本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大曲駒村

没年月日:1943/03/24

「浮世絵志」主幹大曲駒村は3月24日逝去した。享年62。明治15年福島県に生れ、中学校卒業後銀行員となり、傍ら作句や絵画に趣味を持つていたが後「浮世絵志」を主宰した。

中村雅真

没年月日:1943/02/21

奈良帝室博物館学芸委員中村雅真は2月21日奈良市山ノ上町の自宅で死去した。享年90。元貴族院議員であり、奈良の古老の一人として人柄を懐しまれた人である。

小野賢一郎

没年月日:1943/02/01

「やきもの読本」で親しまれていた放送協会業務局次長兼企画部長小野賢一郎は2月1日逝去した。号蕪子、明治21年福岡県芦屋に生れ、早く新聞界に入り、毎日新聞社に名をなした。多才多趣味をもつて知られ、ことに陶器鑑賞界の通人であつた。陶器に関する著書は多数にのぼるが、その最も大なる業績として陶器大辞典の編纂がある。

鶴巻鶴一

没年月日:1942/12/28

前京都高等工芸学校長正4位勲3等工学博士鶴巻鶴一は12月28日自宅で脳溢血のため急逝した。享年70。明治六年新潟県に生れ、同37年東京帝大応用化学科を卒業、京都市染織学校、京都高等工芸学校長などを歴任、独逸に留学、大正4年工学博士となつた。又京都商工会議所特別議員に推され、斯界に貢献するところがあつた。

安田禄造

没年月日:1942/12/16

東京高等工芸学校名誉教授前校長従3位勲2等安田禄造は胃腸障害のため藤沢市の自宅で静養中のところ12月16日逝去した。享年69。明治7年東京に生れ、明治35年東京高等工芸学校教員養成所を卒業、大正3年から5年へかけて墺国に留学、同10年東京高等工芸学校創立と同時にその教授となり、昭和3年校長に進み、同16年まで在職13年の長きに及んだ。この間帝国工芸会の理事として、又工芸展の審査委員長として、我国工芸界に残した功績は洵に大きいものがあつた。

堀井三友

没年月日:1942/05/31

美術研究所嘱託堀井三友は昨秋来胃癌を病んで静養中のところ5月31日逝去した。享年58。明治18年4月10日富山市に生れ、中学卒業後上京、はじめ英文学に志したが、次いで東洋美術の研究に専念、中川忠順に師事した。昭和5年美術研究所嘱託、同13年には東京高師の授業を囑託された。この間古美術の発見、保護に努め、諸種の論文を発表してゐた。

足立康

没年月日:1941/12/29

法隆寺新非再建論者として知られた工学博士足立康は12月29日湘南茅ヶ崎南光院の病舎にて永眠した。享年44、明治31年7月10日神奈川県中郡足立留次郎の三男として生れ、後年家族と共に東京へ移つた。五高を経て東京帝大工学部造兵学科に入学、大正13年同科卒業、翌年同大学文学部美術史科に入り、昭和3年卒業後、工学部大学院に於て建築史を専攻した。昭和8年大学院卒業論文「薬師寺塔婆の研究」によつて工学博士の学位を受け、同年より日本古文化研究所理事として最後まで藤原宮阯の調査に力を竭した。「藤原宮阯伝説地高殿の調査」2巻はその成果である。13年より「建築史」を創刊してその主幹たり、昭和16年には「法隆寺再建非再建論争史」を編纂したところであつた。このほか「薬師寺伽藍の研究」「日本建築史」等の著がある。

伊藤赳

没年月日:1941/02/16

帝室博物館鑑査官伊藤赳は2月16日東京滝野川の自宅において脳溢血のため急逝した。享年54。明治21年広島県に生れ大正9年東京帝大国史科卒業、翌年より帝室博物館に入り、服飾調度を担当して今日に及んだものである。

正木直彦

没年月日:1940/03/02

東京美術学校名誉教授正木直彦は3月2日逝去した。同5日小石川区音羽町護国寺に於て東京美術学校葬を以て葬儀を執行した。文久2年10月26日大阪府に生れ、25年東京帝国大学法律科を卒業した。翌26年奈良県尋常中学校長に任ぜられ、又帝国奈良博物館学芸委員となつて古美術の調査に従ふ。30年文部大臣秘書官となり、次いで視学官、大臣官房秘書課長、文書課長兼美術課長を歴任し、34年8月東京美術学校長に任ぜられた。爾来昭和7年退官に至る迄30有余年の間美術教育に従事した。同年同校名誉教授の名称を授けられた。明治40年文部省美術審査委員会の創設に参画し、永年同委員会主事として文展に寄与し、大正8年帝国美術院の創設と共に同院幹事を仰付けられ、昭和6年同院々長となり、同10年に及んだ。辞職後は同院顧問となり、又同院廃止後は文部省の美術行政顧問となつた。又此の間同院附属美術研究所主事に在職した。以上のほか夙くより内外博覧会審査長或は鑑査官となり、又帝室技芸員詮衡委員、工芸審査員会委員をはじめ、諸種の委員会委員或は会長、理事、顧問として美術の事に関与するところ極めて広汎に亘つた。客臘より寒冒に臥し、肺炎を併発し遂に再び立たなかつたものである。享年79。略年譜文久2年 10月26日和泉国堺ニ於テ生ル明治25年 帝国大学法律科卒業明治26年 任奈良県尋常中学校長明治27年 奈良公園内社寺宝物名所旧蹟取調事務長ヲ囑託ス明治28年 帝国奈良博物館学芸委員被仰付明治30年 任文部大臣秘書官、叙高等官6等、帝国奈良博物館学芸委員被免、任文部省視学官明治31年 兼任文部大臣秘書官、叙高等官6等、大臣官房秘書課長ヲ命ス、大臣官房秘書課長ヲ免シ更ニ文書課長兼美術課長ヲ命ス、仏蘭西万国博覧会出品調査委員ヲ命ス明治32年 御用有之欧米各国ヘ被差遣、大臣官房文書課長ヲ免ス、大臣官房美術課長ヲ免ス、11月欧洲ヘ向ケ出発明治34年 3月帰朝、任東京美術学校長、叙高等官4等、第5回内国勧業博覧会評議員被仰付明治35年 普通教育ニ於ケル図画取調委員長ヲ命ス明治36年 第5回内国勧業博覧会審査官被仰付、図画教科書編纂委員長ヲ囑託ス、臨時博覧会評議員被仰付、臨時博覧会鑑査官被仰付、陞叙高等官3等明治37年 叙従5位、御用有之米国ヘ被差遣、8月米国ヘ向ケ出発、11月帰朝明治40年 東京勧業博覧会審査部長ヲ囑託ス、陞叙高等官2等、文部省美術審査委員会主事ヲ命ス、叙正5位明治41年 叙勲4等授瑞宝章明治42年 東京美術工芸展覧会幹事長ヲ囑託ス、日英博覧会評議員被仰付、御用有之英国ヘ被差遣、日英博覧会鑑査官被仰付明治43年 2月英国ヘ向ケ出発、日英博覧会出品物審査ニ関スル事務ヲ囑託ス、同会美術部審査主任ヲ命ス、11月帰朝明治44年 東京勧業博覧会審査長ヲ囑託ス、授旭日小綬章、美術審査委員被仰付大正元年 叙従4位大正2年 叙勲3等授瑞宝章、第1回図案及応用作品展覧会審査委員ヲ囑託ス(昭和6年ニ至ル)大正3年 東京大正博覧会審査官ヲ囑託ス、臨時博覧会評議員被仰付、臨時博覧会鑑査官被仰付大正7年 臨時議院建築局顧問被仰付、第6回工芸展覧会審査委員ヲ囑託ス大正8年 帝国美術院幹事被仰付大正9年 陞叙高等官1等、叙勲2等授瑞宝章大正11年 平和記念東京博覧会審査官ヲ囑託ス大正12年 叙従3位、仏国美術展覧会準備委員ヲ囑託ス大正13年 万国装飾美術工芸博覧会出品鑑査員ヲ囑託ス昭和2年 明治神宮外苑管理評議委員ヲ囑託ス昭和3年 対支文化事業調査委員被仰付昭和5年 補帝国美術院附属美術研究所主事、国際観光委員会委員被仰付、叙勲1等授瑞宝章昭和6年 中華民国ヘ出張ヲ命ゼラル、国立公園委員会委員被仰付、金杯1箇ヲ賜フ帝国美術院長被仰付昭和7年 叙正3位、依願免本官、東京美術学校名誉教授ノ名称ヲ授ク、明治大正美術史編纂委員会委員長ヲ囑託ス、対支文化事業調査会委員被仰付昭和13年 中華民国ヘ出張ヲ命ス昭和15年 3月2日薨去

久保田鼎

没年月日:1940/01/15

美術行政及教育の為に多年尽瘁した久保田鼎は1月15日奈良に於て逝去した。行年86、安政2年江戸小石川に生れ、幼名を理三郎と称した。明治7年文部省に写字生として職を奉じ、同10年には同省属に昇進し、同23年帝国博物館主事に任命され、美術界に歩を進める契機となつた。即ち同年東京美術学校幹事、同25年臨時全国宝物取調掛、同28年には同館理事、次いで翌29年古社寺保存会委員を仰付けられた。尚同31年東京美術学校教授を兼任、同33年同校々長心得を命ぜられた。同40年に至り奈良帝室博物館長、大正3年には京都帝室博物館長、同13年には再度奈良帝室博物館長を歴任した。而して大正12年には帝室技芸員選衡委員、昭和5年には宮内事務官として勅任され、同6年帝室博物館評議員仰付られ、それと共に要職を隠退したが、我が黎明期博物館事業に殆んど其生涯を捧げた功績は特記さるべきであらう。

喜田貞吉

没年月日:1939/07/03

東北帝国大学講師文学博士喜田貞吉は病気の為7月3日逝去した。享年69歳。博士は法隆寺再建論を持してさきには故関野貞博士、最近は足立康博士と論争を交へて、夙に学会にその令名が喧伝して居た。しかし博士は唯に法隆寺問題のみではなく、歴史一般に就いても博覧強記を以て聞え、著書には「帝都」「国史の教育」その他数種があり、関係雑誌に発表された研究論文等は無慮一千余に達し、又自ら「民族と歴史」「社会史研究」「東北文化研究」の刊行を主宰してゐた。尚この間教職にあつて後進の誘掖にあたり、文部編修官となつて教科書の編纂等に尽す処があつた。左にその略歴を掲げる。 明治4年徳島県に生れ、明治29年東京帝国大学文科大学国史科を卒業、同治33年早稲田専門校講師、同34年国学院大学講師を嘱託され、同年文部図書審査官に、36年には文部編修官に転じ44年退官した。この間に39年には東京帝大、41年には京都帝大文科大学講師を嘱託され、42年文学博士を授けられた。大正9年京都帝国大学教授に任ぜられ、13年退官同年東北帝大、京都帝大講師となつて現在に至つた。

小野玄妙

没年月日:1939/06/27

仏教芸術史の権威、文学博士小野玄妙は脳溢血のため6月27日逝去した。享年57歳。本名金次郎、明治16年2月28日横浜に生る。同29年鎌倉光明寺に入つて浄土宗僧侶となり、名を玄妙と改めた。大正7年宗教大学教授となり、同12年に大正新脩大蔵経の編纂主任となり、その完成に力を注いだ。昭和3年高野山大学教授、又翌年東洋大学教授となり、同7年文学博士の学位を授けられた。同9年以後文部省国宝調査会委員となり、諸寺所蔵の蔵経の調査に従つた。その著述は「仏教之美術及歴史」「大乗仏教芸術史の研究」「仏教経典総論」其他十余種に上り、就中粉本図像の研究に於て業績を残した。主なる著作を掲げる。「仏教年代考」(明治38年)「大日本仏教全書」(同45年望月信亨博士の下に於て編纂)「仏教之美術及歴史」(大正5年)「仏教美術概論」(同6年)「仏像ノ研究」(同7年)「画図解説仏教美術講話」(同10年)「大分の石仏に就て」(同11年)「健駄邏ノ仏教美術」(同12年)「極東の三大芸術」「五台山写真集」(同13年)「仏教文学概論」(同14年)「仏教美術」(同15年)「大乗仏教芸術史の研究」(昭和2年)「仏教概説」(同3年)「仏教神話」(同8年)「仏教経典総論」(同11年)「仏教ノ美術ト歴史」(同12年)

三上参次

没年月日:1939/06/07

帝大名誉教授文学博士三上参次は病気の為6月7日逝去した。享年75歳。兵庫県に生れ、明治22年東京帝大文科を卒業、引続き母校の助教授、教授を経て文学部長となつた。同32年博士を授けられ、大学を退職後は名誉教授、学士院会員、貴族員議員の地位に就いた。この間傍ら史料編纂の事業を主宰し、大日本史料大日本古文書の編纂等に貢献する処があつた。又保存事業に於ても、明治33年帝国古蹟取調会の創立に当り、学事顧問、次いで調査委員に挙げられ、又大正8年史蹟名勝天然紀念物調査会官制の施行に際しその委員となつた。而してこの官制の廃止後昭和8年、明治天皇聖蹟に関する調査保存事業が始められ、文部省に史蹟名勝天然紀念物調査委員会が設立されるに及び、その会長に推挙された。歴史学会に於ける業績は多大であるが就中特記すべきは、御歴代天皇聖蹟を調査、保存し奉るべきを提唱し、これが実施を誘導したことであつた。(史蹟名勝天然記念物14ノ7による)

内藤藤一郎

没年月日:1939/05/13

仏教美術史の研究家内藤藤一郎は5月13日病気の為逝去した。明治29年大阪に生れ、早稲田大学を卒業、夙にその研究を関係雑誌等に寄稿してゐた。「法隆寺壁画の研究」ほか数種の著述がある。

平野千惠子

没年月日:1939/04/04

米国ボストン美術館東洋部勤務の平野千惠子は賜暇を得て帰国中急逝した。享年64歳。新潟県出身で、東京女高師、津田英学塾を経て米国シーモーカレツヂに入り、英文学と図書館学を学び、明治29年ボストン美術館に勤務した。爾来同館東洋部にあつて蔵品及び図書の整備に従つたが、大正9年以来浮世絵師清長の研究に専念し、英文の著述「清長」が米国で公刊されてゐる。

関衛

没年月日:1939/03/06

東亜美術協会顧問関衛は3月6日逝去した。明治23年長崎県に生る。心理学及美術史を専攻し、数種の著作を残した。

アンリ・ユルリツク・オダン

没年月日:1938/11/08

日本美術の研究家として知られた仏人アンリ・ユルリツク・オダンは11月8日東京杉並区の自宅で逝去した。 安政6年11月30日、デイジヨン市に生れ、明治15年巴里法科大学に入学、傍ら美術の研究に従事し、其後絵画研究視察のため西班牙、伊太利、白耳義、和蘭、独逸、墺太利諸国の美術館を訪ねた。明治32年初めて日本に来り同年帰国せるも、翌33年再度来朝、京都に居住、日本絵画の研究に従ひ、同40年に短期間帰国をなしたる外同44年迄滞在。大正9年4度来朝し、同11年帰国。昭和8年仏国文部省の美術囑託を兼ね、5度来朝し、東京に定住した。同11年文化に関する勲功により勲5等瑞宝章を授けられた。著述に「オダン蒐集画集」がある。

浜田耕作

没年月日:1938/07/25

京都帝国大学総長正3位勲2等浜田耕作は7月25日薨去した。享年58歳。京都帝国大学に於て学葬が行はれた。 明治14年2月22日、大阪府南河内郡に於て、浜田源十郎の長男として生る。明治38年東京帝国大学文科大学史学科を卒業、引続き大学院に入学し、又暫く雑誌「国華」の編輯に従つたが、同42年京都帝国大学文科大学講師を嘱託され、次で大正元年考古学研究の為、英、仏、伊に満3箇年留学を命ぜられた。同2年同文科大学助教授に、同6年教授となり、考古学講座を担当し、翌7年文学博士の学位を授けられた。同14年京大評議員を命ぜられ、昭和2年欧米へ出張、翌年帰国した。同4年東方文化学院理事に就任、また国宝保存会委員を仰せ付けられ、翌5年同大学文学部長に補せられ、同7年辞任した。尚同6年に帝国学士院会員を仰付けらる。同8年重要美術品等調査委員会委員、又朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存会委員、同9年法隆寺国宝修理協議会委員、同10年宮内省臨時陵墓調査委員等の任に就いた。同12年6月京都帝国大学総長に任ぜられ、爾来満1ヶ年間全学の輿望を担つて同大学の粛学に尽瘁して現在に及んだものである。博士は本邦考古学界の耆宿であり、斯学を科学的学問として樹立せしめたその功績は大きく、国内は勿論朝鮮満洲等の発掘調査には殆ど悉く関与して居り、尚斯学関係全般に亙る要職にあつた。博学多趣味の人で東西の美術に造詣深く、著書随筆も多数に上り、且つ青陵と号して、書に絵に巧みであつたことは有名であり、人格的に徳望頗る高かつた。(考古学雑誌に依る)編著目録京都帝国大学文科大学考古学研究報告第1冊(梅原末治と共著) 大正6年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第2冊 大正7年希臘紀行 大正7年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第3冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 大正8年南欧遊記 大正8年京都帝国大学文学部考古学研究報告第4冊、第5冊(榊原政職と共著) 大正9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第6冊(長谷部言人、島田貞彦と共著) 大正10年「泉屋清賞」?器部 大正11年慶尚北道慶尚南道古墳調査報告(梅原末治と共著) 大正11年通論考古学 大正11年「陳氏旧蔵十鐘」鐘概説及図版解説 大正11年金海貝塚発掘調査報告(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第7冊(新村出、梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第8冊(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部陳列館考古図録 大正12年慶州金冠塚と其遺宝上冊(梅原末治と共著) 大正13年支那古明器泥象図説 大正14年京都帝国大学文学部考古学研究報告第9冊 大正14年有竹斎古玉譜(古玉概説) 大正14年百済観音 大正15年橋と塔 大正15年ミハエリス氏美術考古学発見史 昭和2年京都帝国大学文学部考古学研究報告第10冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 昭和2年有喜貝塚調査報告 昭和2年「泉屋清賞」続篇上冊 昭和2年慶州金冠塚と其遺宝図版下冊(梅原末治と共著) 昭和3年博物館 昭和4年貔子窩 昭和4年天正年間遣欧使節関係文書(新村出と共著) 昭和4年考古遊記 昭和4年東亜文明の黎明 昭和5年東亜考古学研究 昭和5年天正遣欧使節記 昭和6年モンテリウス氏考古学研究法 昭和7年慶州の金冠塚 昭和7年南山裡(島田貞彦と共著) 昭和8年刪訂泉屋清賞(梅原末治と共編) 昭和9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第13冊(梅原末治と共著) 昭和9年京都帝国大学文学部陳列館考古図録(続篇) 昭和10年楽浪彩篋塚遣物聚英(梅原末治と共編) 昭和11年京都帝国大学文学部考古学研究報告第14冊 昭和12年サンデ帥遣欧日本使節対話録(全訳校閲) 昭和12年仏国寺と石窟庵(藤田亮策、梅原末治と共編) 昭和13年赤峯紅山後(水野清一と共著) 昭和13年

水木要太郎

没年月日:1938/06/01

奈良帝室博物館学芸委員水木要太郎は6月1日逝去した。享年70歳。十五堂と号す。 慶応元年愛媛県に生る。明治42年より昭和2年迄奈良女子高等師範学校教授として在職し、大正4年以降奈良帝室博物館に勤務してゐた。

美澄政博

没年月日:1938/03/24

美術研究所嘱託美澄政博は3月24日逝去した。享年30歳。 山口県の生れで、昭和10年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年美術研究所の嘱託となり、同所の明治大正美術史編纂に従事してゐたものである。

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