ帰つた 今朝一緒に来た女子共も再び吾レ吾レと一緒ニ船へ帰つた

1900(明治33) 年6月4日

 六月四日 (欧洲出張日記) 午後一時ニ船が出た 少し風が有るが少しもゆれない 仕合だ 夜九時少し前頃から Fabre-Brandt 兄弟 Eymard 兄弟と吾レ吾レが皆日本のゆかたを被て甲板ニ集り Eymard 氏が獅子舞の真似などして大ニふざけて大笑した 十一時過まで皆で騒いだ

1900(明治33) 年6月5日

 六月五日 (欧洲出張日記) 香港を出てから風が有るから甲板ニ居れバすゞしくていゝが夜はどうもよくねる事が出来ない 手拭を枕のわきに置て目がさめると汗をふくのだ 一寸眠るとあついので目がさめる めがさめて見ると面やからだは汗だらけだ 全体昨日も今日も上天気でハない ぼんやりして居る方で風が有るから香港滞在中より余程涼しい 午後の一時半頃ニ急ニ夕立がやつて来た 一時間位で止で仕舞つた

1900(明治33) 年6月6日

 六月六日 (欧洲出張日記) 朝八時頃甲板ニ出て見たら右手ニ陸が見えた 今日ハ終日此の陸を見て進む これが安南地方だらう 船客のカリカチユールなどかいて遊んだ 夜上等の煙草室で三四人寄つて画の事などいろいろ話をした

1900(明治33) 年6月7日

 六月七日 (欧洲出張日記) 午前四時頃ニメコン(Mekong)川の入口に来て一寸止まり水先をのせて又進だ 八時サイゴンニ着いた 八時過ニ上等の連中も一緒ニ都合七人で上陸 馬車でホテルデコロニーといふ処ニ行きそれから動物園と植物園とを見ニ行て帰つて来て昼めしを食た 晩めしはボレスと云町の日本人計居る処ニ行て日本めしを食ひ後一と先船へ帰り又馬車ニ乗つて市中の夜景の見物をした

1900(明治33) 年6月8日

 六月八日 (欧洲出張日記) 九時ニ船が出た 今日ハ寒暖計三十四五度だ 先づ昼間ハ無事に済んだが夜十一時頃ニ部屋ニ這入つたらどうも眠られず ねむられないから国の事など思ひ出して居ると息がくるしくなり気が遠く為つた 仕方がないから看護人を呼び起し薬などをのんで再び寝た 今日までハ一つの部屋ニ一人で大ニよかつたが西貢から大変人が乗つたからオレは岡崎 飯塚の二氏と同じ処ニ這入る事と為た 其上ニ今一人爺の仏人が一人同室だから四人詰の一室満員と為つて中々窮屈だ

1900(明治33) 年6月9日

 六月九日 (欧洲出張日記) 昨夜薬をのんでねてからいつものやうに汗が沢山出て少し眠る事が出来た 印度洋の旅ハもうよくよくいやニなつた 今日はどうも気分が本当でない 十時の昼めし前ニ看護人が熱さましの薬を呉れたから呑んだ めしハ二タ口か三口丈で御免を蒙つた 一時のめしにも行かず甲板で博文館の紀行文集を読だり居眠をしたりして居た 今日ハ実にあつい日だが寒暖計ハ三十一度位のものだ ボーイニ頼で一時のめしのスープを取つて置てもらつて二時半頃ニ呑んだ 今日ハ少し熱でもあるものかつるりと居眠をすると東京の内の者の姿などが見える 篠塚氏が書附を持てオレをさがして居るところも見た 晩には大抵よく為つたと見えて腹がへつたから一と通り食事をした

1900(明治33) 年6月10日

 六月十日 (欧洲出張日記) 午前六時ニシンガポールに着いた 疫病のある地方を通つて来たから上陸させないそうだとか何とか云事だつたがそうでもなく九時ニ上陸した 上等の連中ハ先きニ行て仕舞つたから吾れ吾れ即ち中等組の飯塚 岡崎とオレの三人は日本料理屋主人松尾兼松を案内として馬車を一台雇ひ見物ニ出かけた 三四町行くと人力車に乗つた日本人が手招きをするから馬車を止めさした これハ先きに出かけた上等の人達の使で今領事館ニ居るから来いといふ事だつた 領事館ハ直其処だとの事で一寸立ち寄る事とした 此の領事館のある処ハ先づ此のシンガポールの内でハ一寸辺鄙な処らしい 領事ニ逢ひお茶を一杯飲み再び上等の四人に別れて出かけた 先づ動物園を見た 動物ハ至而少ない 猿 虎 クロコダイルなどと其他鳥などが少し計居た クロコダイルハ小サイのでつまらない 虎も大きい方ぢやない 猿の内で尤も面白かつたのは手長猿だ 此の猿は始めて見た 体の割ニ手が長い 毛の色は黒だ 古人が画ニかいた月を取らうとして居る猿猴なるものは則ち此の猿をかいたものに違ない 其猿が木から木に移る時は一つの手の先を枝にかけぶらりと体をゆすり他の枝ニ今一つの手をかけて移るなり 其時ハ体ハまるくちゞまり手はいやに長く為るやうに見ゆ 此の猿の名はジボンスと云つてラオズ地方の産だそうだ 或る仏人の話ニ此の猿が児を育つるを見ると丸で人間の様でたとへば人が一匹の児ニバナヽをやれば男親が其児を打つて其バナヽを取り上げ夫れから其バナヽを総体の児供の数ニ割つて皆ニ分けてやるそうだ 又或る時雄猿を雌猿や児猿と引分けて仕舞つたら其猿供が皆涙を流してかなしんだそうだ 動物園を出る時ニ Fabre Brandt 兄弟 Eymard 兄弟の一行に出遇つて Fabre 氏が早取りで吾レ吾レ一同を写した これより水溜の有る処を見ニ行た 随分遠い処だつたが行て見た丈の事ハあつた 中々手の行き届いたきれいな処だ 途中でパインアープルを大きな荷車ニ高く一杯積み上げ馬ニ引かして行くのがいくらもあつた 途中の一ぜんめし屋の様な処ニバナヽとパインアープルがぶらさげてあつたから腹ハすくしのどがかわいてたまらないのでそれを買つてたべた パインアープルの大きいのが一つで三銭だつた 水気が沢山あつて甘くて実ニ結構だつた サイゴンのホテルでマングスタンといふ実を始めて食つて甘いと思つたが中々此のパインアープルの新しいのゝ味には及バない 松尾方へ行く 風呂もわかしてあり直ニ風呂ニ這入り湯かたに被かへて食事をした 此の家は内の中は日本風で素足で歩いて座敷ニ座るのだ 風呂は日本の鉄砲風呂だ 給仕ハ矢張日本女で即ち亭主の妹だ 食物ハ刺身だの甘煮だの六品か七品も出た 先づこれが当分日本めしの食ひ仕舞ひだらうと思ふ 日本めしハ巴里でも食へるかも知れないが日本女に給仕をさせて食ふと云事はもうたしかニ此処限りだ 食事が済んで払をして此の家を立ち出て矢張宿の亭主の案内で市中の見物旁買ひ物ニ行た 更紗の布を買ひ度いと思つたがかたつけ計で書いたのがなかつたから止めにした かたつけの更紗で三尺四方計のが六円だとか云て居た 高いものだ 又マレー人が織物をして居るのを見ニ行た 支那製の絹糸できれいなしまのきれを織て居た これは此の地で流行つて居る腰巻ニ用ゆる為めのものだ 一つ分丈即ち一尺五寸位の幅で長さ六尺計造つて十五円だ そうしてそれ丈織るニはどうしても十五日位はかゝるそうだ 此の布は安いものだ 布類ハ見た計で一つも買ハず 岡 飯の二氏ハ藤の杖を買ひオレハ印度人が冠つて居る白い帽子を一つ船の甲板用ニ買つた 岡崎氏もこれを一つ買つた 午後五時ニ出帆 シンガポールでは此頃は一日ニ大抵一遍ハ雨が降るそうだ 其為ニ余程暑サがへる

1900(明治33) 年6月11日

 六月十一日 (欧洲出張日記) 今日はスマトラ海峡だ 船ハ西北へ向て進む 陸ハ見えない 海は静かだ 寒暖計は昼間は三十二度位 夜ハ三十度

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