松田文雄

没年月日:1971/07/09
分野:, (洋)

 一水会委員の洋画家・松田文雄は、7月9日午前11時45分、東京港区の慈恵医大附属病院において、ジン不全のため死去した。享年63才。松田文雄は、明治41年(1908)3月9日、京都市に生まれ、まもなく三重県出身の書家松田舒(号・南溟)の養子となり、東京、麻布小学校をへて大正9年(1920)東京府立第一中学校に進み、同14年同校を卒業、翌15年(1926)東京美術学校西洋画科に入学した。はやくから宗教・哲学書にしたしみ、早熟で、印象派以前の西洋絵画の官学派へ接近を試み、一方、児童画でも好評をえた。生涯を独身でとおし、晩年は半身不随と右眼失明などになやまされ闘病生活のなかで制作していた。
略年譜
1908 明治41 京都に生る
1908 明治41 三重県人、松田舒の養子となる
1920 大正9 東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校)入学
1923 大正12 関東大震災、麻布区にて罹災
1924 大正13 牛込区二十騎町に移転
1925 大正14 東京府立第一中学校卒業、川端画学校でデッサンを学ぶ
1926 大正15 東京美術学校西洋画科(東京芸術大学)入学、牛込区河田町に移転
1928 昭和3 美術学校三年、和田英作教室に編入され、同教授の教えを受く、同年帝展に「T嬢立像」を出品初入選す
1929 昭和4 2月6日義父舒死去
1920 昭和5 帝展に「夕暮れ」出品
1931 昭和6 東京美術学校卒業
1932 昭和7 上海事変勃発、海軍従軍画家として上海に赴き同年帰国
1934 昭和9 帝展に「老母の像」出品
1938 昭和13 5月6日義母綏子死去
1939 昭和14 文展に「大陸の子」出品
1940 昭和15 紀元2600年奉祝展に「老鍛治屋」発表、一水会展に「萩咲く庭」「青衣座像」等を出品し、山下新太郎石井柏亭の知遇を受く
1941 昭和16 文展に「猫を抱く小孩」双台社展に「青衣」出品
1943 昭和18 文展に「家鴨と小孩」双台社展に「雪国の少女」出品す
1944 昭和19 陸軍美術展に「忠烈」「硫黄島決戦」「軍神山崎部隊長像」等を出品、この頃に藤田嗣治との交流あり、戦火をさけて世田谷区八幡山の農家に疎開
1945 昭和20 東京大空襲により河田町のアトリエ焼失
1946 昭和21 日展1月「小春日」10月「草に座す」出品、一水会会員に推挙さる
1947 昭和22 日展に「庭にて」出品
1950 昭和25 日展に「童女と仔犬」出品、新宿区若松町68の新画室に移転
1951 昭和26 日展に「老漁夫」出品
1953 昭和28 日展に「雪崖」出品
1955 昭和30 一水会展に「荒天の犬吠岬」出品
1956 昭和31 5月25日カトリックの洗礼を受く
1957 昭和32 一水会展に「清流」出品
1958 昭和33 一水会展に「風薫る」出品
1960 昭和35 一水会展に「林檎の花咲く」日展に「庭に立てる」出品
1961 昭和36 一水会展に「泉湧く」出品、会員優賞を受く
1962 昭和37 一水会展に「奥黒部西沢小沢」出品
1963 昭和38 一水会展に「奥黒部棒小屋沢」出品
1964 昭和39 日展に「白い道」出品
1965 昭和40 日展に「初秋の庭にて」出品
1966 昭和41 5月27日半身不随となる、日展に「断崖」鈴木貫太郎記念館(千葉県関宿)に「大演習御召艦長門艦上の図」完成納入、一水会展に「新雪の剣岳」出品
1967 昭和42 一水会展に「黒部の秘境祖母谷」日展に「木曾晩夏」出品
1968 昭和43 一水会展に「秋立つ朝」日展に「雪原牧馬」出品、一水委員に推挙される
1969 昭和44 1月糖尿性脱疽にて厚生年金病院入院、右足指一本切断、3月退院、一水会展に「夏の牧場」出品
1970 昭和45 1月病気再発、慈恵医大病院入院、4月退院、7月友人石井光雄・五味悌四郎・佐藤保春・田中志郎と共に、日本自然派美術会を結成、7月末念願のイタリア旅行出発、ローマ法王に謁見す、8月帰国、9月慈恵医大病院入院、日を追って病状悪化し数回の手術を受く、12月第1回“日本自然派美術会展”開催
1971 昭和46 7月9日慈恵医大病院にて死去、享年63才墓所、三重県鳥羽市天真寺に埋葬す、養父母の墓(碑銘、比田井天来揮毫)の側に友人一同記念碑を建立す(碑銘、比田井天来の息、南谷揮毫)
1972 昭和47 7月6日から12日まで遺作展を新宿・小田急百貨店で開催
(遺作展目録・年譜より)

出 典:『日本美術年鑑』昭和47年版(86-87頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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