小牧源太郎
国画会会員で日本の前衛絵画の先駆者の一人小牧源太郎は、10月12日肺炎のため京都市北区の北病院で死去した。享年83。ダリやミロらのシュール・レアリスム絵画の影響を受けつつ、日本人の土俗信仰に根ざした民俗性を加え独自の画風を築いた小牧源太郎は、明治39(1906)年7月16日京都府中郡に生まれた。京都府立宮津中学校卒業後、龍谷大学予科(在学1年)、大谷大学専門部(同2年)を経て、昭和8年立命館大学経済学部を卒業。この頃皮膚病に悩まされ療養生活を余儀なくされるなかで画家を志し、同10年北脇昇がその開設に尽力した独立美術京都研究所に入り須田国太郎らの指導下に同14年まで学ぶ。この間、精神分析学や土俗的な民間信仰に関心を寄せ、同12年第7回独立展に「夜」で初入選した。同作はすでにシュール・レアリスムの傾向を示す作風によっていた。一方、同13年の「民族系譜学」や、第8回独立展に入選しながら反戦的であるとして撤去された「民族病理学、祈り」などの作品で、日本的土俗性を画面に盛りこむ特異な作風も示した。同14年、北脇昇、福沢一郎らと美術文化協会を創立、日本におけるシュール・レアリスムの草分けとなった。第1回展に「多義図形」を発表。戦後は、同22年日本アバンギャルド美術家クラブ結成に会員として参加、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展などに制作発表する。同29年には、美術文化協会を退会し無所属となったが、同36年国画会に会員として加わった。この間、「稲荷図(三)」(同23年)、「道祖神図(一)」(同25年)、「オシラ神図(四)」(同24年)、「ハヂチ・プリシャムリ」(同30年)など、日本人の土俗信仰に根ざした民俗的題材の連作を経て、仏教的な主題を曼荼羅風に描き、深い精神世界をユーモラスに表現する画風へ向った。同32年、サンパウロ市近代美術館での個展開催を機にブラジルを訪ね、翌年欧州を巡遊し帰国する。同56年、「軌跡の断章・小牧源太郎展」が京都朝日会館で、同60年、「小牧源太郎-その軌跡と展望-展」がいわき近代美術館他で、同63年「小牧源太郎展-非合理の美を求めて」が伊丹市立美術館でそれぞれ開催された。また、同62年には画集『小牧源太郎・シュルレアリスムの実証«貌»』が刊行された。
出 典:『日本美術年鑑』平成2年版(254頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「小牧源太郎」『日本美術年鑑』平成2年版(254頁)
例)「小牧源太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10025.html(閲覧日 2024-12-05)
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- ■美術界年史(彙報)
- 1988年05月 第1回京都美術文化賞
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