本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1887(明治20) 年7月8日

 七月八日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先日公使館ニテ承リ候処御尊公様ニも今般華族ニ相成リ被成候由御目出度御歓申上候 公使館などにて黒田が華族の子になつたりなどゝ馬鹿にさるゝ事ニ御座候 海江田様にも至而御壮健 先日より私教師元老院議官カゾ氏に頼み仏国ノ法律ニ付テノ話ヲ御聴なさる事ニテ私わからぬながら通弁致し居候 毎日講義一時間づゝ有之候事故海江田様には随分御難儀御退屈と奉存上候(後略) 父上様 清輝拝

1887(明治20) 年7月22日

 七月二十二日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)御尊公様ニは御勳功ヲ以テ今般華族ニ御為リ被成候由大慶至極ニ奉存上候 華族ノ子孫に馬鹿多ク華族と云も馬鹿と云も殆ンド其意ヲ同フスル様ニ至りシも如御意交際の区域狭クシテ幼少の時より殿様育ニサレタルより来る外ハ無御座候と奉存候 実ニ世ノ中ニ此ノ輩より不幸なるものは無御座候 只肉体アルヲ知テ己レハ実ニ人か又木石ナルカヲ知ラズ精神ノ愉快ナキ時は錦衣馬車ニ駕スルモ何ノ楽カ有ル 反之其精神が独り安楽なる時ハ一箪食一瓢ノ飲肱ヲ曲テ枕としテモ楽ハ其中ニ有ル事ニテ之レゾ真ニ浮世ヲ住みこなしたるものとでも可申被存申候 私事ハ画ニ志し此ノ画ト共ニ楽ミ共ニ苦ミ即チ進退死生ヲ之レト共ニスル覚悟ニ御座候間御休神可被下候(中略) 日本ノ大名等ガ其祖先ノ事ヲ忘れ自分等ハ通常ノ人民と異リタル一種特別ノ上等人間ノ様な心持ちにて居りたるも前陳の理と被存申候 私画学修業の事ニ付委細御申越被下難有奉万謝候 原氏ヘハ私都合ヲ以テ可申入候 私画学修業致す事ハ公使館ハ勿論大抵知れ渡りたる様子に御座候 先日より画学校休業ニ相成候ニ付当時ハ久米桂一郎氏ト共ニルーブルト申絵画博覧場ニ行き古画ノ写など致し居候 実ニ画学ハ法律等ノ如ク理屈ニテやりつくる者トハ異リ一層むづかしき様ニ御座候 又只此ノむづかしさ具合ニ画学ノ妙存するものなる可く候 此ノ八 九二ヶ月ノ休暇中ぐつぐつとして巴里に在らんより僅カ気車賃位ノ差故近在ニなりとも出掛ケ木のかげニデも居リテ書物の復読をせんかとも相考へ居申候 余附後便 早々 頓首 父上様 清輝拝

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