大野一雄

没年月日:2010/06/01
分野:, (美)

 舞踏家の大野一雄は6月1日、呼吸不全のため横浜市内の病院で死去した。享年103。1906(明治39)年10月27日、北海道函館区弁天町(現、函館市弁天町)に生まれる。生家は北洋漁業の網元で、母は弾琴に長じ、西洋音楽を好んだ。10人兄弟の長男。1919(大正8)年旧制函館中学校に入学、翌年母方の秋田県の親戚に預けられ、県立大館中学校に編入。在学中は陸上部に所属、中距離競争の選手であった。25年同校を卒業。卒業後函館近村の泉沢尋常高等小学校の代用教員を1年間務めたのち、26年日本体育会体操学校(現、日本体育大学)に入学、同年から1年4か月の兵役を経て復学。1929(昭和4)年帝国劇場でスペインの舞踊家ラ・アルヘンチーナの来日公演を観て、深い感銘を受ける。同年日本体育体操学校を卒業、横浜の関東学院中学部に体育教師として赴任。33年横浜の捜真女子学校勤務の準備のため、石井獏に1年間入門、モダンダンスをはじめる。36年江口隆哉、宮操子の研究所に入門。38年召集を受け、華北、ニューギニアを転戦。終戦後、46年復員、江口・宮舞踊研究所に復帰、48年まで所属。49年大野一雄現代舞踊第1回公演を神田共立講堂にて開催。1950年代半ばに土方巽と出会い、よき協力者として彼の代表作「あんま」「バラ色ダンス」などに出演。暗黒舞踏派での共演などを通じ、西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現へ転換、「舞踏(BUTOH)」として知られるスタイルを展開していく。1960年代終わりから映画作家長野千秋による舞踏映画製作に没頭、約10年間ソロでの公演から遠ざかる。76年画家中西夏之個展で観た絵画により29年に帝国劇場で観たアルヘンチーナの舞台の感動がよみがえり、これをきっかけに復帰を決意。77年「ラ・アルヘンチーナ頌」を土方巽の演出で初演、翌年第9回(77年度)舞踊批評家協会賞受賞。80年フランスの第14回ナンシー国際演劇祭で初めて海外の舞台に立つ。西洋のダンス界に衝撃を与え、世界的な舞踏ブームを作る端緒となる。以後ヨーロッパ、北米、中南米、アジア各国でも精力的に公演を行うとともに、横浜にある自身の稽古場に、舞踏を学ぶ研究生を世界中から受け入れた。93年神奈川文化賞受賞。98年日本デザイン賞、横浜文化賞受賞。99年イタリアで第1回ミケランジェロ・アントニオーニ賞受賞。2000年左臀部下内出血を患い歩行が困難になってからも、座ったまま手の動きのみで表現を行う新たな境地を開き、07年まで舞台に出続けた。01年第3回織部賞グランプリ受賞。02年朝日舞台芸術賞特別賞受賞。04年から大野一雄舞踏研究所とBankART1929の主催で毎年「Kazuo Ohno Festival」が開かれる。代表作に「わたしのお母さん」(1981年)、「死海ウインナーワルツと幽霊」(1985年)、「睡蓮」(1987年)などがある。著書に『大野一雄舞踏のことば〈御殿、空を飛ぶ。〉』限定版(思潮社、1989年)、聞き書きに『わたしの舞踏の命』(矢立出版、1992年)、『大野一雄稽古の言葉』(フィルムアート社、1997年)、『Kazuo Ohno’s world』(Wesleyan University Press、2004年)など、映像資料に『大野一雄 美と力』(NHKソフトウェア、2001年)、『大野一雄御殿、空を飛ぶ。』(クエスト、2007年)など多数。また石内都『1906 to the Skin』(河出書房新社、1994年)、細江英公『人間写真集胡蝶の夢舞踏家・大野一雄』(青幻舎、2006年)など、多くの芸術家が大野をモデルとした作品を制作した。岡山県牛窓国際芸術祭(1988年)、曽我蕭白展関連イベント「大野一雄、蕭白を舞う」(千葉市美術館、1998年)、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレプレイベント「中川幸夫花狂い」(2002年)など美術関係のイベントにも参加。また大野一雄舞踏研究所により積極的にアーカイブ収集・整理が進められ、02年にイタリアのボローニャ大学大野一雄資料室、03年に愛知芸術文化センター大野一雄ビデオライブラリーが開設した。

出 典:『日本美術年鑑』平成23年版(438-439頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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