本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
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没年月日:1981/03/23 振りや衣裳に重点を置いた「衣裳人形」の現代化に取り組んだ人間国宝平田郷陽は、3月23日午後1時10分、脳血せんのため東京都文京区の都立駒込病院で死去した。享年77。1903(明治26)年11月25日、伝統的な「活き人形」(等身大の似顔人形)の名工として知られた初代平田郷陽(恒次郎)の長男として、東京浅草に生まれる。本名は恒雄。田原町小学校を卒業後、父に人形制作を学び、父が没した24(大正13)年に二代目郷陽を襲名した。その後、等身大のマネキン人形を作るかたわら、雛人形などの制作に従事したが、28年、久保佐四郎、岡本玉水ら創作人形制作への意欲を持った同志と白沢会を結成、同会の展覧会に「島原の太夫」「髪」(共に33年)など徹底的な写実に基づく作品を発表した。35(昭和10)年には白沢会を解散して新たに日本人形社を創立、商品としての人形から、人形の芸術的発展を目指した活動を展開する。こうした世上の動きを反映して、人形の出品が認められた36年の改組第1回帝展に、「桜梅の少将」が初入選し、以後、文展、日本人形社展に出品する。この間、38年童人舎人形塾を開設して門下生の指導・育成をはじめ、また、37年には岡本玉水と京城へ旅行して朝鮮の風俗などを調査し、40年に京城で作品展を開いている。41年日本人形社を解散して新たに人形美術院を創立、また、戦後48年に創立された日本人形作家協会では代表委員に就任した。この頃より、「沢辺の雪」(48年、第4回日展)や、第6回日展で特選となった「茶」(50年)、第9回日展(53年)で北斗賞を受賞した「秋韻」など、作風は戦前の徹底した写実から、単純化されたフォルムと浮世絵の人物を思わせるほのぼのとした情感をたたえるものに変っていく。そして53年に無形文化財に選定され、54年第10回日展審査員を勤め、55年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。57年に日展を退会して以後は、日本伝統工芸展と、彼の門下生らによる陽門会に出品を続け、作風に円熟味と完成度が加わる。「遊楽」「冬麗」(58年)「萠芽」(60年)「清泉」(61年)「遊戯」(63年)「櫛名田姫衣装像」(73年)「天のうずめの命」(74年)など、母や子供を題材に、振りや衣裳に意を凝らした愛くるしい作品を次々に発表した。65年に創作四十年記念展(三越)、75年人形芸五十年平田郷陽展(三越)をそれぞれ開催し、68年紫綬褒章、74年勲四等瑞宝章を受賞、また、日本工芸会理事、日本伝統工芸会鑑査委員などもつとめ、人形芸術の発展に尽力した。
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没年月日:1981/02/21 日本芸術院会員の彫刻家大内青圃(本名正)は、2月21日午前10時28分、肺炎のため東京・本郷の東大医学部付属病院で死去した。享年82。1898(明治31)年12月12日東京市麻布区に仏教運動家大内青巒の五男として生まれる。幼時から父に仏教及び篆刻を学び、兄青坡から絵画・素描を学んだ。1922(大正11)年東京美術学校彫刻科木彫部を卒業したが、高村光雲に師事して木彫を学び、水谷鉄也に塑造を学んでいる。24年第11回院展(再興)に「羅刹婆」が初入選、27(昭和2)年第14回院展出品作「魔王女染欲」により同人となる。戦後58年に、日本美術院の財団法人化に伴い評議員となり、60年の第45回院展出品作「龍女献珠」が文部大臣賞を受賞する。一方、院展を活動の中心としながら新文展・日展にも出品しており、36年の改組第1回帝展に「牧神クリシュナの扉・夕」が初入選、同年の第1回新文展から無監査となる。43、47年に招待出品し、48年第4回日展では審査員をつとめ、翌年から委嘱出品となったが、58年に日展が社団法人となって以降は出品していない。また、院展も61年2月に彫刻部が解散したため、以後は個展を作品発表の場とした。父青巒からの影響もあり、一貫して信仰を背景とした仏教彫刻を彫り続けたが、63年には、前年の個展出品作「多羅菩薩」と一連の仏教彫刻により、日本芸術院賞を受賞、69年に日本芸術院会員となった。71年勲三等瑞宝章を受賞、77年には10年をかけて制作した永平寺東京別院長谷寺の本尊「十一面観音像」が完成した。同像はクスノキの一木彫としては世界一のものであったが、これが最後の大作となった。代表作品は、上記の「魔王女染欲」「龍女献珠」「多羅菩薩」「十一面観音」のほか、「金剛力士二尊」(51年、北海道旭川市真久寺)「薬師瑠璃光如来及十二神将」(54年、長野県野沢村薬師堂)など。略年譜1898 東京市麻布区に生まれる。1922 東京美術学校彫刻科木彫部を卒業。高村光雲に木彫、水谷鉄也に塑造を学ぶ。1924 第11回再興院展「羅刹婆」1925 第12回再興院展「龍女」1926 第13回再興院展「習作(頭部)」1927 第14回再興院展「魔王女染欲」「瞿曇沙彌」、美術院同人となる。1928 第15回院展「夢の花採む」「眠れる蛾」「青巒先生像」「地より湧出せるもの」1929 第16回院展「女」「山口氏像」「持水像」1930 第17回院展「持国天」「生」「老」「来迎佛」「病」「死」「誕生佛」「観音像」1931 第18回院展「香炉」「婦人団体」「無量寿佛印顆」「大慈観世音菩薩」「舎利瓶」1932 第19回院展「菊」「牧女献糜」「白鳥」1933 第20回院展「クリシュナの扉、朝・夕」「濕婆」1934 第21回院展「大弁才天女」「大吉祥天女」1935 第22回院展「婦人裸像」「月神」「日神」。新宿中村屋印度間「釈尊傳」浮彫制作1936 第23回院展「佛母摩耶婦人」「アモ」「富士選手像習作」。改組第1回帝展「牧神クリシュナの扉、夕」1937 第24回院展「施無畏者」「クリシュナの扉部分、朝の一・二、夕の一・二」「阿修羅鬼王面」「クロド」第1回文展「トリムルチー東方阿★佛」(無鑑査)1938 第25回院展「狗頭」「無量寿佛」「少女像」。第2回文展「施無畏者」(無鑑査)1939 第26回院展「舞踏王涅濕婆」。第3回文展「食堂二天(大弁才天女、大吉祥天女)」(無鑑査)1940 第27回院展「飛行天女」1941 第28回院展「大自在天」「木花開耶姫」。第4回文展「日月(神器・禊祓)」(無鑑査)1942 第29回院展「聖観自在尊」「観音菩薩」「不生居士像」1943 第30回院展「勝鬘夫人」「十三佛塔」。第6回文展「大気津比賣神」(招待)1944 戦時特別文展「東方ノ扉ノ内神遊」1946 第31回院展「聖観自在菩薩」「大地神女」「開蓮」。第1回日展「摩尼宝珠」。第2回日展「不死鳥フェニックス」1947 第32回院展「天皇像」「信貴英蔵氏像」「即現婦女身像」「観自在菩薩像」。第3回日展「佛母摩耶」(招待)1948 第33回院展「安達潮花師壽像」「大吉祥天女像」「春妖」。第4回日展「吉祥天女面」(文部省買上げ)、審査員をつとめる。1949 第34回院展「阿彌陀佛三尊」「観自在菩薩」。第5回日展「花の観音(テラコッタ)」(依嘱)1950 第35回院展「月神」「村昌院開山頂相」「毘蘆遮那佛試作」。第6回日展「餓鬼と観音」(依嘱)1951 第36回院展「那羅延金剛力士像」「密迹金剛力士像」。第7回日展「婦人」(依嘱)。北海道旭川市真久寺仁王門の「金剛力士」二尊像制作。1952 第37回院展「摩利支天」「不動明王」。第8回日展「詞梨帝母」(依嘱)1953 第38回院展「大弁財天女像」「紫紅園主人像」。第9回日展「孔雀」(依嘱)1954 第39回院展「薬師瑠璃光如来像」「月光菩薩像」「日光菩薩像」。第10回日展「光明女像」(依嘱)。長野県野沢温泉村薬師堂本尊「薬師瑠璃光如来像」及び「十二神将像」完成。1955 第40回院展「佛母子像」「薬叉神薬叉女」。第11回日展「花鬘菩提像」(依嘱)1956 第41回院展「釈尊成道」「持戒二尊」。第12回日展「牧女献糜」(依嘱)1957 第42回院展「勝鬘夫人幻想」。第13回日展「大地神女像」(依嘱)1958 第43回院展「法音輪菩薩像」評議員となる。1959 第44回院展「摩耶夫人像」1960 第45回院展「龍女献珠」文部大臣賞受賞。1961 日本美術院彫刻部解散、院展を離れる。1963 前年度個展出品作品「多羅菩薩」により、日本芸術院賞を受賞。1965 埼玉県熊谷市報恩禅寺「釈迦牟尼仏、摩阿迦葉、阿難」三尊及び「鬼王焔摩天」を制作する。1967 東京・駒沢学園「釈迦牟尼仏三尊」を制作する。1968 永平寺東京別院長谷寺「十一面観音像」制作に着手。1969 日本芸術院会員となる。1971 勲三等瑞宝章を受ける。1977 永平寺東京別院長谷寺「十一面観音像」完成。
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没年月日:1981/02/09 歌舞伎絵作家の穂束信勝は、2月9日午後5時50分・気管支肺炎のため大阪市の自宅で死去した。享年74。1907(明治40)年6月26日松山市に生まれ、16歳の時大阪に出て劇画の石川観風に師事した。23歳で独立し、以後、戦前は浪花座や中座(大阪)の絵看板を描く。戦後、50(昭和25)年の南座(京都)顔見世興行より歌舞伎絵も描くようになり、歌舞伎座、中座、南座、御園座(名古屋)などの歌舞伎絵看板を描いた。また新派や新国劇、新喜劇などの絵看板も制作し、関西の芝居劇場の絵看板を一手に引受けた絵看板の第一人者だった。代表的作品は、前述の京都・南座顔見世看板ほか。
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没年月日:1981/02/03 画壇から離れ、詩情豊かな作品を描いた孤高の画家池田淑人は、2月3日午後3時57分、老衰のため東京・西荻中央病院で死去した。享年94。前半生を音楽家として活動し、画家としてもほとんど美術団体に所属せず自由な制作を続けた異色の作家であった。1886(明治19)年6月12日秋田市に生まれ、1904年18歳の時に県立横手中学校を3年で中退、英語教師チャンプリンに伴われ渡米する。数年をチャンプリンの故郷ペトロマの学校で過ごした後、1909年サンフランシスコに赴き、詩人オーキン・ミラーの山荘に止宿、ここで同門の野口米次郎、菅野衣川らと共に、ミラーに詩を学ぶ。同時に、サンフランシスコ音楽学校でチェロを、同地のパプキン美術学校で絵画を学んだ。23(大正12)年に帰国し、郷里秋田の各地でチェロ演奏会を開いた後、東京、京都へと移り、演奏活動及びチェロと英語の教授を専らとした。また家が近かった須田国太郎との交遊も、25年頃より始まっている。26(昭和元)年指を痛め、楽器の演奏が出来ないため油絵を制作し、翌年初の個展を開催、絵画のほか英詩8篇を出品している。また28年には須田国太郎のすすめで関西美術院展に出品した。29年上京し、新宿・紀伊国屋画廊で「原人の絵原人の詩」と題した個展を開催したが、中川紀元が芳名録に「非原人」と記帳し話題になったのはこの時である。ここでも油絵のほか英詩10篇を出品している。このほか、後にヘッセらの絶賛を受けた英詩集『流浪のうた』(1952年)も発表するなど、豊かな文学的素養は絵にも大きく影響する。「自画像」や「妻の像」「燃える砂漠」(いずれも27年頃)など、初期の作品は強烈な色彩と強い筆致のフォーヴ的な画風を示すものの、次第に単純化されたフォルムの神秘的な画風へと移り「馬鈴薯」(40~42年)「古代馬」(44年)「双馬」(64年)「黄昏の春」(65年)「天地一体」(65年)「夜明の花」(65年)「ペガサス」(65年)などが描かれる。一方、戦後の48年に自由美術協会会員に推され、以後毎年出品したが、63年に脱退、ヨシトの名をもじって「ヨステ」或いは「鯢山人」と名のり、自宅で個展を開いたり、ほぼ毎年1回のペースで画廊で個展を行なうなど自由な制作を続けていた。79年に新宿・小田急で、80年に高岡市立美術館でそれぞれ「池田淑人展」が行われ、81年没後に遺作展が秋田市文化会館で開催された。
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没年月日:1981/01/23 子供を主人公とし、郷愁をさそう独特の画風で親しまれた童画家谷内六郎は、1月23日午前7時30分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年59。1921(大正10)年12月2日東京・恵比寿に生まれ、6、7歳の頃から喘息に悩まされて病床で過ごすことが多かった。早くから絵が得意で、35(昭和10)年小学校を卒業後、町工場や雑誌社で見習いをしながら漫画やカット等を投稿、16歳の時に報知新聞に半ページの漫画を発表した。しかし持病のため勤めを転々とし、38年には千葉県御宿で転地療養生活を送ったが、ここでの漁港や海辺のスケッチが後年の作品の素地となった。独特の画風で既に一部の人には知られていた彼の童画が注目されるようになったのは、55年3月の文芸春秋漫画読本に「行ってしまった子」10点を発表し、第1回文芸春秋漫画賞を受賞してからである。同年『谷内六郎画集』(文芸春秋新社)を刊行し、翌56年、週刊誌ブームのきっかけをつくった「週間新潮」が発刊されると、その表紙絵を創刊号から担当、彼の絵は広く知られるようになり、子供を主人公にほのぼのとした叙情的な絵は、深く人々の心を捉えた。没するまで25年間一号も欠かさず描き続けた同誌の表紙絵は、1289号に達し、既に描き終えて没後発表されたものも含めると1303号の多きにのぼった。また彼自身虚弱な幼児期を送った体験から、福祉活動や障害児に対して終始温かい眼を持ち続け、「ねむの木学園」(静岡県浜松町)では77年から子供たちの絵の指導を続けていた。一方、幼児期の郷愁に根ざした作詞や随筆でもすぐれた作品を残し、芸術祭作詩賞を受賞している。56年に初の個展(東京・大丸)を開催し75年にはヨーロッパをスケッチ旅行、また児童出版美術連盟、漫画家協会の会員として、児童画展の開催などにも力を注いだが、その活動は一貫してヒューマニズムに支えられていた。画集・著作に『谷内六郎画集』(文芸春秋新社)『谷内六郎随筆』(修道社)『染色工芸』(主婦の友社)『幼な心の歌』『遠い日の絵本』『ねむの木』『旅の絵本』などがある。
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没年月日:1981/01/14 日本画院同人の画家根上富治は、1月14日午後6時20分、胃ガンのため東京都渋谷区の井上病院で死去した。享年86。1895(明治28)年1月5日山形県酒田市に生まれ、東京美術学校で日本画を学ぶ。師は結城素明であった。在学中の1921(大正10)年、第2回帝展に、「雨後群鶏の図」が初入選し、美術学校を卒業した22年の第4回帝展では「飼鷹」が特選を受賞、翌年から無鑑査で出品している。この後も帝展、新文展と出品を続けているが、一方、38(昭和13)年の日本画院創立に際しては、川崎小虎、望月春江、野田九浦、町田曲江らと共に創立同人として名を連ねた。また37年頃より終戦頃まで、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)で教鞭をとっている。戦後も、日展、日本画院に出品し、日展では49年の第5回展より依嘱出品となったが、ここ10年ほどは、日展・日本画院展にもほとんど出品していなかった。
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没年月日:1981/01/14 戦前・戦後を通じ美術評論の分野で活躍した江川和彦は、1月14日、ガン性胃潰瘍のため東京・五反田の松井病院において死去した。享年84歳であった。本名を銀蔵といい、1896(明治29)年7月6日、東京の麻布に生まれた。1920(大正9)年に早稲田大学文学部哲学科を卒業してのち、数年にして早くも美術雑誌に美術評論を発表して評論活動を始め、以後約50年の間、美術展評を中心に作家論、現代美術の紹介など毎年数多くの論考を執筆した。美術評論活動の一方で、40(昭和15)年には美術問題研究会の会員となり、戦後には49年の美術評論家組合の創立に加わり、50年の改組と51年の美術評論家クラブへの改称後も幹事として活躍した。次いで54年の美術評論家連盟の結成当初からその会員となり55年から5年間は常任委員をつとめた。さらに52年からは武蔵野美術学校の講師となり、62年武蔵野美術大学設置とともにその教授に就任した。67年に定年退職して後も晩年まで非常勤講師として教鞭をとった。常に現代美術の動向を注視し、新宿・風月堂画廊では新人紹介の企画を10年余り続け、美術雑誌に執筆した展覧会評は約480に達する。主要著述目録1926年 民族文化史雑話 美之国 1-51937年 ピカソの芸術(サルバドル・ダリ)(訳) アトリエ 14-61938年 原始ネグロ芸術の現代への関心 美之国 14-9 ローゼンベルクの美術革新論 美之国 15-171939年 デッサンの近代的発展とピサネロのデッサン みづゑ 4171940年 ギリシャ壺瓶絵画の諸要素とその発達 みづゑ 424 ポリグノートス以降のギリシャ絵画 みづゑ 4281941年 バビロニアのテラコッタ アトリエ 18-5 クラナッハの周囲 アトリエ 18-5 芸術文化の建設と美術批評の問題 アトリエ 18-61942年 芸術に於ける亜細亜的性格の一考察1 生活美術 2-111943年 同上2、3 生活美術 3-3、41949年 近代絵画の要素しての光と影 アトリエ 2731950年 海外前衛絵画の動向(アメリカ) アトリエ 277 コンスタン・ブランキュジュ アトリエ 2801951年 抽象絵画小史 アトリエ 2951952年 近代画家達の自画像 美術手帖 56 グロメールの見たニューヨーク アトリエ 3051953年 新しい空間の造型 美術手帖 79 抽象絵画は何故描くのか 萠春 2-9 近代絵画の造形要素としてのフォルム アトリエ 328 具象と抽象 アトリエ 3321956年 抽象芸術の考えと技法 アトリエ 380 抽象美術文献抄 現代の眼 441964年 現代芸術の中のオリエント1~5 三彩 175、177~1801965年 「美術新報」の足跡 本の手帖 1-71966年 ジョージ・ケペッシュの芸術論 三彩 1971975年 日本のシュルレアリスム絵画を基礎づけた戦前の動き 現代の眼 251
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没年月日:1981/01/13 萩焼の陶芸家坂高麗左衛門は、1月13日午後11時40分脳出血のため、山口県萩市の玉木病院で死去した。享年68。1912(大正元)年4月26日下関市に生まれ、本名は信夫。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業したのち、48(昭和23)年に旧萩藩御用窯の宗家坂高麗左衛門家の婿養子となる。萩焼は、17世紀初頭に朝鮮の陶工李勺光、李敬兄弟によって創始されたもので、茶の湯では「一楽、二萩、三唐津」として代表的な和物茶碗のひとつに数えられる。李兄弟は松本中之倉に松本窯を開窯し、その後弟李敬が寛永2(1625)年坂高麗左衛門の和名を藩主から受けて坂家の初代高麗左衛門となったが、兄李勺光の一族が後に深川三之瀬に移り深川窯を開いたため、以後、坂家が松本窯の総都合役を踏襲するようになる。その坂家の11代高麗左衛門を58年に襲名し、また66年の第13回日本伝統工芸展に「萩焼茶碗」が初入選、その後入選を重ね71年に日本工芸会正会員となった。朝鮮の井戸茶碗ふうのものや、胎土に荒砂や礫を混入した鬼萩手など豪快でたくましい作風を得意とし、73年山口県芸術文化振興奨励賞を受賞、75年に山口県無形文化財の指定を受けた。80年には日本工芸会の理事となり、山口県支部の幹事長などもつとめた。この間、78年には、他の萩焼作家と共に中国を旅行している。主な作品は、「井戸茶碗」(75年)「魚紋花瓶」(77年)他がある。
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