本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





竹腰健造

没年月日:1981/07/28

建築家で日本建築協会名誉会長の竹腰健造は、7月28日午前10時54分、老衰のため大阪市福島区の大阪大学病院で死去した。享年93。1888(明治21)年6月25日、福岡県に生まれ、明治の代表的な美術評論家岩村透は兄にあたる。1912(大正元)年東京大学工学部建築学科を卒業し、兄のすすめでイギリスに留学、アーキテクチュラル・アソシエーション・スクールで建築を学んだ。14年にローヤル・インスティチュート・オブ・ブリティッシュ・アーキテクトの建築士資格試験に合格し、同年オースチン建築事務所に勤務する。また、建築を学ぶ一方で、17年にロンドンテクノロジーでフランク・エマニュエルにエッチングを学び、ロイヤル・アカデミーに入選する。同年帰国し住友総本店に入社したが、エッチングは翌18年のロイヤル・アカデミーにも入選している。同18年、明治天皇聖徳記念絵画館の懸賞設計に3等当選、また19年には第1回創作版画協会に滞欧作のエッチング12点を出品し会員となるなど、この頃、建築、版画両面にわたって活躍した。しかしこれ以後は建築家としての仕事が主となる。22年住友合資会社技師となり、住友ビル(現住友銀行本店)等の建設に従事、33年同社を依願退社し、長谷部竹腰事務所を設立して東京手形交換所の設計監理などにあたる。45年住友本社に入社し、長谷部竹腰建築事務所を住友土地工務(株)と合併、翌45年11月には同工務(株)を改組して住友商事の前身である日本建設産業(株)とし、初代社長に就任した。47年に同社を退任するが、46年には日本建築協会会長となり(58年まで)、48年双星社竹腰建築事務所を開設(77年株式会社双星設計と改称)、その後、関西電力本社、新住友ビル、大阪市新市庁舎などの建築顧問をつとめ、また大阪市立中央図書館、武田薬品工業湘南工場などの建築に携わった。この間、57年に黄綬褒章を受章し60年日本建築学会名誉会員となり、62年日本芸術院賞受賞、64年勲四等瑞宝章受章、また65年には全国建築審査会協議会会長(78年まで)、68年には日本建築協会名誉会長、71年勲三等瑞宝章受章と、数々の要職を歴任し、顕彰を受けた。このほか、日本万国博覧会協会参与(66~70年)、阪神高速道路協会理事長(67~70年)などもつとめた。

松田軍平

没年月日:1981/04/23

元日本建築家協会会長の建築家松田軍平は、4月23日心不全のため神奈川県藤沢市の岩淵内科医院で死去した。享年86。1894(明治27)年10月8日福岡県に生まれ、名古屋高等工業学校建築科卒業後に渡米、コーネル大学建築学科を卒業する。ニューヨーク市、トローブリッヂ・エンド・リビングストン設計事務所に勤務し、バンク・オブ・アメリカ等の設計に従事したが、三井本館工事監理副主任として帰国する。1931(昭和6)年平田重雄と松田建築事務所(42年松田・平田設計事務所、66年株式会社松田平田坂本設計事務所と改称)を創設した。48年から1年間日本建築士会会長に就任、50年から57年まで日本建築学会理事をつとめ、56年及び68年から各3年間、社団法人日本建築家協会会長の要職にあった。71年には財団法人文化財建造物保存技術協会監事となり、75年から80年まで日本建築設計監理協会連合会会長をつとめたほか、建設省建築審議会委員なども歴任した。この間、使いやすい実質的な設計を基本理念として、代表作に日本長期信用銀行本店(61年)、三井生命本社ビル(同)、羽田・東京国際空港ターミナルビル(64年)、日本銀行本店(73年)などがある。58年、フィリピン建築家協会名誉会員、米国建築家協会名誉会員に推された。

吉坂隆正

没年月日:1980/12/17

早稲田大学理工学部教授、元日本建築学会長の吉坂隆正は、12月17日胃ガンのため東京都中央区の聖路加病院で死去した。享年63。雅号に歩歩徒。1917年(大正6)年2月13日東京市小石川区に生まれ、41年早稲田大学建築学科を卒業、45年早稲田大学助教授となり、50年から52年までフランスに留学し、ル・コルビジェのもとで学ぶ。59年早大理工学部教授に就任、61年から翌年にかけてアルゼンチン国立ツクマン大学の招聘教授として都市計画を講じる。この間、57年にベネツィア・ビエンナーレ日本館設計などの業績により芸術選奨を、63年には日本建築学会作品賞を受賞する。69年から72年まで早大理工学部長をつとめ、73年から74年まで日本建築学会会長に就任、また、73年、建設省建築審議会委員、74年日中建築技術交流会会長、75年日本建築積算協会会長、翌年日本生活学会会長になったほか、首都圏総合計画研究所理事長、環境庁自然保護審議委員なども歴任し、日本美術評論家連盟に加わる。78年、ハーバード大学客員教授となり、同年、早稲田大学専門学校校長に就任する。登山家としても知られ、早大アフリカ赤道遠征隊の副隊長、早大アラスカ・マッキンレー遠征隊長をつとめ、日本雪氷学会理事でもあった。著書に『環境と造形』(55年、河出書房)訳書に『ル・モジュロール』(全2巻、52、58年、美術出版社)などがある。主要作品は、アテネ・フランセ、日仏会館、大学セミナー・ハウスなど。主要著作住居学汎論 昭25 相模書房モジュロール(ル・コルビュジエ)訳 昭27 美術出版社ル・コルビュジエ 昭27 美術出版社住居論(建築学大系1) 昭29 彰国社環境と造形 昭30.9 河出書房都市論(建築学大系2)  昭35.9 彰国社原始境から文明境へ 昭36 相模書房住居学 昭40.7 相模書房建築をめざして(ル・コルビュジエ)訳 昭42.12 鹿島出版現代住居論・人間と住居(住居問題講座1) 昭43 有斐閣オスカー・ニーマイヤー 昭44 美術出版社告示録 昭47.12 相模書房巨大なる過ち(ミッシェルラゴン) 昭47 紀伊国屋住まいの原型 昭48 鹿島出版アテネ憲章(ル・コルビュジエ)訳 昭51.1 鹿島出版世界の建築(世界の美術13) 昭51 世田文化社ル・コルビュジエ全作品(全8巻) 昭52-54 ADA主要作品イタリヤ・ヴェネチア・ビエンナーレ日本館 (昭31)長崎・海晴学園校舎 (昭33)日仏会館 (昭34)富山・呉羽中学校 (昭35-38)江津市庁舎 (昭37)アテネ・フランセ (昭37)富山県立立山荘 (昭39)八王子・大学セミナーハウスの全体計画ならびに宿舎、体育館、講堂、管理棟、海外文化交流・民族資料館、交友館等一連の施設 (昭40-51)大島町・元町復興計画・他一連の公共施設 (昭40-43)更埴市庁舎 (昭40)生駒山・宇宙科学館 (昭43)盛岡市・働く婦人の家 (昭53)

生田勉

没年月日:1980/08/04

東京大学名誉教授、建築家の生田勉は、8月4日肺ガンのため東京府中市の都立府中病院で死去した。享年68。1912(大正元)年2月20日北海道小樽に生まれ、第一高等学校理科甲類を経て、36年東京大学工学部建築科に入学、39年に卒業する。一高在学中三木清に師事し、一高文芸部委員をつとめ、また立原道造と親交しその没後、41年に堀辰雄編纂の立原道造全集に参加する。卒業の年逓信省営繕課航空局に就職するが、44年第一高等学校教授に就任。46年、雑誌「国際建築」の再刊に参画する。50年、東京大学教養学部助教授となり、同年からアメリカの文明批評家ルイス・マンフォードの翻訳をはじめ交際する。51年、ノースカロライナ大学建築学科客員教授として渡米、オレゴン大学夏季講師をつとめ、同年日本建築学会委員となる。55年日本建築学会意匠研究部幹事、また、この頃より生田建築研究室を設置し建築設計にとりくむ。61年、東京大学教授に就任、大学院建築課程を兼任、同年、日本建築学会からイタリー、フランス、スエーデン、デンマークの建築視察に派遣される。65年、東京大学工学部都市工学科大学院講義を担当。67年には渋谷区神宮前に槐建築研究所を開設する。72年東京大学を停年退官し、同年東京大学名誉教授の称号を受け、また、槐建築研究所を生田勉都市建築研究所と改称する。76年には、アメリカ合衆国建国二百年記念学術会議に招かれ出席する。多くの建築作品とともに、建築評論家としても活躍し、ことにルイス・マンフォードの紹介者として著名で、訳書に『技術と文明』『歴史の都市・明日の都市』などがある。主要作品1956 栗の木のある家1960 芝立電気汁器本館1962 千葉県立館山ユースホステル1964 新渡戸記念館、上高地五千尺ロッジ1966 横浜市農業指導所1969 日本万国博覧会生活産業館1970 天竜市民体育館、同農林センター1977 桐生市文化センター1979 横浜市日吉地区センター、天竜市立中央公民館1981 盛岡市立武道館

池辺陽

没年月日:1979/02/10

東京大学教授、建築家の池辺陽は、2月10日食道ガンのため東京都新宿の東京女子医大付属消化器病センターで死去した。享年58。1920(大正9)年4月8日釜山に生まれ、42年東京帝国大学工学部建築科を卒業、44年坂倉建築研究所に入所、46年東京帝国大学第二工学部講師となる。47年新日本建築家集団(NAU)の創立に参加、翌年新制作協会建築部(現スペースデザイン部)創立に参加し同協会展に制作発表する。49年東京大学第二工学部助教授となり、50年財団法人建築工学研究会理事に就任する。58年日本建築学会のメートル法と建築モデュール委員会委員、60年ISO(国際標準化機構)TC59(建築)会議日本代表となる。62年「空間の寸法体系、GMデュールの構成と適用」により学位(工学博士)を受ける。63年日本建築学会設計方法小委員会主査となる。64年東京大学宇宙航空研究所における地上施設を担当、秋田道川、鹿児島内ノ浦宇宙観測基地の全施設の設計にたずさわる。65年東京大学生産技術研究所教授となり、同年環境と工業を結ぶ会(DNIAS)を創立する。67年通産省産業構造審議会専門委員に就任、68年身体障害者のための施設研究組織(TESTEM)を創立する。71年通産省Gマークユニット部門審査委員長、科学技術庁テクノロジーアセスメント委員会高層建築部門主査となる。73年東京国際見本市協会東京国際グッドリビングショーの基本計画に従事、74年には日本建築学会建築計画委員会委員長となる。戦後の住宅近代化の推進者の一人で、厨房器具、サッシ、洗面器具など建築部品の規格化、工業生産化を指導し、その功績で78年に通商産業大臣賞を受賞した。95の住宅設計もある。主要作品に住宅作品No.1~95(48-78年)、渋谷都市計画(46年)、下関復興都市計画(46年)、別府都市計画(47年)、沼津産業会館(53年)、東京大学宇宙航空研究所宇宙観測基地地上施設群(56年-72年)、秋田県立中央病院(57年)、キッチン’58(58年)、籐椅子(60年)、基本ユニット家具(60年)、身体障害者の実験住宅(71年)など。著者に『すまい』(54年)、『デザインの鍵-人間・建築・方法』(79年)などがある。 新制作展出品目録14回 「キッチン・ユニット住宅」15 「写真、図面」16 「二戸建鉄筋コンクリート住宅」「N市共同商店街」17 「N市公会堂」「住宅No.14、№15」16 「イス試作2題 力学的曲面と人間の動作の関係」25 「籐椅子」27 「洋服ダンス」28 「東京大学鹿児島スペースセンター」29 「1500人の居住ユニット-自然と人間の共存計画の一部」30 「東京大学宇宙空間観測所壁画」31 「生活パッケージ・シズニット」33 「集合住宅」34 「TESTEM(身体障害者の家)」「住居ユニット」35 「TESTEM実験住宅№1」36 「原型(宇宙のための建築群より)」37 「住宅93・94」「宇宙科学のための展示場」「インテリア」39 「住集合-VALVITS」「まるい ちがい棚」45 「かたらい。イスと壁の空間」41 「PIX4 “FOREST”」42 「キッチン78プロトタイプ」「タウンハウス」

谷口吉郎

没年月日:1979/02/02

建築家谷口吉郎は、2月2日胃ガンのため東京都港区元の前田外科病院で死去した。享年74。1904(明37)年6月24日石川県金沢市の九谷焼窯元の家に生まれ、四高を経て28年東京大学工学部建築学科を卒業した。30年東京工業大学講師となり、翌年には助教授、43年には教授となった。この間、38年より2年間外務省、文部省より在外研究員として欧米に派遣され、65年退官するまで建築計画、意匠学、設計等について研究、教育した。退官後も幅広い活動で内外に知られ、作品は終戦直後に長野県馬籠における島崎藤村記念堂の設計で建築学会賞を受賞した。そのほか戦前では慶応幼稚舎校舎が有名で、戦後には東宮御所をはじめ東京国立博物館東洋館、東京国立近代美術館、迎賓館赤坂離宮和風別館、ホテルオークラ等現代日本の代表的な建物を設計した。また記念碑的なものも多く手がけ高村光太郎、森鴎外、志賀直哉ほか文学者の詩碑や文学碑も設計し、東京千鳥ヶ淵の戦没者墓苑等、墓碑類も多い。一方戦後、明治の歴史的建築が急速に失われゆくのを惜しんで、四高時代の同級生土川元夫名鉄副社長の協力を得、それらを移築集合させた博物館「明治村」の建設を実現させ、64年以来同館々長をつとめた。ライト設計の帝国ホテル移築をはじめ、森鴎外、夏目漱石旧宅など各地より貴重な建物をはこび、内容充実に努めた功績は高く評価された。建築におけるその作風は、いづれも繊細な日本の伝統的様式を近代に生かしたもので、清明な造形表現を特色とした。工学博士。日本芸術院会員。文化勲章受領。略年譜1904 6月4日、石川県金沢市に生まれる。生家は九谷焼の窯元であった。1911 石川県立師範学校付属小学校入学。1918 石川県立第二中学校入学。1922 第四高等学校入学。学生時代は旅行部部員として夏はアルプス、冬は長野県へスキーに出かけるなどの活躍ぶりを示す。1925 第四高等学校卒業。東京帝国大学工学部建築科入学。1928 東京帝国大学工学部建築学科卒業。卒業研究は伊藤忠太教授の指導を受け、卒業設計は「製鉄所」の計画案。1931 東京帝国大学大学院入学。佐野利器教授の指導を受け、工場建設を研究。1930 東京工業大学講師となる。1931 東京工業大学助教授となる。佐野利器教授のお世話で松井絹子と結婚。1932 東京工業大学水力実験室、東京都目黒区大岡山1933 佐々木邸、東京都大田区田園調布東京工業大学建築材料研究所、東京都大田区石川町三井邸家族室、東京都世田谷区若林1935 南薫造山荘、長野県軽井沢町自邸、東京都品川区小山1936 東大航空研究所にて「建築物の風圧に関する研究」を始め、数年間風洞実験に従事。1937 慶應義塾幼稚舎校舎、東京都渋谷区恵比寿梶浦邸 東京都中野区中央1938 慶應義塾大学予科日吉寄宿舎、神奈川県横浜市港北区箕輪町日本大使館建設工事の技術交渉のため、外務省嘱託としてドイツに出張。1939 第二次世界大戦勃発により、避難船・靖国丸にてアメリカを経て帰国。1940 木下杢太郎らと「花の書の会」を始め、「花の書」を創刊。1942 論文「建築物の風圧に関する研究」に対し日本建築学会学術賞を受賞。1943 工学博士号を受く。東京工業大学教授となる。1944 11月頃より雑誌「文藝」に「雪あかり日記」を書き始める。1947 藤村記念堂、長野県木曾郡山口村徳田秋声文学碑、石川県金沢市末広町卯辰山公園1948 慶應義塾中等部三田校舎、東京都港区三田慶応義塾幼稚舎合併教室、東京都渋谷区恵比寿1949 藤村記念堂その他に対して日本建築学会作品賞を受賞慶應義塾大学通信教育部事務室、東京都港区三田慶應義塾大学第三校舎(四号館)、東京都港区三田慶應義塾大学第二校舎(五号館)、東京都港区三田慶應義塾大学学生ホール、東京都港区三田島崎藤村墓所、神奈川県中郡大磯村地福寺1950 慶應義塾大学病院は号病棟、東京都新宿区信濃町1951 慶應義塾女子高等学校第一校舎(三号館)、東京都港区三田慶應義塾大学第二研究室(万来舎)、東京都港区三田佐々木小次郎の碑、福岡県北九州市小倉区赤坂手向山公園木石舎、新日本茶道展(松坂屋上野支店)出陳慶應義塾普通部日吉校舎、神奈川県横浜市港北区日吉本町原民喜詩碑、広島市基町城趾公園1952 石川県繊維会館、石川県金沢市西町兒島喜久雄墓碑、東京都港区南青山梅窓院慶應義塾女子高等学校第二校舎(四号館)、京都港区三田慶應義塾大学病院ほ号病棟、東京都新宿区信濃町慶應義塾大学第三研究室、東京都港区三田慶應義塾大学体育会本部、東京都港区三田1953 桃季境、プール・付属家、静岡県熱海市伊豆山十和田記念碑、森県十和田町佐藤春夫詩碑、青森県十和田町宮田重雄画室、武蔵野市吉祥寺山本別邸、書斎・書庫、神奈川県湯河原町慶應義塾大学日吉第三校舎、横浜市港北区日吉町1954 慶應義塾大学病院特別病棟、東京都新宿区信濃町高田保墓碑、奈川県大磯町高田保公園森鴎外詩碑、東京都文京区千駄木石川県議会議事堂、石川県金沢市広坂薄田泣菫詩碑、岡山県倉敷市連島町連島公園国立科学博物館理工学館、東京都台東区上野公園石橋家墓所、府中市多磨町東京都多磨霊園展覧会、現代の眼「日本美術史から」、国立近代美術館1955 相模原ゴルフクラブ、クラブハウス、神奈川県相模原市当麻集団週末住居、長野県北佐久郡軽井沢町志賀邸、京都渋谷区東新聞功労者顕彰碑(自由の群像)、東京都千代田区千鳥ヶ淵公園高崎市議会議事堂、高崎市高松町1956 『修学院離宮』(毎日新聞社)を刊行、毎日出版文化賞を受賞高村光太郎葬儀、東京都港区南青山東京都青山葬儀所1956 慶應義塾大学医学部基礎医学第一校舎、東京都新宿区信濃町秩父セメント株式会社第二工場、埼玉県秩父市木下杢太郎詩碑、伊東市湯川伊東公園幸田延音楽碑、東京都大田区池上本門寺慶應義塾中等部三田校舎、東京都港区三田1957 慶應義塾大学医学部基礎医学第三校舎、京都新宿区信濃町佐伯邸、東京都千代田区一番町佐伯別邸、長野県北佐久郡軽井沢町弟橘媛歌碑、神奈川県相模原市当麻相模原ゴルフクラブ1958 東京工業大学創立70周年記念講堂、東京都目黒区大岡山原敬記念館、岩手県盛岡市本宮藤村記念館、長野県小諸市丁懐古園慶應義塾発祥記念碑、東京都中央区明石町佐藤邸、京都渋谷区松濤警視庁築地警察署数寄屋橋巡査派出所、東京都中央区銀座第四高等学校寮歌記念碑(南下郡の碑)、金沢市広坂金沢大学1959 千鳥ヶ淵戦没者墓苑、東京都千代田区三番町解体記念碑、東京都荒川区南千住回向院蘭学記念碑、京都中央区明石町石川県美術館、石川県金沢市兼六町青森県立体育館、青森市横山町別宮邸、東京都世田谷区成城小林邸、東京都渋谷区松濤1960 桃季境、本館玄関・ロビー、静岡県熱海市伊豆山火野葦平文学碑、北九州市修多羅高塔山公園東宮御所、東京都港区元赤坂八火翁光永星郎之碑、東京都谷中霊園展覧会、小林古径遺作展、国立近代美術館展覧会、伝統工芸店「日本人の手」、国立近代美術館1961 東宮御所その他の業績に対して日本芸術院賞を受賞。明治建築の保存を土川元夫氏にはかる。青森県庁舎、青森市長島秩父セメント株式会社製管工場、秩父市大野原1962 日本芸術院会員となる。財団法人明治村認可、常任理事となる。ホテルオークラ、ロビー、東京都港区虎ノ門新渡戸稲造記念碑、岩手県盛岡市内丸岩手公園資生堂会館、東京都中央区銀座文京区立鴎外記念本郷図書館、東京都文京区千駄木日夏耿之介詩碑、長野県飯田市通町森鴎外文学碑、北九州市中央公園三菱金属鉱業株式会社大井工場、東京都品川区西品川秩父セメント株式会社熊谷工場、埼玉県熊谷市三ヶ尻1963 永井荷風文学碑、東京都荒川区南千住浄閑寺田邊元墓碑、群馬県吾妻郡長野原町吉川英治墓所、東京都府中市多磨町東京都多磨霊園不二禅堂、東京都渋谷区代々木石井漠「山を登る」記念碑、東京都台東区浅草浅草公園資生堂画廊、東京都中央区銀座大下夫人葬儀、東京都港区南青山東京都青山葬儀所1964 博物館明治村初代館長に就任。展覧会、現代の眼「暮らしの中の日本の美」、国立近代美術館慶應義塾幼稚舎講堂(自尊館)、東京都渋谷区恵比寿名古屋大学古川図書館、名古屋市東山区不老町室生犀星文学碑、金沢市中川除町湘南ヨットハーバー、藤沢市江の島1965 3月18日、博物館明治村開館。東京工業大学教授を定年退官、同大学名誉教授となる。乗泉寺、東京都渋谷区鶯谷町良寛記念館、新潟県出雲崎町正宗白鳥文学碑、長野県北佐久郡軽井沢町尾崎士郎墓所、川崎市多摩区生田春秋苑博物館明治村、犬山市大字内山1966 帝国劇場、ロビー・客席、東京都千代田区丸の内1967 ㈱谷口吉郎建築設計研究所を設立する。明治村茶会運営委員会委員長となり、第1回明治村茶会開催。1968 文化庁文化財保護審議会委員となる。東大寺図書館、奈良市雑司町東京国立博物館東洋館、東京都台東区上野公園淡交ビルヂング、京都市北区紫野宮西町平和塔(ピース・パゴダ)、サンフランシスコ市ポスト街ジャパン・センター日本モンキーセンター栗栖研究所、犬山市犬山官林1969 東京国立近代美術館、東京都千代田区北の丸公園鴎外遺言碑、東京都三鷹市下連雀禅林寺小説徳川家康記念碑、栃木県日光市山内二社一寺入会地文学者之墓、静岡県駿東郡小山町冨士霊園柿傳、畳席、京都新宿区新宿東宝ツインタワービル、東京都千代田区有楽町1970 柿傳、椅子席、東京都新宿区新宿志賀直哉赤城文学碑、群馬県富士見村茶道研修会館、京都市北区第二淡交ビル、京都市北区1971 硫黄島戦没者の碑、東京都小笠原村硫黄島ホテルオークラ・アムステルダム ロビー中山義秀文学碑、成田市成田山公園八王子乗泉寺霊園、東京都八王子市加住町東京會舘、東京都千代田区丸の内清水家墓所、東京都大田区池上本門寺第四高等学校寮歌記念碑(北の都の碑)、金沢市広坂放送功労者顕彰碑(しあわせの像)、東京都渋谷区神南志賀直哉葬儀、京都青山葬儀所1972 河文、水かがみの間、名古屋市中区丸の内ホテルオークラ、久兵衛・山里、東京都港区虎ノ門亀井勝一郎墓碑、東京都多磨霊園1973 文化功労者となり文化勲章を受章。比島戦没者の碑、フィリピン共和国ラグナ州カリラヤホテルオークラ別館、ロビー、東京都港区六本木春日大社収蔵庫(宝物館)、奈良市春日野町石川県立中央公園噴水広場、金沢市広坂吉田富三墓碑・シロネズミの碑、東京都文京区本駒込吉祥寺森鴎外遺言碑、島根県津和野町養老館1974 中部太平洋戦没者の碑、サイパン島迎賓館別館(遊心亭)、東京都港区元赤坂吉屋信子墓碑、鎌倉市長谷高徳院日本学士院会館、東京都台東区上野公園国立飛鳥資料館、奈良県高市郡明日香村佐藤春夫詩碑、東京都港区三田慶應義塾大学新聞創刊の地記念碑、東京都千代田区霞が関1975 山本和夫詩碑、福井県小浜市門前明通寺1979 2月2日、満74歳8ヶ月で永眠。従3位勲1等瑞宝章追贈。(略歴・主要作品年譜 谷口吉郎建築設計研究所作製)

山口文象

没年月日:1978/05/19

RIA建築綜合研究所相談役の建築家、山口文象は、5月19日午後3時15分、東京・大田区の指田直行宅で歓談中に心不全のために急逝した。享年76。山口文象は、本名を瀧蔵、明治35年(1902)1月10日、東京都浅草田町に生れた。父山口勝平は清水組大工棟梁であった。大正4年東京高等工芸学校附属職工徒弟学校木工科に入学し、大正7年卒業、清水組に入る。大正8年名古屋百五銀行現場雇員となり清水組を退職、この頃中条精一郎の訪ね指導をうけた。大正9年逓信省経理局営繕課製図工となり、岩本祿に兄事した。大正10年頃から茶室建築の実測撮影を行い、翌年洋画家の岡田三郎助にデッサンの指導をうけ、このとき猪熊弦一郎らと知りあった。大正12年分離派建築会会員となり、創年社建築会結成創年社第1回展に劇場試作を発表し、本格的な建築活動を開始した。大正13年内務省帝都復興局橋梁課嘱託技師となり大震災後の東京復興にたづさわり、清洲橋、浜離宮正門橋、数寄屋橋、八重洲橋、日本電力庄川ダムなどの建設に関係し、同年分離派第4会展に参加、以後昭和2年第6回展まで参加出品した。大正14年には東大で伊東忠太の講義を聴講し、翌年竹中工務店設計技師となり、また同年、前衛芸術のグループ単位三科の結成に参加した。昭和2年名本喜久治建築事務所主任技師となり、山叶商会、菊池邸などを設計、またこの頃から「新建築における唯物史観」「合理主義反省の要望」など文筆活動を行った。昭和5年(1930)末シベリヤ経由でヨーロッパへ渡り、同7年まで滞在、その間、ベルリンでグロピウスのアトリエのメンバーとなりベルリン工科大学で学び、フランス、イタリア、イギリスなどを歴訪した。帰国後は藤川勇造、アトリエ、仲田菊代アトリエ、小泉八雲記念館、林扶美子邸などを設計、昭和9年山口蚊象建築事務所を設立した。その後、戦前には安井曾太郎アトリエ、青雲荘アパート、荏原製作所病院及び羽田工場、黒部川第2発電所ダム、築地小劇場改装などを設計した。戦後の作品としては、昭和25年久ヶ原教会、明大大学院校舎計画、同28年大日本製糖堺工場、同29年神奈川大学綜合計画、同30年神大3号館、同31年緑成会整育園病院、近鉄建売住宅、同32年日本インターナショナル整流工場、同33年原町市民体育館、同35年美術家会館、同39年新宿副都心計画、同42年新大阪センイシティ、同47年町田市郷土資料館、同50年平安教会、同52年渋川市民会館などがある。また昭和25年には新制作協会建築部会員となり、同28年RIA建築綜合研究所を設立、同35年には前年の作品、朝鮮大学で建築年鑑賞の受賞、同44年には神奈川県建築コンクール賞、大阪府建築コンクール賞をうけた。昭和52年には株式会社RIA建築綜合研究所取締役相談役に就任、同53年5月19日午後3時15分、心筋硬塞のため急逝した。5月21日久ヶ原教会で告別式、6月1日青山葬儀所において葬儀がとりおこなわれた。

西岡楢二郎

没年月日:1978/02/07

法隆寺宮大工西岡楢二郎は、2月7日心不全のため、奈良県北葛城郡の永浜病院で死去した。享年65。大正2年1月20日法隆寺大工西岡楢光の二男として、奈良に生れた。斑鳩尋常高等小学校を卒業、昭和2年4月より同6年10月まで大工見習として、法隆寺塔中寺院の営繕にたずさわった。その後も、法隆寺西院、西室及び三経院の解体修理などを行い、昭和9年より同11年まで現役兵として兵役に服し満州に在った。戦時中は東院、夢殿、南門、絵殿、舎利殿及び北室院、本堂、表門、伝法堂、宗源寺表門、西院精霊院等の解体修理にあたったが、この間しばしば臨時召集により兵役に服し、北支、中支、朝鮮等に派遣された。昭和21年復員後は、再び法隆寺及び各塔中寺院の営繕及び解体修理、復原調査等を担当し、昭和48年11月には古建築修理の功績により奈良県文化賞を授与され、欲49年4月には吉川英治文化賞を受賞した。昭和53年2月勲六等旭日章受勲。

中村順平

没年月日:1977/05/24

建築家中村順平は、5月24日急性じん不全のため横浜市立大学病院で死去した。享年89。明治20年8月29日大阪市北区に生れ、明治40年大阪府立天王寺中学、同43年名古屋高等工業学校建築科を卒業した。東京曾弥中條建築事務所に就職し、旧如水会館、東京大正博覧会会場設計など、大正期の代表的建築設計を手がけた。大正13年フランス国立パリエコールスーペリユールデボザール建築科を修業4ケ年にして卒業、フランス建築士D・P・L・Gの称号を受けた。その後横浜高等工業(現横浜国大工学部)の建築科主任教授として永年建築教育にあたり、昭和34年日本芸術院賞を受賞した。また教育のかたわら客船の船内装飾も手がけ「田丸」「八幡丸」「あるぜんちな丸」などの設計がある。昭和50年日本芸術院会員となる。

山本学治

没年月日:1977/05/20

近代建築史の研究家の工学博士、東京芸術大学美術学部教授の山本学治は、5月20日午後5時5分、急性心不全のため神奈川県川崎市中原区の日本医大附属第二病院で死去した。享年54歳。山本学治は大正12年(1913)2月11日、東京都文京区に生まれ、昭和20年(1945)8月、東京帝国大学第二工学部建築学科を卒業、同時に第2工学部大学院にすすみ、また、同年9月から同24年10月まで文部省特別研究生として「近代建築の技術史的研究」を研究主題として小野薫、関野克両教授の指導をうけた。昭和25年(1950)10月、大学院を修了しまた同24年12月20日東京芸術大学美術学部建築科の文部教官助教授補となり、同26年4月専任講師となった。昭和34年12月、東京芸術大学美術学部助教授、同39年5月教授に昇任したが、その間、建築月刊誌『国際建築』の編集、近代建築史の研究、建築評論で活躍し、昭和37年工学博士号をうけた。昭和49年9月、同50年3~4月にはヨーロッパへ出張、同49年以降50年まで日本建築学会幹事の任にあった。主要な著書に『ミース・ファン・デル・ローエ』(昭和28年、彰国社)、『近代建築史』(共著、昭和33年、彰国社)、『あなたの住宅設計』(共著、昭和35年、池田書店)、『現代建築と技術』(昭和38年、彰国社)、『現代建築十二章』(訳書、昭和40年、鹿島出版会)、『素材と造型の歴史』(昭和41年、鹿島出版会)などがある。また登山家としても知られ、東京芸大山岳部長をつとめたほか、少年向けの著書『もりのめぐり』や、山の歌「ぼくのふるさと」の作詞作曲などがある。

森井健介

没年月日:1976/11/18

建築学者、日本建築学会名誉会員森井健介は、11月18日午後3時2分脳軟化症のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年88。明治20(1887)年12月23日東京市小石川区で生まれ、同44年東京帝国大学工科大学建築科を卒業、同年早稲田大学理工学部講師となり、大正3年10月東京美術学校教授に就任、昭和19年6月まで教鞭をとった。昭和25年から同32年までは法政大学教授をつとめ、その後もひきつづき同大学講師のほかその他の機関で教えた。その間、大正6年からと同9年から各2ヶ年日本建築学会理事として、昭和3年から同16年までは同会管事として同会の運営に尽力、同36年日本建築学会名誉会員に推挙された。また、宮内省内匠寮臨時蟻害調査事務嘱託(大正3年10月―同9年12月)、日本工学会事務嘱託(昭和5年1月―同9年12月)もつとめた。専門の建築学のほか、幅広い活動の中には関西地方風水害対策委員会委員なども含まれる。

岡田捷五郎

没年月日:1976/10/02

東京芸術大学名誉教授、建築家の岡田捷五郎は、10月2日午前5時30分、急性肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去した。享年81。岡田捷五郎は、号を蕉巴(しょうは)、明治27(1894)年11月24日、東京市牛込区に生まれ、大正2年早稲田中学校卒業、同4年4月東京美術学校図案科第2部(建築科)に入学、9(1910)年3月卒業、卒業制作によって日本美術協会より銅牌をうけた。大正9年3月~11月滝川工務店に勤務して建築設計に従事したが同年12月~11年11月まで赤羽工兵第一大隊に服務、除隊後は、兄岡田信一郎の建築設計事務所で設計を担当、大正13年11月から同15年1月まで建築視察のためヨーロッパ、アメリカを歴遊した。帰国後も岡田信一郎事務所において設計監理に従事し、一方、昭和2年(1927)6月から母校の東京美術学校建築科講師となり後進を指導、同18年5月には同校教授となった。また、昭和5年6月から11月には北アメリカ、カナダの各地を視察旅行し、昭和7年兄信一郎没し、そのあとをうけて建築設計事務所を自営した。昭和24年6月、東京芸術大学教授、37年3月停年のため退職、名誉教授となった。退職後は、南建設株式会社相談役、信建築事務所顧問、日本建築士会理事、及び理事長などをつとめた。昭和39年7月建設大臣より表彰状並びに銀盃、同40年11月には勲三等瑞宝章をうけ、没後、正五位に叙せられた。 設計監理に当った主なる作品に、銀座伊東屋、明治生命保険会社本社々屋、黒田清輝記念館(以上、兄信一郎設計に協力)、琵琶湖ホテル、高千穂ビル、京都田付商店、太陽生命保険会社京都支社、日本出版クラブ、旺文社本館などがある。

伊藤平左エ門

没年月日:1976/02/03

慶長年間から300余年続く宮大工の当主伊藤平左エ門は、2月3日午後9時5分、脳血栓のため名古屋市の岡山病院で死去した。享年80。旧名次郎、諱正道。明治28(1985)年4月22日、伊藤満作の次男として名古屋市に生まれ、愛知県立第一中学校を経て、大正6(1917)年3月名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)建築科卒業、大正11年1月、十一代目伊藤平左エ門を襲名、社寺建築請負の家業を継いだ。昭和3年1月より約2ヶ月間、タイ及びインドの仏蹟を巡歴した。昭和26年11月一級建築士免許、昭和45年11月勲五等に叙し瑞宝章を授けられた。 伝統的手法による社寺建築の造営に従事し、寺院建築では設計施工121棟、設計3棟、施工10棟、神社建築では設計施工77棟、設計7棟、施工17棟、その他の建物5棟、物件18を数え、主要作品としては、昭和元年の兵庫・円教寺摩尼殿、同4年の東京・青松寺本堂、同10年の京都・金戒光明寺の大方丈ほか4件、同年の千葉・新勝寺内仏殿と書院、同28年の米国ニューヨーク近代美術館内の古典住宅、同32年の島根・出雲大社拝殿がある。なお論文、著書としては、「ポロンナルワの仏教建築」(東洋美術第12冊、昭和4年)、「★羅古代法輪に就いての考察」(東洋美術第11号、昭和6年)、「建築の儀式」(彰国社、昭和34年)、「古建築秘話」(鳳山社、昭和37年)、「宮大工十話」(毎日新聞社、昭和40年)を挙げることができる。

西岡楢光

没年月日:1975/03/12

法隆寺大工棟梁西岡楢光は、3月12日老衰のため、奈良県生駒郡の自宅で死去した。享年90歳。昭和9年から20年間かかりで行われた五重塔、金堂など法隆寺の「昭和の大修理」の大工棟梁を務めるなど宮大工一筋に生きた。昭和30年紫綬褒章、同40年には勲四等瑞宝章を受章、昭和49年3月、後継者の長男常一、二男楢二郎とともに「宮大工一家」として吉川英治賞を受賞した。

金剛よしゑ

没年月日:1975/03/08

宮大工金剛組38代目の女棟梁であった金剛よしゑは、3月8日、老衰のため死去した。享年80歳。金剛よしゑは明治27年(1894)5月25日、京都府福知山市に生まれ、明治42年3月京都府天田郡立高等小学校を卒業、大正6年(1917)9月、金剛組37代金剛治一と結婚。昭和7年(1932)9月金剛治一死去後は、38代をついで1000年以上つづいている宮大工金剛組当主となって組を守り、昭和9年(1934)の第1次室戸台風で倒れた大坂四天王寺五重塔再建で話題をよんだ。そのほかにも、四天王寺金堂・西大門を再建、旧水戸藩偕楽園好文亭復元、水戸弘道館修復、旧江戸城田安・清水門復元、永平寺鐘楼復元、大阪奈良の護国神社新築、東本願寺天満院建立、那智山青岸渡寺三重塔建立などの仕事を手がけた。その生涯はテレビ・ドラマ化されたが、晩年は戦没者慰霊のため千巻の写経を完成させた。

内田祥三

没年月日:1972/12/14

文化勲章受章者、日本学士院会員、元東大総長、工学博士内田祥三は12月14日急性肺炎にため赤坂山王病院で死去した。享年87才。東京都江東区出身。1907年(明治40)に東京帝大工科大学建築学科卒業後、1911年より同大学講師。1921年には教授になり1943年3月から45年12月まで総長に就任。戦後は文化財保護委員を勤め、1972年11月に文化勲章を受賞した。1910年前後から学究生活に入るが、その当時までの石造や練瓦造りの建築に対して鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造が日本に移入される時期であったので、防水・防震、構造としての鉄筋コンクリートを基本とする近代都市建築の基礎づくりに貢献した。都市計画法、市街地建築物法の制定にも功績があり、戦時中から戦後にかけての防火建築の研究も都市防火の進歩につくすものが大きかった。関東大震災後の東大安田講堂附属病院、図書館、といちょう並木の建築群および東京海上ビルの設計者でもあった。

剣持昤

没年月日:1972/07/29

建築家・和光大学助教授剣持昤は7月29日オーストリアのグラーツで交通事故のため死去。享年34才。1938年4月9日、デザイナーの剣持勇を父として仙台市東北医学部附属病院で生れた。1961年東京大学工学部建築学科卒、同63年大学院修士課程修了。65年6月総建築研究所(株)設立所長。66年東京大学院博士課程修了(工学博士)。和光大学助教授アメリカン・フットボール部顧間、和光学園評議員を兼ねる。同年一級建築士資格取得。68年9月ISO・TC59の1968年度定例会議に日本建築学会より派遣され出席。72年6月ヨーロッパ諸国における工業化発展事情の視察および業務打ち合せのためヨーロッパ滞在日程の最終日に上記の事故に遭った。独自の建築生産工業化理論に基き、新しい規格構成材および建築構成システムの研究開発ならびに種々の情報活動を通じて、新しい建築家としての活躍を行っていた。

佐藤武夫

没年月日:1972/04/11

元日本建築学会長、佐藤武夫設計事務所長、工学博士佐藤武夫は肺結核のため4月11日東京聖路加国際病院で死去した。享年72才。名古屋市出身。1922年(大正13)早稲田大学理工学部建築学科卒業。ただちに早稲田大学に教鞭をとり、1937年から1951年まで教授。1930年より1948年まで日本女子大教授として建築計画、設計、建築音響学を担当。1957年より58年まで日本建築学会長。他に日本建築士会連合会、東京建築士会、日本音響学会、日本建築家協会各理事を歴任。1969年建築美術工業協会の設立に尽力し、建築と美術、工業との協力関係の向上に貢献。1935「オーディトリアムの音響設計に関する研究」により工学博士を与えられた。建築作品には日比谷公会堂、早大大隈講堂、旭川市庁舎、ホテル・ニュージャパン、福岡県文化会館、水戸市庁舎、北海道開拓記念館等々で画家、彫刻家、工芸家との協力を積極的に実践してきた。その業績によって1967年日本芸術院賞を受賞。

内藤多仲

没年月日:1970/08/25

早大名誉教授、学士院会員の建築家内藤多仲は、8月25日老衰のため新宿の国立第一病院で死去した。享年84歳。山梨県出身で、明治43年東大工学部卒業後、明治45年から昭和31年まで早大教授をつとめた。この間、耐震建築構造の設計方式を確立し、地震工学の世界的権威といわれる。東京タワー、通天閣など各地のテレビ塔60基や、歌舞伎座、旧日本興業銀行ビルなどを設計した。関東大震災にも同氏の設計した歌舞伎座などのビルは、殆ど被害がなく、理論の正しさを実証した。日本建築学会長を二度にわたりつとめ、昭和37年文化功労者、同39年勲二等旭日重光章を受けた。

藤原義一

没年月日:1969/12/10

元京都工芸繊維大学教授藤原義一は12月10日脳軟化症のため京都市左京区の自宅で死去した。享年71才。多年にわたる古建築の研究とその保存修理、および管理事業に力をつくし、功績があった。明治31年3月21日神戸市で生まれた。大正14年第三高等学校理科卒業、ついで昭和3年京都帝大工学部建築科卒業、昭和5年同大学院終了。昭和4年9月神戸高等工業学校講師、10月同志社女学校専門部講師、5年より12年3月まで京都帝大講師。15年5月京都絵画専門学校教授。16年4月京都市技師。19年4月彦根工業専門学校教授。21年2月工学博士の学位を授与される。23年3月京都工業専門学校教授。24年3月から36年まで京都工芸繊維大学教授。37年より42年まで近畿大学教授。主要著書「日本建築史」(天沼後一と共著、昭和8年誠文堂)「京都の古建築」(昭和19年桑名文星堂)「日本古建築図録」上下(昭和22年星野書店)

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