本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1889(明治22) 年8月2日

 八月二日附 ボアニュビル発信 母宛 封書 こないだおゝさこさんがぱりすにおつきになりましてわざわざわたしのうちまでたづねてきてくださいましたといふことをきゝましてさつそくいなかからかへつてゆきおゝさこさんのおやどをおたづねいたしましたところあいにくおるすにてざんねんなことでございました またそのときにおゝさこさんのやどやに一しよニとまつてをるひとからまつがたさんがきようだいさんにんづれそれからかばやまどんのあいすけさんがきてをいでなさるとゆうことをきゝさつそくたづねていつてみましたらみなさんおうちにてまことにうれしくそのひハしゆうじつ一しよにをりましてハくらんくわいなどけんぶついたしました さてまたそのよくじつにまたおゝさこさんをおたづねいたしましたところまたおるすにておめにかゝりだしませんでした そのひにハこうしのむすこさんのたなかとゆうひとゝそれから一ねんばかりまへににつぽんへおかへりニなりましたおらんだのこうしのむすこのなかむらさんといふひとたちと一しよにあそんでくらしました またにつぽんふうのぎゆうなべなどをくめさんのうちでこしらへてたべました ぱりすにいておなしとしぐらいのともだちなんかとバかばなしをしたりなんかしてぶらぶらとしてをるのハ二三にちはおもしろうございますがながくなるとたいくつです またそのうへにいなかにひつこんでじつとしてをるのにくらぶれバおかねもたくさんかゝりますからバカげたはなしとぞんじましてそのよくじつハあさ十一じはんごろのきしやでまたまたいなかにひつこんでしまいました まいにちべんきようをしてをりますからごあんしんくださいまし(後略) 母上様  新太郎(後略)

1889(明治22) 年8月8日

 八月八日附 ボアニュビル発信 母宛 封書 (前略)わたくしこといつもながらげんきなことにてあしたハこのいなかをたちましてぱりすへかへりそうして二三日のうちにべるじつくのばんはるとらんさんのうちへゆくつもりでございます それからまたおらんだへもゆくつもりでございます くわしいことハこのつぎのびんからゆつてあげます わたしハおかねハたびなどしていばつてあるくほどもつてハをりませんけれどもいつごつさつごつひとさまのごやつかいになつてあるくもんですからしやわせでございます しよせいのうちハひとにやつかいになるのもいたしかたハございませんよ こないだ父上様ならびニあなたさまよりのくわしきおてがみをちようだいいたしましてまことにまことにあんしんいたしました じつは父上様からおかねをおくつてくださることがならないようニなつたらどうしたものだろうかとしんぱいをしてをりましたけれどもこんどのおてがみでとんとあんしんいたしました 父上様へもさようもうしあげてくださいまし これからおらんだにいきましたらなだかいひとのかいたゑをうつすつもりでございます こんどハまづこれぎり めでたくかしく 母上様  新太より  こんにちかぎりでこのいなかをたつつもりなのにあるおんなのこのかほをかきかけたのなどがまだかきあがらすそれゆへこんにちなかなかいそがしいことでございます

1889(明治22) 年8月24日

 八月二十四日附 ブランケンベルク発信 父宛 葉書 益御安康の筈奉大賀候 私事去十三日巴里出発同夜白耳義国ブリユクセル府着一泊 翌日川路氏を訪ひ同氏等共ニ昼飯を食し午後三時の気車ニテブランケンベルクニ向け発し五時過安着仕候 例年の如くバンハルトラン氏方へ厄介ニ相成居毎日遊歩など致し楽み居候 已ニ丸一週間ニも相成候間明日ハ和蘭国へ向ケ出発仕積ニ御座候 和蘭国ニテハ代理公使島村氏方へ食客致し昨年の如ク名家の画など写し勉強仕考ニ御座候 十月始メニ巴里へ帰り可申候 其節白耳義ヨリバンハルトラン氏の長子エドアール同道する由ニ候(後略)  父上様

1889(明治22) 年8月30日

 八月三十日附 ブランケンベルク発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもながらだいげんきにてまだばんはるとらんさんのうちニごやつかいニなつてをります じつハこの二十五日のひニをらんだへゆくつもりでちやんときめこんでをりましたけれどもこゝのうちのおつかさんニとめられてとうとうこんげつぢゆうハこゝニをることゝなりました こんげつもあしたぎりですからあさつてハどうしてもおらんだへゆくつもりです こゝのばんはるとらんさんのうちニきてからもう十五にちばかりニなります その十五にちバかりのうちニいろいろおもしろいことをいたしました それにつけてハおかねもすこしハいりましたよ さくじつハこゝのうちのむすこふたりとむすめが四にんそれからよそのうちのぢいさんやむすこやむすめつごう十九にんにてをらんだのくにのふれつしんぐとミつでるべるぐとゆふところをみにいきました(後略) 母上様  新太

1889(明治22) 年9月12日

 九月十二日附 ハーグ発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもながらだいげんきにてこのごろハをらんだのこうしくわんのしまむらさんといふおひとのうちニごやつかいニなつてをりましてむかしのひとのかいたなだかいゑをうつしてをります どうぞどうぞごあんしんくださいまし 十月の十日ごろニぱりすへかへるつもりでございます そのとちゆうでぶりゆくせると申ところニちよつとよりましてばんはるとらんさんのむすこと一しよニぱりすへかへるつもりです バんはるとらんさんのむすこハぱりすのはくらんくわいのけんぶつニくるのです そうしてわたしのをるきたないうちにきてとまるつもりです(中略) こゝのしまむらさんにハまいとしごやつかいニなります まいにちりつぱなにつぽんりようりのごちそうニてまことニとのさまニでもなつたようなあんばいです(中略) わたしがこんどうつすゑはひとのかほです こんなふうのです〔図〕 これハもうあしたぐらいはかきとつてしましますからそうしたらまたほかのをかくつもりです(後略) 母上様  新太

1889(明治22) 年9月19日

 九月十九日附 ハーグ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極元気未だニ海牙府代理公使島村氏方へ食客仕居候 御休神可被下候 当年も昨年の如く当国千六百年代の名画の写しなど仕勉学罷在候 已ニランブラント申和蘭国古代の画家中の第一と云程の人の画きたる肖像一枚写し上け候処去年写し候者より少しく出来よろしく島村氏もよろこばれ候事ニ御座候 当地気候已ニ秋の心地致し候 夜食後散歩の時などハ外套を被申候 去る二日ブランケンベルク海水浴場の地を去り当地へ来り此頃もはや公園地などの木の葉少しく赤みを帯居候へバ夏より急ニ秋ニ入りたる様子有之候 即ち例のごまかし歌を読み申候 御笑草として左ニ記し申候  世の中の心そつらしもみちはの秋より先きニうつろひニける 来月十日頃迄ハ当地ニ居りそれよりブリユクセル府へ出で友人バンハルトランを伴ひ巴里へ帰る積ニ御座候 当冬ハ学校の稽古の暇ニなにか少しく念を入れて画きてみたき者と考居申候(後略) 父上様  清輝

1889(明治22) 年9月27日

 九月二十七日附 ハーグ発信 母宛 封書 (前略)わたくしこといつもあいかわらずだいげんきにてまだをらんだニをりますけれどももうながいことハございません らいげつの一日か二日にはこゝをたつていこうとぞんじます こゝのごていすのしまむらさんといふおかたハけさほどありすがわのみやさまのおともをしてたびニおたちなさいましたからなかなかさみしきことニなりました それゆへもうぱりすのほうへかへつていこうかとぞんじますけれどもあとげつばんはるとらんさんのうちニをるころニすこしばかりもつてをつたおかねをつかつてしまつたのでこゝニきてハ一もんなしとなりどうすることもできないのです けれどもらいげつのはじめニハまたらいげつぶんのおかねがもらわれますからそのおかねをぱりすからおくつてもらつたらそのおかねでぱりすへかへつていこうとぞんじます まづそれまでハしまむらさんハおるすニなりましたけれどもやつぱりこゝのうちニごやつかいになつてをるつもりです(中略) このしまむらさんにはまいとしまいとしおせハニなります ことしもまる一とつきこゝにをります(後略) 母上様

1889(明治22) 年10月4日

 十月四日附 ブリュッセル発信 父宛 葉書 益御安康奉賀候 私事去る二日和蘭国出発 今日午後一時十五分の気車ニテブリユクセル府を立ち巴里へ帰る積ニ御座候 今夕七時頃ニハ巴里へ着可仕候 尚ブリユクセル府ニテハ例の友人バンハルトラン氏方へ食客致し候 今度同人を伴ひ帰巴仕候 早々 頓首 父上様  清輝

1889(明治22) 年10月18日

 十月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 益御安康奉賀候 私事至極元気去る十四日より学校稽古相始まり毎日勉強罷在候 ベルギー国の友人バンハルトランも去る十二日帰国致し候 同人滞在中ハ毎日博覧会等の見物ニテ金も入り愉快の事も多く有之候 併し毎日博覧会の見物ニハ少しく閉口致し候 今日は大熊氏広ト申彫刻師帰朝被致候 同氏トハ親しく交際致し候間当地ノ近状等委細同氏より御聞取被下度御地着ノ上は自ラ尋来り呉れらるゝ事と存候 九月四日付御両親様よりの御手紙慥ニ相届き難有奉拝読候 早々 頓首 父上様  清輝  御自愛専要奉祈候

1889(明治22) 年10月25日

 十月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)去る七月中田舍ニて額面一つ画きかけ申候処余り出来よろしからず 依而今一つ考を更へ稽古かきの為人を雇ひ本式ニ勉強仕度若し其図よく出来候時ハ教師の許を得て来春の共進会へ持ち出し運をためし見申度者と奉存候 其画を相始め候得ば手本雇入代やら絵具代やら其他成就の上ハ額ふち等色々入費不少事ニてとても毎月の学資金の内より支払ふ事ハ出来兼申候 此段御承知被下度奉願上候 凡そ我百円位ハ相掛り可申奉存候 斯く金をかけ候上其図不出来なる時ハ甚だ無益なるが如く御座候得共酒色の為めに浪費するとハ違ひ骨を折てかけバかく程手習出来て此上も無き利益有る事ニ御座候間当年ハ是非共憤発仕度奉存候(後略) 父上様   清輝拝

1889(明治22) 年11月8日

 十一月八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)こゝのこうしくわんづきのおやくにんさまのはちださんといふおかたがわたしにかををかいてくれないかとおつしやいましたからこのごろハたいていまいにちおひるすぎにそのおかたのかほをかきます よいけいこになります またはちださんハまことにかんしんにてゑんぽうのところをかまわずわたしのうちまできてくださいますからまことにしやわせでございます くめさんとさくばんもこんばんも一しよにめしをたいてたべました めしのおかずにはいわしをやいてたべました このほうがせいようりようりよりをたべるよりもよつぽどけんやくになりなりますけれどもめしをたいたりなんかするのにハなかなかひまがかゝりめんどうでございます(中略) わたしはこないだたびからかへつてまいりましてからやつぱりくめさんのうちにとまつてをります このほうがひとりでをるよりもにぎやかでございます このくめさんのうちからわたしのうちまでいくのハちようどうちからかいざかにいくくらいのところでございますからまことにべんりでございます この二十日ごろニかわぢさんがにつぽんへおかへりなさるどうですからそのびんにハなにかわたしのかいたゑをおくつてあげませうとぞんじます どうぞまつていてくださいまし(後略) 母上様  新太

1889(明治22) 年11月29日

 十一月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 十月十九日附之御尊書慥ニ相届き拝読仕候 御全家御揃益御安康之由大慶此事奉存候 七百八十仏の為換券も同じく相届き申候 御安心可被下候 之レニて来月より三ヶ月間即ち来年二月の末迄ハ充分ニ御座候間左様御承知奉願上候 大分県父上様ニハ今度改革の為非職ニ御成被遊候由さぞ御困りの事と奉遠察候 実ニ役人の職ほど定りなき者ハ有之間敷奉存候 御地ニてハ近頃条約改正ニ付議論盛ニして大騒きの由外国人ニ取りてハ随分面白き見物と奉存候 来年の国会又々一層面白き芝居ならんか何ニしろ我国の開化ハ未ダ欧洲各国の開化の比ニハ無之残念此事ニ御座候 皆々勉強仕り今百年も致し候ハヾ少しハ勢も付き可申奉存候 口よりも業の方第一ニ御座候 私事五六日前転居候て久米氏と同居仕候 今度の家は間数も三つ有之且つ清潔にして心地よき事に御座候 此処にてハ夏期ニ至りても例の寝台虫の恐れなき事とよろこび罷在候 台所も付き居候間日本料理などニハ便利よろしく候 西洋料理ハ一日一度ニてめしやより取り寄せ余の二度ハ米を食ひ申候 其米ハ日本米ニて久米氏博覧会にて買入置かれ候ものニ御座候 醤油も缶詰の者を沢山買入られ候 之レハ皆私と半分割に致す積に御座候得共私当時余程困窮仕候為皆久米氏より立替置被呉候 仕合の事ニ御座候 めしハ三日目ニ一度位炊きあとハかゆに塩漬の大根或ハ菜等ニテ愉快相極め申候 又時ニハ手鍋の御馳走も戴き候 私困窮の源因ハ博覧会見物として来り候友人との附合の為ニ少し余計の入費有し其後今日迄都合悪しく相成候 併し御心配被下間敷候 先日川路利恭氏亜米利加へ向ケ出発帰朝の途ニ上られ候 同氏着の上ハ直左右御聞取被下度奉願上候 私かき候油絵よきもあしきも取り交せ工商会社へ頼み御送申上候 之レハ久米氏の荷の中ニ入れ置き候間右荷着の上ハ同氏宿許より御知らせ可申上と奉存候 右油画ハ大小二包みニて小の方ハボアニユビルと申田舍ニテ当夏画き申候 一二枚の外は棄てゝもよき者ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝  御自愛専要奉祈候

1889(明治22) 年12月6日

 十二月六日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつものとうりげんきにてまいにちがくこうにいつてをりますからどうぞごあんしんくださいまし このごろハこちらもよほどさむくなりましてこないだはつゆきがほんのすこしばかりふりました とうとうまたことしもこんげつぎりとなりました そちらでハくれになつていつものようにおいそがしくなりますことゝぞんじます このまへのびんから父上様へ申上げましたとうりこないだひきこしをいたしました そうしてまたきよねんのようにくめさんといつしよにすまつてをります にぎやかにてまことによろしゆございます(後略) 母上様  新太

1889(明治22) 年12月20日

 十二月二十日附 パリ発信 父宛 葉書 益々御安康大慶の至奉存候 私事至極壮健勉学罷在候 乍憚間御休神可被下候 此頃ハ当地毎日の雨天にて誠ニ閉口 冬中ハ毎年此の通りニ御座候 先頃より一種の風邪の如き病気流行にて大抵皆少しづゝ此の病ニ引きかゝり申候 私も一両日わづらい申候 御地ハ如何ニ御座候也 此の病気横浜辺へも流行するやニ承り候 此の週間終日学校にて勉学致し候間いそかしく候 草々 頓首  清輝 父上様

1890(明治23) 年1月24日

 一月二十四日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃御安康之筈奉賀候 私事無事勉学罷在候間乍憚御休神可被下候 教師注文の花の一件ハ如何相成候哉 都合よく御取計被下候事と奉存候 学校の方も不相変上首尾ニ御座候 御安心被下度奉願上候 当年の共進会にハ是非何とか出し見度者と折角相考居申候 いよいよ画く事と相成候時ハ今迄の学資金にてハとても足り不申候間左様御承知被下度候(中略) 近頃ハ美術大学校の解剖の講義を聴候 之レハ一週二回にて実物ニ付て説明有之候事故甚だ愉快ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝  御自愛専要奉祈候

1890(明治23) 年2月7日

 二月七日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)河北と申人画学修業の為当地ニ来候 陸軍士官学校の教授とかを勤めし人の由ニて日本にてハ屈指の名人かと思ハれ申候 私等の学校にて稽古せらるゝ積ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝  御自愛専要奉祈候

1890(明治23) 年2月20日

 二月二十日附 パリ発信 父宛 封書 一月四日同七日附の御手紙慥ニ相届拝読仕候 御全家御揃益御安康大慶此事奉存候 次ニ私事不相変大元気勉学罷在候間御休神可被下候 当年の共進会への額面いよいよ明日より着手の積ニて今日手本頼み置き候 共進会出品の期は三月十四五日と承り候 或ハ其時迄ニ出来上り兼ぬるかも不知申候 先つ其辺の処ハ後としてなる可く勉強仕心得ニ御座候 先便より端書を以て一寸申上げ教師より受取候金ハ百三十仏計ニて花の代運送賃及び当地にて私より払ひ候雑賃(マルセール港より当府迄の運賃其他)等ざつと計算致し候ものニ御座候 自分の方より注文したる者故是非受取置呉れと申す事ニ御座候故其儘受取申候 あれこれ入用多き際即ち学資と致し使ひ申候間左様御承知被下度奉願上候 横浜植木屋ハ荷作り余程上手にて牡丹ハ箱の内にて芽を出し居候 教師大喜びニ候 又御尊公様并ニ虫明様へ度々御手数相掛候段よろしく御礼申上呉れとの事ニ御座候 不日御礼として同氏の写真差上度と申居候 当時海浜の図を写すが為め仏国の南方へ旅行中ニ御座候 御地にてハ昨年来内閣のかわりだの何だの色々面倒な事多く有之候由実ニ政治社会の事ハ不思議の事のみ私共ハ余計な事ニ心配不仕只学問第一と致し候 早々 頓首 父上様  清輝

1890(明治23) 年2月26日

 二月二十六日附 パリ発信 父宛 葉書 益々御機嫌奉大賀候 私事大元気にて此の五六日ハ人を雇ひ本式ニ勉強致し居候 仕上る迄ハ十五六日もかかる可くと奉存候 委しき事ハ後便より 早々 頓首 父上様  清輝

1890(明治23) 年3月13日

 三月十三日附 パリ発信 父宛 封書 二月四日ノ御尊書并に同七日附母上様よりの御手紙いづれも慥ニ今日相届き難有拝読仕候 御全家御揃益御安康の由奉大賀候 四五日前市来氏当地着 早速相尋ね御直左右など委しく承り安心仕候 又其便より種々珍らしき品御送り被下誠ニ難有厚く御礼申上候 別して数の子ハ結構に御座候 日本めし毎ニ頂戴致居候 船中などニて此の数の子の香高かりしニハ市来氏少しく閉口された由也 川路利恭氏御地着相成直左右御聞取被下候由同氏トハ一年間も同居致居候事故誰よりもよく私共生活の状を知り居らるゝ事に御座候 私かきかけ候画未ダ全く出来上り不申 しかるに共進会出品の期ハ明後日限りと申事左候得ばとても当年の間にハ合ひ不申候 且つ当分教師旅行中にて相談も不出来又た大いそぎにてかき上候とも不十分なる者にてハ何の功能も無き道利 依而出品の事ハ来年と極め此の画ハ今一週間もかゝりて充分ニ仕上る考ニ御座候 其額の大さハ凡そ高さが二尺七八寸幅二尺計ニ御座候 趣向ハ女が琵琶を弾き終りてなニか物を思たりと云様な風情をかきたる積ニ御座候 其様ハ一寸左如〔図〕 此の為ニ已ニ百五十仏近く使ひ候得共学校などニてかく稽古がきとハ違ひ一つの額を仕上ると云事ニ付て大ニ利益を得申候 此ノ画終り候はゞ又々何ニか画き始むる覚悟ニ御座候 当分学校にてハ只朝のみ勉強致し居候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝  御自愛専要奉祈候

1890(明治23) 年3月21日

 三月二十一日附 パリ発信 父宛 葉書 益々御安康の筈奉大賀候 私事至極元気毎日例の額の画ニ骨を折り居申候 御安心被下度奉願上候 今一週間も勉強氏候ハヾ略出来上り可申候 早々 頓首 父上様  清輝  御自愛専要奉祈候

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