村井正誠

没年月日:1999/02/05
分野:, (洋)
読み:むらいまさなり

 モダンアート協会の創立者のひとりで、武蔵野美術大学名誉教授の洋画家村井正誠は2月5日午前6時58分急性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年93。1905 (明治38)年3月29日、岐阜県大垣市に生まれる。幼少時、医師であった父の転任にしたがい、現在の和歌山県和歌山市、ついで新宮市に転居した。22(大正11)年、和歌山県立新宮中学校を卒業すると上京、父のすすめる医学校を受験するが不合格となり、また翌年には画家をこころざして東京美術学校西洋画科を受験するが、これも不合格となった。この頃、川端画学校に通いはじめ、ここで盟友となる山口薫矢橋六郎と出会った。25年、文化学院に新設された大学部美術科の第一期生として入学、28(昭和3)年に同学院卒業と同時に、渡仏した。留学中は、滞仏中の日本人画家と交友するとともに、アンデパンダン展に出品した。32年帰国、34年に初めての個展(銀座、紀伊国屋ギャラリー)で開催、留学中の作品を出品した。また同年、長谷川三郎山口薫矢橋六郎等とともに新時代洋画展を結成、第1回展を開いた。同グループは、37年の自由美術家協会創立に際し、参加することで解消した。38年、文化学院の講師になる。戦後は、戦時中、活動が途絶えていた自由美術家協会の再建をはかり、また美術界の民主化などをめざして結成された日本美術会に参加した。47年には日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加し、さらに50年には、山口薫矢橋六郎中村真植木茂、小松義雄、吾妻治郎、荒井龍雄とともに、モダンアート協会を結成し、以後、同協会展に発表をつづけた。同54年には武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)本科西洋画の教授になった。62年には、第5回現代日本美術展に「黒い線」(油彩)、「うしろ姿」、「人」(石版画)を出品、これにより最優秀賞を受賞、また同年の第3回東京国際版画ビエンナーレに出品した「月影」、「黒い太陽」、「風」(各石版画)によって文部大臣賞を受賞した。73年には、神奈川県立近代美術館において村井正誠展が開催され、初期作から近作までの油彩画104点などによって回顧された。その後も、和歌山県立近代美術館(1979年)、世田谷美術館、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(1993年)、神奈川県立近代美術館等5美術館巡回(1995年)などで、たびたび回顧展が開催された。そのほか、長年にわたる美術界への貢献に対して、97(平成5)年には、中日文化賞、世田谷区文化功労者を受賞。98年には、中村彝賞を受賞した。
 仏留学時代から、同時代のマチスをおもわせる鮮やかな色面による半抽象的な構成からはじまり、次第に純粋な抽象表現に展開していった。1930年代には、「ウルバン」、「CITE」などの連作にみられるように、白地上に大小の短冊状の色面が点在する抽象表現を試みていた。戦後は、ことに50年代になると、そうした構成にくわえて、黒い帯状の線が、ときには具象的なイメージをともなって画面にあらわれるようになった。60年代には、その黒が画面全体をおおいつくすようになった。以後、再び鮮やかな色面構成にかえるが、黒の線と面は、つねに画面構成の重要な部分をしめるようになり、とくに晩年の90年代には、「東洋的」とも評されるような、独特の深さと緊張感をただよわせる作品を描いていった。近代日本の絵画史において、いち早く抽象絵画を描きはじめた画家のひとりということで、「日本における抽象絵画のパイオニア的存在」と位置付けられている村井だが、一貫して深められつづけたその「抽象」に関する造形思考は、独自のものとして評価されていくだろう。 

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(251-252頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「村井正誠」『日本美術年鑑』平成12年版(251-252頁)
例)「村井正誠 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28143.html(閲覧日 2024-10-11)

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