本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1888(明治21) 年5月18日

 五月十八日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候半とおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしこと大げんきにてこのまへのにちようびよりぐれと申いなかにまいりましてまいにちのばらやいなかのばあさんまたうしなどのゑをかいております このまへまへのどようびにぶんぞうさんと一しよに一どまへりまして五日とまつてをりました そうしてこんどは二どめです このぐれと申ところはかわがあつたりなんかしてなかなかよいところです このまへにきたときにはぶんぞうさんがみんなはらつてくださいました こゝにハゑかきがたくさんきてをります わたしのがつこうのともだちが三にんきてをりますからなかなかおもしろいことです ひるまはゑをかいておもしろくくらしますけれどもよるハなにもしかたハなくばんめしをたべてしまうと九じになります それからすこしひとりかまたハともだちといなかみちをぶらつきましてかへつてすぐねてしまいます ぱりすのみやことちがいよるなどもなかなかしづかなことにてまことにまことによいことです(中略) もう二三にちもするとまたぱりすにかへつていかなければなりませんよ ながくをるとおかねがたくさんいりますからこまつたものです めでたくかしこ 母上様  新太より

1888(明治21) 年5月25日

 五月二十五日附 パリ発信 母宛 封書 たゞいまいなかからかへつてまいりましたら四月六日つけのおてがみがついておりましてまことにうれしくさつそくはいけんいたしました 父上様あなたさまおんはじめみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候よしめでたしめでたし わたくしは申あげるまでもなくまことにまことにげんきなことですからどうぞどうぞごあんしんくださいまし こんどいなかではまいにちまいにちゑかきをいたしましてまことによいけいことたのしみをいたしました(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年6月1日

 六月一日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極壮健勉強罷在候間御休神可被下候 文蔵様ニハ二三日前当府御出発仏国の南方モンペリエト申地ヘ御越被遊候 来ル七月中旬ニハ日本ヘ御帰りの御積の由承候 此頃ハ気候余程暖かニ相成学校の生徒モ十の七八ハ田舍ニ出掛ケ居候 随分淋しき事ニ御座候 教師ハ不相変深切ニ世話致し呉れ候間御休神可被下候 去る日曜ニハ同氏別荘ニテ夜食之馳走などニ相成候 仕合の事に御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年6月8日

 六月八日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先便より申上候通り去月ハグレト申田舍に二週間程滞在仕居景色画の稽古など仕愉快相極入申候 当仏国ニハ之レゾト申程の景色ハ無御座候得共矢張田舍ハ何国も同し田舍ニテ甚ダ面白事ニ御座候 右グレにて久し振ニ蛙の声を聞き左の通り例のごまかし歌を作り申候 御一笑被下度候  蛙なく声を聞つゝまとろめは夢は遥に故郷の空 (中略)グレト申処ハ真ノ田舍ニハ御座候得共随分画人連中ニ知られたる地ニて来遊者ハ大抵画かきニて御座候 併シ其画人中仏人ハ甚ダ少く私の下宿致し候旅店ニハ同宿者十四五人有之候中米人十人計り居り其他ハ皆英人にて食事の時などは皆英語ヲ話し候得バ殆ンド英国か米国ニ行きたる様心地致し候(中略) 私二三日前画かき部屋一つ借り受ケ申候 一ヶ年分五百五十仏ニテ三ヶ月分ヅヽ払ふ事ニ御座候 一ヶ月が凡ソ日本の金ニテ十円位ニ上り申候 日本ニ取リテハ随分高き者ニ御座候得共当地ニてハ一ヶ年七八百仏より千仏位出さねば一寸したる画室ハ無御座候 併し私ハ未ダ立派な画をかくと申訳ニも無御座候へば此ノ五百五十仏の画室ニて充分ニ御座候 尤も今迄ハおもに焼ずみの画をかき居候得共此方ハ少し形も出来る様相成候ニ付今よりハ油画の方をなる可く勉強仕度依而入費の増すをも顧みず右画室を借受申候次第ニ御座候 左様御承知被下度候(後略) 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年6月15日

 六月十五日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)このまへのびんから父上様に申あげましたとうりわたしはこんどゑをかくところを一つかりました おかねはたかくかゝりますけれどもけいこになることですからはりこみました そうしてこのつぎのしゆうかんからひとをやとひましてそれをまるはだかにいたしそうしてそのゑをかくつもりです これができましたらぶんぞうさんがにつぽんにもつておかへりなさいますはづですからそのときにごらんなさつてくださいまし はだかになつてじつとしてたつているひとをたのむのになかなかおかねがたくさんいりますけれどもこんどのはぶんぞうさんがはらつてくださるとのことにてまことにまことにしやわせなことでございます もうこのごろハたゞやきずみでくろくかくゑはすこしできるようになりましたからこれからはあぶらゑを一つしつぺけいこしなければなりませんよ(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年6月29日

 六月二十九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたしのいくがつかうはもうおやすみになりましたからこのごろハちよつとしたほかのがつこうにいつてべんきようをいたしますけれどもおもうようでハございません それですからうちにひとをたのんでひとりでかきたいものとおもいますけれどもこのほうハおかねがたくさんかゝるのでまことにへいこうをいたしてをります さくじつわたしのともだちのれむすでると申あめりかのやつのあねさんがおよめいりをいたしました そのれむすでるといふやつとはこないだ一しよにいなかにいつておつたやつにてそのあねさんもやつぱりわたくしたちといなかにきてをりました(中略) このまへのにちようびにはらさんのうちにあすびにいきまして三じすぎからはらさんとおかみさん わたしと三人にてばしやにのりぼわどぶろにゆと申こうゑんちにまいりました はらさんのうちでばんめしをごちそうになりそのうちにあめがたいそうつよくふつてまいりましてもうやむかやむかとおもひながらよるおそくまでながばなしをいたしました なかなかおもしろいことでした(後略) 母上様  新太拝

1888(明治21) 年7月5日

 七月五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)来週より人ヲ雇ヒ画かきを始る積ニ御座候 此ノ画出来上り候ハヾ文蔵様日本へ御持帰リ之筈ニ御座候 油絵ハ余程気長ニ勉強せずんバ成業むづかしく候 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年7月13日

 七月十三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)このごろはひとをうちにやとつてゑをかいてをります このゑハぶんぞうさんがもつておかへりなさるはづです うちにひとをやとひますとなかなかおかねがいります こまつたものですけれどもけいこになりますからよろしゆうございます(後略)

1888(明治21) 年7月20日

 七月二十日附 パリ発信 父宛 封書 益御安康之筈大慶至極ニ奉存候 私事大元気にて今度借入申候画部屋ニテ勉強罷在候間御休神可被下候 文蔵様ニハ未ダ独乙伯林府御滞在ニテ御壮健之由御安心可被下候 当年ハ気候余程涼しく夏の様な心地不仕候 併し毎日の降雨ニは閉口ニ御座候 先日着相成候日本一と申彫刻師大熊氏広氏当時私と同宿ニテにぎやかに相成愉快なる事ニ御座候 同氏ニハ来る十月頃より伊太利見物ニ出掛らるゝ積 実ニ伊太利の如きハ天下一の美術国故名所古跡等至而多ク仏国よりも毎年諸生ヲ送り古画などヲ写サしむる程にて私も是非一度ハ学問の為メ右伊太利国及ひ美術の母と称へ候希臘国ノ内地ヲ心の儘ニ遊歴致し度ものと存候(後略) 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年8月17日

 八月十七日附 ブランケンベルク発信 父宛 葉書 一週間前より此ノブランケンベルクと申地ニ来リ友人□□□(原文不明)氏ニ食客致し毎日画をかくやら又遊歩などニテ面白ク日ヲ暮し居候間御安神可被下候(後略) 父上様  新太

1888(明治21) 年8月24日

 八月二十四日附 ブランケンベルク発信 母宛 封書 (前略)わたしハやつぱりべるじつくと申くにのぶらんけんべるくといふうみばたのばんはるとらんさんのうちにやつかいになつてをりましてまいにちこのきんじよのいなかにゆくやらまたこゝのうちのおゝきなむすめさんとゑをかいたりしてあそんでをります まことにおもしろいことでございます わたしがこゝにまいりましてからもう二しゆうかんのよになりました もういゝかげんにハぱりすにかへつていこうとおもいます こゝのうちのひとハみんなしんせつなよいひとたちですからいつまでもをりたいようなこゝろもちがいたします こないだまでおらんだのこうしをしておいでなさつたなかむらさんのむすこのじろうといふひともやつぱりこゝのうちにをります このひとはことし十五ばかりです まいにち一しよにあそびます(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年9月5日

 九月五日附 ブリュッセル発信 父宛 封書 去ル二日ブランケンベルクなるバンハルトラン氏ヲ去りベルジク国都ブリユクセル府ニ参リ候 去月三十日頃より松方正作氏もバンハルトラン氏方へ滞留セラレ面白ク日ヲ送リ申候 松方氏 中村次郎氏同道ニテブリユクセルニ来リ一泊仕翌三日午後二時半の気車ニテ阿蘭陀国都ラアエヘ向ケ又出発仕候 巴里ノ公使田中氏の子息田中阿歌麿君モブリユクセルヨリ同行セラレ候故今度ハ四人連(松方 中村 田中及私)と相成一層面白キ事ニて有之候 同日午後七時頃ニ無事ラアエ府ニ着仕四人共同所の公使館ニ止宿仕候 当地ハ巴里などニ比すれバ実ニ田舍ニ候 日本人ハ至而少なく代理公使の島村氏ト書記生の吉田某の二人のみニ御座候 公使館ニテハ昼も晩も日本館の御馳走有之実ニ難有事ニ御座候 私事尚十四五日ハ当地ニ滞留仕有名なる古画を写し取る考ニ御座候 当地の公使館ニテ住ひ且ツ食し居る事皆島村氏の御影ニ御座候 買ヒ物など致すニも仏語がとうかこうか通し候故甚ダ便利なる次第ニ御座候 当年ハ殆ンド一ヶ月程バンハルトラン氏の厄介ニ相成候故御歳暮ニハ何ニカ少し気のきゝたる物を進物せねバなるまじきと相考ヘ居候 ブランケンベルクニてハ毎日遠足やら何やらにて実ニ心地よく日を送り候 同処出発前娘子等が何か記念の為の日本字を書き呉れと申候故左の歌を作り出してかき与へ候  相見るも今日をかきりとなりぬれハ思ひあまりていふよしもなし  世をわひて人なき里に松風を友とする日も君ハわすれし 御一笑被下度候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝 (後略)

1888(明治21) 年9月13日

 九月十三日附 ハーグ発信 母宛 封書 (前略)わたくしハまだおらんだのくにのみやこのらゑと申ところにをりましてこゝのこうしのかはりをしてをいでなさるしまむらさんといふをかたのごやつかいになつてをりましてまいにちゑのはくらんくわいになだかい画をうつしにいきます なかなかたのしみにもなるしまたけいこになります こんげつのはじめからこゝのうちのごやつかいになつております あんまりながくをるのもおきのどくですからもう四五にちのうちにハべるじつくのほうにかへつていこうとをもいます まつがたさんもこゝにをいでです そのほかたなかさんといふひとゝなかむらさんといふひとも一しよにをりますからにぎやかなことでございます(中略) このごろうつしてをるゑハちよつとこんなようなのです おいしやさまがしんだひとのてのかわをはいでそうしてそのときあかしをしてをるところです〔図 こゝのへんにをるたくさんのひとハみんないしやのせいとです〕 めでたくかしこ 母上様  新太より せつかくおだいじになさいまし

1888(明治21) 年9月20日

 九月二十日附 ハーグ発信 父宛 封書 御尊公様御始メ皆々様御揃ひ益御安康奉大賀候 次ニ私事未ダ和蘭国海牙府日本代理公使島村氏方へ厄介相成居毎日二三時間位づゝ名画写し方ニ勉強罷在候間御休神可被下候 来る二十二三日頃ニハ是非共ベルジク国都ブリユクセルへ行ク積ニ御座候 ブリユクセルハ当地より気車ニテ四時間ニ御座候 而してブリユクセルに一週間も滞留の上帰巴の積ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年9月28日

 九月二十八日附 ブリュッセル発信 父宛 封書 八月十六日附の御尊書和蘭国海牙府ニ於て接手仕候 益御安康之由奉大賀候 先日帰朝相成候和蘭公使中村博愛氏へ御面会被遊候由 同氏子息次郎ト申者トハ当年の休暇中ブランケンベルク及ビ海牙ニ於テ殆ド一ヶ月半程同居致し居毎日共ニ遊歩など仕愉快を覚申候 当年盤梯山の噴火やら又岐阜徳島両県の水害やらにて随分不幸有し様相見エ候得共例のコレラ病の少なきハ何よりの事と奉存候 近頃ハ日光迄一日で行かるゝ様相成候由之レ全ク鉄道の功能と奉存候 去る二十三日和蘭海牙府出発当地へ参り当分松方氏方へ止宿罷在候 今一両日の内ニハ巴里へ帰る積ニ御座候 余附後便 早々 頓首 父上様 清輝拝  御自愛専要奉祈候  皆々様へよろしく奉願上候

1888(明治21) 年10月5日

 十月五日附 パリ 母宛 封書 (前略)わたくしこといつもながら大げんきにてさる二日のばんにぶりゆくせると申ところからかへつてまいりました ことしのなつはまことによいたのしみをいたしました ぶらんけんべるくのばんはるとらんさんに八月一ぱいごやつかいさまになりそれから九月の二日の日にもうぱりすにかへるつもりでぶりゆくせるまでかへつてまいりました ところがまつがたさんたちが一しよにおらんだまでいかないかとおつしやることにてきゆうにおもいたち三日のひのひるごの二じごろのきしやにてまつがたさん なかむらさん たなかさんと四にんづれにておらんだへまいりました そういたしましておらんだのこうしくわんのしまむらさんと申おかたのおかげでこうしくわんにねとまりをいたしまた ごぜんもごちそうになつておりました まいにちおひるもばんもにつぽんりようりにてにつぽんへかへつてをるようなこゝろもちでした 九月の二十三日のひまでしまむらさんのごやつかいになつてをりました おらんだではなだかいゑを一まいうつしました そうしてかへるときにそのゑをしまむらさんにあげてきました がくにこしらへてかけてをくとゆつてをいでなさいました 二十三日からこの二日までぶりゆくせるにまつがたさんと一しよにをりました まことにおもしろいことでした このごろぶりゆくせるにはくらんくわいがございます(中略) がつこうもしあさつてからはじまるはづです そうするとまたずいぶんいそがしくなります こんどもいまゝでのようにけいこがよくいけばよいがとせつかくかんがへてをります(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年10月11日

 十月十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたしハいつもかわらずげんきでございますからどうぞごあんしんください まだがつこうハはじまりません それといふものハせんせいがせんのがつこうをやめてべつにほかのところにがつこうをたてるつもりにてもういへもめつかりかべなどもぬりかへましたけれどもどうぐなどがよくそろハずそれゆへまだけいこをはじめることができません こんつぎのしゆうかんのげつようからはじめるつもりです またけいこがはじまりますとひまがないようになります(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年10月19日

 十月十九日附 パリ発信 父宛 葉書 (前略)私大元気此ノ四五日前より学校稽古相始まり勉強罷在候間御休神可被下候 此頃ハ天気よろしく田舍へ出掛るニハ実ニ妙ニ御座候得共何分稽古始まり候ていそがしく意の如くならぬ次第ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年10月25日

 十月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 近日寒気相催候処御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極元気学校の稽古も已ニ相始まり折角勉強罷在候間御休神可被下候 教師より日本の百合買入方頼まれ候間甚ダ恐入候得共右御買入御送被下度偏ニ奉希候 実ハ今迄藤雅三と申当地留学の画工が教師の為め日本の花木買入ニ付て色々世話致居候得共同人儀先達御当地女郎同様の女を娶り候より色々不都合生じそれが為め教師の方も不首尾と相成候 依而今度私ニ右草花買入方を依頼したる者ニ御座候 甚ダ面倒とハ存じ候得共教師の事故致し方無御座引受け候次第ニ御座候(後略) 父上様  清輝

1888(明治21) 年11月16日

 十一月十六日附 バルビゾン発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康奉賀候 私事去る十二日ヨリ此ノバルビゾント申田舍ニ来り景色画ノ稽古仕居候間御安心可被下候 明日ハ巴里へ帰らんかと存候 バルビゾント申村ハ今日ニてハ欧米ニ知ラレタル場所ニ御座候 其レト申も此ノ村ニて世間ノ画工連ヲ離れて独り景色ヤ田舍ノ生活ノ状ヲ写して画を研究し一生ヲ貧乏ニ暮したるミレ ルソーノ二人ノ名が知れ渡りしヨリノ事ニ候 巴里ヨリ気車ニ乗リムラント申処迄来りソレヨリ馬車にて当地ニ来る都合三時間位モかゝり候 当地旅店モ三四軒有之当時でハ真ノ田舍ト申ニハ無之候 毎年夏期ニハ画工が男女まじりテ多人数舞ヒ込み来る由ニ御座候(尤モ亜米利加が多き地ニ御座候) 小き山モ有之岩ナドハ実ニ多く西洋ニハ珍らしき場所ニ御座候 只水ノ無キハ日本ノ景色ニ及バザルモノト存候 ミレ先生ノ子ト知り合ニ相成実ニ幸ニ御座候 年ハ已ニ四十位かとも見へ候 余程温和なる人物ニ御座候 先ハ一左右如此御座候 頓首 父上様 清輝

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