本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大江宏

没年月日:1989/03/03

日本芸術員会員、法政大学工学部名誉教授の建築家大江宏は、3月3日午前11時25分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年75。大正2(1913)年6月14日、建築家大江新太郎を父に秋田市に生まれる。昭和13(1938)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同15年三菱地所建築部技師となり、21年大江新太郎建築事務所を継承する。同23年法政大学工業専門学校教授、25年法政大学教授となり、28年同大学大学院の設計を行なったのを皮切りに、30年には同大55年館、33年には58年館、37年には62年館と、法政大学ならびにその関係施設の建築設計を行ないインターナショナル・スタイルの一連の作例を発表。43年には、窓により大幅に外光を取り入れた普連土学園、53年には和洋を折衷させた角館伝承館、58年には日本の伝統建築を新しい時代の要請の中で生かした国立能楽堂を設計し、多様な中にも独創的な個性を感じさせる作家とされた。法政大学校舎で昭和33年度日本建築学会賞および34年度文部大臣賞芸術選奨を受け、35年建築業協会賞、49年毎日芸術賞、56年丸亀武道館で日本芸術院賞、60年国立能楽堂で再度建築業協会賞を受賞。同年日本芸術院会員となる。63年日本建築学大賞を受賞。64年の三渓記念館、大塚文庫の設計が最後の仕事となった。著書に『建築を教えるものと学ぶもの』(昭和55年、鹿島出版会)、『新建築学大系・第一巻・建築概論』(同57年、彰国社)、『歴史意匠論』(同59年、南洋堂)などがある。(なお、作品歴、作風については「建築文化」6に詳しい。)

横山不学

没年月日:1989/03/01

東京文化会館などの設計にたずさわった構造設計家横山不学は、3月1日午前5時14分、肺炎のため東京都新宿区の東京厚生年金病院で死去した。享年86。明治35(1902)年5月22日、東京都文京区に生まれ、昭和3(1928)年3月、東京大学工学部建築学科を卒業。同年4月より13年5月まで日本銀行臨時建築部技師、13年5月より17年6月まで東京市建築部技師、17年6月より20年11月まで内閣技術院参技官をつとめる。戦後は20年11月より23年3月まで戦災復興院計画局技官、のち特許標準局(23年3~8月)、工業技術庁(23年8月~25年1月)を経て、同25年1月に独立し、横山建築構造設計事務所を開設し、その所長となった。東京大学での同級生であった前川国男と組み、東京文化会館、東京海上火災本社ビル、東京都美術館、熊本県立美術館、国立西洋美術館、山梨県立美術館などの構造設計を担当したほか、町田市立国際版画美術館、水戸芸術館の設計にもたずさわった。この間、昭和36年「建築構造設計技術の推進」によって日本建築学会賞受賞。著書に『建築構造設計論:理念の追求と展開』(昭和54年)、『建築構造設計論:世界のランドマークを求めて』(同56年)、『遥かなる身と心の遍歴を求めて』(同57年)などがある。公共建築、特に美術館などの文化事業を目的とする建築の設計に多く参画した。晩年は絵画に興味を抱き、竹林会等に出品している。時に暁と号した。

鄭詔文

没年月日:1989/02/23

美術品蒐集家、財団法人高麗美術館理事長の鄭詔文は、2月23日午後2時、肝不全のため京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年70。大正7(1918)年11月2日、朝鮮半島慶尚北道に生まれる。同14年、両親と共に来日。働きながら小学校を卒業し、戦後、飲食店などを経営する一方、朝鮮半島の美術品を蒐集。また、昭和44年から56年まで朝鮮文化社から季刊雑誌「日本の中の朝鮮文化」を刊行した。同63年10月25日、蒐集した高麗青磁、李朝白磁などの陶磁器、仏像、書画、家具など1700点あまりを所蔵する高麗美術館を自宅のあった京都市北区紫竹上ノ岸町15に設立し、財団法人とした。在日韓国人一世としての自己の体験から、美術品を通して故国の文化を理解、顕彰し広く共感を分かとうとしたもので、朝鮮考古・美術の調査、研究もあわせて行ないたいとの遺志を汲んで、現在は「高麗美術研究所」があわせて設立されている。

那須良輔

没年月日:1989/02/22

痛烈な風刺のきいた政治漫画で近藤日出造、清水崑と並び称された日本漫画家協会会員、日本ペンクラブ会員の那須良輔は、2月22日午後1時、ぼうこうガンのため神奈川県の自宅で死去した。享年75。大正2(1913)年4月15日、熊本県球磨郡に生まれる。中学校在学中に洋画家を志し、上京して太平洋美術学校に学ぶ。同校卒業後、昭和9(1934)年講談社刊行の雑誌「日本少年」に「のんきな殿様」を発表して漫画家としてデビュー。新漫画派集団に所属し、昭和15年、近藤日出造の主宰する漫画誌「漫画」に執筆し始め、この頃から政治漫画に筆を染める。戦中は参謀本部の秘密機関の大田天橋の下で嘱託として外地向けの漫画謀略のビラを描くなどの仕事に従事し、同19年出征地より帰国。同25年より毎日新聞の嘱託となって政治漫画を担当。国会記者席からオペラグラスを使って議員、政治家の写生を行ない、洋画修学を基礎とした巧な似顔絵を用いて動感ある溌刺たる画風に鋭い批判、風刺をこめた。同33年にロンドンで開催された第1回国際政治漫画展に出品し、国際的にも認められる。主な政治漫画集の著作に『吉田から岸へ』(昭和34年、毎日新聞社)、『漫画家生活50年』(同61年、平凡社)などがある。また、水墨画、随筆もよくし、諷刺随筆『魚眼レンズ』(同42年、雪華社)、『かまくら素描』(同51年、かまくら春秋社)、『釣り春秋』(同53年、大陸書房)などを著した。

原田新八郎

没年月日:1989/02/09

日展会員、日本彫刻会会員の彫刻家原田新八郎は、2月9日午後3時5分、肝不全のため福岡市中央区の浜の町病院で死去した。享年72。大正5(1916)年11月22日福岡県糸島郡に生まれる。昭和9(1934)年東京美術学校彫刻科本課に入学し、在学中の同13年第2回新文展に「若い女」で初入選。以後官展に出品。また、構造社にも参加して斎藤素巌に師事した。同14年東美校を卒業。翌15年の紀元2600年奉祝展に「若き時代」で入選する。同17年8月、東京府立青年学校教諭となる。戦後は郷里福岡に住んで同21年秋の第2回日展から日展への出品を続け、同31年第12回日展に「働く人」を出品して特選、翌32年同展に無鑑査出品した「漁婦」で再度特選を受賞。同35年第3回新日展に「漁婦」を出品して菊華賞を受け、同38年日展会員となる。美術教育にもたずさわり、同28年5月より福岡教育大学講師をつとめ、同37年10月同大助教授、46年7月同大教授となった。同51年福岡教育大学附属中学校校長に就任し、同55年に退官した後、私立近畿大学で教鞭をとった。同41年3月、及び同50年3月に行なわれた福岡博覧会に大作を出品するなど郷里の文化活動に積極的に参加し、同60年福岡市文化賞を受賞する。ブロンズ像を得意とし、労働にいそしむ人の姿など、人生に真摯に向かう人体像を多く制作した。 日展出品歴第2回新文展(昭和13年)「若い女」、紀元2600年奉祝展(同15年)「若き時代」、第5回新文展(同17年)「若き男」、6回「男」、第2回日展(同21年)「布を洗ふ女」、3回「憩へる女」、4回「青年の碑試作」、5回不出品、6回「或る首像」、7回「女」、8回「憩える人」、9回「海女」、10回(同29年)「海女」、11回「語る人」、12回「働く人」(特選)、13回「漁婦」(特選)、第1回新日展(同33年)「午後の陽」、(以下略歴)、5回(同37年)「土の音」、10回(同42年)「筑紫路の人」、第1回改組日展(同44年「憩う人」、5回(同48年)「旅をする人」、10回(同53年)「此処に人あり」、15回(同58年)「野火雲」、20回(同63年)「青い星」

手塚治虫

没年月日:1989/02/09

「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」などで日本の漫画史に大きな足跡を残した手塚治虫は2月9日午前10時50分、胃ガンのため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年60。昭和3(1928)年11月3日、大阪市に生まれる。本名治。同10年、大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学附属池田小学校)に入学。田河水泡の漫画を好むとともに昆虫に興味を持ち、オサムシという名の虫を知ったことから、同14年頃から「治虫」のペンネームを用いる。同16年同小学校を卒業して大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学。美術班と地歴班に属し、昆虫を題材にした漫画など、好んで漫画を描く。同20年北野中学を卒業して大阪大学附属医学専門部に入学。同年敗戦色の濃い中で映画「桃太郎海の神兵」を見、子供向け漫画映画の制作を志す。同21年『少国民新聞関西版』に4コマ漫画「マアチャンの日記帳」を連載し始め漫画家としてデビュー。翌22年酒井七馬原作の長編漫画『新宝島』を刊行し40万部を売りつくす。翌23年単行本『ロスト・ワールド』宇宙編及び地球編を刊行。同25年『漫画少年』に「ジャングル大帝」を連載し始め、同年から毎日放送で「手塚治虫アワー」が連続放送されて放送界をも活動の場とするようになる。また同年島田啓三を中心に馬場のぼるらが東京児童漫画会(児漫長屋)を結成すると同会に参加する。同26年大阪大学医学部専門部を卒業。翌年医師国家試験に合格したのち上京して本格的な制作活動に入る。同年より「鉄腕アトム」を、翌年より「リボンの騎士」を描き始め、爆発的人気を博す。同33年「びいこちゃん」「漫画生物学」で第3回小学館漫画賞受賞。同34年3月からフジテレビで「鉄腕アトム」がドラマ化され放映される。同35年頃自作の停滞感から一時漫画を離れ奈良県立医科大学で医学研究に従事し、36年1月「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位を取得。同年6月、手塚治虫プロダクション動画部を設立、翌年虫プロダクションと改称して「鉄腕アトム」のアニメーション・フィルムの制作を開始する。同38年国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」のテレビ放映が開始され、高視聴率をあげ、同年アメリカでも放映される。この作品は以後、英、仏、独、オーストラリア、台湾、香港、タイ、フィリピンなどでも放映され、国際的に広く知られるところとなった。また同年、前年に完成した手塚治虫原案、構成の映画「ある街角の物語」で第17回芸術祭奨励賞、第13回ブルーリボン教育文化映画賞受賞。同40年国産初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」の放映が開始される。翌41年「ジャングル大帝」で厚生大臣児童福祉文化賞受賞。同年12月、雑誌『COM』が創刊され、同誌に「火の鳥」の連載を開始。その後も、同42年「展覧会の絵」で芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞、劇場版「ジャングル大帝」でベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞及びアジア映画祭特別部門賞、同45年「やさしいライオン」で児童福祉文化賞、同50年「ブラック・ジャック」で日本漫画家協会賞特別優秀賞、同55年「火の鳥2772」でサンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞、ラスベガス映画祭動画部門賞など次々と漫画、動画の優作を生み出して受賞を続け、「鉄腕アトム」では同40年に厚生大臣による表彰を受けたほか、同60年には東京都民栄誉章受章、同63年、戦後漫画とアニメ界における創造的な業績によって朝日賞を受賞した。戯画、カリカチュアの流れをひく大人向けの漫画に対して子供を対象とする空想、物語の世界を表わした子供漫画の領域を確立し、動感あふれる描法、一貫した物語を追う長編物を打ち出すなど新たな試みを行なって、今日に至るテレビ、映画のアニメーション漫画の隆盛を導いた。没後、漫画家としては初めての公立美術館での個展として東京国立近代美術館で「手塚治虫展」(平成元年7月)が開かれた。(年譜、事蹟、作品刊行などの資料は同展図録に詳しい。)

小林行雄

没年月日:1989/02/02

京都大学名誉教授の考古学者小林行雄は、2月2日結腸がんのため京都市左京区の吉川病院で死去した。享年77。古鏡研究の権威として知られ、考古学における弥生時代の学問的基礎を確立し、古墳時代研究の基礎を築いた小林行雄は、明治44(1911)年8月神戸市に生まれた。昭和7年神戸高等工業学校建築科(現神戸大工学部)を卒業。在学中から考古学に強く関心をもち、卒業後も独自の調査と研究を進め、京都大学考古学講座の浜田耕作教授に発表論文を認められ、同10年同大学考古学教室の助手に任用された。同14年、『弥生式土器聚成図録』を刊行、膨大な資料を整理、体系化する学問的方法論によった同書で、弥生文化研究の基礎を確立した。同年、田村実造の下で内蒙古ワールインマンハで遼の三皇帝陵『慶陵』の調査に従事し、その報告書『慶陵』で昭和28年度朝日賞、翌29年日本学士院賞恩賜賞を受賞した。同30年、古墳に埋葬された同范鏡、とくに全国から出土する三角縁神獣鏡の分布整理により、古墳の成立、発展を具体的に実証し、古墳時代初めに既に畿内を中心とした広範な政治体制が成立していたことを解明した。この学説は、その後の邪馬台国論争において、邪馬台国畿内説の最大の論拠として用いられた。京都大学では、長く講師の職におり、退官前年の昭和49年教授となった。また、文化財保護審議会専門委員(考古部会長)などを歴任する。著書は他に、『図説考古学辞典』(共著)、『日本考古学概説』など多数がある。

大久保泰

没年月日:1989/01/29

洋画家で美術評論家の大久保泰は1月29日午後11時10分、再生不良性貧血のため東京都渋谷区の都立広尾病院で死去した。享年83。明治38(1905)年3月28日、愛知県豊橋市に生まれる。本名泰。父が原富岡製絲所に勤務しており、原富太郎の感化で与謝野鉄幹・晶子、島崎藤村、山本鼎らと交遊があった関係で、少年期から文学、美術に興味を抱き、山本鼎に油絵の指導を受ける。大正12(1923)年早稲田第一高等学校に入学し、昭和3(1928)年早稲田大学商学部を卒業。同6年から7年にかけて欧米に渡り、ロンドンで野口弥太郎を知り、のち兄事する。帰国後は児島善三郎にも兄事する。同11年第11回国画会展に「静物」で初入選。翌12年第15回春陽会展に「少女」で初入選し、同14年より独立展へ出品を続ける。同16年、ギリシア彫刻に関する随筆『古式の笑』が春鳥会から刊行され、文筆家としても注目される。同22年第15回独立展に「子供」「黒い羽織」「少女」を出品して独立賞を受賞、24年第17回同展では「裸婦」で岡田賞を受け、25年同会会員となる。同27年新樹会会員となり、同31年まで出品。同38年より同志とレアリテ展を毎年開催する。39年より隔年ごとに渡欧し、フランス、スペイン、イタリアなどの風景を多く描いた。明快な色調、軽妙な筆致を特色とする。文筆活動においても、現代美術随想集『空しき花束』(昭和23年、講談社)、『デュフィの歌』(同24年、毎日新聞社)、『ゴーギャン』(同年、アトリエ社)、『西洋名画の話』(同26年、美術出版社)、『近代絵画の話』(同27年、宝文館)、『宿命の画家達』(同年、中央公論社)、『絵の歴史2』(同28年、美術出版社)、『ファン・ゴッホ フィンセント』(同51年、日動選書)のほか、講談社のアート・ブックス・シリーズの『ゴッホ』『ゴーギャン』『デュフィ』等、後期印象派の画家たちの巻を執筆、西洋近代画家たちを広く世に知らせるとともに、それらの知識にもとづく現代美術評論を行なった。昭和62年「ヨーロッパの輝きと陰り 大久保泰展」(日動サロン)が開かれ、生前最後の個展となった。(年譜は同展目録に詳しい。)

砂澤ビッキ

没年月日:1989/01/25

自然や生命を主題に独創的な活動を続けた木彫家砂澤ビッキは、1月25日午後9時21分、大腸ガン骨髄転移のため札幌市中央区の愛育病院で死去した。享年57。郷里北海道を拠点とし、その自然に執着を抱き続けた砂澤は、昭和6(1931)年3月6日、北海道旭川市近文の近文アイヌのエカシ(長老)の一族として旭川市に生まれた。本名恒雄。アイヌ文化の伝承に積極的に参加していた両親のもとで幼少期から木彫に親しみ、高校卒業後、同27年に上京して作家渋沢龍彦やマンガ家石川球太らと親交しつつ独学で彫刻を学ぶ。同30年第7回読売アンデパンダン展に「夜の動物」「うめき声」を出品。同32年第7回モダンアート展に「もず」「月蝕」「農夫」で初入選し、翌33年第8回同展に「動物」「小動物」「ATAMA2」「動物2」を出品して新人賞受賞。同35年同会会友となる。また、同年第1回集団現代彫刻展にも出品する。同37年モダンアート協会会員となるが同39年には退会して、同42年札幌に帰り独自の制作活動に入った。同53年には札幌から中川郡音威子府村筬島に移住し、小学校の廃校を制作の場とする。翌54年から音威子府中央公民館で「樹を語り作品展」を開催し、没年の第11回展まで毎年出品。同58年、北海道美術派遣員としてカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州に渡り、カナダの大自然の中で意欲的に制作。同地で異色作家として注目されImages of British Columbia展を開催した。個展を中心に作品を公にし、同37年の第1回個展から同39年までは、“ANIMAL”を主題に、同40年から50年代にかけては、“TENTACLE”を主題として追求。動物の生態、木の触感の研究は、カナダ渡航を機にさらに展開し、季節や風、大気の生命感を木彫にあらわす作品が登場した。北海道現代美術展(同53~57年)、北海道の美術展(同59、61、63年)のほか、「現代彫刻の歩み“木の造形”展」(神奈川県立県民ホール、同60年)など、企画展にも多く出品している。同63年10月から入院療養中であったが、翌年1月21日から開かれる「上野憲男・砂澤ビッキ・吹田文明展」(神奈川県立県民ホール・ギャラリー)のための制作、準備に自ら当たった。同年、第11回「樹を語り作品展-砂澤ビッキ遺作展」が音威子府公民館で行なわれている。また、用美社から『砂澤ビッキ作品集』(1989年)、『砂澤ビッキ素描 北の女』(1990年)が刊行された。

西山英雄

没年月日:1989/01/21

日本芸術院会員の日本画家西山英雄は、脳出血のため1月21日午前5時55分、京都市下京区の武田病院で死去した。享年77。明治44年(1911)5月7日、京都市伏見の袋物問屋の長男として生まれる。14歳の時、伯父西山翠嶂に入門し、その画塾青甲社で学ぶ。京都市立絵画専門学校に入学し、在学中の昭和6年第12回帝展に「静物」が初入選。9年第15回帝展で「港」が特選となるなど、頭角を現わす。11年京都市立絵画専門学校を卒業し、以後も官展に出品、次第に風景画を多く手がけるようになる。14年第3回新文展「雪嶺」、18年同第6回「薄暮」などを出品したのち、戦後、22年第3回日展で「比良薄雪」が再び特選となった。25年第6回日展「桜島」、32年同第13回「岩」などを発表し、33年第1回新日展で「裏磐梯」が文部大臣賞を受賞。力強く壮大な構想力の山岳風景を描く”山の画家”として知られた。35年中国に旅行し、同年の第3回新日展に「天壇」を出品、翌36年これにより日本芸術院賞を受賞する。古城シリーズも発表し、また晩年は活火山をスケッチして巡り、51年第8回改組日展「薩摩」、55年同第12回「阿蘇颪」などを発表した。33年日展評議員、44年同理事、54年参事、60年常務理事となっている。この間、29年から44年まで京都学芸大学(現京都教育大学)教授、47年から52年まで金沢美術工芸大学教授(のち名誉教授)として、後進の育成にあたった。また、青甲社幹部をつとめていたが、33年翠嶂の死去に際してはこれを継がず、青甲社は解散となった。49年京都市文化功労者、55年日本芸術院会員となり、60年京都府特別文化功労賞を受賞する。このほか、48年、読売新聞に連載された司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」の挿画約200点による「挿画原画展」を開催している。画集に『西山英雄画集』(57年)、著書に『日本画入門』がある。 帝展・新文展・日展出品歴 昭和6年 第12回帝展 静物昭和8年 第14回帝展 曇日昭和9年 第15回帝展 港(特選)昭和11年 文展監査展 廃船昭和12年 第1回新文展 内海風景昭和14年 第3回新文展 雪嶺昭和15年 2600年奉祝展 駱駝昭和16年 第4回新文展 火山の夕昭和17年 第5回新文展 征馬昭和18年 第6回新文展 薄暮昭和21年 第2回日展 聖丘昭和22年 第3回日展 比良薄雪(特選)昭和23年 第4回日展 海潮(委嘱)昭和24年 第5回日展 霞澤岳(委嘱)昭和25年 第6回日展 桜島(審査員)昭和26年 第7回日展 室戸(審査員)昭和27年 第8回日展 夕映(委嘱)昭和28年 第9回日展 山湖(委嘱)昭和29年 第10回日展 外海府(審査員)昭和30年 第11回日展 桜島昭和31年 第12回日展 剣岳(委嘱)昭和32年 第13回日展 岩(審査員)昭和33年 第1回新日展 裏磐梯(文部大臣賞、評議員)昭和34年 第2回新日展 桜島(評議員)昭和35年 第3回新日展 天壇(評議員、審査員)昭和36年 第4回新日展 聖堂の月(評議員)昭和37年 第5回新日展 火山島(評議員、審査員)昭和38年 第6回新日展 アクロポリスの丘(評議員)昭和39年 第7回新日展 剣(評議員)昭和40年 第8回新日展 朝映桜島(評議員)昭和41年 第9回新日展 九竜壁(評議員)昭和42年 第10回新日展 磐梯(評議員)昭和43年 第11回新日展 桜島朝暉(評議員、審査員)昭和44年 第1回改組日展 ペンニヤの丘(理事、審査員)昭和45年 第2回改組日展 富士西湖(理事)昭和46年 第3回改組日展 さい果て(審査員)昭和47年 第4回改組日展 樹林富士昭和48年 第5回改組日展 エアーヅ・ロック(理事、審査員)昭和49年 第6回改組日展 グランドキャニオン(理事)昭和50年 第7回改組日展 白夜(理事、審査員)昭和51年 第8回改組日展 薩摩(理事)昭和52年 第9回改組日展 曜(理事、審査員)昭和53年 第10回改組日展 薩摩雪(理事、審査員)昭和54年 第11回改組日展 野火(参事、審査員)昭和55年 第12回改組日展 阿蘇颪(参事)昭和56年 第13回改組日展 火焰山(理事、審査員)昭和57年 第14回改組日展 残照(理事)昭和59年 第16回改組日展 室戸(理事)昭和60年 第17回改組日展 噴炎(理事、審査員)昭和61年 第18回改組日展 あける桜島(理事)昭和62年 第19回改組日展 雷鳴紫禁城(理事、審査員)昭和63年 第20回改組日展 桜島と連絡船(理事)

岡周末

没年月日:1989/01/12

熊本大学名誉教授、モダンアート協会会員の洋画家、美術教育者の岡周末は、1月12日心不全のため熊本県下益城郡城南町の城南病院で死去した。享年80。明治41(1908)年1月16日、熊本県菊池郡隈府町で生まれた。昭和6年東京美術学校西洋画科を卒業後、鹿児島県第一師範学校教諭に赴任し、同20年熊本県第一師範学校に転じた。同24年新制大学発足に伴い熊本大学教育学部助教授となり、同28年教授となった。同48年同大学を定年退官するまでの間、美術教育に携わったほか、教育学部長(同44~47年)、学長事務代理(同45年)などの要職を歴任した。制作活動においては、昭和7年第13回帝展に入選したのをはじめ、翌8年から同14年までは光風会展、同15年から26年までは独立美術展に出品したのち、同27年からはモダンアートに制作発表を行い、同34年モダンアート協会会員となった。主要作品としては、熊本県立美術館所蔵の「機」「兆」「律」がある。

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