本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1895(明治28) 年1月1日

 一月一日 (日清戦役従軍日記) 午前十一時ニ軍司令部ニテ年賀の式有り 午後行政庁ニ行ク  大君の御代の光の色見へて黄金の里ニ春ハ来ニけり

1895(明治28) 年1月2日

 一月二日 (従軍日記) 今朝林政文君ト戦死者ノ墓ヲ弔ヒ其墓所の図ヲ写す 又今日軍司令部及行政庁等の図ヲ作ル 二枚ハ林君ノ為一枚ハ奈良崎氏の為成

1895(明治28) 年1月3日

 一月三日 (従軍日記) 外套ノボタン付ナドしたり 午後写景の為郊外ニ出懸たり 寒風甚だつよし 夕方南門外ニテ十二三の小僧が来て地ニ膝をつき何か云てオレニ願事ヲスル様だから其案内ニ依て行て見ると極きたなき破れ屋より四十以上の婆が小供沢山引連れて出来り オレの来たのを喜びし相様ニテ家の中に案内したり 元より言葉ハ一つも分らず 其手まねや面付を見るニ屋の片隅の真暗ナ処を指す相様牛馬でも病気したるをオレが通りかゝりたるを見て医者と見て取り治療を乞ふものと思ハれたり なんだかめいわく也と云気ニ為て其暗い処を杖の先にてつゝいて見たら馬でも牛でもなく人也 人ハ日本の人足ニテ赤毛布ニつゝまれて土間にねて居る 不思議千万 病気かと聞けば病気ニ非ず 酔たるものニしてハ言語明也 どう云訳だと聞て見るニ あたしハ兵站病院から参りましたと云のでさつぱり分らず いよいよ面倒だと云気ニ為たから打棄てゝ家を出んとしたるニ前の婆が小供を打ていかぬから是非此の人を外ニ出しテくれと云様だから又内ニ入り人夫ニ向ヒ手前ハ乱暴をする様ナ事を聞がどう云ふんだと聞くニ いゝゑ決してそんな事ハ有りません 此の内の奴等がわたしをじやまニして出てくれと云て大騒ぎするのでございますと答ふ 其処でアヽそれならいゝ 何か不都合な事があつたら直ニ役所ニ届け出るがいいとゑらそうニ云ヒすてゝ帰りたり 内の者共此の話を聞てそれハ変だ 第一人足が独り毛布を被土間ニころがつて居るのハあやしむ可き事だ 行政庁ニ届けるがいゝと云ので直其足で行政庁ニ行く 之レと云のも□□□□(原文不明)の話が盛ニ有るから此の人夫の野郎も何かたくみ有つてかくきたなきあばらやの中ニごろりとして居たるものかとのうたがひを蒙りたるもの也 行政庁より憲兵を一人派遣せられたるニ依りそれを案内して前の家ニ行きよくよくしらべて見るニ人夫ハ決してあやしむ可きものニ非ず 全ク支那人奴等がつまらぬ訴をしてじやまニ為る客を逐ヒ出さん事を試みたるものと知れたり (欄外 今日より金州ニテドンを打つ)

1895(明治28) 年1月5日

 一月五日 (従軍日記) 村田少佐よりの手紙一通届く 父上様よりの御書面が封入して有つた 先月二十四日の日附にて松方君が九鬼氏へオレの話をして当年の京都の博覧会の審査官ニ周旋し呉れられたる故二月始迄ニ帰朝す可き旨書来りぬ 夕方行政庁ニ行荒川氏ニ日本より来し書状ニ付相談す 帰朝ヲ賛成せられたるニ依り其通決心す

1895(明治28) 年1月6日

 一月六日 (従軍日記) 午前東門より出大龍山の麓なる二十一 二十二連隊の奮戦せし場所ニ到り写景す 午後第一番ニ金州城の城壁ニ昇りたりと云第二連隊の旗手少尉吉田梶次郎氏ヲ訪ひ其肖像を写し同氏の案内にて氏の昇りたりと云城の北南の角なる壁の処ニ到り当時の模様も委しく聞きたり 後別れて又景色を一つ写す 水画の絵具凍りて筆自由ならず いゝかげんニやめて帰る

1895(明治28) 年1月8日

 一月八日 (従軍日記) 昨日かき懸た画をかいて仕舞ヒ林君ニ渡ス 毎日新聞へ送る為也 日本へ手紙の返事ヲ出ス 十五日頃ニ帰朝ス可き旨申送る

1895(明治28) 年1月10日

 一月十日 (従軍日記) 時事の堀井卯之助君 読売ノ越智修吉君ト舍営病院ヲ見ニ行 夜山本より色々の話ヲ聞き大笑す 其話の中尤も奇なるハうんこが這入る等也 今日蓋平陥落の報到る 日本より人力車二十台着すと聞く

1895(明治28) 年1月11日

 一月十一日 (従軍日記) 雪少シチラチラシテ止ム 午後荒川氏ヲ訪ひたるニ日本より二三日前ニ手紙が来て此ノ一二日頃ニ文蔵様御帰朝のお日積なりしよし云て来たとの事 帰途中ニテ昨日見舞た舍営病院の長ニ逢つたら川路の像ヲオレが描いて居る時分ニ先生山路さんニ附て巴里ニ来たと云て居た 夫れから軍司令部ニ行き伊地知氏ニ逢ん事を申込たれど留守ニテ逢出さず のち又行たれどだめ (欄外 越智君ト散歩ス 人夫等が豚ヲ逐フヲ見ル 病院長ハ賀古ト云人也)

1895(明治28) 年1月12日

 一月十二日 (従軍日記) 今朝又司令部ニ行 丁度管理部の処の門ニテ出逢ヒ国より帰れと云手紙来りたる旨ヲ云ひたるニマア第二の戦争ヲ見テから帰る方がよからうと云ハれ成程と思ひ即ち其事ヲ極ム 午後林君同道二連隊本部の吉田少尉ヲ訪ひ先日写したる氏ノ肖像ヲ与へて又別ニ肖像ヲ写し帰る 伊瀬地連隊長モ在宿 夜ハいつもより酒の廻りがよかつたと見へ皆々はづみ議論中々やかまし オレハめしヲ食てから一と先引込み少シ勢がしづまつた時分ニ面出シたら中々面白クナツテ居た 天鉄翁が小梅とのろけ山芳がにくにくで其レヲ征伐スルなど天鉄が云如くそれこそ腹の皮がよれたわい 日本へ戦後ニ帰る云々ヲ通ズ

1895(明治28) 年1月13日

 一月十三日 (従軍日記) 午後山本 林の二人と南門の外から西門の方迄散歩ス 一度帰りて後画ヲかく覚悟で道具を持て又三人連で今度西門より出てぶら付 これこそと云位置を見当らずして北門より帰る

1895(明治28) 年1月14日

 一月十四日 (従軍日記) 長郷氏来りて明日帰朝するから国へ手紙でもやるならと云ハるゝニ任せ画四枚程合田へ送る 近々の内ニ山東の方へ出陣する都合の様子ニ聞及たるニ依り防寒用の帽子を造つたりなどして暮しぬ

1895(明治28) 年1月15日

 一月十五日 朝雪 (従軍日記) 今度ハ地が白く為る迄降りたり 其御蔭で気候が少し暖かなり 今朝林君と市ニ出で其序ニ郵便局ニ立寄りたるニ局の役人櫻井豊太郎と云人ニ逢ふ 此の人父子歌よみにて父上様を知て居るとかにて此処ニ来る前ニ内ニ立寄てくれられたりとの話 オレの刀の鞘が余り光つて居つて立派過るから木綿の布を買つて鞘を包む オレが昨日からしきりに針仕事をするので裁縫臣五位だなど云て皆が笑ふ

1895(明治28) 年1月16日

 一月十六日 (従軍日記) 防寒ノ手袋ヲ造ル 松方氏が此処ニ来ルと林が帰つて来て知らしたから直司令部 行政庁等ニ行て見たが逢フ事が不出来して帰ル

1895(明治28) 年1月17日

 一月十七日 (従軍日記)〔図 合田清板刻の著者スケッチ〕 松方氏ハ露国のヴボカク大佐の居ル処ニ宿して居らるゝ故今朝又訪ぬ 島村久氏モ一緒ニて久振ニ松方氏ト島村氏トノ面ヲ並て見た事故和蘭の公使館の時代ヲ思ひ出した 平川小学ニ居た楠本が島村君ノ従者と云つてやつて来た 松方 島村ノニ氏ト共ニ行政庁ニ行く 今度荒川氏の代ニ来た某少将と云人を見る オレ等がいよいよ明日立つので少シ荷の片附方をせねバナラズ諸氏ニ別れて帰る 夜管理部の某軍吏が酒ニ酔て天鉄の処ニやつてきてさわぎを始め中々ねられず 非常ニ失敬ナ事ヲ云てりきんで居るし他ノ連中が御尤々と云調子ニ大ニ腹が立ち同室の堀井君と共ニ已ニ一とうち打てくれんと迄思ひ込だれど我慢したり かれこれニテ三時過迄ねられず 人ノ感情ハ不思議ナモノカナ

1895(明治28) 年1月18日

 一月十八日 (従軍日記) 朝めし後松方氏ヲ訪ふ 留守也 昼めし後山本君等五人ト金州ヲ立出つ 余ノ五人ハ荷物等の為先発ス 柳樹屯ニ着スル前村田少佐ニ出逢フ 直ニ兵庫丸ニ乗込ム 下等ノ下等 即チ馬ト同ジ処ニ乗セラレ皆々大不平 馬ノ面ヲ下からながめながらネルノモ亦妙也 十九艘ノ運送船が四艘ノ軍艦ニ護セラレテ出懸たる相様ハ勇し 日ノ入らんとする頃ニ大連湾ノ外ニ出ヅ

1895(明治28) 年1月20日

 一月二十日 (従軍日記) 朝起て甲板ニ出て見れバ雪がチラチラ 遠方ニ大砲の音が聞ゆルナドハ真ニ愉快 二時半頃栄城湾ニ上陸ス 雪ヲ踏で東方大西庄と云村ニ入り此処ニ舍営ス 今朝聞シ砲声ハ我先発ノ軍艦より打しものニて此処を守り居りし五六百の敵兵ハ大砲四門ヲすてゝ走りしよし 此夜ハ土間ニ眠る

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