堀内正和

没年月日:2001/04/13
分野:, (彫)
読み:ほりうちまさかず

 彫刻家で、京都市立芸術大学名誉教授の堀内正和は、4月13日午前2時、肺炎のため東京都渋谷区神宮前の自宅で死去した。享年90。1911(明治44)年3月27日、父堀内潔、母寿賀の次男として京都市に生まれる。1926(大正15)年、東京市雑司ヶ谷に転居、中学時代から独学で立体作品の制作を試みていた。1928(昭和3)年、東京高等工芸学校工芸彫刻部に入学、翌年第16回二科展に「首」が初入選し、同年10月に同学校を中退、番衆技塾に移り、藤川勇造に指示した。この後、二科展に出品を続けたが、33年、肺疾患となり、一時制作を中断し、回復後も、40年から45年まで、戦意高揚を促す美術界の動向に疑問をもち、作品発表を中断した。ことに終戦をはさんだ2年間は、哲学書などの読書と思索をかさねることですごした。47年、第32回二科展に出品して復帰、同会彫刻部会員となった。以後、66年に退会するまで、同展に出品を続けた。50年には、京都市立美術大学講師となり、58年に同大学教授となり、74年に退任するまで、後進の指導にあたった。50年代から鉄を素材に熔接彫刻をはじめ、線と面による幾何学的な構成の作品を作り続けた。60年代には、円筒、円錐の形を展開させた作品となり、63年に円錐の局面をしなやかに変化させた作品「海の風」で、第6回高村光太郎賞を受賞した。その後、「D氏の骨抜きサイコロ」(64年)、「箱は空にかえってゆく」(66年)など、ウィットに富んだ作品とともに、「ななめの円錐をななめに通りぬける円筒」(71年)など、フォルムのシャープな作品を発表した。60年代以降の野発表活動としては、美術館、画廊での個展、グループショウのほか、国内外の現代美術展に出品され、その評価を高めていった。生前の主な美術館での個展としては、つぎのとおりである。63年4月から9月、神奈川県立近代美術館にて、「堀内正和彫刻展」が開催された。69年には、第1回現代国際彫刻展(箱根、彫刻の森美術館)において、「立方体の二等分」を出品、大賞を受賞した。78年6月から7月、神奈川県民ホール・ギャラリーにて、「堀内正和展」が開催され、新作10点と50年以降の彫刻作品30点が出品された。80年4月から6月、東京国立近代美術館にて、「日本の抽象美術のパイオニア-山口長男堀内正和展」が開催され、30年以降の彫刻作品、ドローイング等75点が出品された。86年9月から11月、渋谷区立松涛美術館において、「堀内正和展」が開催され、31年以降の彫刻作品51点などが出品された。著述集に『坐忘録』(美術出版社、1990年)、作品集に『堀内正和 作品資料集成 ユーレーカ』(同前 1996年)がある。なお、没後の2002(平成14)年2月から3月には、「彫刻家佐藤忠良堀内正和展」が、府中市美術館市民ギャラリーにて開催された。03年11月には、彫刻作品82点とドローイングと多数のペーパースカルプチャーによって構成された「彫刻家堀内正和の世界展」が、神奈川県立近代美術館鎌倉館を皮きりに、京都国立近代美術館、茨城県近代美術館、芸術の森美術館(札幌市)に巡回している。「日本の抽象彫刻のパイオニア」と称せられたように、戦後から一貫して抽象形体を追求した作家だったが、きわめて知的でありながらも、諧謔味やユーモアをただよわせる柔軟な思考にうらづけられた作品を残した。それは、堀内のアトリエに残された多数の小型のマケット(ペーパースカルプチャー)をみてもわかるように、手を通じた思索のなかから生まれたものであったといえる。

出 典:『日本美術年鑑』平成14年版(237頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「堀内正和」『日本美術年鑑』平成14年版(237頁)
例)「堀内正和 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28217.html(閲覧日 2024-11-01)

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