本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1892(明治25) 年1月15日

 一月十五日附 グレー発信 母宛 封書 よかねんとぢごわんす みなみなさまおんそろひよき御としをおとりなされましたろうとおんめでたくおんよろこび申上候 つぎニわたくしことだいげんきにてぱりすでおせうぐわつをいたしました ことしのおせうぐわつニはをなじとしぐらいのともだちがをゝくをりなかなかおもしろいことでございました 三日のひニはこうしくわんでやくわいがございましてそのときニはわたくしどもが四五にんでしばゐのまねをいたしましてなかなかひとをわらわせました(中略)  注 外題  (「あさがほにつき やどやのだん」 あさがほ=黒田 駒沢次郎左衛門=三島弥太郎 士=井上 宿屋亭主=をさだ(長田) 若士=川村 下女=久米桂一郎 口上 義太夫=河北道介) ことしのおせうぐわつハこんなしばゐのまねなんかゞあつたもんですからいまゝでのおせうぐわつよりよつぽどにぎやかでした それといふのもこんどみやさんはじめこうしくわんのはやさきさん かハさきさんなどいふひとたちがにつぽんニおかへりニなるのでそのおわかれのおゆわいをやつたのです そのひとたちハみんな九日のひにたつてしまいました(中略) ちようどきよねんのくれかこの二十日ばかりのあいだといふものハたいていまいにちみやさんのところニゆきそれからみしまさんのところニいきをりましたもんですからみなさんが一ちどきにおたちニなりきゆうニさみしくなり一日もぱりすニをるのがいやでしたからすぐおたちニなつたそのよくじつニまたいなかニかへつてまいりました ちようどそのひのゆうがたからゆきがふりましていなかのけしきハなかなかよろしゆうございます まだしばらくのあいだハきへないだろうとぞんじます さてこんどおたちニなりましたみやさんのおつきのはやさきさんといふおかたハかごしまのひとニてわたくしたちをたいそうしんせつニしてくださいました みやさんもたいそうていねいニしてくださいました わたくしがかきましたみやさんのおかほハあとからおくるようニとおつしやりましてわたくしニおあづけニなりましたからいづれそのうちニおくるようニいたしませうとぞんじます それからかわさきさんといふこれもやつぱりかごしまのひとからおせんべつニおかねを百ふらん(につぽんのおかねで二十五ゑんばかり)もらひました これハおとどしのなつかきましたゑをしんもついたしましたからそのれいかたがたなニかあげたいがゑのほうのためニなるものはなニがいゝかしれないからしつれいながらかねをすこしばかりやるからゑのぐでもかつてくれと申されました まことニしんせつなことです そのまゝもらつてをきましたからそうおもつてゐてくださいまし(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年1月21日

 一月二十一日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)ほくかいどうからおかへりニなりましたらわたしのゑもとゞいておりましたよしあなたさまがたのおきニいりましてまことニうれしいことでございます このまへのびんからゆつてあげましたとうりいまハいなかニをりましてきようしんくわいニだそうとおもうゑをいつしつペなつてかいてをります ことしもさくねんのようニ一まいでもうけとられるようニなればいゝがとおもつてをります かのししがやまのなかニをるところのゑをかいてみたいとハおもつてをりますがあんまりむづかしいもんですからまだてをだしきらずニをります きようしんくわいニだすゑハ三月の十三四日ごろまでニかいてしまつてちやあんとがくニいれてもちだすようニしなければならないのですからなかなかいそがしいことてす こんどのハきよねんのからみるとよつぽとおゝきうございますから一つのがくぶちだけニでも三百ふらん につぽんの七十円ぐらいはとられるだろうとしんぱいいたしてをります まあいくらおかねがかゝつてもきようしんくわいニうけとられさいすれバよろしゆうございます それでべんきようをだい一としてをりますからごあんしんくださいまし(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年2月12日

 二月十二日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至而元気一昨日巴里へ出て参り候 最早金受取も亦額縁の誂方等も全く終り候間今夕又々田舍へ引き返へし可申候 共進会へ持出し申候積の画未だ全く出来上り居らず候ニ付試験前の如き心地致候事ニ御座候 額縁ハ仏貨にて二百十仏計りかゝり申候 我六十円近き高ニ御座候 此の払ヒなどハ五月頃ニ終末相付申可考ニ御座候 何ニしろ只今ハ手本雇入代又ハ絵具代かれこれニ無心配仕事せねバならぬ折柄今度御送被下候為換ニて万事都合よく運被申候 御礼申上候 兼而兄弟如く付き合居候学友久米氏も今度の共進会へハ景色画二枚程出品被致積折角其用意致し被居候 同氏にも事ニ依りてハ当年の末か来年の共進会後かニハ必す帰朝被致覚悟 私も同道仕度存候 昨夜久米氏と色々後来の事共ニ付話しなど致し候 二人にてあらまし取り極め申候事共委細後便より可申上候 早々 以上 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年2月26日

 二月二十六日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたしハいつものとふりたつしやでべんきようをいたしてをります このごろハまだきようしんくわいのゑをかいてをります なかなかむづかしいのでひまがかゝります この十五日ばかりといふものハやどやニハさつぱりいきませんでうちでたべものをこしらへてたべてをります わたしのてほんニなつてくれるやつがかいものもしてくれまたりようりもこしらへてくれますからしあわせです(後略) 母上様  いなかより 新太拝

1892(明治25) 年3月18日

 三月十八日附 パリ発信 父宛 封書 一月二十一日同二十五日附之御手紙先日慥ニ相届き難有拝読仕候 御全家御揃益御安康之由奉賀候 姉上様ニハいよいよ御安産御祝儀申上候 私事丁度一週間程前一生懸命ニいそぎ共進会への画描き終り直ニ其画を持て巴里へ来り出品の都合致し候 昨年の共進会へハ木炭画二枚油画二枚都合四枚出し候内よりたつた御送申上候油画一枚受取られ候 当年ハ油画二枚のみ出し候 一枚ニても受取らるゝ様ニ行けバ先づ先づ仕合と思ふより外無御座候 其油画ハ田舍ニて借家致し居候内の娘ニて始終手本ニ為り呉れ候者の肖像一枚と秋之景色にて紅葉したる木々日の当りたる様とニ御座候 額縁かれこれニ物入多く先達而御送り被下候学資金も残り少ニ相成候 併し来月の二十頃迄ハ借金もせずニ行ける事と存候 決て御心配被下間敷候 私久米氏と一緒ニ帰朝仕度旨一寸申上候 旅費などの事色々聞合せ候処印度洋を通る方にて二千仏ハかゝり候由ニ御座候 其外ニ極必用の絵具筆書物等一二年分買入参り度此の方ニ一千仏近クハ入リ可申存候 合せて三千仏ニ相成候 当地ニテ三千仏と申てハはした金の様ニ被思候得共日本の天下ニ取てハ中々の大金故御都合ニ任せ当年の末迄の内ニ御送リ置被下度左候へバ久米氏の仕度出来次第ニ当地引上可申候 亜米利加廻リハ金多く懸り美術ニハ何の功能も無之候間断然取り止め申候 只欧洲を去る前ニ一目見度ハ美術の本店伊太利国ニ御座候 金の都合次第ニて之レも取り止めニ致し可申候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年3月27日

 三月二十七日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのよしなニよりおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎニわたくしこといつもながらげんきにてこの二しゆうかんばかりハぱりすニてくらしました たゞぶらぶらとしてをりましてべんきようハいたしませんでした きようしんくわいにだしましたゑもいまのところでハどうなることかまだわかりませんのでなんだかきがをちつかないようでございます もう十五日もしたならいゝとかわるいとかどつちかかたがつくでしようとぞんじます そこでたゞぱりすにをりましてともだちなんかとぢようだんなんかばつかりゆつてくらしてをるのハこのうへもないきらくなおもしろいことでございますがそんなことばつかりしてもやくニたちませんからきのふまたまたいなかニひつこみました(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年4月9日

 四月九日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至而壮健今日迄ハ只書物など読居画の趣向など工夫罷在候のみの事にて筆を取ての勉強ハ余リ不仕候 併し此頃ハ天気殊外快晴全く夏の如きはだ持に相成花なども急ニ咲始候間二三日内ニ是非共何ニか描き始申度心組ニ御座候 共進会へ持ち出し候画不幸にして二枚共はねられ申候 戦に負勝有るが如きものとあきらめ自分ハ先々平気ニ御座候得共世間の上べのみニ気を付くる人達ニ対してハ少し肩幅狭く相成し心地ニ御座候 久米氏も私と同し事ニて気の毒の事ニ御座候 能く考へ候得ば当年の失敗ハ私ニ取リてハ却而薬ニ相成候事と被存申候 其故ハ之レが為力落どころにてハ無御座候 来年こそハ一番人の目ニ附く様ナものを描き持ち出し呉れんと云心胸ニ満ち申候 何と申ても当地ニテ画かきと称し其画ヲ以テ生活ヲ立て行程ニ相成らざれバ甲斐なき儀ニ御座候 共進会ニテ二等の賞を得何地より如何なる画ヲ持ち出しても審査官の評議をへずして陳列品ニ加へらるゝと云迄ニ相成帰朝する様なれバ此の上も無き好都合ニ御座候得共外の学問とハ違ヒ何ケ月学べバ何段ニ昇ると云様ナ訳ニハ不参候間先づ名誉かれこれの世間ニ対しての事ハ全く思ハず只自分の心任せニ描き而其画が人の気ニ入レバ徳気ニ入らざれハ夫レ迄の事と別ニ心配なく静ニ勉強するが上策と奉存候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年4月22日

 四月二十二日附 グレー発信 母宛 封書 一ふで申上度候 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのよしおんめでたくぞんじ上度候 つぎニわたくしこといつもながらげんきにてこのごろハまたまたいなかにひきこみをりべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このまへのびんから父上様へ申上ましたとうりことしのきようしんくわいニてハまことニぶしびなことニてめんもくないことでございます どうもこのつらでにつぽんへかへつていくのハいかニもざんねんでたまりませんからかへるまでのうちニぜひなニかもう一まいかいていこうとおもいせつかくほねをおつてをります(中略) わたくしももうそんなニいつまでもこゝニをるわけニハいきますまいからをそくもらいねんハかえつていきます それともまたひよいとことしのうちニかへるかもしれません なニもかもおかねしだいです くめさんハどうしてもこのあきごろニハかへつていこうとゆつてをります いまハただにつぽんからおかねがおくつてくるのをまつてをるのです わたしもくめさんと一しよにかへるようなつごうニなれバとちゆうもさみしくなくてよいがとかんがへてをります ことしのうちニかへるようニなるとたゞざんねんなのハきようしんくわいではねられたまゝでかへつていくのですからこゝろもちがわるうございます いままでこゝにをつたにつぽんじんできようしんくわいニうけとられたのハわたしのほかにふたりをりますがそのふたりのひとたちもみんな一どうけとられたばかりで二どめニははねられそのまゝでかへつてしまいました わたしもいまのまゝでかへつていけバそのひとたちとにたりよつたり そのひとたちハおかねがつゞかずニかへつていつたといふことができますがわたしハそうゆうわけでハないのですからわたしのほうがまけニなります こればつかりハかへすがへすもざんねんしごくでございます くめさんはひとりむすこのうへにおつかさんがもうよほどまへからごびようきだそうでぜひもうかへつてきてくれとおつしやるそうでこちらニじつとしていてゑをかくきニもならずどうしてもかへつていくほうがましだろうとゆつてをります いよいよことしのうちニハかへつていくニハちがひハございますまい あたしがかへりましたらご一しよニかごしまニくだりましようからたのしみニしてまつていてくださいまし こんどハまづこれぎり めでたくかしく 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1892(明治25) 年4月29日

 四月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気ニテ相暮し居候間御休神可被下候 此頃ハ矢張不順の天気勝にて野にての稽古ハ六ケ敷候 此の十一二日前より描き掛居候女の肖像一枚昨日仕上候ニ付本日より又々十五日か二十日計の見込にて一と先都ニ引上ノ積ニ御座候 今度都にてハ卒業試験の様な心持にて日本への御土産の為当地名物の女のはだかの画一枚心に任て描き申度存候 小さな考をして居る日本の小理屈先生方へ見せて一と笑ひ仕度候 巴里にてハ社会党が大ニ流行あそここゝにて家をはねとばし負傷者も少なからざるさ、あ子ニ御座候 裁判官と警視の役人が一番のにくまれ者ニ候 五月の一日ハ毎年職人共のさわぎ廻る日故当年ハ社会党の者等が必ず何ニ事かやらかすならんと巴里の者共ハ怖れ居るとの事ニ御座候 社会のさわぎを高見からの見物一寸面白き事に御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝 御自愛専要ニ奉願候

1892(明治25) 年5月10日

 五月十日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしハこのごろハやつぱりぱりすニをります あしたからはくぶつくわんニまいりましてむかしのひとのかいたゑのうつしかたをやるつもりです じつハをんなのはだかぼのゑを一とつかくつもりでてほんニなつてくれるをんななんかをたのんだりまたおゝきなきれをかつたりしてちよつとかきかけてみましたがよくよくつもつてみるとおかねがとてもたりませんのでまづとうぶんおやめニいたしました またこんどかはせがきてからこのゑをかくことゝいたしました 二三日まへニせんせいにあいニいきましていろいろことしのきようしんくわいのおはなしをうけたまわりましたらせんせいもわたしがことしことわられたことをたいそうきのどくニおもつてくださいましてずいぶんよくできてをつたのニことわられたのだからちつともちからををとすことハない たゞうんがわるかつたのだとゆつてくださることニてそうきいてみるとまたすこしハきぶんもよくなります まあすんだことハしかたがございませんからこれからなるたけべんきようしてらいねんのゑをかこうとおもつてをります いなかでひとつをゝきなのをかくつもりでそのしたごしらへをしてをきましたがこれもいまハおかねのつごうがあんまりよろしくございませんからまづまづなかいりニいたしてをきました そのほかニもう一まい一せうけんめいニちからをだしてりつぱなのをかいてみたいとかんがへてをります くめさんもおつかさんがごびようきだもんですからもうことしのうちニにつぽんへどうしてもかへるとゆつてをりましたがこないだくめさんのうちからおてがみがきておつかさんのごびようきもわるいことハわるいがまだ五六ねんのうちニどうこうというようなことハあるまいとおいしやさまがをつしやることだからせめてもう一ねんもべんきようしてからかへつてこいとゆつてきたそうにてくめさんハおゝよろこびです そのうへわたしなんかハらいねんの九月とかのまへニかへるとちようへいニとられるとか申ことです これハどうだかいろいろいふひとがありますからわかりません わたしもなんならせめてきようしんくわいでほうびをもらうぐらいニなつてからかへりとうございますがそういうわけニもいきますまいからどうしてもおそくともらいねんハまづまづかへつていくかんがへですからおたのしみニしてまつていてくださいまし(後略) 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし みなさまニよろしく

1892(明治25) 年5月17日

 五月十七日附 パリ発信 母宛 封書 (前略) 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし わたくしハこのごろはやつぱりぱりすニをりましてはくぶつくわんニまいにちむかしのゑをうつしニまいります

1892(明治25) 年5月31日

 五月三十一日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのはづおんめでたくぞんじあげ奉候 つぎニわたくしこといつもながらげんきにてさくばんまたまたいなかニまいりました ぱりすでハまいじつはくぶつくわんにむかしのゑをうつしニいきました そのうつしハまだすつかりすみませんがどうもどうもこのごろハおてんきがまことニよくぱりすニをるのハまことニいやですからまづそのうつしハまたのことニしていなかニきてしまいました いなかのほうハまたかくべつです これからをゝきなゑでもかこうとおもつてをります このごろのあつさハなかなかつようございます あせがでることニハまことニへいこうです くめさんも二三にちのうちニこゝのいなかニをいでなさるはづですからそうしたらはなしあいてもできておもしろかろうとぞんじます わたしハながくせいようニをりますけれどもせいようじんとはなしなんかするのハときどきハよろしゆうございますがしじうハめんどうでいやです こまつたもんです このいなかでハやどやニハまいりませんでうちでちよつとしたせいようりようりをこしらへてたべてをります これのほうがよほどけんやくニなります まづこの六月ぢうハこゝでくらそうとおもつてをります 七月ニなつたらまたどこかちがつたところニいきたいもんです 父上様にハこのごろハこうがいのいゑつくりでおたのしみのよしまことニけつこうなことです せつぺおたのしみをたくさんなさるがなニよりのことゝぞんじあげます あなたさまニもなるべくおもしろいことをなさつておくらしなさいまし このせいようのめいしよやまたきれいなところを父上様やあなたさまニ一とめみせてあげとうございますよ けれどもあなたさまハふねやまたせいようりようりがおきらいですからまことニこまりますね ふねのほうハしじゆうゆれてばつかりハをりませんからよろしゆうございますがせいようのたびニにつぽんりようりばかりたべてをることハちとむづかしゆうございます ぱりすなんかでハごぜんをたいてにつぽんのとうりニしてたべることができます わたしがもうすこしゑがじようずニなつたらぜひ父上様のおともをしてせいようのたびをしたいもんだとおもつてをりますよ ずいぶんかんがへたよりもおもしろいものやめづらしいものがたくさんございます とてもげんにみなけれバはなしばかりでハわかりません まづこんどハこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし

1892(明治25) 年6月3日

 六月三日附 グレー発信 父宛 封書 四月十五日附ノ御尊書并ニ二百五十円の為換券本日慥ニ相届き難有御礼申上候 先頃帰朝相成候諸氏ニも御逢ひ直左右御聞被下候由安心仕候 加藤恒忠氏トハ近々の内ニ当地着可相成と折角相待居申候 私の額画芝公園地内の油画展覧会へ相出し被下候由奉謝候 評判も不悪由面白キ事ニ御座候 尤も驚ク可きハ私の画などが大きなる者の内なる由 彼の画の如きは当地の共進会ニては小さ過て人の目ニハ付き難き方ニて有之候 日本と仏蘭西と油画の上手へたも大抵額の大小の差の位の者かと被察申候 当年共進会へ持ち出し候女の肖像と秋の景色も御送申上度存候得共何分運賃高く掛り候由承り候間当分差し控へ置候 いつれ其内金都合よき時分ニ御送り可申上候 当年ハ一層大きな者を描き申度已ニ其用意仕下画等相始メ申候 趣向ハ夏と云ものニて女子共川辺の涼き処の岡の上ニ臥ころびたり又釣などして居る体ニテ少なくも人の五六人ハかき可申候 教師も何ニか女の裸体の者を是非試み候様申呉候間右夏の画の中ニはだかの者も二三人入れ可申やニ存候 併し此の方は手本雇入丈ニ一ケ月分三百仏余(我百円近く)かゝり候故実行余程六ケ敷ものニ御座候 新二郎の洋行もいよいよ極り候由大慶此事ニ奉存上候 米国と申処ハ知恵と忍耐と有る者ニ取てハ独立の道ニもとぼしからざる国の由兼而承り及候 新二郎も一通り学問致し候上ハ通常の洋行帰りの人の如く日本ニ帰りてつまらぬ学校の教師位ニ為て安心する様ナる小ナ事ハやめて何ニか面白き工夫を出し日本の旗を米国に立つる様ナ都合ニても相成候ハヾ家ニ取ても国ニ取ても此の上もなき名誉の儀と奉存候 之レハ口に云う事易くして為す事至而難ク候 併し今日ハ世界を我家ニして住う位の考ニテ事をせねバ兎ても西洋と肩をならべて行ク訳ニハ為り申間敷候 当地の或る有名なる著述家が世界廻りをしたる時の日記を読候処米国の或地方にて旧友某氏を訪ヒたる時の事を委しく記し遠く異域ニ来り幾多の辛苦を経て大業を為したるニ感じ之レガ真の武士也と誉め候 又其地方ニ十六と十九歳ニ為る二人の英人が主と為りて盛ニ農業を為し居るを見て驚き仏国の少年輩のいくぢ無き事を嘆き候 当地の公園地へつゞきたるシヤンゼリゼと申広き通りを何万てうと云馬車が行来して絶へぬを見ても西洋ニ金の多くして日本の文明ハまだ中々の事だと云の事の知られて残念至極と思はざるを得ざる儀ニ御座候 余附後便也 早々 頓首 父上様  清輝拝

1892(明治25) 年6月19日

 六月十九日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしハだいげんきニていなかニてべんきようをいたしてをります このごろハをゝきなゑのしたがきをしてをります なかなかほねがをれますがおもしろいことです(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年6月24日

 六月二十四日附 グレー発信 父宛 葉書 (前略)只今は矢張夏の画の下ごしらへニ骨折り罷在候 四五日の内ニ仕事部屋一ツ借受申積ニ御座候 下画の組立ニハ仕事部屋無之候ハでハ光線の具合彼是レ六ケ敷候 久米氏と連合にて借り居る巴里の部屋も来る十月限りにて打ち払ふ積ニ取極置候 段々帰朝の用意仕事ニ御座候 余附後便候也 早々 頓首 父上様  グレ村 清輝拝

1892(明治25) 年7月2日

 七月二日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 此頃ハ天気よろしく候間日ニ依てハ手本二人も一緒ニ雇ヒ色々と下画の工夫ニ骨折居候事ニ御座候 余後便ニ附候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1892(明治25) 年7月16日

 七月十六日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくおんくらしのはづおんめでたくぞんじあげ奉候 わたくしことハいつものとうりでございます やつぱりいなかでゑをかいてをります なつのおゝきなゑのしたがきもだんだんできてまいりますからなかなかおもしろくなつてまいりました〔図 「夏図」画稿〕 それからまたこゝのいなかニもう一ねんばかりまへからひつたりときてすまいこんでをりますあめりかのかなだと申ところのゑかきとしりあいニなりましてそのひとのうちニめしくいニいつたりまたそのひとがわたしのゑをみニきたりしていゝはなしあいができてよいことです(後略) 母上様  新太拝

1892(明治25) 年7月22日

 七月二十二日 金曜 今日ハ暮村ヲ立ツト云事ニ極テ仕舞タ故朝いつもより余程早ク起タリ 五時半頃ニ始メテ目ヲ覚しつるつるやつて七時頃起出づ 昼めしハいつもの如ク穴蔵部屋の中でやつゝけ残りの骨ハ隣の犬ニ窓からなげて呉る 此の犬の野郎オレが物ヲ時々窓からなげてやるもんだからめし時ナドニオレの足音がすると窓の下ニジーツと座て居るわい 変ナものさ 二時の汽車で立テ巴里ニ帰る 内ニ帰て居たら長田が丸毛と帰て来タ 五時半頃から川村純蔵の内へ出懸く 純蔵 其兄 此の人ニハはじめて逢タ 祖山 曾我の諸氏集り居かるたの最中 植木屋和郎公ハ台所で日本料理の用意 井の上が立つ前ニ残して置た三百仏ヲ祖山から受取る 之レで心強く為る めしの御馳走ニ為タ 味噌煮の牛実ニ甘シ 久し振で味噌ヲ食ふ 味噌ハいつ食ても結構也 十時過迄話しタ 曾我と話シ乍ラ達摩橋迄行キ引返して帰る 長田から公使館ニ届て居た日本の手紙ヲ受取ル オレが今年の共進会ではねられた事が知レタル御文也

1892(明治25) 年7月23日

 七月二十三日 土曜 丸毛より長田の小僧と三人で昼めしヲ内で食ふ 公使館ニ行き久し振で加藤君ニ逢たり 内からの御伝言や何かを聞く 又公使館ニ御手紙が一本着て居た いよいよ新二郎が文蔵さんと亜米利加ニ行たとの事 日本からの書留ヲ此処ニ送て呉れと電信で田舍ニ云てやる セイヌの河ぷちヲぶらぶら歩きルーブル博物館ニ行く がつかりしたから鬼武士車ニ乗て一と先内へ帰る 蓮町の一仏五十の安めし屋で晩めしヲやらかし翁ニ行て本屋ヲ冷かし二十仏近く書物ヲ買ふ 又乗合鬼ニ乗て帰る 十一時頃ニ久米公が田舍から帰て来た 一時過迄話す

1892(明治25) 年7月24日

 七月二十四日 日曜 (ベルギー・オランダ紀行) 今朝八時ニ書留ヲ受取ル 学資金の為換券也 九百仏計来夕 難有事也 オレがいつかうなり出した鶯の歌が直して来タ 遠藤さんが死で仕舞とハ真ニ気の毒ナ話し 先生が七丁目の内の滝の下の小屋ニ住て居て土鍋でめしヲ炊て食て居タ事ナドが思ヒ出される おとつあんとだいやめをしながら歌を作たりして居た時の面が今でも見へる様ダわい 不思議ニ人が集タ 第一丸毛が来てそれから川村兄弟 そうこうする内ニ元吉が来た 久米公と小僧とオレと三人入るれバ都合九人 牛鍋の御馳走ヲやらかす 久米公と出て高天通と龍来山園との間の通ニ賃部屋ヲ見ニ行ク 翁茶屋で飲む 飲みながらブルユクセル行ヲ極む 三味線通から車ニ乗り内へ飛ビ帰り大急ギで仕度ヲやらかし同じ車で北停車場へ走る 車の上で清泉駅へ出ス手紙を認む 停車場ぎはの郵便局ニたゝき込む 久米公切符取りニ走る 六時二十分の気車今出る処おあいにくさまヲ食て去ル 其処で十一時ニ出て朝の五時半頃ニ着く汽車ニ乗る事と極む 大通の吸物屋で晩食ヲやらかす 又和郎方及ウエベル家ニ土産ニするが為菓子ヲ買ふ ぶらぶらして時間ヲつぶす 屎なども屎屋ニ這入てゆつくりとやらかす ボツボツ歩て停車場ニ向ふ ナンダカもう立て行のはいやに為たが仕方なし 行て仕舞へ 十一時の汽車で立ツ 五時半に武律悉府に着す

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