1887(明治20) 年8月16日


 八月十六日 火曜 雨 (トレポール紀行)
 今日ハ朝九時レール家ニ出会ヒソレカラ田舍遊ビニ出掛ケントノ約束なりしカドモ雨天故他分田舍行ハだめの事ならんとハ思ヒシカドモ先ヅレール家迄ともかくも行テ見ル方可然ト相談シ即チ久松君ト共ニ出掛ケタリ 到ればブロンデル氏已ニ在リ 其後十時頃ニドサンジユリヤン伯夫婦来りたり 後又パイヤント云おかみさんが其むすめとむすこをつれて来りたり 即チ人数モ略ソロヒタルニ依リ乗合馬車ヲ雇ヒ之レニ打のり雨をもかまわず打チ出デシハさすが西洋人ノ女たちだけ有リテ勇気有りと僕ひそかに感服仕たり 時ニ十一時頃也 十二時頃ニマヌビルトカ云処ニ着シタリ 此ノ処ニハ一軒ノ茶屋有リ 田舍茶屋ノ事なれバ手まわしなど至而よろしき方ニ非ず 且つおしかけ行きたる人たちはみな巴里人の事なれバおもしろ半分若キ娘等自分にて戸棚の中よりさじヤほうちょうさらなどを取り出しテぺちやぺちやと口をたゝきながら御膳立てをしたるも亦一興なりけり やがて皆々席ニ付き食事の段と為りぬ パイヤンサンノおかみさんとドサンジユリヤン伯の妻君トガ此ノ場中能弁家ト見受ケラレタリ 竹薮ノ雀ト云ハンカ砂利の上を騎兵隊が走ると云ハンカ随分にぎやか過ぎてやかましき程なりし 議事の問題ハ芝居ノ評番役者ノよしやしにていづこも同し女ハ女なりと肉などを食ヒながら感じたり 食事将に終ラントセシ時イバナさんが自分デなにか菓子ヲつくるとて食堂を立出でたれバ之レに続ヒテパイヤンサンのおかみさんそれから一人立ち二人立ち遂ニ皆食堂ヲ打ち捨テヽ台所ニゾ入リニケル しばらくありて菓子も出来上がり食事モ全ク終りたるは已ニ三時頃なりける 是レより又馬車ニテ圃の中ヲ横リクリルトカ云処ニ到ル 此ノクリルハ海岸ニテ見ハラシナド可成よろし 人家と云ヘバ煉化造りのもの二三軒皆家根ハ落ち窓ハ破れ住する人有ル可クモ有ラズ 古戦場とも見受ケラレテイトモあはれなる有様なり 之レ此ノ地ハ至テ不便ニシテ遊ビに来る人なく折角家など建タレドモ皆打すてゝ来らずト云ひ岡の半腹景色最モ美なる場所ニ一軒のあばらや有り 以前ハ金銀宝珠ヲ首ヤ手に飾りし人の住たるものと見エ尖塔有レバ廻り縁有りねだも落ち窓戸ニがらすもなけれども此処らあたりハ大抵客間なかりしかとも知られたり 其家のかた一方の方ニ百姓一人住したり 其百姓が畜ヒ居ル鷄をサンジユリヤンサンの犬が逐ヒ回シ一匹のめんどりの尾のわきの処を赤はだかに為シたりける 圃の番人之レヲ見テ承知せず遠くより集り来リて争ヒ是ニ興りける ブロンデル氏三仏にテ其とりヲ買ヒ入レ遂ニ事穩やかにすみぬ 直ニ其とりを極楽ニ送リ皆又馬車ニ打ち乗リテ走りける 小生等若キ男ハ皆馬車の上ニ乗リ其とりのほろむきなどなしたり(茶屋ヲ出る時より雨ハ止みたまにぽつぽつ降りしのみ) 一つの村ニテ馬車を止麦酒一杯をカタむけソレヨリ皆若キ連中ハ小サナ旗ヲ一本トおもちやのらつぱを一ツゞツヲ買ヒ馬車の二階ニ乗リ込みたり(小生久松氏ト砂糖菓子ヲ少シク買ツテ皆様ニ進上致シタリ)之レヨリ道々其ラツパヲ吹キトレポールニゾ帰へりたり 皆人ニ此ノ様を見セルガ為メニ馬車ニ打乗りたる儘ニテ海岸ヲ一回シ帰へりし時ハ七時頃なりし 食事後ハ例の如クカジノニ行キタリ