近藤悠三

没年月日:1985/02/25
分野:, (工,陶)

染付技法の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、京都市立芸術大学名誉教授の陶芸家近藤悠三は、2月25日胃がんのため京都市上京区の京都第二赤十字病院で死去した。享年83。染付技法を深めることに専心した現代陶芸界の巨匠近藤悠三は、明治35(1902)年2月8日京都市に近藤正平、千鶴の三男として生まれた。本名雄三。家は代々清水寺の寺侍で祖父正慎は勤皇の志士であった。大正3年京都市立陶磁試験場付属ロクロ科に入所し、同6年に卒業、同試験場助手となり、この時期技手をつとめていた河井寛次郎浜田庄司を知り、浜田に窯業化学等について学んだ。同10年富本憲吉が帰国し大和安堵村に築窯したのを機に試験場を辞し富本の助手となって師事し五年間大和に過す。同13年京都へ戻り関西美術院洋画研究所へ通いデッサン、洋画を学ぶとともに、京都清水新道石段下の自宅で作陶を始める。昭和3年9回帝展に「呉須薊文かきとり花瓶」が初入選、以後15回展まで連続入選し、新文展へも出品、同14年3回文展に「柘榴土焼花瓶」で特選を受けた。同18年には奈良で赤膚焼を研究制作するが、戦後は呉須による染付に専念し、この伝統的技法の研究を深めながら、民芸調の素朴な力強さを加え、ロクロ成形とともに豪快雄暉で伸びやかな独自の染付けの世界を拓いていった。日展には第5、6回展に出品し6回展では審査員もつとめたが、その後は出品せず、同26年富本憲吉の主宰する新匠会会員となり、同30年社団法人日本工芸会発足に際しては富本憲吉稲垣稔次郎とともに入会、以後日本伝統工芸展鑑査員をつとめ、常任理事、陶芸部部長、近畿支部幹事長を歴任する。また、同28年京都市立美術大学の陶磁器科助教授となり、後進を指導し、同33年教授に就任した。同44年には京都市立美術大学が京都市立芸術大学と拡大改称され、同年初代学長に就任し、同46年までつとめ退官、同学名誉教授の称号を受けた。この間、日本伝統工芸展に制作発表した他、同32年ミラノ・トリエンナーレ展に「染付花瓶」を出品し銀賞を受け、同38年にはアメリカで開催された現代世界陶芸展に日本から選抜された5名の中に入るなど世界的に名を知られるに至り、オークランド美術館、オックスフォード大学等に作品が収蔵された。一方、同38年には新匠会を退会する。同45年紫綬褒章を受章、同48年京都市文化功労者章受章、同52年には染付技法の重要無形文化財保持者に認定された。同57年、京都市名誉市民の称号を受ける。同58年、東京他で人間国宝「近藤悠三展」が開催され、同59年から60年にかけて京都、東京他で「現代陶芸の精華-近藤悠三とその一門展」が開催された。著書に『呉須三昧』(同47年)があるように、その制作態度は「呉須三昧、焼物三昧の人生」と評されていた。作品は他に、「岩染付壷」(同35年)、有田の岩尾対山窯で制作した直径126糎にも及ぶ「梅染付大皿」(同50年)などがある。また、没後遺作27点が京都市に寄贈された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和61年版(249頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「近藤悠三」『日本美術年鑑』昭和61年版(249頁)
例)「近藤悠三 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9866.html(閲覧日 2024-04-26)

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