水谷勇夫
美術家の水谷勇夫は6月5日午後6時29分、腹部大動脈瘤破裂のため愛知県半田市の病院で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日名古屋市の果物商の家に生まれる。独学で絵を学び、1942(昭和17)年電信第10連隊に入隊して中国へ赴き、そこでの不条理な戦争体験を契機に人間をテーマとした制作を決意。46年の復員後は闇屋をしながら絵を描き、50~51年新制作協会の名古屋グループ、52~54年美術文化協会に所属。55年には匹亜会を結成するも翌年には退会。58年の村松画廊での初個展以降、数々の個展発表にくわえて読売アンデパンダン展や毎日新聞社主催の現代日本美術展に出品、「超現実主義の展開」展(東京国立近代美術館 60年)、「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館 64年)、「国際超現実主義展」(オランダ・ユトレヒト市、64年)といった企画展への出品も多く、また針生一郎企画による第1回「これが日本画だ!」展(日本画廊 66年)、翌年の第2回展への出品は、戦後日本画の改革者としてのイメージを定着させた。その一方で60年に土方巽の舞台美術を手がけ、土方や大野一雄といった舞踊家と親交を結ぶなど幅広い活動を展開。65年には長良川河畔で開催された「岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバル」で土俗的なテラコッタ作品を発表、70年代には公害を含めた人間社会の危機を意識し、テラコッタ作品を四日市コンビナートや海岸、山村等に置く行動芸術「玄海遍路」を始める。80年代には真冬に雪の山中に入り、紙に胡粉と墨を流して自然の冷気で凍結させる“凍結絵画”を制作。1993(平成5)年名古屋市芸術賞特賞を受賞し、これを記念して翌年『水谷勇夫作品集』を刊行。98年には池田20世紀美術館で「水谷勇夫 50年の造形の軌跡 終りから始りから」が開催。2000年には体の不調もあり愛知県阿久比町のケアハウスに居を移すも、同施設を制作の拠点として最期まで精力的に活動を続けた。
出 典:『日本美術年鑑』平成18年版(387-388頁)登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「水谷勇夫」『日本美術年鑑』平成18年版(387-388頁)
例)「水谷勇夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28333.html(閲覧日 2024-12-14)
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